フェミニス~転生したら王の夫⁉~

坂口和実

第1話…異世界

 些細なことで妻と喧嘩になり、沖田慎吾おきた しんごは深夜に家を飛び出し、近所にあるコンビニのイートインスペースでやけ酒をした。

 深夜2時ごろ。そろそろ、妻の頭も冷えた頃だろう……と考え、フラフラとした足取りで帰路についた……その道中。不注意で赤信号を見逃し、慎吾は大型トラックに撥ねられ、あっけなく生涯を終えた。

 アスファルトに叩きつけられた身体は一切の痛みを感じず、ただ急激な眠気に襲われる。最後に想ったのは、仕事のことと、仲直りができなかった妻と、まだ1歳にも満たない娘のことだった。

(葉子……めいちゃん……)

 声には出せずに妻と娘の名前を呼び、慎吾の意識は完全に途絶えた。

 しかし、慎吾は翌朝、普通に目を覚ました。ただし、そこは勝手知ったる自宅のベッドではなく、見知らぬ豪奢な寝室の、天蓋付きのダブルベッドの上だったが……。


〇 〇


「……?」

 見覚えのない天井に、慎吾は寝転がったまま首をかしげる。はて、病院の天井に、あのような奇妙な模様が描かれているだろうか?

 自分は、トラックに轢かれて死んだのではなかったのか?助かったのか?もしかすると、わりと軽傷だったのかもしれない。とりあえず、状況を確認しようと、慎吾はベッドの上で起きあがった。

 そこで、あることに気づく。何だろう……体が軽い。まるで、どれほど疲れても食って寝れば元気いっぱいだった、高校生の頃に戻ったように。

 自分の体の変化を奇妙に感じていると、寝室の、これがまた豪華だが優雅で美しい扉がノックされ、若い男が入ってきた。

「あ、お坊ちゃま!申し訳ありません、起きていらっしゃるとは思わなくて……」

 お坊ちゃま?まさか、自分のことなのか?

 慎吾は思わず吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。

 男は速足で部屋を横切り、扉と間反対にあるカーテンのそばまで来ると、一気に、しかし優雅な所作で、巨大なカーテンの紐を引いた。

「さあ、お坊ちゃま!今日はとっても良いお天気ですよ!」

 カーテンの向こうには巨大な窓があり、くもり一つなく磨かれた窓ガラスから入る陽の光が、寝室の全てを照らしだした。

 金色と青を基調とした室内の装飾や家具は、どれも恐ろしく高級な香りを放ち、まるでヨーロッパ王室の宮殿のよう。カーテンを開けてくれた若い男…というより、青年と言っていい年齢だ…は、きちっとした黒いシャツとスラックスを身に着け、腰にはまるでウェイターのような白いエプロンを巻いていた。

 何が何やら分からない……。

 混乱しながら、慎吾は窓硝子に映った自分の姿を見て、混乱の上に驚愕することとなった。

「な……だれだ?」

 きれいに磨かれた硝子には、見知らぬ青年が驚きに満ちた表情でこちらを見ていた。もしかせずとも、あれが、自分なのか……?と、慎吾は何度も瞬きを繰り返す。銀色とも水色ともつかない緩い巻き毛に、琥珀色の瞳、真珠色の肌……そして何より、神の芸術かの如き美貌。

「あれ、が……おれ?」

 慎吾は困惑しつつ、首をかしげた。

「お坊ちゃま、どうかされましたか?」

 どうも様子のおかしい坊ちゃまに、ウェイター風衣装の青年が心配そうにのぞき込む。そんな彼に、慎吾は呆然としたまま、決定的な言葉を投げかけた。

「ここは、どこで……おれは、誰なんだ?」


〇 〇


 それから、邸の中は上に下にの大騒ぎとなった。

 すぐに医者が呼ばれ、慎吾……もとい、フラウ・カースタ・オブリヴィオン公爵令息は、一種の記憶障害だと診断された。

 ソファーに腰かけるフラウの前で、女の医者が、フラウの両親であるオブリヴィオン公爵夫妻に説明している。令息は、前世の記憶が強く蘇っている可能性が、極めて高い……と。

「前世の記憶?では、今世の記憶は、失われてしまったと?」

 フラウの手前のソファーに腰かけている母、オブリヴィオン公爵が、医者に確認するように尋ねる。隣に座っている父、オブリヴィオン公爵夫(こうしゃくふ)は、先ほどからずっと息子であるフラウの手を握り、心配そうに顔を覗き込んでいた。

「恐らく、一時的に失われているのだと思われます。フラウ令息、こちらのお二方が、あなたのご両親だということは、分かりますか?」

 急に話を振られ一瞬、動揺するが、フラウは正直に答えた。

「……何となくですが、分かります。二人が、おれの親だって」

 自分のことを「おれ」と自称した息子に、両親は驚き、医者は少し悲しそうな顔をしながらも何度か肯き、咳払いをした。

「今は、前世の記憶が強く出てしまっているので、話し方も一部、前世の人格の影響が出ています。が、令息は、お二方がご両親だということは、ちゃんと認識されていらっしゃる……全てを思い出すのも時間の問題でしょう。どうぞ、それほど心配なさらず」

 そう言い残し、医者は帰っていった。

 ここまでで、少し整理しよう。妻である葉子と喧嘩して、コンビニでやけ酒をして、帰ろうとしたらトラックに撥ねられ、意識を失い、次に目が覚めたら、自分が自分ではなくなっていた。

 医者曰く、それは“前世の記憶”である、と。自分はフラウ・カースタ・オブリヴィオン公爵令息で、公爵家の長男。母親はシアラレネー・マーグニア・オブリヴィオン公爵、父親はエスト・フルケア・オブリヴィオン公爵夫。オブリヴィオン公爵家は、王家に次ぐ財力と権力、権威を持つ大貴族で、今日はフラウの18歳の誕生日だった。


〇 〇


「あなたは自分のことを「ぼく」と称しているわ。覚えているかしら?」

 少し不安そうに、母である公爵が尋ねてくる。フラウは曖昧に肯いた。

 医者が帰ったあと、フラウの部屋には、自分を起こしてくれたウェイター風の青年と、父である公爵夫だけが残り、母である公爵は公務のために執務室へ帰った。

 青年はフラウの侍従で、名前をフィデリスという。ずっと寝間着のままだったフラウの着替えを手伝ってくれた。

 その間、不安げな顔で部屋の中をうろうろしていた父に、フラウは声をかけた。

「大丈夫です、父上。ほら、今も父上のことを自然と父上と呼べていますし、すぐにフラウとしての記憶が戻りますよ」

 何の根拠もないが、フラウは父を安心させるためにそう言った。

 父上……フラウは、父をそう呼んでいる。その事実を、フラウの記憶の中から掘り起こし、そう呼んだ。正直、父親をこんなふうに呼ぶことに、フラウは気恥ずかしさを覚えた。

「ああ、そうだね……今は、そう願うしかないな。そうだ、身支度を済ませたら、母上の執務室へ行きなさい。大切なお話があるそうだ」

 分かりました。と、肯き、フラウは今、母親の執務室にいた。

 フィデリスと父に連れられ、何とも言えない豪奢な…竹宮恵子先生の描く世界かのような…白と蜂蜜色の衣装を身にまとい、もはや城と言って過言ではない邸の塵一つない廊下を歩きながら、フラウの頭の中は1つのことで占められていた。

 自分は……沖田慎吾は、死んだのだ。恐らく、あの時トラックに轢かれて。

 それなら、葉子は?娘の芽衣は、あのあとどうなった?そもそも、どうして自分は深夜などに家を出てしまったのだろう……。

 葉子と何で喧嘩をしたのか、もう覚えていない。どうせ自分が無神経なことを言ったのだから、さっさと謝罪すればよかったのに。そうすれば……。

 そうすれば、妻を、娘を、永遠に失わずに済んだのかもしれないのに。

「フラウ?聞いているの?」

 少し苛立ちが含まれた母の厳格な声に、フラウは、ハッ……と、我に返る。底に沈んでいた意識を呼び覚まし、フラウは母に向きなおった。

「すみません、聞いていませんでした」

「……フラウ、あなたが混乱していることは分かるわ。“前世の記憶”が突如として蘇ってしまう記憶障害は、たまにある話なの。そのうち、緩やかに戻っていくでしょう。でも、あなたはフラウ・カースタ・オブリヴィオン。これしきの事で、動揺を見せてはなりません。常に、凛として咲く花の如く、ですよ」

 凛として咲く花の如く……。

 またしても、フラウは曖昧に肯いた。目覚めてから、ずっと気になっていたことがある。何とも言えない、この違和感は何なのだろう?

 最初は、母親が『公爵』で、父親が『公爵夫』であることも驚いた。普通は逆ではないのか?と。しかし、外見は中世ヨーロッパ風でも、中身までそうとは限らない。この世界は、男女の機会は常に平等に保障されているものかもしれない。

 だとすれば、例えば、母の父……つまり、フラウにとっての祖父に子が母しかいなかったのなら、母自身が爵位を継承することだって、何もおかしなことはないのだろう。そう思っていた。

 ……が、どうも何かが、違う。先ほど廊下を通ってきたときも、感じていた。

 廊下ですれ違う邸の使用人は、皆、フィデリスと似たような服装をしている青年で、ちらりと見えた窓の外に広がる庭園を手入れしているのはほとんどが女で、重そうな土や袋を運んだりしているのだけが男だった。

 映画などで見る時代物とは、男女の役割が逆転しているように感じる。女がメイドで男が庭師、であるのが通常であろうに、ここではそれが逆なのだ。まさか、全てが、そうなのだろうか?

 だって、地球では…少なくとも日本では…男を“凛として咲く花の如く”などという例え方はしない。花とは、女のことだ。男を花だなんて、薄気味の悪い……。

 確かに、フラウという青年は非常に美しいが、そうであったとしても、だ。喉の奥に何かが詰まっているような不快感に、フラウは顔をしかめた。

 と、その時、執務室の扉がノックをされ、公爵の『お開けなさい』という声と目配せのあとに、扉の横に立っていた壮年の女(恐らく侍従長)が、静かに扉を少しだけ開けた。

 扉の向こうにいた人物を確認すると、侍従長は大きく扉を開ける。すると、向こうから一人の少女が、部屋の中に駆け込んできた。

「兄上!」

 濃い緑色のドレスを着た亜麻色の髪の少女は、入ってくるなりフラウの腰に抱きついた。驚きつつ、フラウは“いつもそうしているとおり”少女の長い髪を撫でながら、名前を呼んでやった。

「フルーティマ……」

 少女の名前はフルーティマ・イロディス・オブリヴィオン。フラウの妹だ。年齢までは、まだ思い出せないが、見た感じは恐らく10歳前後。フラウはこの妹を心から愛している……そのことは、すぐに思い出せた。

 髪の色が芽衣と同じだ……。フラウは感慨にふける。もし、成長した芽衣を見ることができていたら、きっと、こんなふうに可憐な少女であったに違いない。失われた日を想い、フラウは思わず涙ぐんでしまった。

「兄上、フィデリスから聞きました!記憶障害になってしまったとか……わたくしのことは、ちゃんと分かるっ?」

 とても不安そうに、兄を見上げるフルーティマ。少女もまた涙ぐんでいたため、フラウが涙ぐんでいることには気づかなかったようだ。

「ああ、分かるよ……ちゃんと分かる、レティ……僕の可愛いレティ」

 そう言って、フラウは優しく妹を抱きしめた。妹のことをフラウは愛称で呼んでいる。そういったことも、彼女に抱きしめられた瞬間、思い出すことができた。

「よかった、兄上……」

 涙を拭きながら、フルーティマは兄から少し離れた。

「フルーティマ。もう幼子ではないのだから、そのような振る舞いはおやめなさい。あなたは、この公爵家を継ぐ嫡子なのですよ」

 え?

 思わず、フラウは母である公爵を怪訝な顔で見てしまう。その様子に、公爵はすぐに気づき『フラウ、どうかしたの?』と、尋ねてきた。

「いえ、その……」

 聞いても良いものか……少しためらったのち、フラウは意を決する。先ほどから、ずっと感じていた違和が、この母との質疑応答で解決するはずだから。

「公爵の……爵位を受け継ぐのは、兄であり、男である僕なのでは?」

 恐る恐る、そう尋ねたフラウ。その質問に、公爵である母も、その隣に立っていた父も、フラウの真横に立って、フラウのことを見上げていた妹のフルーティマも、きょとん、とした。

 5秒……10秒……と、フラウの心臓の音だけが、執務室の中を支配していたが、ややあって、母が軽く咳払いをし、言った。

「フラウ。確かに、50年前に憲法が改正され、男性差別は禁止されたわ。でも、貴族には貴族の慣例というものがあるの。子どもが男児しかいないのなら未だしも、女児に恵まれているのに、年長だからという理由で兄に爵位を継承させるなんて、ありえないことよ……貴族社会は、未だに女性優位なの」


つづく

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