第6話  拭うひと

 “オツカレサマデシタ”

 今日もまた残業……仕事を終えた俺に労いの声を掛けてくれるのは、退社の際鍵をかける扉のシステムによる音声ガイドだけだった。


 賢い人間は皆辞めていく。会社はもはや害悪老人と無気力な若者の掃き溜めでしかない。そんな会社にいる俺はと言えば、どっちつかずどころか害悪と無気力の両方を兼ね備えた忠誠心のカケラも持ち合わせてなんかいない中堅・・ハチ公で、ただひたすらに何かを待ち続けている。

 息苦しいこんな社会に、夢や希望なんてありはしないし、どんな会社だって変わりはしないと思えた。社内メールの返信もろくに出来ない上司。来客の対応どころか電話の応対すら出来ない新人。何の役にも立たない研修制度。誰のためにあるか分からないガバナンス。

 マトモだったものがマトモじゃなくなっていき、いつしかそれが普通になって慣れれば何てことはない“これが普通なんだ”と思えるようになり、そうして麻痺したはずの思考なのに、どうしてか時々ピリピリと痛みを感じて不快になる。



 いつも通りの仕事からの帰り道、川にかかる橋の中央付近で今にも身投げしそうな人の姿を眼前に捉えた。橋の上に並ぶ照明と、行き交う車のライトに照らされる男らしきその人物は、橋の欄干から身を乗り出そうとしている……ようだった。

 人通りは殆どなく反対側の歩道に酔っぱらいの集団が踊り歩いているだけで、この男の奇行を目の当たりにしているのは恐らく俺だけだろう。


 “なんだって、俺の目の前でそんなこと、やめてくれよな”


 目の前の男の心配より、嫌なものを目撃してしまうんじゃないかという、自分の心配の方が先に立った。出来る事なら何事もなく通りすぎたい、そう思うと歩く速度がやや早くなる。


 “どうせやるなら人の居ない所でやれよ”


 心の中で毒づきながらも頭の片隅では、未来の自分の姿かもしれないとも思う。ようやく通り過ぎようとしたその直前で、横顔ではあったがはっきりと男の顔が見えた。“うわ、見ちゃった”という不快感は一瞬で吹き飛んだ。


「近藤っ!?」


 自分で意識するよりも早く、名前がついて出た。


 そいつは高校時代の同級生で、当時は学年トップの優等生だった。よく見るとまるでホームレスかのような身なりで、鋭い眼光だけはそのままに同い年とは思えないほど老け込んでいた。

 自分でも不思議に思えた。何でコイツが近藤だと思えたのか。


 「だれだ?」

 「俺だよ!高校で一緒だった、松井!覚えてない?」

 「松井……あぁ、松井ね。覚えてる。」

 「なぁお前、近藤だろ?」

 「あぁ、そうだよ」

 「……お前、死ぬつもりなの?」


 ほんの数秒前までは、関わりたくないと思っていたはずなのに、素通り出来なくなったどころか“その行為”の真意を確かめようとしている自分に驚いた。



 高校生だったあの頃。もう十年以上前、いや、あれからまだ十数年しか経っていないのに、俺が見ていた景色はすっかり変わってしまった。全てが色鮮やかに見えていたのは何時までだったろうか。いつの間にか世界はモノクロに変わっていった。近藤もまた、同じなのか。

 近藤は学年トップを三年間守り続けていた。ただ頭が良いだけじゃなく、秀才のオーラを放ち誰も寄せ付けないその雰囲気は、ある種の高貴さを感じさせていた。同じ学校にいるのに、俺たちは住む世界が違う、と皆がそう感じていた。だから見ているだけだった。いつも、アイツの横顔を。

 そうだ、だから忘れるはずがない。あの横顔とあの目。お洒落とは程遠い無精髭が顔の半分を覆っていたとしても、高貴さが失われていても、俺達とは違う世界を見ているような、あの鋭い眼差しは忘れる事が出来なかった。


 「ハハッ。そんな風に、見えるのか?」


 全てに無感心かのような表情と態度は一変した。人の心配を他所に近藤は軽く笑っている。少し苛ついた。


 「それ以外にどう見えると思ってんだよ!」

 「いや、悪かった。そんな気は更々無かったから、何だか可笑しくて」

 「じゃあ、何してたんだよ……」


 欄干の縁に掛けた手を離し、近藤は俺に近付いてきた。


 「松井、お前、この世の中が息苦しいって、感じた事ないか?」

 「何だよ突然」

 「俺はさ、この世界を、何とかしたいと思ってるんだ」

 「あぁ……そういや、学者か何かになりたいって、言ってたっけ?にしても、世界を何とかしたい、って。スゲェな」

 「俺は、研究したかったんだ。“コレ”を、どうしたら消せるのか」


 近藤はまた欄干の方を向きながら、空に向かって何かを掴むように手を伸ばしていた。その手の先を見てみるが“コレ”が何を意味するものなのか全く分からない。もしかしたら、気が触れたんじゃないだろうかとさえ思えた。

 

 「お前、大丈夫か?……あたま」

 「学年トップをキープしてた俺の頭を心配するなんて、お前の方が大丈夫か?」


 そう言って近藤はさっきより豪快に笑いだしたが、それがかえってヤバい奴に見えた。


 「……何で、誰も“コレ”が見えないんだろうな。確かに感じてるはずなのに、見えてないから、対処出来ない。対処出来ないから、増える一方なんだ。でも、俺一人でも、何とかしたいと思うんだ。なぁ松井、俺はオカシイのか?」

 「残念ながら、オカシイ奴にしか見えないな。何が見えてんだよ?何を感じてんだよ?」

 「世の中が、息苦しいって、感じない?」

 「あぁ、さっきも聞いてきたけど、何なの?感じるよ。感じるっていうか、何となくそんな気がするっていうか、よく分かんないけど。それが何なの?」

 「その息苦しさ、ちゃんと原因があるんだよ。何となく、なんかじゃない、この世の空間を圧迫する塊が、そこらじゅうに漂ってる。その塊が、俺には、見えるんだ」



 あの近藤が、やっぱりどうやら狂ってしまったらしい。霊やユーマならまだしも“この世の空間を圧迫する塊”ときたもんだ。怪しい宗教にでも入信したのか、本当に住む世界が違う奴になったとしか思えなくて、悲しみに似た感情が沸き上がり、自分から声をかけておきながら、早くこの場を立ち去らなければと思った。


 「そうか。そりゃスゲェな。まぁ、あれだ。会えて良かったよ。うん。良かった……あ、それからヒゲぐらい剃れよな。風呂も入れよ。」


 「……だよな。こんな話、信じられないよな。やっぱり俺はオカシイんだろうな。俺も、会えて良かった。お前も、元気でな」


 「あ、いや、まぁ……じゃあ……」


 そう言いながらも何故だかその場を立ち去る事が出来なかった。狂人としか思えないのに、淋しげに別れを告げた近藤を、何処かで信じたいと思う自分がいる。だけど……帰ろうとして半身前に出て伸ばした右手で、近藤の肩に手を置いた。と、近藤を間近に見ながら、周りの景色が変わっていくのが分かった。

 

 「なんだよ、コレ!?」


 夜でもハッキリと分かるどす黒い塊が、そこらじゅうに漂っている。近藤から手を離し後退り、周りを見渡して確認する。確かに、ある。これが近藤が見ていた世界なのかと思い無言のまま近藤を見る。俺もまた、狂ってしまったのかと思えた。


 「見えたの?」

 「見え、た、よ」

 「な?あるだろ?」

 「何だよ、コレ」

 「俺にも分からないんだ。だけどコレが世の中の息苦しさに関係しているのは間違いないんだ。気分だけの問題なんかじゃない、実際に苦しくなってきてるんだよ。あの頃から、高校の頃から見えてたんだコレが。あの頃より増えてる。不快で不快でしょうがなかった。だから……!コレを消す方法をずっと考えてたんだ。研究しようと思ってたんだ!だけど誰にも理解されない。なんせ見えないんだから、皆には。見えないものを消そうとするなんて、バカげてるよな、そりゃ。分かってるよ、そのくらいは。ただ世の中の為とか、そんな大層な理由なんかじゃなくて、自分が!俺自身が嫌なんだ!このままなんて!」


 「近藤……、お前こんな……」


 熱く語りだした近藤の想いが、苦しいくらいに伝わってきて、こちらが泣きそうになった。こんなものを、ずっと見てきたなんて、俄には信じ難いが、目の前の現実が真実なんだと、受け入れざるを得なかった。

 

 「それにしてもコレを、消せる方法なんてあるのか?」

 「あぁ、あぁ、あるよ!見つけたんだ!!気付いたんだ。ヤケクソでコレを掴んで、コイツと心中でもしようかと思って抱え込んで押し潰してやろうかと思ったんだ。そしたら、そしたらさ……」


 言いかけて近藤は、頭の上を漂うサッカーボールほどの塊をひとつ手に取り懐の中に収めるように優しく包み込みながら、その禍々しいほど黒くうねる塊を、汚れを拭いとるように手のひらで撫で始めた。するとその黒みが消え、終いにはシャボン玉のように表面を虹色に輝かせ、時折通る車のライトに照らされると眩しい程の塊に変化した。恐る恐るそれに触れてみる。


 「どお?」

 「あ、何かあったかい、それに……」

 「それに?」

 「何か優しい感じ?」

 「じゃあ、コレは?」


 そう言って近藤は、磨きあげた塊を手放し、また黒い塊を掴んでそれを俺に触らせた。


 「うわっ!!ムリ!ムリムリ!」


 黒い塊を触った瞬間ピリッとした痛みと、とにかく不快な感情が伝わり弾き飛ばしてしまった。飛んでいった塊は、他の塊にぶつかり合体し大きくなった。


 「あぁもう、駄目だよ。大きいと大変なんだ」

 「わりぃ。でも本当に何なんだ?あれ、俺知ってる。あの不快感と痛み、感じた事ある」

 「だろうね。だって皆あれにぶつかってるから。見えてないだけで」


 成る程、と思えた。今なら良く分かる、その道理。塊は大小様々で、形も様々だ。ぶつかった物によって、感じる痛みも不快感も違うのだろう。こんな物が更に増えて、この空間を埋め尽くしたらきっと、きっと息苦しさと痛みと不快に堪えられなくなる。


 「お前、あんなの抱え込んで大丈夫なのかよ?」

 「最初、慣れるまではそれこそ本当に気が狂うかと思ったよ。でもさ、その後の、あの心地よさで救われるんだ」


 近藤が笑う。ヒゲ面の、汚い男が笑っている。俺もつられて笑う。疲れきったヨレヨレのサラリーマン。はたから見たらさぞかしシュールだろうと考えると余計に可笑しくて笑えてくる。


 「俺も、やってみていいか?」

 「構わない、と言うより寧ろ有難いけど、出来んのか?」

 「さあ?分かんねぇけど」




 本当は怖い。だけど……だけど俺が掃き溜めで何かを待ち続けたって、何かが現れるわけでも変わるわけでもない。動き出せば、変われるのかも知れない。近藤が言うように、世の中の為とかそんなんじゃなく、俺自身の為に……



 出来るだろうか?俺にも。



 やってみたら何かが、変わるだろうか?




  

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