二十九粒目 ふたりなら、ふたりだから
午前十一時半。店にいた常連客がただならぬ空気を察して出て行ってくれたのと、マスター室藤が『休憩中』の看板を表に出してくれたおかげで、店内にはふたりのカオルとマスターを除いて誰もいない。
我を忘れて馨に泣きついた香は、涙の気配が収まるに連れて恥ずかしくなっていったらしく、ふとした瞬間にぱっと彼から離れて、「なにやってんの、わたし」と恥ずかしそうに自問した。一方の馨はといえば、彼女の柔い感触と少しすっぱい匂いが忘れられず、溶き卵みたいにかき混ぜられた心を平静に戻そうと必死である。
ふたりがいつもの落ち着きを取り戻したのは、それから十分ほど経ってからのことだ。店の奥のボックス席にて。香はマスターから借りたタオルで濡れた髪を拭きつつ、馨に色々なことを話した。
二週間前、馨が一度死んだこと。自分は馨の葬式に出席したこと。今まで自分は馨の視界を通じて未来を見ていたこと。チョコを三粒食べると、過去の馨に干渉できること。その能力を使って過去を変えたおかげで馨が蘇ったこと。
香の話す内容のどれもが、馨にとってみれば信じがたい内容ではあった。そもそも、昨日までの香はそのようなことは一言も話していなかったわけで、それを思えば新手のドッキリか何かを仕掛けられたような気がしてならない。しかし、今の彼女の表情は真剣そのもので、ふざけている様子は微塵も感じさせない。また、急に「デートに行こう」などと有無を言わさぬまま手を引っ張られた日のことを思い出せば、彼女の言うことにも筋が通っているような気がして、馨は「なるほど」と納得せざるを得なかった。
「……つまり、俺は一度死んだと」
確かめるように呟く彼へ、香は「そゆこと!」と被せて何度も頷く。
「言っとくけど、からかおうとか、騙そうとか、そういうんじゃないからね。本当なんだから!」
「いや、わかってますって。ただ、話を受け入れるまでに少し時間がかかるというか……」
言い淀む馨を香は何も言わずにじぃと睨む。焦った馨は慌てて席を立ち、それから彼女に頭を下げた。
「ともあれ、ありがとうございます。こうして俺が生きてるのは、お姉さんのおかげってことですよね」
「わかればよろしい」と香は教師のように腕を組み、さらに続けた。
「ねえ。カオルくん、仕事終わるのいつ?」
「今日は短いです。ランチ終わったら帰る予定ですね」
「りょーかい。じゃ、ここで待つから」
そう言うと香は頬杖を突いてニッと笑った。
「終わったらデートだからね、カオルくん」
馨は耳たぶがカッと熱くなるのを感じた。
◯
『休憩中』の看板を下げてから程なくして、店にはじわりじわりと活気が戻ってきた。ランチの時間ということもあり、席は全体の八割ほど埋まっている。キッチンで働く馨は大盛りナポリタンを炒めつつ、ボックス席に座る香へ視線をやった。なんの変哲もない外の景色を眺めつつ鼻唄を歌うその姿は、なんとも浮かれた風である。
「ご機嫌だな」なんて呆れると同時に馨が無性に恥ずかしくなったのは、彼女にとって窪塚馨という存在が、自分の想像以上に大きくなっていたらしいという事実に気付いてしまったゆえである。そうなってしまうと、なんだかこちらからも意識してしまう感じがあって、馨は奥歯のあたりがむず痒くなってきた。
――あれだな。俺、あの人と今まで通りに話せるのかな。
そんなことを考えながらばたばたと忙しく働いているうちに、時刻は午後の二時を回った。客の波も一旦落ち着き、溜まっていたオーダーも残らず片付いた。「なんとかなったな」とホッと息をつく馨へ、マスター室藤がふたり分のコーヒーを渡す。「いってらっしゃい」という言葉で、香の元へ行ってこいと言いたいのだろうと彼の行動に解釈を与えた馨は、「ありがとうございます」と一礼して彼女の座る席に向かった。
すると、どういうわけだかつい先ほどまで上機嫌だった香は影を落とした表情で携帯を凝視している。極寒の地に放り出されたように頬は青白い。「どうされました?」と馨が声を掛ければ、とっさに携帯をソファーに放り投げた彼女は「なんでもないの。なんでも」とぎこちなく首を横に振った。
「……探るようで悪いですけど、なんでもないようには見えませんよ?」
「大丈夫だって、本当に。なんにも心配ありませーん」
一目でわかる空元気。その原因が投げ出された携帯にあることも見抜いた馨は、コーヒーを卓に置くと共に「失礼します」と素早くそれに手を伸ばす。
「ちょっと!」と慌てる香に構わず画面を見れば、そこに表示されていたのはウェブニュースの記事。
都内ビルで発生した火災によりふたりが死亡したという内容。
亡くなった人の名前は足立光と島津剛。
馨にとっては馴染みのある響き。
ニュースの日付は二週間前。火災発生時刻は昼の二時過ぎ。先ほど香が教えてくれた、馨の〝命日と死亡時間〟。
これだけ見れば、説明されずとも馨は理解できた。香が自分を救った犠牲に、足立と島津のふたりが死んだのだ、と。
「ごめんなさい」と、今にも消え入りそうな声で香は呟いた。謝ったところでどうしようもないとわかっていながら。自分の罪が、この程度で償うことなど出来ないとわかっていながら。
それから彼女は口をつぐんだ。唇を緩めると、際限なく「ごめんなさい」と言ってしまいそうだった。
間延びする沈黙。それを切り裂いたのが、「お姉さん」という優しい馨の声だった。
「このままでいいんですか? 足立さんと島津さんが死んでしまったままで、本当にいいんですか?」
「よくないよ。でも、こうするしかないんだよ。カオルくんを助けるためには」
「違います。他の方法はきっとありますよ。俺も、足立さんも、島津さんも、みんなを救う方法が」
「ないよ。そんなの、あるわけ――」
「俺がいるじゃないですか」
香の隣に腰掛けた馨は、彼女の手を強く握った。体温と共に、馨の勇気が香へじわりと伝わっていく。
「今度は俺も一緒です。俺も、お姉さんと一緒に過去に飛びますから。一緒に救いますから。その結果どんなことが起きても、一緒に頭を抱えますから。俺はお姉さんの道連れなんですよ。未来永劫。どんなことが起きたって」
馨の言葉は、言ってしまえばただの慰め。一緒にやれば万事がうまくいくわけではない。それでも、香にとっては「彼が共にいてくれる」という事実がなにより嬉しかった。
暖かいものが目から溢れるのを感じながら、香は小さく二度頷く。それを見た馨は「行きましょう」と笑い、それからキッチンで皿を洗っていたマスター室藤へと声を掛けた。
「すいません室藤さん、俺ちょっと行かなくちゃいけないところができて」
「うん、いいよ」とあっさり受けたマスターは、泡だらけの手を軽く振る。
「今日はもう臨時休業。それだけ」
◯
近所のコンビニでアポロチョコを購入し、再び『しまうま』に戻ったふたりのカオルは窓際の席に並んで座り互いの手を取り合った。
箱の封を開けてチョコを三粒手に取る。深く息を吸って目をきゅっとつぶる。雨が窓を叩く軽い音がふたりの鼓膜を揺らす。
「……ねえ、カオルくん」と香は呟いた。
「なんでしょう」
「正直ね、怖くないなんて言えば嘘になるよ。あのふたりを助けたら、もっと嫌なことが起きるかもしれない。でも、平気。カオルくんがいるから」
「ずるいですよ、お姉さん」
「……なんで?」
「そうやって頼られると、俺が弱音をこぼせなくなるじゃないですか」
「なにそれ」と香は笑った。「冗談です」と言って馨も笑う。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「うん、行こうか」
手のひらに乗せた三つの円錐を香は口の中に放り込む。途端に三半規管が揺さぶられるような目眩がふたりのカオルを襲った。
今と過去が人工的な苺の香りで繋がる。
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