十三粒目 とんでもない誤解

 夕飯の時間になったせいもあってか、わたあめ屋台への客足はすっかり途絶えた。島津が店じまいの準備を進める一方で、パジャマ男――甘木晃(あまぎひかる)に絡まれる形となった馨は彼の話に付き合わされていた。


 甘木は半泣きで彼女との思い出を語る。そして馨はそれのほとんどを聞き流す。彼としては、「早く終わってくれないかな」以外のことは考えていなかった。


「ひどいんだぜ、俺の彼女。もう何年も一緒に暮らしてて、そろそろ結婚だね、なんて話してたのに。突然、『顔も見たくない』だと」


「またずいぶん急な話ですね。なにか心当たりはあるんですか?」


「ないよ! 全然ない! そんなのあるもんか!」


「なるほど。無いんですね」


「……でも、『顔も見たくない』なんて言わせた責任はきっと俺にあるんだと思う。だからこうして、着の身着のまま家を出たんだ。でも、やっぱり彼女のことが忘れられなくて、気づいたらこの思い出の街に来てた」


「健気ですね。大変だ」


「……ごめんな。本当はこんなこと、話すつもりじゃなかったんだけど、あのわたあめを食べて、つい……」


「わたあめに何か思い出でも?」


「ああ。あの味……というか、食感がね。冷たくて、舌の上ですぐに解ける。まるで雪みたいだったろう? 雪には、数えきれないくらいの思い出があるんだ」


「泣ける話ですね」


「うん。見たかったなあ、もう一回。彼女と、雪を」


「……さて、そろそろ俺も閉店の片づけを手伝わないといけないので――」


「思えば、こういう暑い日よりも、冬のように寒い日の方が彼女との思い出が多い気がする。大事な思い出は、いつも雪と共にあったな……」


「まだかかりますか?」という言葉を、馨は寸前のところで呑み込んだ。





 今泉からヒカルちゃんと呼ばれた女性は、足立光と名乗った。今泉と足立は小中高と通う学校も同じだった幼馴染だという。「腐れ縁とも言うかもね」と歯を見せて笑う足立は実にキザで、香はなんとなく宝塚の男役を連想した。


 自己紹介が終わったあたりでビールが卓に運ばれてきて、改めて三人で乾杯をした後で、まず足立がここに来た経緯を話した。


 曰く、足立は今日、今泉と共に映画を見る予定だったらしい。しかし、いくら待っても今泉は来ない。足立は今泉との付き合いも長く、彼女に寝坊癖があることも知っていたから、ひとりで映画を見ながら根気よく待っていたが、いくら時間が経っても連絡すらない。とうとう夜になって、「まあこういう日もあるさ」とあっさり切り替えた彼女が、ひとり焼肉にでも勤しもうと店まで来たら、ふたりを見つけた次第だという。


 それに答える形で、新鮮な涙をこぼしつつ『ヒカルくん』が逃げた件の説明をしたのは今泉である。彼女の話を受けた足立は、深刻そうに「うむ」と頷く。


「妙だね。ヒカルくんは私も知らない人じゃない。逃げるなんてことをする人ではないはずだが」


「だから、浮気じゃないの?」と、タン塩を焼きつつ言った香は男の性を疑って譲らない。


「絶対違う!」と今泉が反論したところで、足立はクスクスと笑った。


「まあ、そのうちひょっこり帰ってくるさ。携帯だって家に置いて行ってるわけだろう?」

「それは、そうなんだけどぉ……」

「それに、私としてはまず君が無事だったことがなによりだ。昨日、なにを見ようかと話をしていたところで連絡が途絶えたわけだからね」

「あれ、そうだっけ? あたし、見たい映画のリクエスト送ってから寝たと思ったんだけど」

「いいや、私のところには来てないよ」

「おかしいなぁ……」


 ハイボールのグラスを卓に置いて、鞄から携帯を取り出した今泉は画面を確認した――瞬間、彼女の顔は真っ赤に染まり、続けて色が抜かれて白くなり、最終的にはまた赤くなって、ひとり紅白歌合戦みたいな様相を呈した。


「どうしたの?」と香が問えば、今泉は震える手で携帯の画面をふたりへ向ける。


 メッセージの送り先は〝ヒカルちゃん〟ではなくて〝ヒカルくん〟。


 そしてその内容は、『嫌い、顔も見たくない、いますぐわたしの前から消えて』。


「なるほど。彼が君の家から消えた理由がわかったよ。映画のタイトルを、わたしではなく彼に送ったわけだ。そして彼はとんでもない誤解をした」と、足立はあごを指で軽くつまんで探偵風に頷いた。


 それから、沈黙。肉がじうじうと焼ける音だけが響く中、ハイボールをグビリと呑んだ香は、「次、ポテトサラダ頼んでいい?」と呑気に言った。





 売れ残ったわたあめは九本。それらの全てを買い上げた甘木は、公園の地べたに直接座り、手当たり次第にそれらを食い散らかしている。別れた彼女の話をするうち、堪らなくなった彼は感情を食欲にぶつけることで誤魔化そうとしていたのである。


 涙を流しながらわたあめをやけ食いするパジャマ姿の男は大変異様であり、通り過ぎる人の中には携帯のカメラを向ける人さえある。このままでは、甘木は池袋珍名物のひとつに数えられてもおかしくない。


 事情を知る馨、そして島津のふたりは、このまま甘木を放っておくには忍びなく思い、三十分ほど前から彼を説得していた。


「甘木さん、そろそろやめましょう。もう五本目じゃないですか」と馨。島津がこれに、「そうだよ。糖尿病になるよ」と続く。

「うるせぇやい。俺が買ったもんだぞ。文句を言う権利がお前らにあるか」


 甘木はタチの悪い酔っ払いみたいなことを言いながら乱暴に拳を振う。「さすがに面倒くさいな」と思い始めた馨は大きな息を吐いた。


「あなたも、もういい大人でしょう。大人なら大人らしく諦めて、次の恋を探せばいいじゃないですか」

「うるせぇうるせぇ。正しいことを言うなよ。耳も心も痛くなる」

「正しいとわかってるなら受け入れてください。それで、わたあめのやけ食いなんてバカなマネはやめてください」

「ふん。やめろったってやめるもんか」


 五本目のわたあめを食べ終えて割りばしを放り投げた甘木はパジャマの袖で涙をぬぐう。


「いいかい。君らにはわかんないだろうけどね、俺はね、俺は……もうあの人しかいないと思ってたんだよ」


 だんだんと弱々しくなっていく言葉尻には儚さというか、人間的哀愁的なものが漂っている。馨は気の毒が頂点を超えてなにも言えなくなってしまった。


 そんな彼の代わりに出てきたのが島津だった。島津は甘木の隣に座ると、恥ずかしそうに語った。


「まあたしかに、俺にはアンタの気持ちはわからんよ。海坊主みたいなこの顔だからね。生まれてこの方、女の子と付き合ったことなんて一度もない。でも、食って飲んでじゃ何も解決しないってことはわかるよ」

「……だったら、どうすればいいんだよ。わたあめを食う以外にできることがあるのかよ」

「もう一度、その彼女さんと話し合ってみればいいじゃないの。もしかしたらなにかとんでもない誤解があるだけかもしれんのだしさ」

「……誤解がなかったらどうするんだよ」

「その時はあれだ、またこの店に来てくれよ。なにもできないけどさ、わたあめをご馳走するから」


 島津と甘木は互いを見合い、それから無言で頷きあい、固い握手を交わした。言葉以外の何かしらによる意思疎通がされたと見えるが、馨には何がなんだかわからなかった。


「わかった。もう一度、きちんと話してみる」

「うん、がんばって」


 甘木は尻の埃を払いながら立ち上がり、「ありがとう」と頭を下げてから歩き出した。島津は彼の背中へ「じゃあね」と手を振る。なんだか男の友情めいた気配を馨は感じた。


 立ち直ってくれたのは何よりだが、馨はとにかく気力を無闇に消耗させられた気がした。疲労感を身体から追い出すため、とりあえず大きなため息を吐いたその時、順調に歩いていた甘木がふいに足を止めたのが見えた。何か忘れ物だろうか。


「どうされたんですか、甘木さん」


 甘木は馨の問いかけなど耳に入ってすらいない様子で、なにやらぶつぶつ呟く――かと思えば、「ちくしょぉぉぉ!!」と青春めいた叫び声を上げながら走り出した。


 何が起きたのか理解できず、頭がショートして視界が明滅するような感覚を覚えながらも、馨は辛うじて理解した。とにかく彼を追わねばまずいと。


 馨と島津は半ば自棄になって走り出した。





 甘木が走り出していくほんの数分前。香と今泉はちょうど中池袋公園のすぐ近くにいた。現在ここにいない足立は焼肉店に携帯を忘れ、取りに戻った次第である。


 ハイボールを五杯も呑んで上機嫌の香を他所に、今泉は星の見えない空を見上げながら物憂げにため息を吐いた。


「どしたの? ため息ってしあわせが逃げるらしいよ。わたしは信じてないけど」

「……いいね、気楽で。あたしは、ヒカルくんにあんなこと言っちゃって、どう謝ればいいのかって悩んでるのに」

「いいんじゃないの。誤解だったわけでしょ?」

「誤解だろうとなんだろうと、言っちゃいけないことだってあるもん」

「うへぇ。いい子ちゃんだぁ」


「いじわる」と呟き唇を尖らせた今泉は、ふと右目を手のひらで押さえる。


「どうしたの、急に」

「なんか、目に入ったみたい」

「見してみ」


「いい」と断った今泉の両頬を、香は「いいから」と言いながら手のひらで包む。こうなればもう逃げられない。


 5センチメートルもない距離まで接近した香の顔。酒臭さは感じるが、それだけではマイナスになるには程遠いほど整った容姿に今泉が不必要にドキドキしていると、やがて細い指が迫ってきて、まつげのあたりをそっと撫でた。なんてことない。逆さまつげを取っただけのことである。


「ハイ、取れた」


「あ、ありがとう」と今泉が赤くなった顔を隠すために明後日の方向を向いたその時――「ちくしょぉぉぉ!!」と青春めいた叫び声が天を衝いた。


 今泉にとってはすっかり耳に馴染んだ声。間違いないと確信した彼女は、声が聞こえた方向へと走り出す。


 意味不明な今泉の行動に首を傾げた香がその場でしばしポカンとしていると、足立が「お待たせしたね」と言いながら軽やかな足取りで戻ってきた。


「無事にスマホも見つかったよ」

「そんなことより、今泉さん」

「うん。由紀がどうしたのかな?」

「どっか走っていっちゃった。どうする?」


「おや。それは是非とも追いかけようか」と答えた足立は、あくまで慌てず爽やかであった。

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