06:はじまりとおわり
八月頭、コンクールの会場に玄之内先生の姿を見つけることは出来なかった。
そして、西海千紘の作品も。
森宮の作品は見事優秀賞を飾り、広々としたスペースで飾られていた。
俺は満足だったが、何処か両手放しでは喜べないままでいた。
これが最後の作品になるかもしれないなんて、思いたくもなかったが心の片隅に沸き立つ靄は明らかだった。
今回の成績は美大推薦の決め手となるはずだったが、あの調子では受けるつもりもないのだろう。思考が順々と巡っては俺を何度も何度も蹴落として行く。
あの一件以来、森宮からの音沙汰はない。大学受験を前にこんなことを願う教師もおかしいとは思うが、一刻と迫る卒業を前にせめて絵を描くことだけは続けてくれないか、と伝えたくて仕方がなかった。
一方で相変わらず、会うことそのものが怖い、とも思うのが正直な感情だった。
森宮と会うことは「遊び」に付き合うことが伴う。繰り返す経験が反射を仕込む。過ちを繰り返すことでいつ職を失ってもおかしくない。曖昧だった恐れの正体は当然の、現実的な恐れだ。
夏の間中、つまらない庶務に追われ同僚と愚痴を零し合いながら過ごす。生徒の居ない校内は、別の仕事で埋め尽くされる。角度を変えれば平穏そのものだった。
週の三度は昼過ぎからの美術部の写生の面倒を見ていたが、絵に関わると無意識的に森宮のことがオーバーラップした。森宮が居ないことに安堵して、一方で居ないことへの寂しさのような感情が燻る。矛盾した感情。その往なし方が分からずに、ぐるぐると思考を繰り返しては何度も溜息を吐いた。
森宮のクラスの担任・葛西からはその後、森宮の家庭環境の詳細な話を聞くことが出来た。
高校に上がって間もなく母が再婚、若い男が父親になったのだという。母子家庭歴がそれなりに長かったが、先の面談の際の様子では険悪という風でもなかったと葛西は語った。母親が夜職の加減か、毎度の個人懇談はその継父が出席していたそうだ。
続く話では成績裏腹に二年の頃から構内での喫煙行動が主立ち、注意喚起を葛西がしたと言う。
「これはここだけの話だが――」
葛西は声を潜める。
「取引を持ち掛けられた。見逃す代わりに、何かしてやってもいいって」
衝撃に体がぶるりと震えた。「何か」が指すものが容易に想像出来てしまったのもあるが。動揺を隠したくて俺は壁に背を抑え付けるようにもたれ掛かった。
つまりあんな態度、手法は一度じゃなかったという訳だが、ギブアンドテイクどころか、俺は現在進行形で一方的に脅されたままだ。怒りとも焦りとも不安とも知れない、あるいは混ざった感情に息を飲んだ。増えて行く感情は複雑に絡み合って縺れ、今ここに誰も居なければ頭を抱えて叫び出したいような気に駆られた。
葛西はやれやれと頭を掻く。
「あれが女子生徒だったら、取引に乗るやつが出てもおかしくないよなァ」
「…………じゃあ」
「断ったよ、もちろん。一回は見過ごしてやるから、そういう大人を嘗めた真似するのはやめておけって言ったよ。不服そうな顔をしていたけどな」
それを聞いて無意識的にほっ、と息を吐き出していた。
そしてまたそんな自分に、もう一人の自分が囁く。一体、何を安心した?
葛西は家庭持ちのごく普通の男だった。教師としても、生徒の人気を上手く集める要領のいい男だ。
「問題行動を起こす生徒ってのはさ、大体が家庭絡みの何かがあるもんだ。でも、それを俺達教師が解決してやれるのかと言ったら、そうはいかないことが殆どを占める。目の前に見えてる問題に踏み込めない。……飲まずにいられなくなるよなァ」
独り言のように葛西はそう、ごちた。
遠く、グランドの方でキン、と金属の音の後歓声が聴こえる。
「……ところでさ、高橋先生。あんた、夏前から森宮と準備室で何してる」
葛西の眼差しがまっすぐに俺を射殺しに来る。その目は責めるというより、窺うようなものだったが。
必要以上の詮索を避けつつ、単刀直入な言葉は葛西の人柄をよく表していた。
声が喉に張り付いた俺は、最適解の言葉を探しあぐねて視線を逸らした。
「立ち入るつもりはないし、知りたい訳じゃない。ただな、俺自身さっき言ったような経験があって、大体の察しがついてしまった以上は言っておくのが義理ってやつだろ」
否定したところで、葛西はその真否には興味がないのだろう。懐の深い、寛大な態度に俺は感謝こそすべきだったが、殺すように吐き出した息と共に視線を床に落とすのが精一杯だった。
まさか、こんなことになるなんて誰が思っただろうか。
「生徒ってやつは、時に面白おかしく騒ぎ立てるからな。実質、森宮の噂を耳にしたこともあるだろう。たとえあんたが森宮のことを案じてるのだとしても、あまり頻繁に続くようじゃこの先、何がどう転がってあんたの首を絞めるかわかったもんじゃない」
「……そんな話を聞くと、怖いな。もう受験勉強に熱を出していていい時期だし、やめるべきだ」
――やめたかったのか、本当に?
口にする端から、そんな自問が返って来る。己自身が、疑っている。
葛西は分かってるならいい、とそれ以上問うことも諭すこともなかった。
次に会ったら。……二学期の初めにはまた森宮はやって来るだろう。その時には。
決意を固める時が来ていた。忠告を受けた以上は、続けられるはずもない。いや、そもそも続けるべきじゃないことぐらい分かっていたはずだった。望んでいた訳ではない、はずだ。俺は教師で、森宮は生徒なのだから。
真夏の暑さと対照的に、冷え切った心で夏の終わりを待った。
森宮に会いたくて、会いたくなかった。
◇◆◇
始業式を終えたその足で、森宮は俺の前に姿を見せた。
あまりに早い、再会だった。
準備室の扉が開かれた先に見慣れた頭が見えたその時、俺は咄嗟に準備室の暗幕カーテンを閉めていた。
また誰がどこで見ているか分からない。そんな思いが過ぎったからだ。
「……用意周到だな、高橋」
後ろ手に扉を閉め、森宮が鍵を掛ける。
笑み混じりに窓際の俺の傍まで何の躊躇もなく詰め寄る。
手負いの獣を追い詰める時のような、余裕振りだと感じた。
「そうか、暗がりが楽しかったのは、アンタも同じか」
「森宮……」
暗幕の隙間から覗く光に照らされた、いつもながらに不敵な笑みの森宮の顔。
そう、いつだって大人を揶揄うのを楽しんでいた。
その指先が俺の襟元のタイに掛かる。するりと緩みかかるところでその手首を捉えて制止した。
森宮は眉を上げる。何故、今更、怖いのか、と瞳が問う。
俺は重い唇を開いた。
「――…これ以上お前のためにリスクを背負うことは出来ないよ、森宮」
スローモーションのようだった。
みるみるうちに森宮の表情に驚愕が露わになって行く。
俺の言葉が、心底信じられないという風だった。
とても長く感じる沈黙が訪れた。ただひたすらに、瞳で真実を問うようなやりとりをした。
実際はとても、長いなんて時間ではなかったのかも知れない。
タイを手繰り寄せるようにして、胸倉を掴み上げられた。
「マジで言ってンの、それ。……怖気づいた? それとも、何かバレた?」
声のトーンは低い。怒りのようにも、苛立ちのようにも見える。
声を殺しつつ俺を見上げて、言葉を待っている。
「前にも同じように教師に持ちかけたらしいじゃないか。お前がここに通う姿見て釘を刺されたよ。また妙な噂を立てられる可能性もある」
「…………葛西、か」
深い嘆息と共に胸倉掴む指から力が抜ける。
森宮はそのまま手を離して二歩、三歩と後退する。
苦く微笑っては両肩を大袈裟に竦めてみせた。
「わァかったよ、……そういうことなら手を引く。遊びは、お終いだ」
あっさりとした返答に俺は本来なら安堵するべきだったが、どうしてだか、実際の胸中はとても穏やかにはならなかった。
胸の内の、むかつきにも似た靄。俺は眉を顰めて視線を、森宮から逸らすことしか出来なかった。
「清算ついでだ、教えてやる。俺の爺さんが教育委員会にコネあンのは本当、だけど、ずっと昔の話だ。本当ははじめからアンタが怯える理由なんてなかった。……マジで露見しちまったら、オレじゃなくて高橋が処分対象ンなるのは事実だろうけどな。騙しててごめん」
悪びれずにさらりと告白する森宮には俺ほどの衝撃はないと見える。羨ましく、妬ましく感じたのは何故だろう。
本当に、暇つぶしの遊興に過ぎなかったということに歯噛みする。
怯え、恐れ、揺れて、落胆したのが大の大人で、持ち掛けた子どもが平然としていることを無性に情けなく思った。
少しの間。離れた森宮が、再び歩み寄って両の手に俺の頬を包む。
「――……ンな顔すんなよ、バカ」
微笑った。森宮が。くしゃくしゃの笑みだった。
稀有な一瞬の間に、触れるだけの口付けが宥めるように、唇を掠めて行った。
その温かさに気づく頃にはもう離れている。
「じゃあな」
背を向けた森宮はいつもと変わらない足取りで出て行く。
独り残された暗がりの部屋には居ても居られず、喫煙室へ向かった俺は、紫煙を燻らせた。肺を満たす煙は、心の靄を誤魔化すのにも役に立たない。それでも、虚しいばかりの行為を続ける。
いつだって取り残されるのは俺だった。掌に踊らされ続けていた。惨めで、情けない。
そう感じているくせに、森宮の微笑みを頭から消せなかった。
普段からの高慢な態度のおかげで珍しいせいだ、と思った。
窓の外、差し込む残暑の日差しが容赦なく網膜を焼くように眩い。馬鹿馬鹿しく晴れ上がった青すぎる空に、目に痛いほど白い入道雲を見た。
眩しすぎて、少しだけ涙が滲んだ。
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