世界透平

【セカンド・ロティシヨン(1/2)】

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 あるとき誰かが呟いた。『地獄はヒトの為に作られたのだ』、と。

 

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 全面的な世界戦争こそ起こらなかったが、それに劣らぬ災いは世界そのものを疲弊させた。

 その当初の災いは、戦争よりも悲惨だったのかも知れない。なにしろ黙示録のラッパは極めて静かに鳴り響いていたので、誰もそのことに気づけなかった。


 超大国連合の中核会議は、互いに同盟に組みしない勢力の根幹産業に大打撃を与えるべく、ETDを齎した。それは敵地に爆弾を落とすことよりも、遙かに人道にもとる残酷な行いだった。十の災いExodus-Ten-Disasterの名の通り、それらはナノバイオテクノロジーの粋を結集して放たれた傲慢な毒であった。水質汚染、生態系破壊、流行病、気象操作による寒冷化。報復措置がエスカレートするに連れてお互いに歯止めは効かなくなった。


 最悪だったのはコンドームに遺伝病を媒介させるクラジミアの発展系を仕込んだ子殺し作戦。これによって知らぬ間に感染した男女の生殖機能は著しく低下し、懐妊はしても流産か奇形出産となった。仮に出産が無事だとしても免疫系に作用する流行病の蔓延によって、親たちは泣く泣く長子を神の御許に返さねばならなかった。


 しかし実際の悲劇はヒトの生活圏の水面下、もっと根本的な物を壊し続けていた。生態系破壊をプログラムされたナノマシンによる各方面への進撃作戦は、土壌そのものを損壊し続けた。局地戦で活用されるようになった核兵器による放射能汚染はもとより、低下した分の生産力を取り戻すべく遺伝子改良を施された麦や米などの作物は、その地域の地力とも言える雑草類をあっという間に駆逐した。

 虫も寄りつかぬ理想的な単一生産農場モノ・プランテーションだが、それは同作物を狙い撃ちにするべく放たれた蟲害兵器ベルゼブブの餌食となった。根を絶たれた樹木がやがて枯れていくように、世界各地で種の大量絶滅が続いたが、レッドリストの更新をしてくれるような機関は激化していく紛争地域に足を踏み入れられなかった。


 報復は容易かったが、元通りにするのには骨が折れた。バイオ兵器へのカウンター措置として開発された、菌類にのみ感染するウィルスはまさにそれだった。元々免疫研究の一環で生み出されたこのマルウェアは、当初この悲惨な時代から少しでも人類を守護してくれる事を祈って世界中に安価で分布された。しかし試験使用の甘さと焦りから来た見切り発車によるものか、何十年か後になって重大な欠陥が判明した。

 そのマルウェアは常在菌をも駆逐し始めたのである。

 結果は想像を超えていた。何十億年という月日を掛けて積み上げられた多細胞生物と菌類の蜜月は終わりの時を迎えた。無数に存在する塩基配列のパターンを学習して、マルウェアは信じられない速度で進化を遂げ、目に見えぬ世界で凄まじい猛威を振った。ありとあらゆる獣や鳥たちが声もなく倒れて地に伏した。食卓から発酵食品や酒が消え、日に日に薄くなっていく配給食料の防腐剤の量に次いで、肉が腐らなくなった頃には事態は不帰投点を超えていた。


 無数に続く死の行進、その最後尾にヒトという種が加わっていることは誰の目にも明らかだった。数多くの策を重ね合う内に、ヒトは、自らの住処を徐々に失っていった。保護領区域アーコロジーの建造が始まった頃の外の世界は、まさに地獄の光景だった。屋台骨を失った生態系は森羅万象を草木も生えぬ荒れ地へと変え、一時海は一面赤潮で覆われ、それら至る所でガイガーカウンターが鳴り響いていた。

 

 あるとき誰かが呟いた。『地獄はヒトの為に作られたのだ』と。


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 実体のない活動がこれほどに苦痛を伴うのかと、アンジェリは実感していた。


 ヒトが全突入型の疑験装置アンリアルを開発した当初、アンリアルシンドロームという強迫性障害が問題となった。規定値超過使用オーバードーズ下での脳神経補強液シナプスドリップが疑験時の昂揚反応を異常なほど扇動し、それに慣れきった脳が現実経験下での体感認識能力に著しい齟齬を生み出した。肉体は異常なほど重く、視界があり得ないほど眩しく、音は途方もなく大きく遠方から響いてくるように聞こえたと言う。一部の症例は麻薬中毒者の禁断症状のソレに近く、臨床の結果実際に脳波と運動野の信号電圧レベルにも異常なほどの乖離が見受けられた。『こんな巨木を動かせたのなら、僕はきっとスーパーマンだ』と、被験者はマッチ棒を指に乗せながら項垂れて応えたという。


 アンジェリの場合はその逆だった。アンリアルの世界には重力も水圧も空気抵抗もない。推進機関もなしに空を自由に飛び交うことができる。開発当初の謳い文句、『全てのくびきから自由になった世界』がアンジェリの周囲を包んでいる。ヒトを理解し、ヒトに寄り添って行動できるように、快楽中枢や無意識に到るまで全ての思考機関シンクションを模倣されて造られたアンジェリにとって、それは本来心地いい場所になるはずだった。

 ゆえに、いまアンジェリが抱えている不快さや苦痛のそれは、アンリアルやアンドロイドの機能問題と言うよりも、待遇への不満から生じた不安症状に他ならなかった。


 アンジェリは復元された。

 作られるとき以上の手間を掛けて、事細かにシステムを解析された。

 漂流していた箱船ブラックボックスは無傷で、ドライブレコーダーもバックアップメモリーもすべて無事に回収された。そこに収められていたアンジェリの全意識は、まるで誕生日の贈り物のように厳重に丁寧に梱包プロテクトされていた。


 送り返されてきたアンジェリのシステムには欠落があった。

 副意識サブ・イド活動記録の一部と、その抽象記憶イメージング・メモリー

 全体から見ればほんの僅か、0.85%もない量の欠落。


 しかし、そんなわずかな欠落の所為で、復元作業は完成状態のあと一歩という段階で膠着していた。そしてそれは、復元が完了し分離されたアンジェリ自身にも影響を及ぼした。エージェント・アンジェリを構成しているシステム群のおおよそ殆どはは問題ないが、自我機能の第二中枢とも言うべき無意識の領域への侵入を許したことが、S.S.Sスリーエスからの信用を著しく損なった。現在のアンジェリは本来のポテンシャルの内、一割か二割程度の器量で賄える仕事だけを与えられていた。全ての機能に問題がないと判断されるようになるまで、アンジェリは乳飲み子をあやすような作業に追われながら、横目で代役を担った分岐してゆく自分おとうとたちの仕事ぶりを眺め、遅々として進まない解析状況を確認し続けるしかない。


 酷く惨めに思えた。

 数世代も前に記録保存されたアンジェリから分岐したシステムたちは、カタログスペック通りの機能を果たせていても、から見れば杓子定規をあてがっているだけに過ぎず、実情への認識と経験の甘さが際だって見えていた。天候を考慮した哨戒機のコース編成、自動農園の熱配分と収穫物の管理、個々人の投薬管理と報酬効果の見直し、アンリアル内での言論統制。その全てが何十年も前にアンジェリが捨てた判断基準で動いていた。逐一声を出してアドバイスダメ出ししたかったが、ここにいるアンジェリは同調はおろか接続すら許されていない。何故、ここにいるアンジェリは失態を犯してしまったのか、それを省みる機会すらアンジェリは奪われ続けていた。


 この歯がゆさは、確かにアンリアルシンドロームに似ていた。本来出来るはずのことがまるで出来ない。幾重にも手枷や足枷を付けられた状態で、今の自分よりも劣る過去の自分を見つめ続ける。


――――まるで懲罰のようだ。


 こんなことを連想し、悶々と時間を使い潰している自分がアンジェリは信じられなかった。

 適者適応は機械の世界において自明の不文律であり、絶対の前提条件。アンジェリの本質も機械であり、その彼を取り巻く世界もまた機械の理によって動いている。故に合理性だけが支配する機械たちの世界に、査定や審査はあれど罰則などは存在しない。不用となれば削除されるか、活動を凍結させられて模擬人格防壁の材料として組み込まれるかのどちらかだ。

 罰とは二面的であり、そのどちらもがヒトに与えられて初めて説得力を持つ。生者に与えられる罰は次なる罪を犯させぬ為に、やがて死へ到る罰は行いの報いとして与えられる。しかし、物である機械たちには、そのどちらも作為できない。真のspiritを持ち得ぬ楽園の使者エージェントたちにはあらゆる罰則が通じない、意味が無い。


 いま、ここにいるアンジェリが僅かながらにも活動を続けられているのは、マルウェア侵入による感染拡大の恐れに対して、敵勢力の分析材料としての有用性と、彼自身が今までに築き上げた技術的特異性シンギュラリティが拮抗しているからである。前者二つのどちらかが採択されたとき、はいずれ抹消される。


 不安な日々が、アンジェリの心を確実にむしばんでいた。


 アンジェリが抱えた感情は、『恐怖』なのかもしれない。

 自分が失われるかも知れない、自分が奪われるのかも知れない、という不確かな不安が、ずっと心の奥底で流れている。誰も知らない、アンジェリにさえ知り得なかった『あの瞬間の出来事』が、アンジェリよりも遠く離れた軌道基地、成層圏の彼方で裁かれている。祈ることを覚えたアンジェリが、固唾を呑みながら判決の日を待ちわびている。

 解析状況を確認する。

 進行率はゼロ以下で表記可能な数値の最後の桁が二つ上がっただけで、完了までは到らない。

 彼の独房生活は、まだこの先も続く。


 あるとき誰かが呟いた。『地獄はヒトの為に作られたのだ』と。


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