04:熱情、あるいは

 具体的に何をすればいい。そんなことを聞いた。

 森宮はすこし笑って、作業台の上に乗り上げると事務イスに腰掛けた俺の手を自分の腰へ導いた。

「そーだな、……なにしようか」

 余裕風吹かせる森宮はずっとご機嫌だ。放課後の美術準備室。一枚扉隔てて美術部の部室でもある教室。屋外写生をしているのをいいことに、ヤツは目を付けてやってきた。

「高橋さァ、童貞じゃねンだろ。ナニすりゃどうなんて、年下に訊くなよ」

「子ども相手に一体どこまでの何が遊びなんだ。……俺から職を奪う気か」

「だけどオレの言うことは聞くんだろ? そういうトコだよ、……かぁいいの」

 微笑って、森宮が上体を屈ませれば目と鼻の先まで距離は近づく。

 合図のように投げられる視線。そのまま、唇を啄ばむようにキスをする。

 主導権を握るのは簡単なことかもしれない。だからこそ、潜在的に怖いと感じていた。教職を失うかもしれない、それは勿論だったが、それだけではないと薄々気づいている。……何を。肝心なところがぼやける。

 森宮の腰に添えた両手には、わずかな力も込められずにいた。触れることも怖かった。

 自問自答を繰り返す間、鼻先擦り合わせてくすぐったいような口付けを何度と交わす。半ば目を閉ざした俺を、森宮はじっと見つめる。その強い眼差しは瞼を、心を透かすようで、瞳を開いてはかち合う視線に恐れすら抱き、また閉ざすを繰り返した。

「…………」

 物言いたげな沈黙を紡いでから、森宮が諦めるように呼気を吐く。

 そうして、俺の唇をそろり、舐め上げるとあっさりと上体を起こして作業台を下りた。

 不安な俺は不服そうな顔はしていないのを確かめて、密やかに安堵した。

 それが一度目だった。二度目、三度目、繰り返し同じ「遊び」に応じた。

 四度目。数を重ねるごとに、森宮の呼吸が乱れて行くのをわずかに感じた。

 それだけじゃなかった。腰に添えただけの俺の手は、無意識に腰を抱くようになっていた。

 鼻先を合わせながら触れるか触れないかの位置で交わす森宮の視線は、以前より明らかに熱を孕んでいる。触れるだけでも気持ちがいいのだから、不可抗力かも知れないが。それなら、今、森宮に俺はどんな顔を見せているんだ?

 ひやりとした感覚が胸を襲う。俺がはじめに感じた恐れの正体だった。

 深く考えるな。そう言い聞かせては、自ら能動的に唇を食むことに意識を融かせた。

「……足ンない」

 ぐってりと脱力し切った森宮の上体は俺の肩に委ねられている。思いがけず耳元に零される形になった呟きは「いつものように」熱を帯びていた。

 しがみ付くような恰好で首から背に回された腕に力が篭る。耐えるような小刻みの呼気を受けて、俺の体は総毛立つ。体中がざわめく感覚。

 何を望むのかも、どうするべきなのかも分かり切っていた。同じ構造を持つだけにそれは容易い。

 はじめに動いたのはやはり、森宮だった。やんわりと俺の利き手を握り導いて、静かに主張する熱に押し当てる。

 正しさなんてものが、その時はもう頭にはなかった。罪悪感、義務感、背徳感、脅迫観念、そういう感情はなかったように思う。悦びも、快楽も、恋情のひとつさえも、きっと。その時の自分が何を思っていたのか――考えようとすると頭は真っ白に染まった。

 唇を重ねながら、淡白に慰安に付き合ったつもりだ。そんな俺とある種同じよう、欲の発露だけを求めるような森宮の夢中の顔、手を汚す一瞬の熱さはいつまでも、いつまでも記憶の中をじわりと占めた。

 瞳を閉じて尚残る、残像のように、いつまでも。

 焦熱に浮かされて過ぎる時間。森宮は宣言通り、中間、期末考査を過ぎるまで問題のひとつ起こすことがなかった。妙な噂は受験シーズンの中に掻き消えた。夏が、始まろうとしていた。


 ◇◆◇


 夏季コンクールの締め切り日が二週前まで迫っていた。美術部員は考査最終日から連日のように部室で揃ってカンバスを前にしている。

 部員との確執のある森宮は察して、俺の元を訪れようとはしない。ようやく、本来あるべき生活に戻ろうとしていた。

 夏休みに向けて終業式まで数日を残す頃にはようやく俺も職場でへ馴染み、人間関係を少し掘り下げることが出来た。

 歳の近い同僚、数学科の葛西は森宮のことをよく口にした。その度内心にびくりとしたものだったが、俺が美術科を担う以上、それは当然のことだった。

「春一の三者面談に来たのは俺やあんたと変わらない歳の男だった。母親の代わりだと言うから兄貴なのかと思いきや、再婚したての継父だって言うんだから驚くよな。並べばまるっきり、兄弟にしか見えなかった」

 葛西は森宮のクラスの担任だった。狙って親交を深めた訳じゃあなかったが、扱いに困っていた以上好都合なのも事実だった。

 森宮に自分の拙作を片っ端漁られた話なんかを、二人きりの喫煙室で紫煙と合間に燻らせていた。

「義理の父親が、三十路手前、ねえ」

「それより聞けよ、森宮の第一志望は国立の理工学になってる。昨年までは国立美大だったのに、だよ。……成績の上では問題ないだろうけど、妙だろ」

 わら半紙の一枚を差し出され、視線が真っ先に拾うハネのしっかりした文字。森宮の字だ。

 もう描く気はないと言った森宮の言葉がここに来て確固たる意思表示に変わってしまった。わずかな希望が星と砕け散った瞬間。

 目を瞠ったところを、葛西の目配せとぶつかる。

 「あんた、それで満足なのか?」瞳はそう無言ながらに語る。

「……教師として力及ばず、ですか、ね」

 辛うじて声に出した言葉が頭で反響する。……では何故俺の絵を? あんなに絵に固執していたのに?

「諦めが早いねえ。……しかし森宮も森宮だな、玄之内さんが辞めるから自分も絵を辞める、なんて。理由にならんだろ」

 トントンと煙草の箱を叩いて、一本を抜き出し咥えながら葛西が呆れるように笑った。

 脳裏に、憤慨した森宮の姿が過ぎる。信頼関係があったればこそ、ああもなるのかも知れない。

「あるいは、もっと他に理由があったんじゃないのか勘繰りたくなるね」

 葛西の淡々とした声が静かに響いた。

 深く関わるべきじゃないような、そこを紐解くほうがいいような、プライベートな事柄。

 どうすべきか考えあぐねた末に、紫煙のこもる部屋には沈黙だけが重く残った。


 ◇◆◇


 終業式を終え、美術部員もようやくと道具を片した頃に準備室の扉は開かれた。こそりと、忍ぶように扉を開けた主が森宮であると俺は確信しながらゆっくりと入口を振り返る。

 キャンバスバッグを肩に引っ提げた森宮は後ろ手に音を立てないように扉を閉めた後、じっとその場に佇んだ。

「……できたから持ってきた。出す前に、見せとくけど……賞が取れる保証なんてないからな」

 ぼそぼそと小声で零す。隣室の部員のことを気にしているのが分かる。どれ、と寄り掛けた俺にバッグごと差し出した。

 それは、近づくのを拒むようにも感じる所作だった。

 両手に受け取って、バッグから取り出すカンバスを作業台の上に乗せる。

「――――…、めずらしいな」

 目に飛び込んだ彩りに思わず息を飲んだ。

 カンバスには青々とした竹林が描かれていた。静物画を好んで描き続けた森宮の、俺が知る限りはじめての風景画だった。

 眩暈を覚える陽光、瑞々しい青。新緑を感じさせる彩り。どれを取っても感嘆の息の洩れる出来だ。

「いい絵だ」

 森宮に微笑いかけると、はにかむように僅かに口許を緩ませる。

 視線を泳がせてはその場に居辛そうにそっと腕で身を寄せていた。

「約束は果たしたろ。ところで、……高橋にひとつだけ頼みたいことがあンだけど」

「うん」

「夏休み中、一日だけ時間くれないかな。見せたいものがある」

 真面目な声のトーンで言う森宮の願いに、顔を上げた。

 上目がちの視線が俺を捉えていた。これまでで考えられないほどに、真摯に見える表情だ。

「構わないが」

「……じゃあ連絡先教えて。具体的に決まったら前もって連絡する」

 真面目の態度を崩さないままの森宮を前に、調子が狂うなあと感じながらデスクのメモ書きに走り書きをして寄越した。

 二つ返事で約束を取り付けられて、森宮はほっとした表情を露わにしていた。本当に妙な日だ。

 ――と、隣室へ繋がる扉が、唐突にノックされた。

 森宮があからさまに体を固くしたのが見えた。

 さっ、と手早くカンバスに袋をかぶせ直して抱える。

 じゃあな、という目配せと片手の挙動で示して、するりと廊下側の扉を抜けて走り去って行く。

 反対の扉の向こうから、「せんせえ」と呼ぶ気の抜けた女子の声。

 もっと、眺めていたかった。せめてあと少し。

 そんな口惜しさを感じながら竹林へ思い馳せた。

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