コロナの日々の憂鬱と探偵(二〇二〇年二月から六月)

新田五郎

第1話

[chapter:主な登場人物]


柴野俊人(しゅんと)    男。五十三歳

柴野正人(まさと)     俊人の兄。五十九歳

柴野歳蔵(としぞう)    俊人と正人の父

木戸山零(きどやま れい) 自称探偵

北川眠兎(みんと)     俊人の昔の恋人

田茂沢蘭堂         小劇団の座長











[chapter:序章]


 二〇二〇年の二月中旬。

 東京の住宅街。深夜三時。

 泥酔した若者が、足腰が立たなくなり、知らない家の壁にもたれ、うずくまっていた。

 しばらく眠りこけていたが、寒さに耐えきれなくなって何度か目を覚ます。そしてまた眠ってしまう。それを何度か繰り返すうち、酔いは醒めかけていた。

 かといって立ち上がる気にもなれない。なんとか自宅の近くまでは帰ってきているはずだが、酔いのせいで帰路が思い出せない。

 寒さに自分の体を抱きかかえるようにしてしばらくふるえていたが、遠くから人が歩いてくるのが見えた。

 この時間帯、自分も酔っ払いには違いないが、妙に気が大きくなって大声を出したり暴れたりするタチの悪い酔っ払いが歩いていることが多い。からまれては面倒なことになる。若者は、遠くから歩いてくる人影を警戒しながらじっと見つめた。

 何かあったら走って逃げればいいし、寝たふりをしてごまかしてもいい。歩いてくる人物のタイプを見極めてから、行動しようと思った。

 街灯に照らされた「人」は、まず男だと分かった。服装は、暗闇で見てもかなり汚い。軍服のような学生服のような不思議な服を着ていて、しかもそれがひどく汚れていた。あちこち破れてもいた。

 どんどん若者に近づいてくると、その男は、とんでもない巨漢だとわかってきた。プロレスラーのような体格の持ち主だ。巨人と言ってしまってもいい。

 巨人はさらに近づいてくる。おそらく身長は二メートル以上あるだろう。肩からぼろぼろのカバンを下げていた。足取りはふらついている。やはり酔っているようだ。

 近づいてくるにしたがい、顔もかすかに見えるようになってきた。短髪だったが、まるで男子小学生のような無造作な刈り方だった。そして、どんどん距離が近くなり、巨人の顔がはっきり見えてくると、若者は震え上がった。

 まるでフランケンシュタインの怪物のような恐ろしい顔をしていた。顔に傷跡などはなかったが、明らかに何度も殴られたことがあるようで、なんとなく輪郭がゆがんでいる。ひどい乱杭歯で、くちびるの間から歯が何本か飛び出している。大きな犬歯が二本、突き出ていた。

 目は大きかったが、酒のせいかとろんとしていて虚ろだった。若者は良いから醒めかけた頭をフル回転させ、この場をわざとらしく立ち去るよりは、うずくまって眠りこけているふりをした方が巨人を刺激しないと判断し、実際にそうした。

 大男はゆっくりと、うずくまった若者の前を通り過ぎていった。

「そろそろ行ったかな」と思った頃、顔を上げると、大男の姿は消えていた。

「何だったんだ、あいつ……」

 若者は一人、つぶやいた。

 ネットの膨大な情報の海の中に書きこまれた、ささいな「不思議な話」であった。


[chapter:1]


「そんなところにオヤジを置いておくことはできん。ウチで面倒を見る。おまえにはそのままとどまって自粛してもらうしかないが、かまわないだろ?」

 そう柴野正人(まさと)から弟の俊人(しゅんと)に電話がかかってきたのは、二〇二〇年の二月末だった。

 兄の正人の行動は早かったと、六月上旬の段階で、俊人は思っていた。

 二月の二十五日に、厚生労働省が新型コロナウィルスに関する基本方針を発表した、その直後のことだった。

 柴野家は、正人・俊人から見て曽祖父の時代に東京に移り住んでから、ずっと東京で生きてきた。

 父の柴野歳蔵も東京で生まれ育ち、東京の会社で働き、優里恵という女性と結婚した。息子の正人や俊人が高校を卒業するまで、歳蔵は仕事であちこちを飛び回り、ほとんど家に帰ってこなかった。その甲斐あってかなり出世し、祖父から譲り受けた一軒家は改築したし、アパートを数件持ち、経営するまでになった。

 ちなみに、アパートが建っている土地はすべて、歳蔵が父親から相続したものである。

 正人や俊人からは、歳蔵は自信満々の頼りになる父、という印象だった。

 そんな父もすでに会社を定年退職し、今は悠々自適の身だ。今では壮年期まであったギラついたような感じは消え、老境にさしかかりつつある。アパート業は、俊人が代わりに受け持っている。

 歳蔵の妻、つまり俊人と正人の母の優里恵はすでに亡くなっている。長男の正人は東京の大学に進学したが、卒業後、就職した会社からXXX県XXX市に転勤し、そこで結婚し、土地柄が気に入ったのかXXX県XXX市にマイホームを建て、二人の子供をもうけた。その二人ももう成人した。正人は、XXX県に骨をうずめる気でいるらしい。社内では地方勤務ながら、XXX市では一代で強い地盤を築き、有力者ともつながりがある。結果として、かなりの金持ちになっていると俊人は聞いている。

 正人は東京にいる父・歳蔵を以前からXXX県XXX市の自分のところに引き取りたがっていたが、歳蔵本人はひどくいやがっていた。

 東京生まれ東京育ちの歳蔵は、親類もかつての同僚も、学生時代の友人もほとんどが東京にいた。定年後、ふだんはもっぱらその友人たちとゴルフや麻雀、観劇(そう、歳蔵は若い頃は演劇青年であり、今でも年齢のわりにはどんな劇団でも気楽に観に行くフットワークの軽さを持っていた)に興じることが多い彼は、いくら長男が迎えてくれるとは言え、見知らぬXXX県にはとても行く気になれなかった。そのことは、弟の俊人にもよく理解できた。


 そんな中で持ち上がってきたのが、新型コロナウィルスの問題である。


 日本では中国・武漢の閉鎖の報道が一月の下旬にあり、この頃の日本人にはまだ他人事だった。とはいっても、一月二十八日には国内で初の人から人への感染が確認されている。

 少しずつ騒ぎになり始めたのは、クルーズ客船「ダイヤモンド・プリンセス号」内での感染が問題とされてからだろう。海外から徐々に日本に感染がしのびよってくる印象が、この時期、正人にも俊人にもあった。

 とくに老人に感染すると、致死率もきわめて高いと言われていたので、父親思いの正人は次第に心配になっていったのだろう。電話をかけてきて数日後の二月二十八日には、世田谷の、弟の俊人と父の歳蔵が二人暮らしをしている一軒家にやってきた。もともと正人も住んでいた家だが、改築直後に彼はこの家を出ていき、XXX県XXX市に根をおろしてから三十年は経つ。

 ちなみに二月二十八日には、USJ・ディズニーなどが休園を発表している。

 歳蔵は、「こんなご時世だから、XXX県に来なよ」という正人の申し出を、意外としぶることなく受け入れた。XXX県は、全国でも新型コロナの感染者数・死者数が極端に少ない県として知られていた。やはり父も新型コロナに対して恐怖を感じていたのだろうと、俊人は思う。

 ネットでは疫病から守ってくれるという妖怪「アマビエ」のイラストが次々とアップされている頃だった。「コロナ疎開」という言葉はまだなかったはずだ。この頃、国内の移動はそれほど糾弾されることなくできた頃だったと思う。


[chapter:2]


「正月休みに会って以来だから、まだ三か月くらいしか経っていないんだな」

 父の歳蔵は、二月二十八日に帰郷してきた正人にそう言って薄く笑った。昨年の十二月の下旬から年をまたいだ正月にかけて、正人はすでに成人している子供たち二人を連れて、この家に来ていた。

 妻の芳美は、なぜか来なかった。

 年末には、正人と彼の息子たち、すなわち正史(まさし)と才史(さいし)が、大掃除を手伝ってくれた。

 俊人は正人一家に掃除させるなんて、と固辞したが、どういうわけか正人は「いいから、いいから」と言って家中の掃除を息子たちとともにやってくれたことを思い出した(もちろん、俊人も手伝った)。

 そんな日からわずか数か月で世界は変わってしまったように、俊人には思えた。父と正人・俊人の兄弟二人は、居間でしばらく近況や新型コロナの件について話し合った。

 歳蔵が「タバコを買いに行ってくる」とサンダルばきで出かけた瞬間、正人は弟の俊人にこう言った。

「オヤジが帰ってくるまで三十分はあるだろう。その間に済ませておきたい話がある」

「なんだよ、急に」

 俊人は内心、びびっていた。

 二人はとりててて仲のいい兄弟というわけではない。

 俊人は現在、五十三歳で、正人は六つ年上の五十九歳だった。ちなみに俊人は独身である。離婚歴もない。

 正人は話し始めた。

「こんな状況になり、父さんのお目付け役についてはおまえはお役御免になったわけだが、XXX県に行ってもおまえに居場所はないし、このまま東京にいてもらう。いいな?」

 決心したような、強めの口調だった。

「何だ、そんなことか。それはいいけど、生活費は?」

 俊人は、ぶっきらぼうに言った。そう言ったとき、正人に目を合わせられず、壁にかかっている丸い時計に目をやった。聞きたくないことだったが、そこは確認するしかなかった。

「無茶をしなければ、じゅうぶん暮らせるだけの仕送りはしてやる。今までどおりだと思ってもらっていい」

 正人も、そう答えたときに少し緊張しているように、俊人には思えた。

「それならいいよ。それしか方法がないもんな」

 俊人は腕組みをしながら、できるだけ自分がホッとしたことを悟られないように口調に注意しながら、そう答えた。

 父が不在の状態での、いちばん緊張する確認は、そこで終わった。

 やはり、父親の前で、定職についていない俊人に今後も兄の正人が仕送りをすると宣言するのは、俊人のプライドを傷つけることでもあり、父に余計な心配をさせることにもなる。父のいるところでは話せないことだった。

 父が正人のところに行った後になれば、現在もうやむやになっている、俊人の生活費はどうなっているのかということを父が聞いてくることはないだろう。

 歳蔵はそういう父親だった。仕事以外のこまごましたことは、気にしないのだ。

 俊人にはたまに、とても生活できるレベルではない少額の原稿料が出る文章仕事が舞い込んでくることがあり、父の歳蔵はそれで俊人の生活が成り立っていると思い込んでいる、正確には思い込もうとしているフシがあった。

 仕送りの件は電話でもメールでも済む話ではあったが、兄の正人にとっては直接、対面して弟に話すことがけじめなのであり、少なからずマウンティングの一面もあっただろう。

 ただ、恩着せがましく言えば、俊人が反抗してくることは十分に考えられた。だから正人は、あからさまに「おまえに金をやっている」という態度はとらない。

 二人の間には、お互いのプライドに関する奇妙な駆け引きがあるのだ。

 大事な話が済むと、二人の間にかすかにあった緊張感が、少しだけ解けたように、お互い思った。

 話が終わったころに、歳蔵が帰ってきた。


[chapter:3]


 大企業に就職でき、サラリーマンの道をたどった正人に比べて、俊人は何をやっても長続きしない男だった。

 大学を出てから職をいくつも変わったが、変わるたびに年齢も重ねているわけだから、それだけ新しい職場でも不利になる。職種にもよるのかもしれないが、俊人の場合はそうだった。

 十三年前の四十歳のときまで、彼は世田谷の実家を出て安アパートを借りてそこに住み、フリーターのような生活をしていた。フリーライターを本気で目指したこともあるのだが、要領の悪さから多くの仕事を手早くこなすことができず、とてもそれだけでは生活できなかった。今でもたまに彼に文章仕事が舞い込むのは、そのとき付き合いのあった編集者が、適任者二、三人に断られた仕事を俊人に回してくるからだった。

 その十三年前、正月だったかお盆だったか、そのとき帰郷していた兄の正人に、やはり今のように呼び出されたことがある。

 ちなみに、そのときすでに歳蔵の妻であり正人・俊人の母親である優里恵は亡くなっている。

 このときは、今はもう閉店してなくなっている近くのドトールに行って、話をすることになった。

 当時、俊人が四十歳なら、当然、兄の正人は四十六歳である。

 すでに、正人は社内のしかるべき地位についていた。XXX県支社は彼がいないと回らない、とまで言われていた。三十代のときに芳美と結婚し、子供もいた。

 そのときの俊人との話し合いは、現在とは比較にならぬほど緊張感があったと、兄の正人は思っている。

 いつまでも定職につかぬ俊人のことが気になり、四十歳以降の人生、どうするつもりなのか問いただしたのだ。

 当時四十歳の俊人は、正人の問いを聞いて、いきなりテーブルに顔を突っ伏した。

 俊人の額が当たって、ダン! と少し、テーブルが音を立てた。

 しかし、その音は店内の喧騒で聞こえない。

「何もない」

「何もないよ」

「展望なんか何もないに決まっているだろ!」

 声量は大きくなかったがそこそこプライドの高い俊人が、兄の正人に見せたことのない姿だった。

「おれはもうダメなんだ」

「おれにはもう何もなくなったんだ!」

 ドトールの店内は混んでいて、人々の話し声が交錯していた。そんな中、俊人の声は正人にしか聞こえなかったが、正人の心の中には奇妙な安堵感があった。「やはり話し合って良かった」と思っていた。

「まあ、落ち着け」

 正人は机に突っ伏した俊人に、そう言うしかなかった。繰り返すがもともと仲のいい兄弟ではない。しかも人前で、俊人がそのようなことをするのがかなり屈辱的なことであったのは、正人にも理解できた。

「なあ。ものは相談だが、オヤジも会社を定年になって、一軒家に一人ぼっちで住んでいる。今はまだ、周囲に元同僚やら友人やらがいるだろうが、今後、さらに年老いてどうなってゆくかはわからない。だから、おまえにはオヤジの面倒を見てほしい。正確に言えば、オヤジが年老いて、人の手を借りなければらなくなったときに備えて、オヤジと同居してほしいんだ。遠く離れたXXX県で暮らすおれの代わりにオヤジの面倒を見てもらうわけだから、それ相応の生活費は出す。どうだ? 今のアパートを引き払って、オヤジと同居してくれないか?」

 正人はそう言った。

 実は正人の心中には、弟の俊人に「勝った」という思いがあるのだ。しかしそんなことを口に出したら、俊人は怒り狂うに違いない。だからそんなことは言わない。

 テーブルに顔を突っ伏していた俊人は、わずかに顔を上げると、下を向いたままだったが、小さな声でこう言った。

「……わかったよ」

「おれもオヤジのことは心配だったんだ。兄貴にそう言われたのなら、そうするよ」

 俊人の言葉に、正人はホッと胸をなでおろした。

 正人も俊人も、父とは仲が悪いとか険悪だとか、そういうことはない。

 父の歳蔵は仕事ができる、アッパー系の人間だったが、子供たちを押さえつけるようなことはしなかったからだ。

 弟の俊人に父親を見てもらっていれば、正人もXXX県で安心して仕事ができる。

 その後、すぐに俊人は歳蔵のアパート経営の雑用を肩代わりするようになり、それから十三年間、俊人は歳蔵と同居し、ごくたまに来る文章仕事をやったり正人から仕送りをもらいながら、父の食事をつくったり、家事をしたりしてきたのだった。

 俊人が正人から仕送りをもらっていることを、歳蔵は知らないようだったが、うすうす勘づいているかもしれない、とも俊人は思っていた。そこは微妙なところだ。

[newpage]

[chapter:4]


 父がタバコを買って戻ってきてから小一時間ほど経った頃、切符を買ったXXX新幹線の出発の時間が来るというので、正人と少しばかりの手荷物を持った父親は、俊人に軽く挨拶をして、家から去っていった。

「じゃあ、またな」

 こうして東京の柴野家は、五十三歳の正人一人になった。

 それが二〇二〇年の二月二十八日のことである。

 この頃、東京都内ではトイレットペーパーやティッシュペーパーの買いだめが横行していた。

 近所のドラッグストアから、これらがまったくなくなってしまったのだ。

「まさか、テレビで観たことのあるオイル・ショック時のトイレットペーパー買い占め騒動を自分が経験することになるとはなあ」

 俊人は、ドラッグストアの何もない棚を見ながら、そうつぶやいたこともある。

 クルーズ客船「ダイヤモンド・プリンセス号」に乗船していた約三七〇〇人は、船長を含めて全員が三月一日までに下船したという。この時点での乗客・乗員の感染者数はのべ七〇六人、うち四人が死亡。テレビのワイドショーでは、下船できた人々を取材し、やっと戻れた老夫婦が、自宅でビールで乾杯する光景を映し出したところもある(もちろん顔にはモザイクがかかっていた)。

 この「ダイヤモンド・プリンセス号」に関しては、内部がきちんと感染者とそうでない人とで区分けされていなかったのではないかとか、いろいろと話題になった。

 三月二日には、全国の小中高校を臨時休校とすることとなった。柴野家の前の通りは、近くの中学校と小学校の通学路になっていたが、朝と夕方に登下校する子供たちの姿は消えた。

 一人になった俊人は、しかし三月の中旬くらいまで、新型コロナウィルスに関して大きな危機感を抱くことはなかったと記憶している。

 兄の正人からの生活費の振り込みは滞ることはなかったし、もとより俊人は散財するタイプではない。自身のささいな文章仕事による、ほんの少しばかりのたくわえもあった。

 トイレットペーパーもティッシュペーパーも、マスクも買い置きがあり、今すぐに困るというほどでもなかった。

 三月十四日には、俊人は食堂で年下の友人と酒を飲んでいるくらいだ。


[chapter:5]


 友人の名は木戸山零(きどやま・れい)。職業は私立探偵を自称しているが、実際には小劇団の役者であり、メインの生活費はどうやって稼いでいるのか、俊人も知らない。

 木戸山は軽い天然パーマで、しゃれた細いフレームのめがねをかけていた。芝居のときはコンタクトレンズを付けるときもあるようだ。一見、優男だがアゴがしっかりとしていて、どちらかと言えば男前の部類に入るだろう。役者をしているだけあって鍛え上げた身体をしている。着ているものは決して高価ではないが、趣味の良いもののように、俊人には思われた。

(きっと女性にももてるだろう。まさか、ヒモなんじゃないかな?)

 俊人はそんなことを考えたこともあるが、もちろん口には出さない。

 小器用な男で、二枚目役だけでなく、三枚目や複雑な性格の役など、なんでもこなした。このため、ドラマのチョイ役やら細かいナレーションやらの仕事はあるようだ。

 私立探偵以外に「ヤバい仕事」をしていると言っていたが、そちらは俊人もさすがにまともに取り合わなかった。あまりに劇画のような話で、真剣に聞くような話ではない。

 この三月十四日のサシ飲みは、自粛生活に退屈してきた俊人の方から誘った。

 父親のために、晩飯をつくってから出かけている。

「いつもよりずっと空いてるな」

 俊人は座敷を見回しながら言った。常に団体客でごった返している飲み屋は閑散としていて、数人いる店員も手持無沙汰のようだった。

 この「飲み」の少し前、三月九日にはプロ野球の開幕が延期となり、十日には安倍首相が大型イベントの自粛を十日程度継続するよう、要請している。十一日には春の選抜高校野球の中止が決定していた。

 俊人と木戸山零が飲んでいた十四日には、安倍首相はオリンピックを予定通り開催したい、と会見している。

 この段階では、まだ東京で二〇二〇年中にオリンピックができる、と少なくとも政府は認識していたのである。

「東京オリンピックかあ……どうなりますかね」

 木戸山零は決して嫌味ではない笑みを口元に浮かべながら、ハイボールをあおった。

「さあ、どうなるかねえ」

 俊人も、東京オリンピックについて気のない返事をした。オリンピックそのものに、あまり興味がないのだ。スポーツが好きな人には申し訳ないが、むしろオリンピックを強行させるために政府の新型コロナ対策がおろそかになる方が恐ろしかった。


[chapter:6]


 俊人が十歳年下の木戸山と知り合ったのは、彼が俊人の同年代の友人・田茂沢蘭堂(当然、芸名である)が主宰している劇団に当時所属しており、その頃からウソか冗談か「私立探偵」を名乗っていて、俊人が一度だけ彼に人探しを依頼したことがあるからだ。

 今から約八年前のことである。俊人が四十五歳、木戸山が三十五歳のときのことだった。

 そのとき驚くべきことに、木戸山零は俊人が探したい人物の居場所を、すぐに探し当てたのだ。

 俊人は大いに感謝した。それ後、田茂沢蘭堂と木戸山はどういうわけか袂を分かってしまったが、俊人は木戸山と妙にウマが合った。そしてそんな彼をごくたまに誘っては、飲みに行く習慣がついていたのだ。

「それより、また人探しの用事があったら依頼してくださいよ。見つけてみせますから」

 木戸山はハイボールの杯をあげて、笑った。

「今みたいな『コロナ禍』の状態で、あちこち出歩くのは危険だよ。それに、当面探してほしい人はいないんだ」

 俊人はそう言った。木戸山はそれに対して、静かにうなずいた。

 二人はいつも、安居酒屋で映画や芝居の話をした。木戸山はそれらの話題になるときだけ、饒舌になるのだ。何が傑作だの、何がつまらないだの、二人は酔いにまかせて適当なことを話し続けた。

 その日は十一時頃、お開きになった。

 のらりくらりと生きているように見える木戸山はともかく、俊人はウィルスのような目に見えないものに恐怖を感じるたちで、慎重にふるまう方である。

 その彼が、まだ三月十四日の段階で飲みに行っている。新型コロナウィルスに関しては、一般的にまだその程度の認識だったということは言えると思う。


[chapter:7]


 二〇二〇年の三月十八日。俊人がひまつぶしに巨大ホームセンターに出かけると、トイレットペーパーが山積みになっていた。九個で一つに梱包されたものが、店の入り口に積み上げてある。買えるのは「一人一個(九個でひとつ)」という決まりがあり、俊人はその九個で一つに梱包されたトイレットペーパーを買って帰った。

 都内では箱のティッシュやトイレットペーパーの品薄も、この時期には戻りつつあったようだ(目ざとい者はもっと早い時期に見つけていたかもしれないが、俊人にはこの頃の認識だ)。

 ところが三月二十四日の記者会見で、小池都知事は「今後の推移によりましては、都市の封鎖、いわゆるロックダウンなど、強力な措置をとらざるを得ない状況が出てくる」と明言してしまった。

 この時期には、感染者数や死者が毎日、じわじわと増え続けていたと俊人は記憶している(PCR検査の少なさの問題は、ここでは置く)。

 多くの人が小池都知事の口から「ロックダウン」というショッキングな言葉を聞いたのであり、いわば脅しだな、と俊人は思わざるを得なかった。

 それは都民にとってショック療法となりえたと同時に、「買いだめ」がまた再燃してしまった。

 スーパーマーケットは混み、店内である程度、人と人との距離を開けなければならなくなった。通っているスーパーでは、俊人が今まで観たこともない行列ができていた。

 最初に「混んでいるな」と思ってから数日後、スーパーマーケットの床には、行列のレジまでのルートと、人と人との間を開けるための目印のようなものが、赤いテープで床に貼られていた。

 三月も半ばを過ぎると、感染者がどんどん増え始めていると報道され、テレビやネットで観る感染者数の棒グラフが伸び始めた。テレビのワイドショーでは連日、新型コロナウィルスについて報道した。

 俊人は、この頃には習慣的に観ていたテレビのワイドショーを見なくなってしまった。不安になるからだ。

 「国から緊急事態宣言」が出るかもしれないと、いつ頃から言われ始めたか俊人は忘れてしまったが、三月の下旬にはそれに対して反対する声もネットでは多かったことは記憶している。一般市民の自由を奪う、とかそういうリベラル側の主張だったと思う。

 しかし、三月下旬にはどんどん感染者数が増えて行って、収まることがなかった。俊人はかつて家族四人が住んでいた一軒家に一人住みながら、話し相手もおらず、どんどん気分がふさいで行った。

 兄の正人に電話やメールをしたり、兄のスマホから父の歳蔵にXXX県での生活は慣れたかと聞いたりしたが、これといって変わったこともなく、新型コロナについて気にしているふうでもなく、楽しくやっているようだった。XXX県では、コロナはまだ遠いどこかの出来事のようだった。

 俊人は、正人や歳蔵よりもずっと強く、新型コロナウィルスに不安感を持っているとあらためて自覚した。


[chapter:8]


 俊人は眠っていて夢を観た。

 今から八年前、彼が四十五歳のとき、初めて木戸山零に人探しを依頼したときのことだ。

 探してほしいのは北川眠兎(みんと)。当時、田茂沢蘭堂の劇団にいて裏方を手伝っていた女性だった。名前は芸名のようだが、本名だった。

 彼女は当時、三十二歳くらいだったと思うが、女性に直接年齢を聞くのもはばかられたので、よくわからないままだった。

 だが、彼女は二十代が終わったのを境に女優から裏方になったというから、三十歳は過ぎていたことは間違いない。

 彼女とは木戸山と同じように、田茂沢蘭堂の劇団の打ち上げに混ぜてもらったときに俊人は知り合った(なお、小劇団の慣習として、主宰の友人とは言え部外者が公演後の打ち上げに参加していいものか、あるいは俊人が打ち上げに参加できたのは田茂沢の劇団の特殊事情だったのかは、彼は今でも知らない)。

 なんにせよ、打ち上げの席でなぜか劇団主宰の田茂沢が、彼女を俊人に強く紹介したのである。

 田茂沢はオンナ出入りの激しい男だったから、もしかして北川眠兎とかつて男女の関係にあり、別れ、彼女を俊人に押し付けようという気があったのかもしれない。これは俊人の想像に過ぎないが、当時も(今も)俊人は独身だったし、彼と北川眠兎が結婚してくれれば万々歳、くらいのことを田茂沢は思っていたのではないか。

 そんな勘繰りも脳裏をかすめたが、俊人は十歳以上年下ではあるものの、興味深い観点から意見を言う北川眠兎をすぐに好きになってしまい、彼女も俊人を気に入ったようで、二人は付き合うことになった。

 しかし知り合って半年後、俊人は北川眠兎とまったく連絡が取れなくなってしまった。

 携帯が通じないのはもちろんのこと、アパートに行っても鍵が閉まっていて彼女はいなかった。

 俊人は困り果てて、北川眠兎のアパートの前から田茂沢蘭堂にスマホで連絡した。

「なんだ」

 田茂沢はすぐに電話に出た。

「眠兎が、眠兎がいなくなった」

 俊人は焦ってそう言った。彼が焦ったのには理由がある。北川眠兎の左腕には何本ものリストカットの後があったことを、知っていたからだ。

 また、付き合っていくうちにひどく気まぐれな行動を起こすこともわかってきていた。頭の回転は速かったが、いつも上機嫌、というタイプの人間ではなかったのだ。

 突如失踪したということは、何かをきっかけに自殺してしまうともかぎらない。

 焦った俊人がたたみかけると、田茂沢は彼の言葉を断ち切るように、きっぱりと言った。

「知らん。心当たりはない! 主宰が劇団員の所在を常に把握しているわけではないんだよ。わかるだろ?」

 田茂沢の言葉の奥には、かすかに「北川眠兎とは関わりたくない」というニュアンスが感じられた。

 薄情なやつだ、と思い、俊人はかたちばかりの礼を言うと、すぐに電話を切った。

 北川眠兎のアパートの前を二十分ほどうろうろして思案したあげく、芝居の打ち上げの席で「私立探偵をやっている」と言っていた、木戸山零という青年のことを思い出した。

 電話番号は知らなかった。

 もう一度、田茂沢に電話をする。

「今度は何だよ」

 田茂沢はいかにも大儀そうだったが、俊人が事情を話すと、すぐに木戸山零の携帯の電話番号を教えてくれた。

「ひとつだけでいいから教えてくれ。彼は本当に私立探偵なのか?」

 俊人は田茂沢にそう聞いた。冗談ならば電話する意味もないし、電話口で「冗談だ」と木戸山から言われたときの落胆や怒りのやり場のなさを想像すると、事前に確認せずにはいられなかった。

 田茂沢はこの件に関しては、妙に安請け合いをした。

「ああ、あいつは人探しは得意だよ。おれも劇団費を支払わないで逃げたやつらの居所をずいぶんと探し当ててもらったことがある。それに、ヤクザや半グレがからむようなヤバい仕事にもからめる男なんだ。確かに一度やつに相談するのは悪くないだろう」

 田茂沢の言葉を聞いて俊人の心にほんのかすかに希望の灯りがともり、聞いた番号からその場で木戸山零に電話をした。

 木戸山零も、運よくすぐに電話に出た。そして俊人の依頼を快諾し、わずか一日後に北川眠兎の居所がわかったと、連絡してきたのだ。

 普通、人探しにどれくらいの時間がかかるのかわからないが、俊人には異例の速さに思えた。

 木戸山と北川眠兎は同じ劇団所属だから、手がかりとなる出来事や人物を多く知ってはいただろう。しかし、だからといって一日で見つけられるのはやはり早いと思った。

 北川眠兎は栃木の実家に帰省していた。リストカット、自殺未遂などはなかった。精神状態も安定していたようだ。

 俊人は栃木の実家には行かなかった。来ないでほしいと、北川眠兎から言われたからだ。だから電話で話をした。彼女は電話で以下のようなことを言った。

「もう、劇団などの表現活動からは足を洗う」

「しばらくは実家で家事手伝いをする」

「自分とは別れてほしい」

「別にあなたが嫌いになったわけではないが、同じ環境にいられないと何となく思った」

「ありがとう、さようなら」

 そして電話が切れた。俊人は自分で自分を納得させざるを得なかった。

 それ以来、俊人は北川眠兎と会ったことはない。しばらくは落ち込んだが、調査費はいらないと言った木戸山零に、飲み代でもおごると言って呼び出し、安居酒屋で飲んで、「ウマの合う男だな」と思い、木戸山との付き合いが続くことになった。

 木戸山と、なぜかハイボールで乾杯しているところで目が覚めた。

 朝の四時だった。

 実は北川眠兎を探し回る夢は、今でも定期的に観るのだ。

 そういうときは、たいてい現実に心配事を抱えているときだった。

 やはり自分はコロナ禍を気にしているらしいと、俊人は思った。

[newpage] 

[chapter:9]

 


「スカイプで話さないか? ヒマを持て余してるんだよ」

 四月の半ば。すでに七日に緊急事態宣言が出てから、一週間以上が経過していた。

 午後三時半頃、俊人は木戸山にメールした。電話でもいいが、どちらかが電話代がかかる。木戸山もヒマだったのか、すぐに返事が来て、オーケーになった。

 パソコンのウェブカメラに、木戸山の顔が映った。家でヒマなわりには、身なりを整えているように感じた。背後の部屋もよく片付けられている。

 俊人がここ数日ひげを剃っていなかったのに対し、木戸山は髪も整えていたし、ひげもあたっていた。役者だから、こんな状況でも身なりを気にしているのかと俊人は思った。しかし、すぐに画面から動画が消えた。

「どうしたんだ?」

「別に顔を見ながら話さなくてもいいでしょう。アイドルじゃないんだから」

 木戸山は顔が見えない状態で、そう言った。

 まあ、それもそうだが、表情が見えた方が会話するならやはり良い、と俊人は思った。音声のみだと感情のニュアンスが伝わりづらい。このため俊人は電話やチャットがあまり好きではなかった。しかし、会話の相手に顔を見せることを強要はできない、とも俊人は思った。

 それこそ「アイドルでもないのに」だ。

 少し考えてから俊人も、自分の顔をカメラに映すのをやめた。

 二人の話題は、やはり新型コロナウィルスについてだった。

 俊人が不安を訴えるのだが、木戸山はそれほど気にしていないというか、あきらめているように感じられた。

「なんだか、心配しているのはおれとネットニュースとテレビのワイドショーだけみたいだな」

 俊人はわずかに不機嫌になって、自嘲気味にそう言った。

「僕が気楽そうに見えますか? 芝居関係者には、今年いっぱいは公演ができないんじゃないか、と言っている人もいるんですよ」

 木戸山はやや抗議めいた口調でそう返した。

「あ、いや、悪かった。ごめんごめん」

 俊人は、自分のことばかりで他人のことを考えるのがおそろかになっているな、と自戒した。ここ半年ほど芝居は観ていないが、こんな状況では少なくとも三か月くらい先までの公演はすべて中止か延期だろう、と何となく思っていた。劇団として痛手なのは当然として、役者個人の金銭的な損害もはかりしれないはずである。

「四月の七日に緊急事態宣言が出てからは、もう家にいないとぜったいダメ、という雰囲気になってますから、俊人さんと僕は同じ環境ですよ」

「志村けんも亡くなっちゃったしね……」

「そうですよ」

 木戸山は寂しそうに言った。

 コメディアンの志村けんは、三月二十九日に新型コロナウィルスによって亡くなったと報道された。知らない者のいない超・有名人の急死は世間に衝撃を与え、新型コロナの恐ろしさを人々に知らしめたに違いない。

 お笑いや芝居が好きな俊人と木戸山は、このことにはひどくショックを受けていた。

 その後も、脚本家の宮藤官九郎が三月三十一日に、新型コロナに感染したことを公表。

 宮藤官九郎はライブハウスで感染したとされ、「ライブハウスがとくに危ない」というイメージを結果的に世間に植え付けてしまった。クドカンに責任はないとは思うのだが。

 森三中の黒沢かずこも四月四日、新型コロナウィルスに感染したと明らかにした。

 他にも有名人、芸能人で新型コロナにかかった人たちがおり、それを知って恐怖を感じた人も多かったに違いない、と俊人は言った。

「僕は志村けんさんの急死以外には、とくに何も感じなかったですけどね。そりゃウィルスなんだから感染する人もいますよ。とくに芸能人はいろんな人と接するでしょうからね」

 木戸山はクールに言い返した。俊人は、自分がおびえすぎているのか、いやそんなことはないはずだ、とぐるぐる頭の中で考えていた。

 午後四時になり、突然、どこからか女性の大きな声で、「緊急事態宣言が発令された、不要不急の外出は避けるように」という内容の放送が聞こえてきた。緊急事態宣言が出てからというもの毎日、俊人の住む地域では朝の十時と夕方の四時に、同じ放送が流れてくる。

 もともとは台風による水害への注意喚起などのために放送する機能を、使っているのだろう。

 だれも外に出ていない住宅街に、どこのだれとも知れない無機質な女性の声で、「不要不急の外出は控えてください」という声が聞こえてくるのは、不謹慎だがまるでディストピアSFの主人公になったようだ、と俊人は思った。

 スカイプで、俊人は木戸山に思ったとおりのことを言った。

「まあ、そういうふうに事態をイジリでもしなければ、やっていけないですよね」

 木戸山は俊人に同意した。

 あまりに無機質だったせいか、半月もするとこの「知らない女性の声」は、男性区長の、まだしも人間味のある声に変わった。やはり放送をしている側も、素っ気なさすぎてまずいと思ったのかもしれない。

 ちなみに、国からの緊急事態宣言が発表された四月七日の前日に、東京医師会が緊急記者会見を開き、「医療的緊急事態宣言」を出している。

 「新型コロナウィルス感染者の急増による医療崩壊の危険性」は以前より懸念されており、医師会からは「国に緊急事態宣言を出すように」という要請が出されていた。しかしそれはなかなか出されることはなく、しびれを切らした医師会が独自に宣言を出したのだろう。だが、並行して国の緊急事態宣言の準備も勧められており、「医師会の宣言の翌日に、国の緊急事態宣言が出る」という、なんだか変な感じになってしまった。

 そして正式に「宣言」が出たことによって、「自粛」の要請はより強いものとなっていった。


[chapter:10]


 その後、五月二十五日の緊急事態宣言解除までのさまざまなことは、この文章を読んでいるみなさんの知っているとおりである(まあそれまでのコロナ禍に関するもろもろのことも知っているだろうけれども)。

 ロックダウン、巣ごもり、微小飛沫(エアロゾル)、「三密」、クラスター、ソーシャルディスタンス、おうち時間、ステイホーム、テレワーク、オンライン飲み会、「自粛警察」……。今まで聞いたこともない言葉がテレビやネットを飛び交った。

 緊急事態宣言が解除されて数日。

 午後二時頃。

 俊人は、よく行くコンビニにスマホを忘れてきたことに気づいた。

 コピー機でコピーを取るときに、何気なく取り出してそのまま置き忘れてきてしまったらしい。

 しかし外はいつの間にか大雨になっていて、俊人は再びコンビニに行くのが少し億劫だった。

 まずパソコンでスマホを忘れたコンビニの電話番号を調べ、その番号をメモして玄関先にある固定電話から電話をすると、なじみの店員が出た。声で彼だとすぐにわかった。スマホがコピー機のところに置き忘れられていないか聞くと、数分、間をおいて、再び彼が電話口に出た。

「ありましたよ。保管しておきますから、なるべく早く取りに来てくださいね」

 アジア系の外国人らしかったが、日本語がうまく愛想のいい青年だ。俊人は礼を言って、固定電話を切った。

 しばらくすれば雨が止むだろう。そのときに取りに行けばいいと、俊人は思った。

(それにしても、ひさしぶりに固定電話を使ったな)

 ふと、俊人は思った。もともと固定電話にいい思い出がなく、スマホに慣れてからは固定電話の使い勝手の悪さから、家にいてもほとんど使わなくなっていたのだ。

 子機も壊れたままで、主に二階の自室で生活している俊人は、一階の玄関先にある固定電話を使うことは滅多になかった。

 雨がやむまで、まだ時間がある。

 雨の音を聞いているうち、俊人ははっ、とあることがひらめいた。

 自分でもまったく思いがけないことだった。

 そして、XXX県にいる兄・正人のマイホームに、突然電話をした。

 ほんの気まぐれで、自宅の固定電話から正人のXXX県XXX市の家にある固定電話に電話したのだった。

「はい、柴野でございます」

 正人の妻である、芳美が電話に出た。現在五十九歳の正人より四つ下の五十五歳。俊人より二つ年上の義姉である。結婚以来、ずっと専業主婦をしている。

 婚約時には、いちおう正人からかたちばかりの紹介をされ、結婚披露宴にも出席したが、深く話し込んだことなど一度もない女性であった。

 本来ならあまり話をしたい相手ではないのだが、自粛生活の長さで俊人も相当にストレスがたまっており、ふだん話をしたことがない人と話がしてみたい、という心理が働いた。

 ちなみに現在、XXX県の柴野家では二人の男の子、つまり正人の甥二人は成人し、進学や就職でXXX県の家を離れている。どちらかは東京にいて、どちらかはXXX県にとどまっているという。

 つまり、今はXXX県では兄の正人と芳美、さらに父の歳蔵との三人暮らしになっているはずであった。

「兄貴、いますか?」

 軽い気持ちで俊人がたずねると、芳美はひどく動揺したようだった。

「あ……。正人さん? 今ちょっと出かけていて……」

「じゃあ、父さんはいますか」

「お義父さんも、今ちょっといなくって……」

「二人で出かけているんですか?」

 正人が問いかけると、ますます芳美はしどろもどろになってゆく。

「いえ……あの……」

 答えに詰まった芳美は、思い切ったような口調で言った。

「もうしばらくして二人が帰宅したら、折り返しかけなおさせます。二人ともすぐ帰ってくるでしょう」

「そうですか。では今ちょっとスマホがないので、東京の柴野家の固定電話にかけてもらえますか?」

 どうも様子がおかしいな、と俊人は思ったが、芳美の言葉に素直にしたがい、固定電話にかけてくれと頼んで電話を切った。

 二十分ほどすると、スマホの番号がナンバーディスプレイに表示され、正人から固定電話に電話がかかってきた。

「おう、どうした」

「やっと緊急事態宣言も解除されたから、どうしているかと思ってね。今、おれのスマホはコンビニに忘れてきちゃって手元にないもんで、この固定電話にかけてもらうように芳美さんに頼んだんだよ」

 俊人の言葉を聞いて、電話の向こうで、正人は笑った。

「どうもこうもないよ。代り映えのしない自粛生活だ。それよりおまえはどうなんだ。一人暮らしのおまえの方が心配だよ」

「まあね、それなりにやってるよ」

 俊人と正人は、とりとめない話をした。父の歳蔵は出てこなかった。昼寝をしているという。

「昼寝? のんきでいいな」

 俊人はそこで、電話を切った。

 雨がやみ、コンビニにスマホを取りに行って帰ってきた俊人は、数時間経った午後五時に、もう一度、スマホからXXX県XXX市の正人の家の固定電話に電話した。

 今度は、なぜか何度コールしてもすぐにはだれも出なかった。

 かなり長いコールの後、芳美が出た。

「はい、柴野です」

「俊人です。たびたびすいません。兄さんか父さんはいますか?」

 すると電話口の芳美は急に黙り込み、しばらくすると「今また二人とも外出しちゃってて……。かけなおさせましょうか?」と言ってきた。

「いや、いいです。たいした用事もないし」

 そこで俊人は電話を切った。

 電話を切った後、何か考え込んでいる様子であった。


[chapter:11]


「ZOOMかスカイプで、久しぶりに話でもしないか。時間は合わせるから」

 数年ぶりに俊人のツイッターアカウントにダイレクトメッセージが来た。俊人の大学時代の友人で、小劇団で芝居をやっている田茂沢蘭堂だった。

 俊人が家の固定電話から、ふとした思い付きでXXX県XXX市の正人の家に電話してから二、三日後の話である。

 俊人は、緊急事態宣言が解除されても意外と解放感はなく、かえってイライラが増していた。

 解除されれば、かならずハメをはずしたくなる者が出てくる。そうすると、解除から二週間後に、感染者数が激増している可能性もある。そう俊人は考えたのだ。

 そんな時期だったから、とにかくだれとでも(もちろん直接会わないで)話がしたかった。俊人は、田茂沢の申し出を快諾し、スカイプを立ち上げた。

 田茂沢は、木戸山のようにウェブカメラのスイッチを切るようなことはしなかった。パソコンの画面は本とガラクタの山の前にいる田茂沢を映し出している。

 自粛生活が長いのか、ふだんからそんな感じなのか白髪混じりの頭はボサボサで、黒縁のめがねをかけ、顔の下半分はひげに覆われていた。

 ただし、疲れきったような様子はなかった。単にだらしがないからそんな風体なのだろう。

 俊人は、同い年の人間の顔を見て「自分もここまで老いているのか」と、ときどき愕然とすることがある。鏡で自分の顔を観てもそうは思わないのだが、同世代の他人の顔を観るとそう思ってしまうのだ。今の田茂沢の顔を観ても、そう感じてしまった。五十を過ぎて年相応の顔になったにすぎないのだが、どうも慣れない。

 似たようなことを三代目の三遊亭圓歌が昔、落語の枕で言っていたから、年を取るとだれもが同じようなことを思うのかもしれない。

「元気だったか? 最近どうだ?」

 ありきたりな挨拶をしてきた田茂沢に、俊人は木戸山とスカイプで通話したことは黙っていた。木戸山は田茂沢が主宰した劇団に所属していたが、どういうわけかケンカ別れし、現在は別の小劇団に所属している。

「元気じゃないね。新型コロナ、恐いもんな」

 俊人が言うと、田茂沢はいきなり大声で否定してきた。

「恐くないよ! おまえもそんなことを言っているのか! あんなものはなあ、インフルエンザと同じなんだよ!」

 田茂沢は急にテンションが上がったのか、大声でまくしたてる。

「普通、インフルエンザで緊急事態宣言なんか出すかあ? 国は過剰反応をしている。このせいで、どんどん経済が落ち込み、コロナで死ぬ前に首をくくらなけりゃならない者が出てくる。当然、芝居だっていっさいできない。大変な迷惑だ。おれは一貫して『新型コロナはたいしたことない』論者なんだ」

 確かに「新型コロナに対して、国は過剰反応している」という説は前からあった。とくに東アジア地域では、欧米と比べて感染者も死者も少ないという点も含め、4月中旬くらいから「緊急事態宣言は過剰反応」という説があったと俊人は記憶している。

 俊人は、新型コロナについてくわしく調べたわけではないが(第一、医学的なことはいっさいわからない)感覚的に「インフルエンザみたいなもの、というのはちょっとどうか」と思っており、田茂沢蘭堂とは意見を異にする。まさかスカイプで何十分も「新型コロナに日本人は過剰反応している説」を演説されるのか。いくら人恋しいと言っても、それは御免こうむりたいと、俊人は思った。

 仕方ないので、俊人は田茂沢がいちばん怒っていることに話題を変えようとした。

「芝居は当然、しばらくはできないんだろうね?」

 田茂沢はその言葉を聞いて、瞬時にそちらに反応した。

「できるわけないだろ。『今年いっぱいは、客を満席にしてやる芝居は無理なんじゃないか』と言っている芝居関係者さえいるんだ。しかし指をくわえて黙っているわけにはいかない。公演が中止になった損害を埋めるためのクラウドファウンディングや、ネットによる無観客での芝居の配信、過去の作品の映像を有料で配信するなど、それはそれで大忙しでやってるよ」

 田茂沢は、リモートでも鼻息が荒かった。大勢の人間を率いて、興行を成立させようとするような者はこれくらいアグレッシブじゃなければいけないんだろうなあ、と俊人は素朴な感想を持った。

 田茂沢蘭堂の本業は、雑誌とネットを主戦場とするフリーライターである。しかもかなりの売れっ子で、稼いでいるという話だ。単著も過去に数冊出している。その稼ぎをそのまま自分の劇団につぎ込み、本業の合間を縫って芝居をやっているのだ。アクの強い人物だが、そういう精力的な部分だけは尊敬できる、と俊人は思っていた。

 ただし、肝心の芝居はあまり面白くない。当然、主宰の田茂沢が脚本・演出を担当しているし役者の指導だってしているのだが。

 ライターとしては企画力、取材力、文章力、仕事の速さ、どれをとっても及第点の彼が、いちばんやりたいと思っている芝居だけはイマイチなのは、皮肉なことだった。

「とにかくだ、新型コロナにおびえているようなヤツはろくでもない。経済活動は一刻も早く再開させるべきだ。おれも今のところはライター業にそれほどの打撃はないが、三か月後、半年後にはどうなっているかわからない。そうか、柴野も新型コロナが恐いタイプのヤツだったか」

 また話が「新型コロナへの過剰反応」に戻ってしまった。俊人はなんだかんだとごまかし、「用事がある」と言って、田茂沢との会話を打ち切った。

 新型コロナを恐がると、神経を逆なでされたような気分になる彼のような人間がいると知って、勉強にはなったな、と俊人は思った。


[chapter:12]


 俊人は、家の固定電話を、柱に寄りかかってじっと見つめていた。

 何かをあやしんでいる表情をしていた。

 日曜日だった。時間は午後七時、もうあたりも暗い。

 固定電話は玄関先にあった。電話帳を何冊も入れられる、直方体の木製の台の上に固定電話は乗っていた。

 ファックスも送受信できるタイプだが、俊人は今やファックスを送ることも送信することも滅多にない。電話機の中に入れるべきファックス用の紙は、まったく入っていない。

 二階に住む俊人が、二階にいたままで電話が取れるようにと買った子機も、当の昔に壊れてしまってそのままだ。

 個々人が携帯電話を持つようになってから、固定電話の使用頻度は、一般的に減っただろうと俊人は思う。

 柴野家もまったく同じで、父の歳蔵さえスマホを持っているから、近年では柴野家では固定電話が使われることはほとんどなくなっていた。かかってくる電話も、ごくたまに不動産だのマンションだのを買いませんか、というセールスだけである。

 俊人は、自宅の固定電話にあまりいい思い出がない。

 家にいるときでも一階にいるときでも、自分の携帯電話を持ってからは、固定電話を使用することはあまりなかった。

 何をやっても仕事が長続きしなかった俊人は、二十代の、まだ携帯電話を持っていなかった頃、固定電話から職場への謝罪、辞めたいということなどを伝えていた。逆に、面接に落ちたとか職場からの叱責の電話なども、昔はこの固定電話で受けて聞いていたものだ。

 電話の音を聞くとギクッとする、という人は今もいるだろう。そういう現象が強化されたかたちで、俊人はこの固定電話の音を聞くと、イヤな思い出しか蘇ってこないのだった。

 柱に寄りかかって、固定電話を見つめていた俊人は、何かを決心したような表情で、XXX県XXX市の正人の家の番号のダイヤルを回した。

「はい、柴野でございます」

 正人の奥さんである芳美が、電話に出た。以前と同じだ。しかし一家の中で、固定電話にだれが出るか、決まっている家族は別にめずらしい存在ではない。中には小学生の子供に任せているところもあったと記憶している。

「あ、弟の俊人です。兄貴か親父はいますか?」

 すると、芳美は前回以上に、動揺した声を出した。

「今、二人とも散歩に出ていて……」

「散歩? もう夜の七時ですよ?」

「あ、たまには外食をしたいと言って……二人で近所の食堂に行きました。ギリギリ、今頃やっている食堂が一軒、近所にあるので」

「芳美さんは一緒に行かないんですか」

 俊人が問い詰める。

「父子水入らずで行きたい、とか正人さんが言いまして……」

 芳美は心の揺れ動きを隠すことができなかった。

「じゃあ携帯の方にかけてみます」

 俊人が即座に言うと、芳美の動揺はさらに激しくなった。

「え、いやそれは……。二人とも、スマホを置いて行っちゃったんですよ。食堂はすぐ近くだから」

「その食堂の名前わかります? ではネットでそこの電話番号を調べて、その店にかけてみます」

 俊人が食い下がると、今まで弱りきっていた芳美が、開き直ったのか、少しいらだった調子で言い返してきた。

「何か緊急の用事なんですか?」

「いえ、とくにそういうわけでは」

 俊人は、素直にそう返した。

 芳美はあらたまった口調になって言った。

「俊人さん、お義父さんが心配なのはわかるけど、少しは夫と妻の私を信用してくれませんか? 新型コロナが収束したら、またお義父さんは東京に戻ってくるかもしれませんし、お義父さんは田舎でのんびり遊んでいると思って、ここは私たち夫婦に任せてほしいんです」

 暗に芳美は「頻繁に電話をかけてくるな」と言っているのだ、と俊人は解釈した。

「わかりました。失礼しました。おれも東京で一人なので、ナーバスになっているんですよ。そこのところは察してください」

 とくに言葉を荒げるでもなく、冷静に返した俊人の言葉に、芳美の機嫌は直ったようだった。

「とにかく今は大変なときだから、俊人さんの言うこともわかります。何もかも落ち着いたら、一度こっちに遊びに来てくださいよ……あ、俊人さんはこっちには来ない、と前から言っているんでしたっけ、ごめんなさい」

 芳美はすまなそうに言った。

 その言葉に、俊人は一人、苦笑した。

「兄から聞いたんですか。まあ、そういうことです。そちらこそ一度東京に遊びに来てください。では失礼します」

 電話を切った後、俊人は自分のスマホを取り出して、瞬時に正人にかけるか、父の歳蔵にかけるか考えた。瞬間的に、歳蔵の方がいいと判断し、彼の携帯番号にかけた。

 しかし、歳蔵の電話は話し中だった。すぐさま正人の方にかけ直すが、やはり出なかった。

 正人と歳蔵が、どこかに行っているのは間違いない。俊人からの着信を無視する理由がないし、二人ともXXX県XXX市の自宅にスマホを置いたままだったら、それに芳美が出てもいいからだ。

 しかし、他人の携帯に出たがらない人も多いから、そこは微妙なところだ。

 俊人はスマホを切ると、再び柱に寄りかかって、真面目な顔をして何かを考え始めた。


[chapter:13]


 俊人は、数日後、木戸山零にメールを送った。

 リモートではなく、直接会って、話したいことがあると。

 ただの無駄話ではなく、ある程度立ち入った話であると伝えた。

 緊急事態宣言解除から二週間以上が経ち、繁華街にも徐々に人が戻ってきていた。

 真昼間に喫茶店で話をするくらいなら、感染の危険性はないだろう。俊人はそう思ったのだ。

 「新型コロナはインフルエンザと似たようなもの説」の信奉者である田茂沢蘭堂なら、新型コロナにおびえる俊人をあざ笑っただろうが、そんなことは関係ない。

 木戸山も相変わらずヒマだったらしく、俊人の申し出は快諾された。

 二人は中野駅の北口で待ち合わせた。正面にはサンモールというショッピングモールがあり、その中に入り歩いて行けば、そのまま中野ブロードウェイにたどりつく。天気がいいこともあって、人通りは多かった。それだけなら新型コロナの問題が噴出する以前と、変わらないように思える。

 ただし、俊人や木戸山零を含めたほとんど全員がマスクをしていることを除いては。

 中野駅北口の前で落ち合った二人は、もちろん二人ともマスクをしている。俊人は白、木戸山は黒いマスクをしていた。二人は少し歩き、ビルの二階にある喫茶店・ルノアールに入った。

 ルノアールはいつの間にか、紙巻タバコそのものが禁止になっており、イスとテーブルはひとつ置きに座るように、との張り紙がテーブルに張ってあった。いちおうのソーシャルディスタンスが保たれているということだ。

「で、何なんですか」

 席に着き、アイスコーヒーを注文するなり、木戸山は俊人にたずねた。

「兄貴も親父も、XXX県XXX市に行ってないかもしれないんだよ」

 俊人はアイスストレートティを注文した後、いきなりそう言った。

「は?」

 木戸山にはまだ意味がよくわかっていない。

「いつも、おれと兄貴と親父はみんなスマホで連絡をし合っている。けれどたまたま、まったくの気分でだったんだが、XXX県の兄貴の家の固定電話に電話したら、なんだか様子がおかしいんだ」

「様子が?」

「ああ。兄貴も親父も、コロナ禍以降、一度もXXX県の自宅の固定電話で通話してこなかったし、こっちも連絡しなかったことに気づいてね。まあ携帯があるからその必要もないんだが、兄貴の奥さんの芳美さんがたまたまXXX県の固定電話に出たとき、兄貴と親父の所在を聞いたらえらく動揺してね」

「ふうむ。その芳美さんって人、その人の立場から言えば、固定電話に出なけりゃよかったんですけどね。そうすれば俊人さんもおかしなことには気づかなかったでしょう」

 ウェイトレスが、アイスコーヒーとアイスストレートティーを運んできた。俊人は続ける。

「まあ、そういうことになるな。おそらくおれの名前の登録もしておらず、うっかり取ってしまったんだろう。ウソをつきとおせないという芳美さんの性格の面も事態に影響しているかもしれないな。彼女は二人が『近所の食堂に行っている』とか言っていたけど、本当に行ったのか確証は持てなかった。『スマホを忘れて出かけちゃった』とか言っていたけど、芳美さんとの通話を切ってから急いで二人のスマホにかけたら、どちらとも連絡が取れなかった。たぶん、芳美さんはおれとの通話を切った瞬間に、口裏を合わせるために急いで二人のスマホに連絡をしたんだ。何かをたくらんでいるとしたら兄貴の正人だから、芳美さんが連絡するとしたら正人だろうと思い、逆に親父のスマホに電話したんだが話し中だった。芳美さんはおれの行動の裏を読んで、たぶん親父のスマホに連絡したんだよ。さすがの機転、と言えばさすがだね」

「本当なんですか? その後、さらに確かめたんですか?」

 木戸山は腕組みをしながらたずねる。俊人は首を振った。

「確かめてない。おれが兄貴の何らかのたくらみを察しているとわかったら、向こうもいろいろ工作をしてしまい尻尾がつかめなくなると思ってね。どうせ、話し中だった後に電話したところで、芳美さんと兄貴と親父はみんな口裏を合わせているわけだから、『本当に食堂に行ってきた』と言われただけだろう。その食堂の大将とさえ、話を合わせているかもしれないが、食堂に二人が来ていたかどうか確認の電話なんかしたらあやしまれるに決まっている。だから、食堂にも確認してないけどね」

「なるほど。しかし、お兄さんの正人さんが、お父さんと一緒にXXX県に行っていない、そうしなければならない理由って何でしょうね?」

 木戸山は言った。そこがわからないと、今まで俊人が言ったことはすべて考えすぎ、ということになる。

「わからん。しかし家族のおれに隠れて、コソコソ何かをやっていること自体が気に食わない。面白くないんだよ。依頼料も経費も出すから、この件について調査してもらえないか? そして兄貴と親父を探し出してもらえないか?」

「まあ、それはいいですけど。こちらも商売ですからね。コロナ禍で、ろくな仕事もないことですし」

 木戸山は言った。そして続けた。

「その前に、ひとつだけ確認させてください。お父さんとお兄さんに、XXX県にいる写真を送ってくれ、と要望しましたか? 場合によっては、それだけで問題が解決しますよ」

「写真?」

 五十三歳の俊人は、世代的に携帯電話で写真を撮りまくる習慣がない。だから、そこのところを失念していた。

「普通にお父さんとお兄さんがXXX県にいる写真が送られてくれば、本当にXXX県にいるってことになるんじゃないですか?」

 木戸山の言葉にしばらく考えたが、俊人は首を振った。

「いや、それはダメだな。親父は写真を撮る習慣がまったくないし、兄貴とお互いの写真を送りあったことなど生まれてこの方、一度もない。急に『写真を送れ』などと言ったら、こちらが疑っていることが丸わかりだよ。それに、兄貴と親父が本当にいったんXXX県に行き、そこで写真を撮ってからどこか別の場所に移動したのだとしたら、写真を送られても意味がないだろう。写真に日付を入れたり消したりできるアプリもあるらしいしな」

 俊人はそう言いながら、アイスストレートティーをストローですすった。

「お兄さんの何をそんなに恐れているんです? 腹を割って話したら、たとえXXX県に行っていないことが事実だとしても、案外簡単に真相を教えてくれるかもしれませんよ」

 木戸山はたずねる。彼にとっては商売だから、どんな依頼でも金をもらえば受けてしまえばいいのだが、俊人との長い付き合いで、あまり安請け合いするわけにも行かない。

「それがイヤだから、君に頼んでいるんだよ」

 俊人は木戸山の問いに、苦い顔になって答えた。兄から仕送りをもらって生活している立場で、秘密を単刀直入に兄に話せと言うことは、俊人にはどうしてもできなかった。

 何をやっていようとも、正人がヘソを曲げて仕送りを止められたら、自分が生きていけなくなってしまう。

 真相を確かめるためには、兄の外堀を埋めることが、俊人の心理的にどうしても必要だった。

 そして、そのためには探偵・木戸山の協力がぜひとも必要だ。

 木戸山は自分の心の中の踏ん切りをつけるように言った。

「わかりました。仕事は受けます。ただし、俊人さんに柴野家の、かなり立ち入ったことを話してもらわなければなりません。知り合いの劇団員を探すのとはわけが違いますからね。まず手がかりを得ないと、どうにもなりません」

 木戸山が依頼を受けてくれると知って、俊人は安堵の吐息を漏らした。


[chapter:14]


 木戸山は初めて、世田谷の俊人の家(つまり、父の歳蔵が建てた家)に行った。かつては俊人が父とともに二人暮らししていた家であり、その前には兄の正人も、母の優里恵も住んでいた家だ。

「意外と言っては失礼ですが、ずいぶんキレイな家なんですね」

 あちこち見まわしながら、木戸山が言う。

「ああ、親父が自分の力で建て替えた、自慢の家だからな」

 俊人はそう言って、玄関から木戸山を招き入れた。

 柴野邸は、外は美しかったが中はどこか寒々としていた。まず荷物や家具が少ない。人間臭い暖かみがないのだ。全体的に「そっけなさ」を、木戸山は感じていた。

 俊人も歳蔵も、家の中にモノを置くのがあまり好きではなかった。だからどの部屋も広く感じられる。兄の正人が出ていき、母の優里恵が亡くなり、父の歳蔵まで出て行ってしまった家の中は、閑散としていた。

 極端に言えば、人が引っ越した後のようだった。

「さあ、ここから木戸山流の『直観』捜査が始まりますよ」

 木戸山は冗談めかしてそう言いながら、自分の指紋があちこちに付かないように、俊人が見たこともない薄い手袋を付け、柴野邸の中をゆっくり観て回り始めた。

 しばらくすると、木戸山は口を開いた。

「俊人さん、これはどういうことなんです? あきらかに、かなり念入りに掃除した形跡がありますね。しかも最近じゃない。数か月前ですね」

 木戸山の言葉を聞いて、俊人はポンと手を叩いて言った。

「ああ、昨年末に大掃除をしたんだよ。それじゃないか?」

 俊人の言葉を聞いて、木戸山は慎重に言い返した。

「大掃除は年末に、どこの家でもするでしょう。まあ、アパートに一人住まいの僕はしないですけど」

「いや、それがもう大変な大掃除でね。わざわざ年末に兄貴とその息子二人が来て、手伝ってくれたんだよ。それで彼らはそのままうちに泊まって、おれ、おやじ、兄貴、その息子たち二人の五人で正月を迎えたんだった。思い出したよ」

「父と弟が住む家とはいえ、他人の住む家の大掃除を手伝うなんて、ずいぶん気前がいいお兄さんなんですねえ」

 兄弟の家の大掃除を手伝うことが当たり前かどうかは、微妙なところだが、まああまりないことだと木戸山は思った。

「さあねえ。もともと兄貴が几帳面なことは間違いないが、確かに『そこまでやるか』って気持ちではあったな」

 木戸山は、俊人との会話の後も家の中を探り回った。しまいには俊人の許可を得て、押し入れの中まで一つひとつ、丁寧に開いて見て回った。

 さらには天井裏までも、見た。

 最後にたどりついたのは、もともと歳蔵が使っていた部屋だった。

 かなり広く、仏壇が隅の方に置いてあった。机と椅子があり、本棚が数本。机の下に箱があり、その中にはい印鑑などとともに、法律的に重要だと思われる書類がいくつか入っていた。

 この家で重要なものと言ったら、それしかなかった。

 木戸山は、手袋をつけた両手で法律関係の書類がたくさん入った箱を、慎重にあさった。

 そして、かなり深く考え込んだ。

「何かわかりそうか?」

 俊人がたずねると、木戸山は首をすくめて何とも変なことを言いだした。

「推理は詰みました。しかし、直観にはビンビン来るものがありますね。『直観』とか言っているから、僕は本格推理の主人公にはなれないんだよな。ま、この辺にして軽く家飲みでもしませんか?」

「家飲み? ウチでか?」

 俊人は不審げな顔をした。今日は木戸山と酒を飲むために、家に呼んだつもりはなかったのだが。

「柴野家の話をいろいろと聞きたいんでね。酒が入っていた方が、俊人さんの口も軽くなるでしょう。酒はありますか? つまみは、僕が何か適当に買って来ましょう」

 木戸山はそう言って玄関に向かった。

[newpage]

[chapter:15]


 翌日、木戸山零はXXX新幹線に乗っていた。俊人は同行はしていない。

 俊人は正人の建てた家には行かないと誓っているのだと、昨晩、酒を飲みながら木戸山に言った。

 何一つ、なすことができなかった自分が、兄の成功の証である彼のマイホームに行くことは、屈辱的過ぎてどうしてもできないのだと、酒のいきおいで俊人は語ったのだ。

 家飲みは、居酒屋などで飲むよりどうしても深酒になりがちだ。酔ったら家に帰らずとも、そのままその場で寝てしまえるからである。泥酔した俊人は、自分がいかに父親と兄にコンプレックスを持っているかを、木戸山に語り続けたのだった。

 当然、木戸山の旅費は俊人が出している。

 木戸山は何が入っているのやら、大きめのバッグを荷物棚に乗せてから、新幹線の所定の座席に座った。俊人の金だからと、指定席を取ったのだ。そして窓の外を流れていく景色を眺めながら、まあ今回の件はコロナ禍における「不要不急の要件」と言っていいだろう、と自分に言い聞かせることにした。

 人の目が気になるので、一応スーツ姿で「やむを得ず出張するサラリーマン」を装った。

 「自粛していない者に注意して回る」という自粛警察」などにからまれてはたまらない。

 XXX県に着いてから、まず本当に正人と歳蔵が正人の家にいないのか、確かめなければならない。それが調査の第一歩である。

 それがはっきりしなければ、都内で動いても何の意味もない。

 うまく行けば、正人の妻の芳美から、すべてを聞き出すことだってできるかもしれない。

 新幹線がXXX県XXX市に着き、その郊外にある柴野正人の家にたどりついた木戸山は、それがとんでもない豪邸だったので驚愕せざるを得なかった。

 東京に比べて土地代などがそう高くはないと考えたとしても、ものすごい家だ。いや、城に近い。

 これに比べると、東京の柴野歳蔵の家が小さく見える。

 いかに正人がXXX県で成功したかが、この家を観るだけでわかる。

 一度、正人の家を外から確認してから、「正人の旧友」だと偽って、周辺で聞き込みをしたが、正人一家の近所の評判は悪くない、程度のことがわかっただけで、正人がどこかに長期滞在しているとか、逆に最近、父親がやってきて同居をしているとか、そういうはっきりした話は聞けなかった。

 しかし、ひとつひっかかることが聞けた。

「あそこは、奥さんの妹さんも同居しているのよね」

 夫婦でやっているらしい八百屋の、奥さんの方がそう言った。太っていて気さくな感じの女性だった。

「ときどき、ウチにも買いに来るから知ってるのよ」

 その話を聞いてから複数の人に聞いてみると、確かにあの家には、奥さん、つまり芳美の妹が同居しているのだという。

 不審に思った木戸山は、柴野正人の家の玄関口を、易者のフリをして観察することにした。

 近くに喫茶店でもあればよかったのだが、そう都合よくもいかない。正人の豪邸は住宅街の中にあり、張り込みがやりづらい位置にあった。

 金やら時間やら権力があるなら、正人の家の近隣の空き家を借りてそこから観察、なんてこともできるのかもしれないが、あいにく木戸山にはどれも持ち合わせがなかった。

 近くの公園のトイレで手早く易者の衣装に着替えると、「手相」と書かれた台と折りたたみの椅子を出してきて、瞬時に占い師に変装した。

 木戸山は変装道具をいくつか持ってきていたのだ。役者である木戸山は、日常生活に溶け込んでもおかしくない感じの変装を得意としていた。

 見回りの警察官に職質をされれば一発でアウトだが、もともと正人の豪邸周辺は人通りが少なかった。監視カメラがあちこちに設置されているのはすでに確認済みで、それで撮られた映像を後から観られたらやはりアウトだが、後のことは後で考えればいい。ちなみに、木戸山は占いの知識を十分に持っているから、そこを突かれてもとくにボロが出る心配はない。

 下手をすれば何日も座りづめでいなければならないところだが、数時間すると、運よくだれかが正人の豪邸から出てくるのが見えた。

 その姿を見て、木戸山は思わず声を上げた。

 人目をはばかるようにして、豪奢な門を開けて出てきたのは、マスクをしていてもはっきりわかる。昔同じ劇団に所属し、俊人と付き合ったことがあり、なおかつ自分が捜索して探し出したことがある、北川眠兎だったのだ。


[chapter:16]


 易者姿の木戸山は、すぐに北川眠兎の後を付けた。

 最後に彼女を見たのは八年前。栃木の実家にいることを突き止め、彼女が庭の花に水をやっているところに声をかけた。そこで失踪の一部始終を聞いて以来だった。

 当時、三十代そこそこだったはずだから、今は四十歳になるかならないかくらいの年齢のはずだ。

 劇団ではヒロイン役などを多くやっていた美人女優だったが、その容姿は八年経ったいまでも衰えてはいなかった。

 しばらく尾行したが、ただ単に近くの商店街に買い物に行き、ちょっとしたものを買うだけが目的だったようだ。買い物を済ませ、正人の屋敷に戻る途中の、人がほとんどいない通りで、木戸山は北川眠兎に声をかけた。

「北川眠兎だよね?」

 そう言いながら、木戸山はかけていた黒いマスクをはずして顔を見せた。東京から遠く離れたXXX県の地で、かつての役者仲間がいきなり登場したことで、北川眠兎は一瞬声を失った。しかし、八年前にも木戸山に居所を突き止められたのを思い出したのか、すぐに観念したような表情になり、溜息をついた後に、怒りの感情をあらわにした。

「何の用? 私はもう行方を探される筋合いはない、自由の身のはずよ。そんなにどこまでも追い回したいなら、警察を呼ぶわよっ」

 北川眠兎は木戸山を脅すように小さなバッグからスマホを取り出し、にらみつけてきた。

「おいおい、まあ落ち着けよ。僕は君を探しているんじゃない。君の言うとおり、今の君は自由だ。僕が探しているのは、柴野正人とその父君である柴野歳蔵氏なんだからな」

 木戸山はなるべく彼女を緊張させないように、笑顔で話した。

「だれがその二人を探してるのっ!?」

 眠兎はすかさず聞いてきた。やはり無関心ではいられないらしい。

「柴野俊人だ。昔の君の恋人。そう言ってよければ、だが」

「俊人さん……」

 それを聞いて、眠兎は何かいろいろと飲み込めてきたようだ。当初、興奮状態だった彼女も次第に落ち着きを取り戻してきた。

 突然昔からの知り合いに声をかけられた眠兎の驚きや怒りは、次第に冷笑に変わっていった。

「まあ、あなたが私を見つけたからって、別に何がどうなる、ってわけでもないもんね。いいわ、話せることなら話してあげる」

「ずいぶん気前がいいんだな」

 木戸山は言った。

「私の性格、知ってるでしょ? 別に明日どうなったって、かまわないの」

 眠兎が髪をかき上げたとき、腕のリストカットの後が何本か見えた。

「で、まず何で君がここにいるんだ?」

「驚かないでね。私は柴野正人の愛人なのよ。」

 いきなり、とんでもない言葉が眠兎の口から飛び出してきた。

「愛人!? だって、あの家には彼の妻の芳美さんがいるんだろ。いやその前に、どういう経緯でそうなったんだ?」

「ええ、奥さんの芳美さんはあの家にいるわよ。正人は、正妻の芳美さんと愛人の私、双方とあの家で同居しているの。ご近所では私は芳美さんの妹、ってことになってるけどね」

 「驚くな」と言われても、木戸山は驚かざるを得なかった。

「君はそんなんでいいわけ?」

 つい、そんな言葉が木戸山の口から出てきてしまった。よほどのことがなければ、人の生きざまに疑問を呈するほど、木戸山も上品な人生は送っていないはずなのだが。

 北川眠兎は、木戸山の驚いた様子を見て、鼻で笑った。

「案外楽しくやってるわよ。あの家は広いし、出入り口も何か所かあるから、一日に一度も芳美さんと顔を合わせなくても済むし、顔を合わせたとしても、お互い、ひどく仲が悪いというわけじゃないからね」

 正妻と愛人が愛する男の家で同居する。そんな映画や芝居はいくつもあるような気がするが、現実に目の当たりにすると木戸山も面食らわざるを得ない。

「いったいどういう経緯で正人の愛人になったんだ?」

 眠兎はからかうような口調で言った。

「八年前、あなたや俊人さんは、もしかしたら田茂沢蘭堂と私がもともと付き合っていて、田茂沢が俊人さんに私を押し付けたと思っているかもしれない。でもそれは勘違いで、私が当時、付き合っていたのは柴野歳蔵なのよ。独身の俊人さんを心配して、私ならどうか、と言い出したのは彼なの。私も歳蔵さんと別れてから俊人さんと付き合い、一時期は結婚だって視野に入れていたんだけど、結局、俊人さんとはうまく行かなくてね」

「柴野歳蔵!? なんで? どういう経緯で!?」

 木戸山は思わず静かな住宅街で、大声をあげてしまった。易者姿で驚きをあらわにする木戸山を見て、滑稽だと思ったのか眠兎はくすりと笑った。

「知らなかったの? 柴野歳蔵はあの頃、田茂沢蘭堂の劇団のスポンサーをしていたのよ。その関係で私を知った彼が、私を見染めたってわけ。でも当時から彼は奥さんと死別して独身だったから、私が彼と付き合っていたとしても、別にだれからも何も言われる筋合いはないよ」

 確かに、歳蔵と眠兎とにかなりの年齢差があることを気にする人もいるかもしれないが、それは余計なお世話であり、別に犯罪でも何でもないし、現代日本の倫理に反するわけでもない。二人は八年前から、いい大人なのだ。

「柴野歳蔵がスポンサーだったのか。しかし、それならもう少ししゃしゃり出てきて劇団員に大きな顔をしても良かったはずだけどな。当時、彼がスポンサーだったことを知っていた劇団員は少ないだろう。僕も今知ったからね」

 木戸山は記憶をたどったが、そんな話は当時聞いたことがない。

「まあ、歳蔵さんは簡単に言うと、かなりの変人ね。変わり者扱いされてきた私がそう言うのもどうかと思うけど。そもそも、あのつまらない田茂沢蘭堂の劇団を高く評価していたのもおかしな話でしょう? でも、それを陰ながら支援するのが彼の美学だったみたいね」

 眠兎は言いづらいことをずばりと言った。すでにやめた劇団とはいえ、えらい言いようだ。しかし、田茂沢の芝居がつまらないことに関しては木戸山も同意せざるを得ない。正確に言うなら田茂沢蘭堂は「面白くなりそう」な芝居は書く男なのだ。だから役者はいちおう集まる。客だってまったく入らないわけではない。だが結局、「イマイチ面白くない」ところに芝居が着地してしまうのだ。しかし、彼はそれに懲りることがない。木戸山だって、田茂沢はよくいまだに芝居を続けているな、と思うほどだ。

「で、それが何で、今の君は正人の愛人になってこのXXX県XXX市にいるんだ?」

 北川眠兎はこともなげに答える。

「八年前、俊人さんと別れて栃木の実家に引っ込んだものの、毎日が面白くないわ、家の中でも居心地がよくないわで最悪でね。二年くらい経ったら柴野歳蔵から連絡が来て、今度は正人の愛人にならないか、って言ってきたのよ」

「それに乗っかったってことか?」

 眠兎はうなずいた。

「弟の俊人さんが恋愛に関してはわりと淡泊なのに比べて、正人さんは、病理的なものかどうかはわからないけどセックス依存症みたいなところがあってね。もちろん歳蔵さん以上よ。だけど六年前は仕事がとても大事な時期だったらしくて、あちこちで「お痛(いた)」をするくらいなら愛人の一人でも囲った方がいいという、歳蔵さんの親心だったんじゃないのかな。まあそれが常識的なことかどうかは置いておいて。私も栃木の実家にいるのはうんざりだったし、正人さんはなかなかの男前だったしね。それで試しにXXX県に来たってわけよ」

「しかし、何も正人の嫁さんと同居することはなかろうに」

 木戸山の心の中では、どうしても子供の頃から教え込まれてきた倫理観から、そういう発言が出てきてしまう。

「だから『試しに』って言ったでしょ。最初は同居するなんて思ってもみなかった。そこまでに至る経緯は、いろいろあるのよ。正人さんと芳美さんは六年前からセックスレスだったし、気持ちも離れちゃってたみたい。ただ彼女は地元から出て一人で生活した経験がないの。知り合いの目も気になるし、第一、生活力がない。それはまあ私も似たようなもんだけど、彼女の場合要領が悪くて、正人さんと離婚したら生きていけないと思っているみたいね。あと、彼女は彼女で一見普通だけど、頭のネジが二、三本飛んでいるようなところはあるわね」

(なんてイヤな話なんだ……。いや全員が納得していればそれで済む話なのか?)

 木戸山は眠兎の話を聞いて混乱してきた。


[chapter:17]


「まあでも、その辺のことはあなたの目的とは関係のない話でしょ」

「そうだった。で、歳蔵氏と正人氏は、今もあの豪邸にいるのか? いないのか?」

「それはね……」

「おっと、待ってくれ。僕も探偵のはしくれだ。僕に当てさせてくれ」

「何よ、子供みたいに」

「探偵なんてもともと子供みたいなもんだ。好奇心で動いているんだからね。何から何まで君から説明されたんじゃ、探偵の名折れだよ。歳蔵氏と正人氏は、あのお屋敷にはいないんだろう。そして都内にホテルかウィークリーマンションでも借りて暮らしている。違うか?」

 眠兎は目をまるくして、小さく拍手をした。

「お見事! よくわかったね。正確には、一度来たけど、写真や動画をいくつか撮って、すぐどこかに行ってしまったの。なんでわかったの?」

 眠兎は何となく木戸山に気安くなっていた。当初の緊張感は、もうないようだった。

「こんな道端で言うより、登場人物をすべて集めた大広間で説明したいところなんだが……。正人氏のお屋敷で、そういう場を設けることはできないものかね?」

「もったいぶらないでよ。三文役者で三文探偵のくせに」

 眠兎は気安いを通り越して、失礼なことを言ってきた。いったん警戒心を解いてしまうと、極端に馴れ馴れしくなるタイプらしい。

 彼女の放言にすっかり気分を害した木戸山は、ムッとしながら話し始めた。

「やはり不自然だと思ったのは、正人氏が成人している子供たち二人とともに帰省した際、大掃除を手伝ったという話だな。一般的にあり得ない話ではないのかもしれないが、普通は家庭内で大掃除を済ませてから年始に客を迎え入れるものだ。で、その『大掃除』の後、正人氏は歳蔵氏をXXX県に連れて行くと言っている」

「新型コロナの問題があったからじゃないの」

「それはきっかけに過ぎない、はずなんだ。というか、正人氏にしてみればそれがまたとない『きっかけ』だったんだ。リタイアした親がどこに住むかは、本人の意志もあるし成人した子供たちや妻の意向もある。それが『新型コロナが流行っているから』と言えば、面倒なことをほとんどクリアして親を連れ出すことができるからね」

「で、そうまでして歳蔵さんを連れ出そうとした正人さんの意図は何だったわけ?」

「それは知らないのか?」

 眠兎から、はっきりした話を聞ければいいのだが。

「知らない。正人さんはそういうことをいちいち話す人じゃないからね。で、何が理由なの?」

 眠兎に「知らない」と言われ、木戸山は少々落胆した。

「それは……」

「確信を得るまでは黙っておこう」

 眠兎はふざけてがくっ、とずっこけたような仕草をした。もはや、木戸山に警戒心はないようだった。

「なんだ、まだ全貌がわかったわけじゃないんだ、それじゃ大広間も何もないんじゃないの」

 二人はその場で笑った。出会った当初の、ギスギスしていた雰囲気はもう二人の間にはなかった。

「とにかく、正人氏も歳蔵氏もXXX県XXX市にいないことがわかった。しかし、本当の居場所まではわからないのか?」

「わかんないよ。正人さんのプライベートなんて、いちいち詮索しないし、興味もないからね」

「芳美さんはどうかな?」

「知っているかもしれないけど、固く口留めされているだろうから、言わないだろうね」

 俊人が芳美に電話したとき、言動が不審だったというから、二人の居場所を知ってはいるのだろう。そして、決して言わないだろう。

 どうしたものか。

 易者姿のまま、あごに手を当てて考えている木戸山の姿を、他人事だと思っている眠兎は興味深そうに見るだけだった。


[chapter:18]


 東京。住宅街。時間は午後十一時半頃。人のいない夜道を、スーツ姿の青年が歩いていた。時節柄、当然マスクをしている。中肉中背、顔立ちはわからないが三十代にはなっていないだろう。おそらくサラリーマンだ。仕事疲れの雰囲気も見せず歩く姿は精力的で、男性にも女性にも信頼されるタイプではないかと思わせる。

 テレワークやステイホームを実行しつつ、今日はたまたま仕事に出たのか、毎週行く日に当たっているのか、毎日会社に行っているのか、それは本人に聞いてみなければわからない。

「あ、ちょっと待ってもらえるかな」

 彼の前に立ちふさがったのは、制服を着た警官だった。

 これまた当然、マスクをしている。

「な、なんですかいきなり」

 青年は少しうろたえた。警官の職務質問に慣れていないのだろう。

「この辺も最近、物騒でね。『自粛警察』とか知ってる? なんだかよくわからないやつらが跋扈しているんだよ」

「それはどうもご苦労様です」

 青年はあきらかに迷惑そうだったが、そう言うしかなかった。

「身分証明書、見せられる?」

 警官にそう言われて、青年は渋々といった体で免許証を出した。

 警官はそれを見た後、「観たところ、サラリーマンだよね? 社員証はあるかな?」

 青年は社員証も見せた。

「ふんふん。なるほど。夜中まで大変だね。あと大変申し訳ないんだけど、携帯電話も見せてもらえるかな?」

 警官にそう言われて、さすがに青年は気色ばんだ。

「携帯? そこまでする必要があるんですか?」

「まあまあ! 怒らないで! 私だってこんなことやりたくないんだよ。それにあなたが犯罪者だとも思っていない。だけど最近は盗撮も多くてね。いやあなたが盗撮しているなんて思っていないよ。だけどこればっかりはスマホを見ないとわからないじゃないか。別に観られてまずいものは撮っていないんだろ? 彼女のハダカとか? ハハハハハハ」

 警官は青年をからかった。つまらないジョークだったが、妙に人をリラックスさせる雰囲気を持っていた。そのノリに釣られて、青年は「見せれば解放されるのだろう」と思い、しぶしぶスマホを警官に渡した。

「こっちが一方的に君の携帯を観るのもアレだから、私の携帯を観てもいいよ」

 警官は、自分のスマホを青年に渡してきた。青年は知らない人のスマホなど観たくもなかったが、格式ばった警官ではないのだな、と警戒心は少しとける。

 真夜中に、路上でお互いの携帯の中身を見るという、奇妙な時間が始まった。

「ふんふん。ああ、宴会の写真ね。こっちは風景写真か。なかなかいい趣味してるねえ。あ、ざっと見るだけだからね」

 警官は青年のスマホの写真をざっと見ると、気づかれないように着信履歴を開いた。

 そして、瞬時に固定電話からの着信番号を記憶する。

「ああ、どうもありがとう。おれの携帯も返してね」

「知らないアイドルの写真ばっかりですねえ」

 青年が少しにやついて言う。

「ああ、これね、ツイッターにアイドルが自撮りをアップしたとき、こまめに保存してるんだよ。私、アイドルオタクなもんで。いやはやお手数おかけしました、本当、ご苦労様でしたっ」

 警官は敬礼をして、青年を見送った。警官が実際に敬礼をしているところを、青年は初めて見たなと思いながら、夜の住宅街に消えていった。

 一人になった警官は、急いで制帽と上着を脱いだ。いつまでもこのままの格好でいたら、本物の警官が現れたとき、今度は自分が職質の対象になってしまう。真夜中の警官は、普通複数で行動しているものだ。一人でいるというだけで、不審がられてしまう。

 警官への変装は、詳細は知らないが罪も重いだろう。あまりやりたいものではなかった。歳蔵と正人がXXX県XXX市にいないと確認したからこそ、冒険ができたのだ。

 もちろん、警官に変装していたのは木戸山零である。

 職質した青年は、柴野正史。正人の長男だ。

 都内のアパートかホテルにいる正人が、子供たちには油断して固定電話から連絡したのではないかと、そこに賭けたのだ。


[chapter:19]


 木戸山は賭けに勝った。

 ここ二か月半以内に、正人の長男である正史のスマホにかかってきた固定電話の番号は数件しかなかった。木戸山はそれを瞬時に暗記し、忘れないうちに急いで夜道で手帳にメモした。後は一つひとつネットで照合すれば、正人と歳蔵の居場所がわかる可能性は高い。

 そして、帰宅して、インターネットで電話番号を検索して、なんだかんだあって、結局二人の居場所を突き止めた。

 都内のあるホテルだった。ビジネスホテルではない、そこそこ高級なホテルだ。

 ホテルによってはいくつもの回線を持っているところもあるらしいが、長男・正史のところにかかってきた番号は、正人と歳蔵が滞在しているホテルの代表番号だった。

 これでいちおう、俊人からの依頼はまっとうしたことになる。


[chapter:20]


 俊人は、兄の正人と父の歳蔵が滞在しているホテルに電話を入れた。

 名前で呼び出してもらう。

 正人が出た。当初は驚いていたようだったが、俊人が芳美との電話での会話で疑問を持ち、探偵の木戸山零を雇って調べたと聞いたら、納得したようであった。とくにあわてている様子はなく、俊人がそのホテルに来たい、というならば来い、と言ってきた。

 俊人はボディガードとして、木戸山にも来てもらうことにした。

 いくら体を鍛えているとはいえ、四十三歳の木戸山がどの程度役に立つのかわからないが、一人で手ぶらで出向くよりはマシだろう。

 それに、木戸山には秘密兵器があった。あまり使いたくない兵器だったが。

「よう。重ねて言わせてもらう。ご苦労だったね」

「まあ、できるだけのことはしたつもりです」

 俊人と木戸山はホテルの前で落ち合った。俊人の言葉に、木戸山は頭を軽く下げた。そして二人は、ホテルの中に入っていく。

 俊人がホテルのフロントで、正人に来たと伝えるよう頼み、部屋番号をホテルマン経由で教えてもらうと、俊人と木戸山は二人がいるという三〇二号室に向かうためにエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターから降りて三〇二号室のドアをノックすると、悪びれることなく、正人が出迎えた。

「よっ、ひさしぶりだな」

 中に入ると、椅子に座った歳蔵が「おお」と右手を挙げた。室内だからなのか、二人ともマスクはしていなかった。喚起のために、窓は開いていた。

 歳蔵と俊人が取った三〇二号室は、とても広かった。そして中も豪華だ。

 高価そうなテーブルと、その両側に椅子があり、テーブルの上には書類のようなものがたくさん散らばっていた。

 その片方の椅子に、歳蔵は座っていた。

「そっちのテーブルは仕事用だから、こっちに座ってくれ。君が木戸山君か。あなたもね。私もそっちに移る」

 別の場所に、もう少しくつろげる感じのテーブル一つとソファが四つあり、俊人と木戸山は歳蔵から、そこに案内された。

 言われるがままに、俊人と木戸山はソファに座り、正人も歳蔵も他の二つのソファに座った。

 俊人と木戸山、正人と歳蔵は向かい合った。

 緊迫したような、そうでないような、妙な空気が四人の間を流れる。

「まさかここを突き止めるとはね。木戸山君、あんたはなかなか優秀な探偵らしい」

 正人は口元にうっすら笑顔を浮かべて言った。

「まったくそのとおりだな。むしろ、探偵にしておくのがもったいないよ」

 歳蔵も正人に合わせるようにそう言った。

「ま、探偵なんかよりも役者で売れたいと思っているんですがね。最近の役者は、自分で見込みがないと悟ると二十代でやめてしまうと劇作家の鴻上尚史が言ってましたから、僕はとっくの昔にダメってことになるのかな」

 木戸山は自嘲気味に言って肩をすくめた。歳蔵と正人は、彼の言葉を黙って聞いていた。

「木戸山零君と言ったね。君も『名探偵』なら、登場人物を集合させて謎解きを開陳したいんじゃないのか? 君も含めて四人では少ないかもしれないが、今ここでやってみたらどうかね」

 歳蔵が言うと、木戸山はゆっくりと立ち上がった。

「そうしたいのはやまやまなんですがね、この『事件』は『犯人はだれでした』で済む話ではないんですよ。もっと柴野家に根差した問題だと予想しています」

「根差している?」

 正人が聞き返す。

「俊人さんからいろいろと柴野家のことは聞きましてね。それと、僕は『探偵』ではありますけども、推理を駆使する『名探偵』ではありません。じゃあ何を使うかというと、直観です(ちなみに、ある名探偵が使う「本質直観」ではありません、と言おうと思ったが、この場にいる三人にはわからないと思って、言うのをやめた)。でも直観というのは、データがある程度そろわないと正しい方向に行かないんですね。そこで、少々立ち入ったことも俊人さんからいろいろと教えてもらいました。その上で、直観していることがあります」

「何だつまらないな。推理ものかと思ったらハードボイルドだったということかな。それとも、探偵ものを装った『探偵風』の二時間ドラマか。いずれにしろ、何を直観したか行ってみたまえ」

 歳蔵はあからさまに失望した顔をした。隠居する前の顔に戻っているな、と正人と俊人は思った。仕事をバリバリこなしていた頃の、力強い父親の顔だ。

 彼は椅子に深く腰かけ、両ひじをソファのひじ掛けにそれぞれ乗せ、顔の前で手を組んでいた。だれが観ても尊大と言える態度だ。

「では言います。柴野歳蔵さんと正人さん、あなたたちがこの部屋でつくろうとしていたのは、『新しい遺言状』でしょう」

 

[chapter:21]


 歳蔵と正人、そして俊人までが驚いた顔をした。歳蔵と正人は、顔を見合わせた。

「やっぱり、ビンゴですね」

「なぜわかった? しかも『新しい』遺言状とまで」

 そう言ったのは正人だった。よほど木戸山零を下に見ていたのか、手の込んだテーブルマジックでも観たような顔をしている。

 歳蔵も、驚きのあまり口を開けたまま、次に語る言葉を探していた。

 木戸山は、自分の直観が当たったことで、すべてを把握できたと感じていた。

 そして説明を始めた。

「財をなした老人が考えることと言ったら、子供たちへの遺産分割でしょう。歳蔵さんはいくつもアパートを持っているというし、数十年前とはいえ、改築した自宅は立派なものでした。そして何よりも、持っているいくつかの土地の価格がバカにならない。

 歳蔵さんは、僕の年上の友人である俊人さんの前では大変言いづらいのですが、彼の行く末を心配していた。どうやって食べているのか判然としないし、長男からいくばくかのお金をもらっていることはうすうす気づいていたが、自分が死んだ後、どうやって暮らしていくのか、はなはだ心もとない。

 そこで、兄の正人さんと弟の俊人さん、その二人でどちらかと言えば俊人さんの相続が有利になるような遺言状を、シミュレーションして書き残していた。公正証書遺言か、自筆証書遺言かはわかりませんが、僕の勘では自筆だったんじゃないかと思います。違いますか?」

「ううむ、そのとおりだ。それも直観か?」

 歳蔵は木戸山にたずねた。

「ええ、直観です。遺言状は今では昔の映画に出てくるように絶対的なものではないので、俊人さんに極端に有利な内容にしたとしても、歳蔵さんの死後、思い通りになるとはかぎりません。したがって、公正証書遺言のようにしっかりしたものは書いていないのではないかと考えました。公正証書遺言をつくるのには手間と時間がかかりますからね。ただ、自分の『理想』を書き留めた、そんなところだったんじゃないでしょうか。しかし、ただのメモ書きではなく、やはりそれは法的効力があるものだった。そしてそれを、昨年末の大掃除の際に、正人さんは見つけてしまったのです。そうですね?」

「そうだ。なぜそんなことがわかるんだ?」

 正人も木戸山の直観に驚き、姿勢をただして座り直し、彼の顔を見つめた。

「歳蔵さんと正人さんは親子でも非常に性格が似ていますね。二人とも一代で大きな財を成している。女性に対しても貪欲なところがある。北川眠兎がかつて歳蔵さんの恋人であり、後に正人さんの愛人になっているとは驚きました。女性の好みも似ているのかもしれません。歳蔵さんは、本当に失礼な言い方で申し訳ないのですが、生活力のない次男の俊人さんを心配し、正人さんも弟の俊人さんを心配して仕送りしていた。ただ二人の意見が完全に一致していれば問題はなかったのでしょうが、正人さんは大掃除の際、見つけた歳蔵さんの遺言状を見て……。ああ、本来、自筆証書遺言は封を開けて中身を見てしまうと後々面倒なことになるのですが、遺言状を持ち去った正人さんは、とにかく中身を見てしまった。そして非常に複雑な気分になった。たとえ後々法的に是正できるとしても、そもそも歳蔵さんが俊人さんの方に目をかけている、そのこと自体に激しい嫉妬心を燃やすことになったのです」

「ずいぶん見てきたような物言いをするじゃないか」

 正人は心情を木戸山に言い当てられたらしく、顔が引きつっていた。

「だいたい、昨年末に大掃除を手伝う、と言い出したのも、その前に歳蔵さんから『遺言状を書いている』とほのめかされ、それを探し出すためだったんじゃないんですか?」

 木戸山は正人にたずねると、正人は不機嫌そうにそっぽを向いた。

「ふん、それはさすがに推測が過ぎるだろう」

 「まったくの当てずっぽうではありません。なぜなら、まず正人さんと歳蔵さんは、このホテルの一室でつい先ほど、『新しい遺言状』を書こうとしていると認めました。『新しい遺言状』を書いたことを認めたということは、『古い遺言状を見た』ということです。そして『古い遺言状を見た』ということは、その存在を知っていたということですから。偶然見つけた、という可能性も考えましたが、息子二人を連れて父親の家を大掃除する、という不自然さを考えると、その存在を知っていて、わざわざ東京に探しに来たと考えた方が自然です」

「フン、なるほどな」

 正人は悔しそうに、そう言った。ホテルの部屋に入ってくるなり、木戸山から「新しい遺言状」といきなり言われて認めてしまった自分が愚かに思えた。

 木戸山は続ける。

「これまた推測ですが、歳蔵さんが何かの拍子に、具体的には昨年、『自分は遺言状を書いている』と正人さんにほのめかしたのでしょう。それがいつのことかまではわかりません。電話でのちょっとした会話だったかもしれません。そして正人さんは、その中身を激しく観たいと思った。しかし直接『見せろ』と言って歳蔵さんが見せるとは限らないし、元来遺言状というのは生前、遺産を相続する側に見せて回るようなものではないんじゃないですかね。必ずモメますから。生前にああしてほしい、こうしてほしいと子供たちから言われるなら、面倒な遺言状を書く意味がありません。そこで正人さんが苦肉の策として考えたのが、『大掃除の手伝い』です。歳蔵さんの部屋の、法律的な書類が入っている箱にはいじった形跡がありましたからね。そこに入っていた遺言状を読み、持ち去ったのでしょう」

「なぜおれがいじったとわかったんだ?」

 正人がたずねる。

「今どきは、素人でも指紋を採取する方法くらい、ネットで調べればわかります。指紋採取キットが販売されているくらいですからね。歳蔵さんの法律関係の箱の中のクリアファイルや書類には、二種類の指紋が付いていました。クリアファイルはとくに指紋が付きやすく、一年くらいは消えないそうですね。箱の中の歳蔵さんのクリアファイルから指紋を検出し、法律関係以外の書類から検出した指紋と比べたら、二つの指紋のうち一つは合致しました。つまり歳蔵さんの指紋です。もうひとつの指紋はだれのものかわかりませんでしたが、俊人さんの指紋は本人から検出でき、歳蔵さんの書類には付いていなかったので、消去法で言えば正人さんかその家族のものでしょう」

「まあかなりの当てずっぽうだとは言え、よく当てた。ほめてやる」

 正人は不満げに言った。

[newpage]

[chapter:22]


「正人さんは、歳蔵さんの遺言状を持ち去り、中身を読み、そして考え込んだ。いちばん手っ取り早いのは破り捨ててしまうことですが、正人さんは、法律的にどうこう、とか財産分与がどうこう、というより、歳蔵さんが財産分与を通して自分より俊人さんに愛情を注いでいるように思えたことを強く問題視したのでしょう。簡単に言えば嫉妬心です。あるいは月々、仕送りをして俊人さんの面倒を見てやっているのに、そのことを知っているのか知らないのか、さらに俊人さんに愛情を注いでいる(かのように思える)歳蔵さんへの割り切れない思いがあったのだと思います。

 どうしようかと思っていたとき、新型コロナウィルスの騒ぎが起きた。自分の住むXXX県XXX市には、感染者などほとんど出ていないというのに、東京では大変なことになりつつあるらしい。正人さんは、この「騒動」を利用して、歳蔵さんを連れ出したのです。一度はXXX県XXX市の自宅へ行き、写真や動画を撮って俊人さんにとってのアリバイをつくり、再び都内に戻る。そして、このホテルで歳蔵さんに新たに「公正証書遺言」をつくることをせまったのでしょう。つくるのは面倒で時間がかかりますが、手書きの遺言状より書いた人の死後、扱いに面倒が少ないですし、何となく手書きのものより説得力がある感じもします。そこで俊人さんよりも自分にずっと有利な遺言状を歳蔵さんにつくってもらう。そうやって後々、俊人さんを見返したい……そんな子供じみた感情から、歳蔵さんを連れ出したのではないでしょうか」

 そこで初めて、俊人が口を開いた。

「木戸山の言いたいことはだいたいわかった。じゃあなんで兄さんはXXX県XXX市の自宅でその作業をしなかったんだ?」

 俊人の疑問に、木戸山は即答した。

「『公正証書遺言』には保証人が二人必要だからです。人間関係のまったくないXXX県XXX市では、歳蔵さんが保証人を選べないでしょう? まあ正人さんの知り合いを呼んできてもいいのですが、歳蔵さんに『公正証書遺言』をつくらせる心理的障壁を低くするためには、昔から付き合いのある友人などに証人になってもらった方が良いと判断したのでしょう。ちなみに『公正証書遺言』は手続きだけなら一般的に二~三週間でできます。正人さんは、XXX県XXX市の会社でも権力を持ち、かなり行動の自由が利くのだと思います。そこで、だいたい『公正証書遺言』作成に一か月くらいは見ていて、東京で製作した後は、XXX県XXX市に戻る気でいたのでしょう。そんな感じで、正人さんと歳蔵さんがXXX県XXX市に行ってから、東京に舞い戻った理由は説明できると思います。あ、このホテルの場所は、息子の正史さんから探りました」

 長々と話をしたので、木戸山はひとつ、咳をした。

「まあよく直観でそこまでわかったな、おれからも賞賛したいよ」

 歳蔵も感心し、音の出ない拍手をした。

「で……」

 俊人が人を信じられなくなった、というような表情で言った。

「で、父さんと兄さんは、実際に兄さんが有利になるような遺言状を、ここでつくっていたのか?」

 歳蔵も正人は、顔を見合わせバツの悪そうな表情になった。

 歳蔵は俊人から目をそらし、済まなそうに頭をかきながら言った。

「おれもずいぶんと正人にいろいろ言われてしまってな。一緒にいる間中、『もともとの遺言状の内容をなんとかしてくれ』と言われて……。この件が、ただの正人の嫉妬心から来るものなら、おれが死んでも正人はおまえを見捨てることはないと思ってな。このご時世、おれもいつ新型コロナウィルスに感染するとも限らず、どうしたものかと悩んだのだが……。正人の言うとおりの遺言状をつくろうと、ここ数日、説得されていたところだったんだよ」

 俊人は歳蔵の言葉に、何と答えていいかわからなかった。歳蔵と正人が二人並んでいるところを見ていると、自分はこの二人から疎外されているのではないか、という気分がどんどん強くなってきた。歳蔵は当初、自筆で俊人に有利な遺言状を書き、兄の正人からは仕送りをもらっているにも関わらず、だ。


[chapter:23]


「で、俊人は何かおれたちに言いたいことがあるのか? 遺言状をつくらないでほしいとか?」

 正人は俊人の目を見て言った。もともとの遺言状が、歳蔵の俊人に対する愛情を現したものなら、新たな正人寄りの遺言状など、つくってほしくはない。しかし歳蔵本人の気持ちが揺れている以上、「新しい遺言状をつくるな!」と言ったとしても、歳蔵の気持ちを変えることになるのだろうか。

 俊人は、この場で何をどう言っても恥になるような気がした。自分がふがいないから、五十代以降の人生をどうしたらいいかわからないから、歳蔵や正人の気持ちが揺れているのではないか。そのことを考えると、自分が情けない。

「俊人さん」

 木戸山が急に口を開いた。

「探偵として、真相を解明した後に差し出がましい口を利くものではないとは思いますが、自分の権利は自分の権利として主張した方がいい、と僕は思いますよ」

 木戸山の言うことはもっともだ。遺産相続とは相続する側にとっては、権利のひとつである。正人の子供じみた振る舞いに振り回される必要はない。しかしこの件、考えるほど子供じみている。遺言状を嫉妬心から書き換えさせようとしている兄の正人もそうだが、説得されかかっている父親もどうかしている。

 歳蔵は、若い頃は精力的に仕事をこなす「強い父親」だった。それが今では弱気になってしまったのだろうか。

 俊人がどう決着を付けようかと考えているとき、正人のスマホが鳴った。

 だれからかかってきたかわかるなり、正人は苦い顔をしたが、電話には出た。

「なんだよこんなときに」

 正人の発した言葉の内容からすると、かなりどうでもいいことのようだった。正人は通話を終えると、電話を切った。

「だれだったんだ?」

 歳蔵が聞くと、正人は最初は「何でもない」と言っていたが、木戸山の顔をチラリと観た。

 直観だか推理だか知らないが、木戸山みたいな男がそばにいるなら、いずれバレてしまうだろう……。正人は観念し、電話の相手の名前を言った。

「北川眠兎だよ」

「北川眠兎!? なぜ彼女から今!?」

 俊人は驚いた。ずいぶん昔の恋人の名前だったからだ。

「今は、おれの愛人なんだ」

 正人は、なぜか遺言状の製作は秘密裏に行っていたくせに、愛人の存在はあっさりばらしてしまった。

「えっ!?」

 俊人は、驚きのあまり甲高い変な声が出てしまった。

 木戸山は、今回の件とも関係がないことでもあるし、知れば俊人が傷つくと思い、北川眠兎が兄の正人の愛人になっていることは、言わずにおいた。しかし、結局思いがけないところからバレてしまった。

「遺言状の件がバレてしまった以上、また秘密が出てくるとこじれてしまうので正直に言うが、北川眠兎とはXXX県XXX市のおれの家で、同居しているんだ。もちろん、妻の芳美も一緒だ」

 正人は済まなそうに言った。北川眠兎が俊人と付き合っていたのは八年も前だから、恋人を寝取ったと判断すべきかは微妙なところだ。何しろ、現在の俊人は北川眠兎とは何の関係もないのだから。

 しかし、俊人があまりいい気分ではないのは間違いないだろう。

「その前は、おれの恋人でもあったんだよ。彼女がおまえと付き合う前はな」

 歳蔵も照れくさそうに言った。口元には笑みを浮かべていた。それで場が和むとでも思ったのだろうか。

 歳蔵と眠兎が付き合っていたことはすでに終わったこととして片づけていいのかもしれないが、眠兎が正人の愛人であることは現在進行形だ。

 別に北川眠兎が今、だれと付き合おうがまったく自由のはずだが(不倫という道徳的な面は置いておくとしても)、正人の「今は、おれの愛人なんだ」のひと言で、俊人の頭はスパークしてしまった。

 これは理屈ではないのだ。

 俊人の顔は、血の気が引いて真っ青になっていた。


[chapter:24]


 歳蔵と正人。

 彼らは俊人にとって、何だったのだろうか。

 情けをかけてもらっているだけ、辛い。

 しかも、兄の正人は、俊人に対して情けと同時に嫉妬心も持っているらしい。

 それが、今回の「遺言状書き直し」の件につながっている。

 正人は俊人をどうしたいのだろうか。

 彼は立派に地位を築き、それなりの財を成したではないか。跡継ぎだっている。

 どこに恥じることもない。

 父の歳蔵もそうだ。

 地位を築き、財を成している。子供もいる。

 遺言状を書き直すなどというのは、彼ら二人にとっては遊びに過ぎないのではないか?

 しかし俊人、自分はどうだ。

 兄から仕送りをもらって、細々と暮らしている。

 四十代になって詰んだことが、五十代になって好転するわけもない。

 新型コロナウィルスには、ずっとイライラさせられている。

 たぶん、六月以降もそうだろう。

 テレビに映る、タレントとタレントのソーシャルディスタンスを開けて閑散としたワイドショー。

 お笑い番組では、人と人との間にアクリル板を立てて、漫才でツッコミが頭をはたくこともできない。

 海外に至っては、もっとひどい。

 欧米人は、新型コロナが恐くないのだろうか?

 それとも、ただの無策か(国にもよるが)。

 「新型コロナは風邪だ」と言いきる人たち。

 「新型コロナは不安だ」と言うと、怒る人たち(田茂沢蘭堂のように)。

 心配して怒られる。

 なんでだ?

 何も悪いことをしていないのに、批判される。

 テレビに五十三歳の男性が出てくると、ハッとさせられる。

 自分も、この男性と同じくらい老いているのだと。

 自分の顔も毎日鏡で見ているが、ひいき目に見ているからわからないのだ。

 だが、同年代の他人の顔を観ると、「これがおまえだ!」と言われているような気がする。

 その人が人生でたとえ成功していても、失敗した自分自身に見えてくる。

 これがおまえだ、おまえだ、おまえだ―――――。

 人生で何も成すことができなかったおまえだ!

 俊人の頭の中はぐるぐると何かが回転し、強烈なめまいが襲ってきた。

 そして何かを決意したようだった。

「木戸山! 追加仕事だ。特別料金は払う。豪霊無(ゴーレム)を! 豪霊無を出してくれ!!」

 俊人は立ち上がって叫んだ。

「いいんですか? 大変なことになりますよ。『特別料金』ってのは、本当の意味での特別料金だってことを忘れないでください!」

 木戸山は驚いて言った。

「かまわん! やってくれ!」

「豪霊無(ゴーレム)! 出番だ!」

 俊人の叫びに応じて木戸山零が叫ぶと、ドアが何者かの力によって一気にふっとんで、しかもドアが開いても入り口が小さすぎて入れないのか、バリバリと音がして入り口の上の部分にひびが入り、上の部分の壁が破壊された。

「ウォーッ!!」

 聞いたこともない獣の雄叫びが、せまいホテルの部屋の中に轟いた。

 入り口を自分の力で破壊し、入れるように大きくして中に飛び込んできたのは、身長が二メートル三十センチ以上ある巨漢だった。


[chapter:25]


「ウォーッ!!」

 ものすごい叫び声が、再びホテルの部屋に響き渡った。

 自ら破壊し、広くした入り口から部屋に飛び込んできた大男は、肩からぼろぼろのカバンを下げていた。何が入っているかはわからない。

 服装はかなり汚く、軍服のような学生服のような不思議なものだった。あちこち破れてもいた。ところどころにつぎが当たってもいる。

 無造作に刈り込んだ短髪、フランケンシュタインの怪物のような恐ろしい顔。顔に傷跡などはなかったが、何度も殴られたことがあるようで輪郭がゆがんでいる。それも素手で殴られたのではなく、何らかの固い棒で殴られたような顔だ。ひどい乱杭歯で、くちびるの間から歯が何本か飛び出している。

 その中でも二本の犬歯がとりわけ大きく、牙のように飛び出していた。

 目は大きく、瞳も大きかった。にらみつけられただけで心臓が止まりそうな、恐ろしい目だった。

 不動明王の魂が人間に宿ったような、そんな迫力を全身から発散させている。

「やれ! 「豪霊無(ゴーレム)!」

 木戸山が命令すると、豪霊無と呼ばれた大男は、即座に正人と歳蔵に襲いかかった。二人は逃げる間もなかったし、叫び声をあげる間もなかった。豪霊無は右手で歳蔵、左手で正人を掴むと、喚起のために開けていた窓ではない方の、閉まっている方の窓に向かって、二人を子供が飽きてしまった人形を放り投げるように、放り投げた。

 バリーン! という音がして正人と歳蔵はガラスをブチ破り、三階の部屋から何十メートルも遠くに飛んで行ってしまった。

 ものすごい勢いで投げ飛ばされた二人は、宙を舞って黒い点になり、消えた。

「ウオオーッ! ウオオーッ!」

 二人を放り投げた豪霊無は、まだ暴れたりないといった風に、叫び声をあげた。

 その声によって、割れてしまったガラス窓と、喚起のために開けていた窓のガラス、双方が振動でビリビリと音を立てた。


[chapter:26]


 東京の歳蔵と俊人の住む家にも、豪霊無はやってきた。後ろには俊人と木戸山が控えている。豪霊無は、猛獣のような叫び声をあげながら、歳蔵が昔、改築した家をブッ壊し始めた。

 豪霊無の怪力で何本もの柱は割りばしのようにへし折れた。壁はせんべいのように割れて砕け散った。屋根も床も、何もかもが豪霊無によってめちゃくちゃに破壊された。

 後には瓦礫しか残らなかった。


[chapter:27]


 東京の歳蔵の家がめちゃめちゃに壊されて半日ほど経った頃、豪霊無はXXX県XXX市の、正人の豪邸の前に立っていた。

 後ろには、後見人のように俊人と木戸山零が突っ立っている。

「豪霊無、やれ。正人の命令だからな」

 木戸山が気の進まぬ様子で言うと、豪霊無はもはや人間の声とは思えぬ轟音を口から発した。まるでゴジラだな、と俊人は思った。

 豪霊無は、正人の豪邸の豪華な門を両手で掴んで飴細工のようにグシャグシャにした。

 それをまるめてポイと捨てると、その「門だったもの」は、通りを隔てたまったく無関係の家の窓ガラスをブチ破った。

「がああああっ!」

 豪霊無は、ドアに両手の十本の指を突き刺す。豆腐に入れるように指は潜り込み、そのままユッサユッサと揺らすと、ドアはすぐにはずれた。それを豪霊無はまた後ろに放り投げると、さっき「門だったもの」がブチ破ったご近所の家の窓に、見事に「ドアだったもの」が飛んで行って家の中に飛び込んでいった。

 正人の家の中に入ると、ものすごい音に気付いた妻の芳美と、愛人の北川眠兎が飛び出してきた。

「いったい何があったの!?」

 驚く芳美に、俊人は言った。

「いいから裏口から逃げろ。一度命令した豪霊無は、僕にも木戸山にも止められない!」

 芳美はこれは危険だと思ったのか、すぐに踵を返すと裏口の方に向かっていった。

 別の方向から、正人の愛人である北川眠兎もやってきた。

「俊人さん、木戸山くん!? どうしたのこれは!?」

 芳美と同じように眠兎は驚いたが、俊人は彼女にこう言った。

「きみも早く、裏口から逃げるんだ。もうこの家はおしまいだ」

 北川眠兎は、暴れ狂う豪霊無を見つめて一瞬凍り付いたが、何も言わずに芳美と同じように逃げていった。

 豪邸は、まるでユンボが入ったかのように豪霊無によってものすごい勢いで破壊され、歳蔵の家と同じように柱が何本も叩きおられ、壁も粉々になり、床もメチャクチャになり、電気設備が破壊されたせいかどこかから火が出て、それが燃え広がった。

 完全に火事になってしまうと、俊人と木戸山は炎の激しさにその場にいることができず、外に出た。

 救急車やパトカーが来る頃、炎の中から豪霊無が出てきた。身体のあちこちに火が燃え移っていたが、気にしている様子はなかった。

 火事はものすごい大火になろうとしていた。

「こっちに軽トラを用意している。それに乗り込め」

 木戸山は、パトカーから出てくる警官が走ってくると、手ばやく俊人と豪霊無を誘導した。

 俊人が木戸山を追って走っていくと本当に軽トラが止まっていて、木戸山が運転席、俊人が助手席に乗り、豪霊無は荷台に飛び乗った。

 豪霊無は巨体のわりにおそろしく身軽だった。

 軽トラはそのまま出発し、XXX県XXX市のどこかに消えた。


[chapter:28]


 軽トラはXXX県を出て〇〇県まで行き、県境で木戸山たちは別の軽トラに乗り換えた。警察をまくためだ。木戸山は〇〇県の出身で土地勘があり、妙な道や車を隠して止められる場所をよく知っていた。そこで乗り換えた軽トラで東京まで行き、晴海近辺の埋め立て地で木戸山たち三人は、それを乗り捨てた。

 だれも追ってこなかった。警察をふりきることには成功したようだ。

 フェリーターミナルの近くである。

 このあたりはよく、ドラマのロケに使われている。近くに公園があり、そこで家族連れや若者たちがバーベキューをやっていたりもするが、そうした目的がないかぎり、わざわざ人が来るところではない。

「こういうところでないと、こいつはのんびりできないんだよ」

 木戸山は、身長二メートル三十センチの巨人である豪霊無の腰の上あたりをポンポン、と叩いた。豪霊無が大きすぎて、背中に手が届かないのだ。

「いろいろありがとうな。じゃ、これ特別料金」

 俊人は、分厚い封筒を木戸山に渡した。中には札束が入っている。木戸山はチラリと中身を確認すると、すぐにジャケットの内ポケットにそれをしまった。

「少しゆっくりしようや」

 俊人は、木戸山と豪霊無にそう呼びかけた。豪霊無も野獣のような凶暴性は鳴りを潜め、瞳には知性が宿っている。今までやったことを感慨深げに思い返しているような顔をしていた。

 日が暮れかけて、海の対岸にあるたくさんのビルの灯りが、美しい夜景をつくり出そうとしていた。夜景となる寸前の、夕暮れどき。寂しいような、悲しいような、そんな雰囲気だった。俊人と木戸山と豪霊無は、三人でそのあたりを歩いた。

「彼は、プロレスラーにも総合格闘家にも、役者にもなれなかった男なんですよ」

 木戸山は、豪霊無について話し始めた。

「出会ったのはどこだったかな。僕が探偵仕事で人探しをしているとき、半グレにからまれて、袋叩きにあいそうになったときに、助けてくれたのが最初だったと思う」

 豪霊無がうなずいた。

「何度も助けられているから、記憶が曖昧なんだよね」

 木戸山は豪霊無の顔を見て、頭をかいた。

「それ以来、仲良くなったんです。当時彼は役者を目指していてね。プロレスラーも、総合格闘家にもなれないとあきらめていた頃でした」

 豪霊無は、まず最初にプロレスラーになろうと思い、ある団体に入門する。

 しかし、そこの団体は試合のストーリーを非常に重んじるところだった。他の団体はどうか知らないが、とにかくそこはそういう方針で、逆らうことは許されない。プロレスは真剣勝負だと思っていた豪霊無はそこでもめてしまった。さらに、上下関係の理不尽さにもいちいち反発したので先輩たちから嫌われた。オーナーにも毛嫌いされ、他のプロレス団体にも入れないように、と回状を回されてしまった。

 ちなみに「どうせレスラーになれないのなら」と、最初にもらった「豪霊無(ゴーレム)」という名を、今も使用している。この名前が、妙に気に入っていたのだ。

 次に総合格闘家を目指したが、身体が大きすぎる彼は試合をしてもウェイト制での試合を組むのがむずかしく、たとえ実現してもあまりに彼が強すぎて、観客は面白くなかった。

 彼が勝っても、客は湧かない。そしてここでもバカ正直なところが災いし、人間関係のトラブルを起こして締め出されてしまった。

 木戸山と出会ったときは、自分の巨体を生かしてヤクザか半グレの用心棒にでもなろうかと思っていたところだったが、そういう世界こそ理不尽の塊のようなところだから、やはりなかなかうまくいかないと豪霊無は感じていた。

 木戸山も役者の端くれである。豪霊無に役者への道を開いてやろうと、自分の劇団を持っている田茂沢蘭堂に相談した。しかし、彼の反応も良いものではなかった。

 その頃、田茂沢が目指していたのは、普通の人々のちょっとした心の触れ合い、すれ違いを描いた「静かな芝居」で、身長二メートル三十センチの豪霊無には出る幕がない。何とか預かってやってくれませんか、と木戸山が頭を下げたが田茂沢がウンということはなかった。

「それがきっかけで、僕は田茂沢さんと袂を分かち、よその小劇団に入ったんですよ」

 木戸山とは長い付き合いだったが、俊人はその事実を初めて聞いた。

「じゃあ私立探偵以外の『ヤバい仕事』というのは……」

 俊人がそう言いかけると、木戸山はこう言った。

「そうです、豪霊無との仕事です。僕はマネージャー、こいつが実際の仕事をする、っていう関係でね」

「そうだったのか、『特別料金』の仕事というのが、それだったんだな」

 俊人は納得して、うなずいた。


[chapter:29]


「じゃあ、最後の仕事をやってもらおうか」

 俊人は、そこらを木戸山と豪霊無の二人で歩き回って、気が済んだようだ。

「本当にいいんですか」

 木戸山が心配そうに言う。

「いいよ。もはやオヤジの歳蔵も兄貴の正人も、ホテルの窓から豪霊無に放り投げられて、いったいどれくらい遠くまで飛んでいったのか、生死不明だ。おれだけのうのうと生きているわけにはいかないよ。それに、コロナ禍で世界は変わってしまった。いつもとに戻るかわからない。今、五十三歳で無職のおれには、コロナで変化した世界にも、一度変化した後で元に戻った世界にも、居場所はないような気がするんだ」

「僕はそうは思いませんけど、俊人さんがそう言って譲らないなら仕方がありません。じゃ、豪霊無」

 木戸山が目くばせすると、豪霊無はうなずき、俊人のえり首をひっつかんだ。

「じゃあな。君との飲みはいつも楽しかったよ。また探偵としても世話になった」

「僕も俊人さんといろんなことをやって、楽しかったです。別れは残念です」

 俊人と木戸山は握手をした。新型コロナの観点から言えば濃厚接触だが、まあ最後だからいいだろう。

「豪霊無、やってくれ!」

 俊人が叫ぶと、豪霊無はうなずき、野球のボールを投げるような投げ方で、俊人を思いきり海に向かってブン投げた。

 驚くほどの高度と飛距離で、俊人はクルクルと回りながら夕暮れの海上を飛んでいった。そして、豆粒くらいに小さくなってから、放物線を描いてポチャン、と海に落ちた。


[chapter:30]


 木戸山と豪霊無はしばらく、俊人がさざ波に飲まれていった海をながめていた。やがて日が落ち、どんどん夜景がきらめいてゆく。

「おまえと夜景なんて見たって、しょうがないよな」

 木戸山が豪霊無の腹を拳でドン、と叩くと、豪霊無は悲しみをたたえた笑みを浮かべた。鋭い二本の犬歯と、乱杭歯がむき出しになった。

 二人は海を横目で見ながら、歩き去っていった。


[chapter:終章]


 数時間後、柴野俊人は数キロ離れた別の岸から陸に這い上がり、ずぶ濡れのまま倒れているところをたまたま通りかかった人に発見され、救急車で病院に運ばれて一命をとりとめた。

 一週間後退院し、木戸山零のアパートに転がり込んで、「押しかけ助手」として木戸山と豪霊無の仕事のアシスタントをすることになった。

「もう死ぬのはやめた!」と言いながらご飯を三杯もおかわりすることもある。

 木戸山零はため息をついた。俊人の飯代だけで、すでにもらった探偵料を食いつぶしてしまいそうである。

(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コロナの日々の憂鬱と探偵(二〇二〇年二月から六月) 新田五郎 @nittagoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ