第6話 常連さん

仕事を終えて、アパートとは逆に向かって歩き出す。

外はまだ薄暗いが、早起きのお年寄りは活動し出す時間だ。


うちの店の、一日の平均売上は六十二万くらい。

客数は千人前後。

俺が働く夜の十時から朝の六時までの八時間に限れば、売上も客数も極端に減る。

それでも、毎日百人くらいのお客さんと接して、マニュアル通りでないやり取りが何度か生まれる。

初見の顔は二割くらい。

残りの八割は見知った顔ではあるが、殆どは定型的な店員と客のやり取りで終わる。


毎朝、買い物に来るお婆さんがいた。

七十代後半だろうか、小綺麗で柔和な顔をした人で、いつもニコニコと話し掛けてきてくれた。

最近、そのお婆さんを見ない。

いや、三年以上もコンビニ店員をやっていると、いつの間にか見掛けなくなる常連さんなんて珍しくはない。

そして、いつの間にかまた帰ってくることもよくあることだ。

そういった人は、毎日のようにお弁当を買う人である場合が多い。

つまり、飽きるから一定の期間で違う系列のコンビニ常連客に変わるのだ。

だがそのお婆さんは、犬の散歩のついでに飲み物や、指定のゴミ袋だとか食パンなどを買っていたから、飽きたというわけでは無いだろうと思う。

それに、店の前を見て、「お兄ちゃんの掃除した後は気持ちいいわねぇ」と言ってくれたり、「毎朝、元気を貰ってるわぁ」なんて言ってくれたりした。

俺はまだガキなんだろう、そんなお婆さんの言葉に上手い言葉が返せなかったけれど、仕事を終える間際に、そのお婆さんの顔を見るのが楽しみだった。

元気を貰っていたのは俺の方で、だから、歳のこともあるけれど、他の常連さんを見掛けなくなるのとは違ってずっと気になっていた。


犬の散歩のついでに寄っていたみたいだから、近所の公園を覗いてみる。

割と大きな公園で、集会所みたいな建物と池やグラウンド、森のようなところもあって、一周するのに十分ほどかかる。

外周を巡る小道を歩き、お婆さんを探しながら所々で足を止め、時に草木に目をやった。

朝日が差し込んできて鳥のさえずりが賑やかになり、色付き始めた木々が輝く。

あちこちで近所のお年寄りが挨拶を交わし、朝の公園は社交場の様相を呈してきた。

お婆さんは、藤棚の下のベンチに座っていた。

かたわらには、普段は室内で飼っているのであろう小さな犬が、おとなしくちょこんと座っていた。

コンビニの制服を着ていないと、街で擦れ違っても気付かない常連さんは多い。

でもお婆さんは直ぐに俺に気付き、目を大きく見開くと、ちょっと失礼かも知れないが可愛らしいと言っていい笑顔を浮かべた。

ああ、良かった。

お元気そうだ。

「おはようございます!」

俺はそう挨拶をして、お婆さんの前を通り過ぎようとした。

「田中くん」

そう呼ばれて振り返った俺は、きっと笑っていただろう。

亜希のことを無愛想と思ったり、葉菜は慳貪けんどんであると評価したりしながら、俺も大概で、決して愛想は良くない。

普段の接客は、声の大きさと抑揚で誤魔化している気がする。

でも、名前を憶えてもらっていて、店とは違う場所でその名前を呼ばれたなら、笑顔にならざるを得ないではないか。

それは単純に、嬉しいことだった。

「仕事帰り?」

「あ、はい」

「急いでないかしら?」

「あ、はい」

お婆さんはニコッと笑って、自分の座るベンチの隣をポンポンと叩く。

傍らの犬も尻尾を振る。

俺は少し照れながら、お婆さんの誘いに従った。

全くタイプは違うのに、実家のばあちゃんの顔を思い出した。

「年を取ると意固地になっちゃってね」

俺は、何のことだろうと首を傾げる。

「あら、聞いてない?」

「ええ」

聞いてない? と尋ねるからには、他の店員と何かあったのだろうか。

「万引き犯と間違われちゃってねぇ」

長く接客業をしていると、万引きをしそうなヤツはだいたい判る。

身にまとった雰囲気、目の動き。

いかにも、といった気配を放つ者は別にしても、コソコソしていようが堂々としていようが、何か共通する空気のようなものがある。

このお婆さんにそんなものは無い。

「すみません」

コンビニの万引き被害額は結構なものになる。

ある程度は、お客さんを疑ってしまうのは仕方の無い面もある。

それでも、あらぬ疑いを掛けられた方としてはショックや怒りは大きいだろう。

「田中くんが謝ることじゃないけど、田中くんが冷たい目で見てくるんじゃないかって。勿論、あんなお店には行くもんですかって思って意固地になってたんだけど、田中くんにも疑われたら、それは悲しいわって、怖くなったのね」

「疑った店員は誰ですか?」

「あらあら、そんな怖い顔をしちゃ駄目よ?」

「でも」

「意固地になってたのが、馬鹿らしくなっちゃったわ」

「え?」

「私が顔を見せないから、心配してくれたんでしょう?」

「いえ、たまたまここを通り掛かっただけで」

「たまたまここを通り掛かってくれて嬉しいわ」

……たぶん、全部、見透かされているのだろう。

俺みたいなガキが万引き犯を見抜けると思っているくらいなのだから、七十年以上も生きている人に見抜けないはずは無い。

「申し訳ないけれど、自動販売機で温かいお茶を買ってきてくれる?」

そう言ってお婆さんは、俺の手のひらに五百円玉を載せた。

「あなたの分もね」

五十年先に、俺もこんな笑顔が浮かべられたなら。

そんな風に思えるくらい、目尻の皺は素敵だった。

俺は五百円玉を握り締め、自動販売機に向かった。

気持ちが穏やかに高ぶるようで、公園の風景がさっきよりも華やいで見えた。

コンビニ店員をしていて良かった。

これからはもっと、誠実に接客をしようと思った。

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