十四粒目 真夏の奇跡

 甘木を追う馨と島津。今泉を追う香と足立。今泉が甘木を追っているのだから、池袋を駆ける両組が道中で鉢合わせたのは必然と言えた。


「なにやってんの」と足を止めずに香は言い、「そりゃこっちの台詞ですよ」と馨は返す。


「わたしは、ホラ、人助けみたいな。そっちは?」

「俺はその、成り行きです。なんか、こっぴどくフラれた男の人に絡まれて」

「お、偶然。わたしも、フラれた女の人に絡まれてたの」


 ふたりの間に「待った」と割って入ったのはやや後ろを走っていた足立である。初対面となる馨へ、「はじめまして」と丁寧に挨拶した後、彼女はさらに続けた。


「もしかしたら、その偶然は偶然じゃないかもしれない。君、絡まれたという男性の名前は?」


「甘木晃って人です」と馨が答えると、足立は「ビンゴ」と指を鳴らす。訳を知らぬ馨は「どういうことですか?」と困惑顔だ。


「話すと長い。とにかく、ボタンの掛け違いが産んだ悲劇を食い止めなければならないということだよ」


 足立は顎に手を当てて首を捻る。


「しかし問題は、ふたりの仲をどう取り持つかだ。あのふたりは思い込みの激しいところがあるからね。それこそ奇跡が起きないと、そもそも話し合いすら困難かもしれない」


「それなら、俺に考えがある」と頼もしく手を挙げたのは、最後尾を走っていた島津だ。

「本当かい、お祭り男さん」

「上手くいくかはわからないけどね。でもまあ、何も案がないわけじゃない。ただ、準備は必要だけど」

「よし。それならお祭り男さんと私は奇跡の方をなんとかしよう。君達は彼らの悲劇がこれ以上大きくならないように、なんとかしてくれ」


 足立は三人にそれぞれ目配せした。


「やるぞ。我々は真夏の夜に降り立った愛のキューピッドだ」





 ふたりのカオルは甘木、今泉の両名を追う。サンシャイン通りを通過し、東口駅前を駆け抜けて、明治通り沿いの歩道をしばらく走っていくうちに、横断歩道橋の付近で人垣が出来ているのが見えた。野次馬達の構えるカメラレンズの先を見てみれば、手すりに跨る人がいる。どうやら車道への飛び降りを企てている人がいるらしい――と、よく目を凝らせばその人物は甘木だ。


 見慣れた姿を見た馨が「うへぇ」と声を上げたのは必然である。動揺が全身を殴りつけるのを感じながら急ぎ歩道橋の階段を駆け登れば、甘木は重い決意を感じさせる顔で、眼下に流れる絶えない車波を強く睨みつけていた。


「あ、甘木さん! なにやってるんですか、そんなところで!」

「うるせぇやい! 死ぬんだ! 俺は!」

「死んだってなんにもなりませんよ!」

「信じてた人に裏切られた気持ちがお前なんかにわかるか!」

「それは気の毒だとは思いますが、とにかくおやめください! 色々大変ですよ、自殺なんて!」

「うるせぇ! 死ぬったら死ぬんだ!」


 どうにも説得が通用しそうな感じではない。数歩踏み出し手を伸ばせば届く距離ではあるが、こちらが動いたのを見るや飛び降りてしまうことを思えば、なにより自分が巻き添えになってしまうことを思えば――どうしても馨の足はすくんだ。


 どうする、どうする――と、馨が現状況を打破する手段を模索していると、ふと甘木が彼の方へと振り向いて薄く笑った。諦めと覚悟が匂う絶望的な笑顔だった。


「なあ、窪塚くん。人生の先輩からのアドバイスだ。運命なんぞ、信じない方がいい。絶対に」


 ――ああ、もうどうにだってなれ!


 思い切って一歩踏み出した馨が甘木の腕を掴もうとしたその時――。


「ヒカルくん!」と、彼を呼ぶ声が響いた。歩道橋の反対側の階段を、息を切らしながら駆け上がってきたのは、甘木の彼女である今泉由紀――なのだが、彼女とはここで初対面だった馨は、見知らぬ人の登場にただ首を傾げることしかできない。


 一方のヒカルくん――甘木は、突然現れた今泉を敵意むき出しの表情で睨んだ。


「……由紀。お前、よく俺の前に顔出せたもんだな!」

「ごめんなさい! あのメール、誤解なの! 映画のタイトルを送っちゃっただけなの!」

「誤解なわけあるか! それなら、今日一緒にいた男はなんだ!」

「いないよ! 男の人なんて!」

「嘘だ! 見たんだぞ! 仲良さそうに顔を近づけてるところ!」

「ああ。それって、わたしのこと?」


 こちらは、馨にとっては聞き覚えのある声。「どもー」と軽い調子で挨拶しながら、馨に遅れて歩道橋の階段を昇ってきたのは香である。その姿を見た瞬間、「そうだよお前だよ!」と喚いた甘木だったが、彼女が「これでも?」と言いながら帽子を脱いでしっかり顔を見せたところで勢いは消沈した。


「あんた、誰だ」という甘木の問いに、「長瀬香」と簡潔に答えた彼女はさらに続ける。


「とにかく、今泉さんの言うことは全部本当。信じなかったら後悔するよ、せっかちな彼氏さん」

「……そんなこと言ったって、あの男があんたに同じ格好をさせてるだけかもしれんだろ」

「疑り深いねえ。あなたにも、わたしみたいに未来が見えたらいいんだけど」

「……なんだそりゃ――」


 甘木の言葉を切ったのは、夏の夜空をゆらゆらと舞い落ちていく白い影。なんだと思い馨が空を見上げれば、無数の白く細い線が夜空をゆっくりと切っている光景が視界に映った。


 見間違いではない。あれは、雪だ。


「……この季節に、どうして?」

「もしかして、タイムスリップとか?」


 当惑するふたりのカオルへ、「待たせたね!」と爽やかな声が届く。見れば、歩道橋の階段下には足立と島津の両名。ふたりの手元にあるのは、金色のわたあめ製造機と大きな風神うちわ。そこでようやく馨は、季節外れの雪の正体がわたあめであると理解した。


「さあ、せっかちなお二人さん。真夏の奇跡のおかげで、少しは頭も冷えたろう?」


 キザな足立の言葉など、今泉と甘木のふたりにはすでに届かない。


 歩道橋の手すりからそっと降りた甘木は、何も言わずに今泉に歩み寄って彼女を強く抱きしめた。今泉もまた彼を強く抱きしめ、固く結ばれたふたりの頭上にわたあめがひらひらと漂った。


「甘いなあ」と香が呟き、「甘すぎますよ」と馨が続いた。





 夏の夜空に観測された〝奇跡〟は、飛び降り未遂事件以上に多くの人を呼び集めた。騒ぎが大きくなる前にその場を退散したふたりのカオルは、池袋駅構内にある喫茶店でアポロチョコをかじりつつ、互いに起きたことを報告しあった。


 香の話を聞いた馨はほとんど酒を飲み続けていただけの彼女に大変呆れ、一方の香は酔っていたせいもあってか、馨の話を聞いて息を切らすくらいに笑った。


 そんな彼女を見てまた呆れた馨は、ため息を吐く代わりにコーヒーをひと口飲む。


「しかし、大変な騒ぎでしたね」

「いいんじゃない? 夏だし。騒ぎも奇跡も、なんだって起きるよ」


 そう言ってケラケラと笑う香をふと見た馨は、彼女の両目が潤んでいることに気がついた。


「お姉さん。もしかして、泣いてません?」


「ウソ? マジ?!」と彼女が言った拍子に、右目からぽろりと涙が溢れる。泣いた、という枠に入れていいかはわからないが、ともあれ涙をこぼしていることは間違いない。予期せぬ方向で実現された未来に呆気に取られた馨は、堪らずくすりと笑った。


「笑いすぎで泣く、ですか。なんだったんですかね、今日の苦労は」

「まあまあ。若いときの苦労は買ってでもしろって言うでしょ?」


 濡れた頬を紙ナプキンで拭く香は、馨の足元にあったコンビニのビニール袋に気付いて指差す。


「ところで、その袋なんなの?」


「あ、いや。たいしたものでは」と馨が袋を拾い上げて後ろ手に隠そうとしたのは、その中に入っているのが、香を泣かそうとして購入した薬味や香辛料の数々だったゆえ。しかし彼女がそれを許してくれるはずもなく、あえなく奪われて中を検められた。


 ワサビの箱を手に取った香の、懐疑に濡れたじとりとした視線が馨を刺す。


「……カオルくぅん? これ、わたしに食べさせようとしたね?」


「否定はしません」と馨が答えると、オシオキのデコピンが彼の額に飛んできた。





 馨が自宅に帰ったのは午後八時。当然、仕事に出ていた父はすでに帰宅しており、リビングでひとり冷凍餃子とカップラーメンを食べていた。馨の父は料理があまり得意ではない。


 帰宅した馨を、父は「おう」と軽く迎えた。


「こんな時間まで出歩くのも珍しいな」

「ごめん、連絡もしなくて」

「いいんだよ、もう高校生だろ? 日付が回らなきゃ目くじら立てん」


 彼はカップラーメンをすすりながら訊ねる。


「それで、どこ行ってたんだ、今日は」

「池袋。色々と大変でね」

「へえ。なにがあったんだ?」

「この前話したあのヘンなお客さん、いたでしょ? その人と知り合いになって、色々振り回されてたんだよ」


 すると父は含みのある笑みを浮かべると、「……なるほどなぁ」と何度も頷いた。


「こりゃ、詳しく聞かせてもらう必要がありそうだな」


 馨は「要らないこと言ったな」と自らの発言を早くも後悔した。

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