青海が聴こえる
紺野しぐれ
01:かき氷
「千紘、おいってば、千紘」
縁側に座る俺の幼馴染みは背を向けたまま、うー、と返事の代わりの声を寄越す。
開け放った硝子障子の向こう、一面真っ青な蒼と、目に痛いぐらいの入道雲がひとつ。広すぎる庭の砂地に、水を撒いた後とホースが転がって。向かいの蔵にわずかばかりの陰。
ジワジワジー、暑さを引き立てる虫の音と銅鈴と俺の何度目かの溜息が重なった。
「聞けよ千紘ォ、……溶けちまうよ。氷」
返事は再びの、うー。幼馴染みは画板にかじりつくようにして、鉛筆を走らせている。病気なんだ。一種の。
紫檀の座卓に今しがた削ったばかりの氷を器に盛って、お上がりなさい、と千紘の祖母が来たのが五分ほど前のことだ。既に少し溶けている。
透明みぞれに、小豆の煮たのが装ってある。溶ける前に食べたい気持ちと、幼馴染みと揃って食べたい気持ちでさっきからこうして応答を待っていた。
しばらく胡坐に頬杖で千紘の同級生と比べて華奢な背中を睨んでいたが。
絵に魅入られたコイツを前に、誰も勝てやしないのだと早々に折れることにした。
自分のスプーンを咥えつつ、二人分の硝子器を手に縁側隣へ並ぶよう移動する。隣から絵を覗き見ても、くっきりとした目鼻立ちの横顔を真面目に見つめても気を割く気配がない。
覗きこんだまま、横目に画用紙の上を見る。
「トビウオ……?」
「トビウオ。今朝、じいちゃんの船で見たんだよ、すっっ、ごかった」
ようやく返ったまともな返事は、興奮がちの早口。ちょっと、笑った。
口を動かす間も、目も手も画板一直線で。迷いなく線が描かれて、透明の胸ヒレを拡げて跳んだ魚のフォルムが浮かんで行く。
すこし、見入りかけたところで手にしたままの器から結露した雫が手を濡らした。はっとして引き戻され、一つを横へ置き、俺は自分のを口にした。
「なあ千紘。持ってきてやったんだからさあ、食えよ」
「……うん。もう少しね」
「懲りてないだろ、……世話焼かすなよ」
食べる合間に言葉返して、残りをさらりとかき込んだ。この後も画板から目を離さない千紘のことは予想できたものだから、俺はやれやれと溜息一つ吐き出して、千紘の分の器を手にする。
一口分、掬おうとすればさっきより更に溶けた氷は氷山から高原に姿を変えていた。あーあー。もったいない、なんてごちてもきっと千紘の耳は拾わないのだろう。
「……ホラ、食えって」
引き結んだ唇つつくようにスプーンを寄せ、開けるよう促す。
すると、素直にぱくりと喰らいついて、ついで、ジ、と上目に視線を寄越すのだからコイツは狡い。
そうしてくれるのを待っていた、という目だからだ。遅い、とも訴える。
そんな風に、俺は思う。
ゆっくりと唇で拭うようにスプーンの上をさらったら、たちまち視線は画板へ戻る。
本当に、コイツってヤツは。そう、思いながら大体にして俺は世話を焼くことになるんだ。そう、昔から。それは多分、好きでやってきてる。だから、大っぴらには文句が言えないのだった。
そう、いつも。
体の弱い幼馴染みの手を引くのは、俺だった。俺が、手を引いてやるんだ、と思っていた。
中学に上がる手前、自分の中の邪さに気づく、までは。
あの夏、とても暑かった。眩しいくらい目に焼きついているのは、あの瞬間が一番俺と千紘の気持ちが近かったからかも知れない。そう思った。
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