雨が、止まない。

紺野しぐれ

01:初動

 教育大を出て、四年目の春が来る。

 新学期より、新しい赴任先に就くことになる俺は、早くも胸躍らせたものだった。

 瞼の裏に残る鮮やかな色彩のキャンバス。忘れられなかったその作品に、偶然か、あるいは必然か、近付ける機会が与えられた。

 数多のコンクールで名を挙げている噂の彼が、今春から教え子になるのだ――。


 


 三月下旬、旧校へ転任の挨拶を終えた足で、春季絵画コンクールの会場へと向かった。

美術教師のサガと言って良い。とりわけ、俺は色彩に目がなかった。

 会場へ入ってすぐ、目に入るのは大賞作品だ。もう数年、佳作以上の成績は己の教え子の元からは出ていなかったが、目当ては教え子でも、大賞でもない。たった一人の名前、それを探して歩いた。

 地元の中学生、高校生対象に開かれるコンクールは年四回行われ、募集数もそれなりの規模のものだった。開催スポンサーには美大のバックアップがあり、進路にも繋がるという素人噂が有名。実質、良成績を挙げた生徒は大抵その美大へ進学しているものだから事実上の真実ではあるのだろう。

 目当ての名前が見当たらない。そう広いわけではない会場を見回すと、あからさまに落胆した息が無意識と漏れた。

 受付けで確認もしてみる。……と、居合わせた六十過ぎのご老人が横から声を掛けてくれた。

「今季は間に合わなかったらしい。……あれは、気難しい質でね」

 口振りの親密さに気づいて、こちらの眉が上がるのを察した老人は中折れ帽を取り、改まる様に会釈をする。

 片手に杖をつきながらも、背の曲がりのないしゃんとした姿勢に、柔らかい表情が外柔内剛を思わせた。

「森宮裕は、あたしの教え子でして。申し遅れました、森宮の高校美術教師の玄之内正蔵と申します」

 まさか目当ての彼の顧問教師から声を掛けられるとは、思いもしなかった。俺のように彼の作品に惹かれる人間は多いのだろうか。見透かされるような心地に疚しさなどないのに、冷や汗を掻く。

「……そうでしたか。高橋智則です、イチ高の美術教師をしておりました。森宮君の絵は三年前はじめてコンクールのものを見たときから、毎度楽しみにしていたもので……」

 軽い握手の後に、玄之内氏は項垂れた。それは、こちらへの同調にも見える。小さな頷きの後、時間がおありなら、とベンチを勧められ彼に繋がる話なら、と俺は喜んで隣へ腰掛けた。

「……過去形でしたな、どちらか転任されるのか。あたしもね、もう歳だもので今か今かと時期を見据えておったのです。念入りに退職を伏せておりましたが勘付かれてしまってからは、森宮の筆は進まず、とうとう…期日前にキャンバスごと投げ出してしまった」

 ちらり、こちらを見やった目の奥にはある種の確信がある風だった。恐らくこの人は、こちらの赴任先を正しく捉えている。

 それを理解した上で一つ、頷いて見せた。

「仰る通り――恐らくは、推測通りでしょう。異動願がこんな形で叶うことになるとは、思いませんでしたが。……、その様子だととても信頼が厚く見える。彼の作品を支えてらしたんですね」

「毎度の作品を目にして来たのならば分かるだろうが、殺すに惜しい才だ。後任に当たる先生が、森宮の才を認め、伸ばして行けるのであればきっと。…必ず、後に残るいい作品を描けるだろうから」

真っ直ぐの眼光を向けて、玄之内氏は俺の前に頭を下げる。

「――裕を、よろしく頼みます。」

 その言葉の重み、その意図を知るのは新学期を迎え、四月中旬を過ぎた辺りだった。


 ◇◆◇


 新学年を迎えて授業中も生徒はどこか浮き立つ雰囲気でいた。特に副教科ともなると集中力を保つのは至難の業らしく、ざわめきに満ちる教室で何度となく制することになった。

 森宮は中でも目立たない生徒だった。馬鹿に騒ぐ生徒を尻目に、かと言って生真面目でもなく頬杖ながらに窓の外を眺める横顔を何度となく目にした。

 会話を試みる暇はほとんどない。四月半ばにして俺が得られた情報と言えば、美術部員ではないことと、同部員からあまり好い感情を持たれていないということぐらいだった。

「仕方ないよ。玄先生も、ヒイキするんだもん。あまり、普段から好い噂も聞かないし」

「……噂?」

「授業エスケープしたり、煙草吸ってるのみたヤツいるよ。あと、……」

 美術部員は声のトーンを一層落とし、こそりと耳許に手を寄せた。

「なんか、学校でヤッてたりするんだって」

 何を、と訊ねるより先に、生徒は肩を竦めて廊下を駆けて行った。

 噂好きの愉快犯なのか、真実なのか、極め付けるにはあまりにも内容が内容だ、と俺は思う。

 疎まれるほどには森宮の成績が数字の上では事実上指折りの上位であるのもそれから程なく知った。作られた噂だと仮定するのが妥当に思えていた。教師間でも目立つほどの行動は聞き出せなかった。もとい、目立った人間の名前の中に森宮は居なかった、と言うべきか。

 その日、俺は私事で授業の時間に間に合わず、一時限目の終わりに校内へ辿り着いた。偶然にも森宮のクラスの授業の日のことだった。

 まだ授業中の人気ない校舎を歩く俺の目に、遠く中庭を横切る男子生徒の姿が見えた。

「――おい」

 掛ける声に体を跳ねさせ、生徒は少しだけこちらを振り返る。…森宮だった。

「森宮、……待ちなさい」

 声に素直に応じるはずもない、森宮は緑茂る池を横切り、木々に紛れてはこちらを撒く算段らしい。

 走らずに辺りを注意深く捜し歩く背中で、不意に枝の乾いた音が響いて、反射的に音の方へ手を伸ばしていた。

「……ッ、んだよ。遅刻教師」

 咄嗟に掴んだのは森宮の肩だった。その場から音を立てないようこっそりと抜けるつもりだったのか前傾姿勢のまま背を向けていた。肩越し振り返る彼は意志の強そうな眉を持ち上げて、俺の方を怯まずに睨み据える。

「そりゃ、悪かったな。……だからと言ってこれを見逃せる立場じゃないんだが」

「マジメ。……気分が悪いんだ、保健室に行くんだよ。……離せ」

 肩を揺らせば力を入れない手は振り解かれ、落ちる。映える瞳で俺を見据える森宮の動きが一時、止まったような錯覚。交わす視線に互い、何かを伝えるでもなかったが、とても長く感じる時間だった。

 先に動いたのはやはり森宮だ。もう止められることはないと思ったのだろう、足取り怠げに脇を通り抜け、中庭と校舎を繋ぐ廊下へと振り返らずに去って行く。

 言葉通り、森宮の向かう方には保健室がある。背が消えるのを見送ってから、気を取り直し美術室へと向かった。

 本より美術科を大事に受ける生徒なんてのは少ない。…本職が口にするのは癪な話だが。

 自習授業となった一時間は「学内風景画の下書き」という課題を与えてあったものの、休憩時間を挟んで教室へ戻った生徒等に提出させた下絵の大方は描き進まない状態のものばかりで、分かってはいたものの、自然と嘆息が漏れる。

 勿論、森宮は欠席扱いで白紙だ。これも、俺を消沈させた要因のひとつだろう。

 引き続き、描く場所に迷う生徒には場所選びの再検討、大方決めて描きはじめた生徒には風景画を描く際のポイントを黒板へ書き伝えて残り時間を下書きに費やしてもらうよう指示する。俺の仕事は生徒等の姿を追いつつ、必要な生徒へのアドバイスをすることぐらいだった。

 「先生は描かないんですか」と女子生徒の一人がふと尋ね、思いがけず盲点を突かれた気になる。

「……だって先生、ひどくつまらなさそうなんだもの。それに、美術部は先生の絵を見たいって」

 つまらなさそう、と言われて思わず相好が崩れた。顔に出てしまうぐらいだったのか。

「お前たちがしっかりと集中してくれるならそれも悪くないんだがな。……あまり、期待はしないように」

 言い添えつつ、女子生徒が自分の持ち場へ戻ったあとでこっそりと画板を持ち出して、俺はポイントを探していた。特に問題はないだろう。要は、生徒が目立つエスケープをしないように最低限目を配っていればいいのだから。

 学内風景画、という題に校門やグランドから見える校舎を選ぶ生徒は多かった。

 森宮が戻った様子はない。誰、と特定につるむことのない彼だが、聡明でいながら尖った独特の存在感は他の生徒よりずっと異質で目立つ。

 この様子だとこの一限もまず戻らないだろう、無意識に溜息をこぼしつつ、俺は描画ポイントに校舎の中庭へと到っていた。

 コの字型の校舎の凹部分に位置するこの中庭は、赴任してまず魅入られた場所だった。学校という公共施設には勿体ないほどに手入れは行き届いており、新緑の季節へ移るこの時期若葉が陽を受けて一層美しい。

 両手指で作るフレームで空間を切り取れば、それだけでひとつの絵が出来上がる。孔雀緑の陰影を落とす池と桂の木々を中心に決め、校舎の片側へ凭れ腰を下ろした。

 首を巡らせば、視界の端には校門と、グランドの生徒たちの姿も見ることが出来る。……どうにか。

 葉を揺らす心地好い風の音と、自身の鉛筆の音だけが暫く続く。

 一度神経をひとつに向ければそこへ集中して行く。色の置き方を想定しつつ、夢中で描き進めた。

「……鳴るよ、チャイム」

 聴こえた声にハッと顔を上げる。声は僅か上の方から聴こえ、そのまま垂直に見上げた先に森宮は居た。

 開いた窓枠へ両腕を乗せ、顎を乗せる姿勢で俺を見下ろす表情は、何時もながら冷めている。

 驚きに瞬きを挟んで腕の時計を視認する。終業十分前。

「オレが見てるの、全然気づかないんだ、おもしろいの。やっぱり好きなんだな、描くの」

「いつから居たんだ、サボり。声ぐらい掛けろよ」

「掛けたじゃん」

 飄々と返す森宮の少し長い前髪を風が揺らす。あどけなさの残るような瞳がはっきりと見える。

 どきりとする感覚に、動揺せずには居られない。何故、こんなにも惹きつけられているの、か。

「……そりゃ感謝するよ。さあ、思いっきりサボったんだ、次は出ろよ」

 俺の授業にも、という意味も含めたダブルミーニングを、森宮が受け取ったかまでは分からない。肩を竦めて、窓から離れた森宮に、俺も生徒の画板を回収すべく立ち上がり、中庭を後にした。

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