包丁にはりつくクリームチーズ

西丘サキ

包丁にはりつくクリームチーズ

 自分で買ってみるとクリームチーズが意外と高いことに気づく。乳製品全般が高くなっているから当たり前と言えば当たり前だけど、実際に手に取ろうとしないと案外わからないものだ。台の上に買ってきたクリームチーズとその他の材料を置いて、部屋の隅に設えられた一口コンロと小さな流しを見る。学生時代からそのまま住み続けている部屋。就職してから何となく自炊するようになって、キッチンが手狭に感じるようになってきた。そろそろ引っ越ししようかと思ってはいるけど、何となくタイミングを逃してしまったのか先延ばしになっている。


 それにしても、あいつの家でかかったな。


 ふと頭の中に独り言が出る。付き合っている彼女の家には何度も行ったことがあるけど、そのたびにそう思うし、この前は特にそのことを実感した。いちいち片づけなくても問題なく食材や調理器具を置いておける広いキッチン。セパレートのバス・トイレ。広いスペースのロフトまで。俺よりも都心の場所だし、どれだけ向こうの方が稼ぎがいいのか。張り合うつもりはなくても、引け目や不安は感じてしまう。今はそういうことがなくても、金銭感覚や生活水準、生活の価値観が食い違うことがあるんじゃないかと余計な考えをよぎらせてしまう。とにかく、作業に集中しよう。振り払えるように、そう決める。

 はかりの上に鍋を乗せ、料理酒を注ぐ。アルコールを飛ばして煮切り酒を作るから、教えてもらった分量より多めに入れる。彼女がまた食べたいとちらっと言っていた、俺たちが働いていた飲食店のメニュー。クリームチーズの醤油漬け。今も出勤しているらしい、一緒に働いていた中で一番働きやすかった先輩にダメもとでレシピを聞いてみたら、あっさりと教えてくれた。そんな簡単にいいのか、と聞いておきながら思ったが、先輩は「おれがうろ覚えで書きだしたレシピに価値なんてないしな」なんて言いながら詳細な説明をつけてくれた。詭弁っちゃ詭弁だけど、先輩なりに気を遣ってくれている。ありがたく使わせてもらうことにした。俺の相手の詮索がイヤになるくらいしつこかったけど。

 料理酒の鍋を火にかける。店では温まった酒に着火して一気にアルコールを飛ばしていたけど、家でやる勇気はなくて沸騰しきるのを待つ。そのうちに、漬け地に使うほかの材料をタッパーに合わせた。醤油2種に白だし、水。濃口醤油はともかく、九州特有の甘い醤油はすぐに手に入らなかったから、ひとまずスーパーにあった刺身醤油で代用してみる。ダメなら九州産の甘い醤油を買うのか、なんてちょっと億劫に思いつつ混ぜた。喜んでもらいたいのはもちろんだけど、やっぱり億劫なものは億劫だ。


 おっくうか……


 ふとした言葉に引きずり出され、これからどうしようか、という今後への見通しが思考に入り込んでくる。お互い、関わり合うこと自体に何の不満も持っていないと思っている。特に社会に何かを訴えたい人間でもないし、このまま何となくどこかの時期で籍を入れることになるんだろう。そんな未来図をぼんやりと予期していた。ただ、踏ん切りがつく、という思いがどんなタイミングで訪れるのか、見当がつかなかった。すでに結婚した同級生や同期が増えていくことで流されるように、いつの間にか出来上がっている期待のようなものにどちらともなく応えるのだろうか。自分の身の振り方くらい、自分の意志で決めて、それをもって彼女と一緒にどうするかを考えたかった。しかしそうなると、今まで取り立てて問うことのなかったことが頭の中に張りついてしまう。


 自分は彼女と、そもそも他人と、どこまでの関係を望んでいるのだろう?


 今まで何の気なしに行ってきて、それなりに気持ちもあって、それなりにうまくやれていることが、途端に根拠も行き場もなくなってしまったようだった。付き合いたい人も付き合いたくない人もいる。その関わり方、折り合いの付け方も自分なりに方法はある。彼女のことは好きだし、彼女といると楽しい。思いや行動が通じ合っていると思える時は感動するような、温かい高揚感に充たされる。でも、できてしまっていることの一番根底に何があるのか、実のところわかっていなかった。やっていれば見えてくるなんてことはよく言うけれど、結局は付き合いたい人と付き合いたくない人の峻別の基準しか見えてこない。人間関係の深さをどこまで自分は求めていて、どこまで許容できるのだろう。そう考え始めるとどうしても疑い深くなってしまう。


 中高生みたいなこと悩んでんな……


 冷静な自分が独り言をこぼす。確かに。でも、あることが現実味を帯びてからようやく現実の問題になるなんて別に珍しいもんでもない。俺にとってはそれが人間関係、特に彼女との関係のこれからだっただけだ。

 料理酒のアルコールはすでに飛んでいた。火を止めて、鍋敷き代わりの大皿と一緒にローテーブルに置いて冷ます。戻ってクリームチーズを開けた。プラスチックの蓋に銀色のコーティングシール。剥がしてひっくり返すと、ぎりぎりぬるっと形容できないような、かたまりらしさを伴った質量でまな板へ滑り出てきた。かたまりとして見れば定義をすり抜けかねない柔らかさがあり、柔らかいものとして見ればその視線を拒むような硬さがある。よくよく考えてみればなんとも得体のしれない。

 コンロの火をつけ、収納場所から取り出した包丁を火に近づける。包丁を温めて切りやすくするためのちょっとした工夫。先輩も言っていたし、当時も社員かベテランのフリーターが言ってたはずだけど、誰だったか忘れた。まあ別に、こういうことは技術というかTipsというか、そういうものだけが残っていればいいものだろう。包丁の色がくすむ前に火から上げる。包丁が熱を帯びていることが、包丁を握ったままの右手に伝わってくる。早速切り始めた。豆腐でも切るようにあっさりと、さっくりと包丁が入っていく。面白いくらい簡単に、長方形から正方形へ半分になった。まな板も包丁の熱で傷んだ様子はない。続いて正方形を立てて、縦に半分に切る。途中から手ごたえ。冷めるのが早い。ぐ、っと力を入れて最後まで切り分ける。包丁を引き抜く。クリームチーズが包丁の刃に斜めに跡を残していた。何度もそううまくはいかないらしい。俺は刃にはりついたクリームチーズをまじまじと見つめた。べったりと溝を作るように残った白いチーズ。無視していても引っかかってあぶれてくるし、拭ってもまたはりついてくる。そのままもう一度火にかけようかと思ったけど、明らかに焦げ付かせてしまいそうだった。


 ……別のやり方だな。


 コンロの火を消して、俺はお湯の蛇口をひねる。お湯で温めて切る、という方法もあったし、実際にやっていた人がいた。そっちでやってみよう。ちょっともったいないけど、少し勢いをつけて水を出す。早く切ってしまいたい。指をさっとかざしてお湯の温度を確かめてから、俺は包丁をお湯にあてた。お湯が当たった部分から、へばりついていたチーズが流れていく。お湯に色移りするかもと思ったが、そんなこともない。ただ、少し持ちこたえてはクリームチーズは流されていく。早く済ませてしまおう。もう片面のクリームチーズも流してしまう。もうそろそろだ。

 軽く振って水気を落とし、また切り始める。火で炙るよりはなまくらだった。力を入れて、1回1回。1センチ弱のさいの目になるまで切り分けていく。1回1回はりつくクリームチーズをお湯で流しては繰り返し切り分ける。時間がかかって面倒だ。でも着実に、はりついたチーズはなくなり、記憶にあるサイズに形がそろっていく。


 彼女は自分と、そもそも他人と、どこまでの関係を望んでいるのだろう?


 単純作業の中で、頭から答えの出ない問いかけがこぼれてくる。彼女がどんな人付き合いをして、どんな男と恋愛してきたのか知らないし、逐一知ろうとも思わない。ただ、今自分と関わっていて表情や仕草からは楽しそうだったし、不愉快そうな心の動きは感じなかった。この前もその前も。この前なんか自分からふざけて昔の恰好なんてやりだしたし。とはいえ楽しく見せるなんていくらでも演じられるし、その場が楽しいことと、より深くわかり合って生活の結び目を保ち続けていきたいことはつながっていても等しいことじゃない。打算でしかなくてもいいから、彼女の考えていることも知りたかった。


 まあ、直接聞くわけにもいかないよなあ。自分だってまとまってないし。


 お互い、そういう感じなのかもしれないなあ、と思いながら包丁を押し込む。10回ほど切って、ようやくすべてがさいの目になった。やっと終わった。長かった。俺は一息ついて、わきに置いていた漬け地を寄せる。ローテーブルで冷ましていた料理酒を持ってきて、計りながら漬け地と合わせた。ギリギリの量。濃い焦げ茶色の漬け地からまだ粗熱は取り切れていないけれど、ひとまず試しに完成させよう。まな板の上を滑らせるように包丁を動かし、いくつかまとめて、クリームチーズを漬け地に入れた。


 そういえば。


 体格に似合わず細かかった社員が、クリームチーズをばらすように入れていたのを思い出した。くっついたままで染み込まないことを防ぐためだったはず。漬かってないのはイヤだし、マネするか。せっかく時間かけて、そんなことで残念な顔されてマイナスになるのは避けたい。なくなってしまうものだったとしても、うまくいくように整えておくことは保っていたい。俺は漬け地にスプーンを入れて、チーズを軽くばらし、残っているまな板の上のチーズも入れる時に軽くほぐすように入れていく。白いかたまりがひとつひとつ、時々いくつか少しくっつきながら、複数の材料が混ざり合った漬け地の中へ納まっていく。

 漬け地にうまい具合にクリームチーズが入りきった。上からラップをかけてタッパーの蓋を閉める。これで一晩置けばクリームチーズの醤油漬けができるはず。とにかく、冷蔵庫にしまおう。俺は扉を開け、あらかじめ空けておいたスペースに、タッパーを置く。冷蔵庫の扉を閉めると、一連の考えが浮かんでくる。

今度会う時、ちゃんと作ったあれを持っていこう。その時の彼女の喜ぶ顔か、落胆する顔かわからないけど、その時出会う反応でまた、2人の成り行きを決めよう。お互いの感覚や価値観を新しく知ったなら、それに応じて俺たちの向き合い方も、それぞれが望んでいるものとの距離感も変わるだろう。

 そんなことを考えながら、俺は、俺たちはこれからずっとそんなふうに決めていくんだと予感する。2人の関係を、その都度作り直すように。何かの折に決め続けていく俺たちを。

 耳障りの良さそうなフリをした、結局は先送りとその場任せでしかないことにやんわりと押し出されながら、俺は眠る支度を始める。まだ自分のものではないような頭の中の考えが、一晩かけてゆっくりと染み込むように。別のものが染み込むことで俺の中の不安やよくわからないものが、姿を変えていくように。

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