向日葵

エル

 僕にはわからない。

 目の前に飾られた向日葵の絵を、作者がどんな気持ちで描いたのか。

 この向日葵は、実物を見て描いたのか、それともただの想像か。


 僕にはわからない。

 僕の肩に寄りかかる彼女の浮かべる笑顔が、心からのものか。


 あるいはただの、仮面なのか。




+++




 高校生の頃だ。僕は塾帰りに友達とゲームセンターで遊ぶことが多かった。

 勉強を頑張った後の自分へのご褒美。受験生ということもあり、あまり夜遅くまではいられなかったが息抜きには丁度良かった。


 その日は雨が降っていた。雨が降っていたのに、カラスが飛んでいた。

 

「本降りにならないうちに帰ろうぜ!」


「うん。じゃあまた明日」


 そう言って友達と別れ、僕は薄暗い道を歩いて帰る。傘を持っていなかった友達の背中はあっという間に見えなくなった。

 今日の夕飯はなんだろう? 今日はいつもより早いからみんなと一緒にご飯が食べられそうだ。そんなことを考えながら鍵を開け家の中に入る。


 リビングには、妹しかいなかった。


「ただいま。父さんと母さんは?」


 部屋中にカレーのいい匂いが漂っている。夕飯はカレーか。

 何も答えない妹は、ただ静かに奥のふすまを指差した。


「もう寝てるのか? 早くない?」


 妹が答えないのはいつものことだ。思春期なんだろう。だから特に気にはならなかった。母さんや父さんには笑顔を見せていたし、普通に会話していたから。


 中にいるであろう両親を起こさないよう、そーっとふすまを開ける。中にいる2人が起きることはなかった。




 ──永遠に。

 



 流れてくる塩辛く錆び付いた匂い。薄暗くてよく見えないが、リビングから差し込んだわずかな光は、父さんの胸から生えた一本の包丁を見るには十分だった。

 反射的にふすまを閉め、妹を振り返る。


「……おい、どういうことだよ」


 その問いかけに妹が答えることはない。いつもならそれでもいいが、今回は訳が違う。胸ぐらを掴んで揺さぶると、妹は強引に僕の手を振り払った。

 逆に僕の手を掴んでどこかに引っ張っていく。連れて行かれたのは妹の部屋だった。


 最後に入ったのは何年前だろう? 記憶よりずっとさっぱりしているその部屋には、2つの大きなカバンが置かれていた。

 カバンというよりはリュックサックだ。無理やり背負わされまたどこかへ連れて行かれる。どこに行くんだと聞いても答えない。一言も発さないまま、僕らは夜の街へ飛び出した。



 手を引かれてついたのはラブホテル。普通のホテルは開いてないし、ここで夜を明かすんだろうか? 部屋に着いた瞬間、僕はベッドに押し倒された。


 なす術なく服が剥ぎ取られていく。妹は何かの心得があるらしく、全く歯が立たなかった。そうこうしている間に僕らは一糸纏わぬ姿になって……そのまま、一夜を越した。


 その時の妹のことは今でも思い出す。何かに絶望しているようで、何かを焦っているような。悲しんでいるようで、少し嬉しそうな。耳元で囁かれた声は、僕の記憶とはだいぶ違っていた。



「ごめんね……お兄ちゃん」




+++




 行為が終わってすぐ。僕らは服を着て向かい合っていた。


「ちゃんと説明してくれるんだろうな? 何でこんなことしたんだ」


 妹は下を向いたまま黙っている。悪いがそれはもう通用しない。


「ごめんねってどういう意味だ? 母さんと父さんは? 僕がいない間に何があった?」


 だんまりを決め込んでいた妹が、やっと口を開く。あまりに衝撃的な内容に僕の口は終始、開いたまま塞がらなかった。


「父さんが……父さんが、襲ってきたの」


「父さんが……?」


「うん。そういうこと自体は半年前からあって。でも避妊してたし、一緒に襲われてたお母さんからも黙っておけば何もないって言われて。言ったらどうなるかわかってるよなって父さんにも言われて」


 信じられない。僕の見てきた父さんは優しくて家族のためを思う立派な父さんだった。夜遅くまで仕事の時もあったけど、休みの日に動物園に連れて行ってもらったのを覚えてる。そりゃあ最近はあんまり話してなかったけど……でもそれは勉強が忙しいからで。


 一度話し始めた妹は止まらない。


「でも昨日は違って。父さんね、いっつも首絞めるんだけどね、昨日はいつもと違って強くって。避妊もしてくれなくって。私の後襲われてたお母さんが死んじゃって。それで怖くなって……父さんがお母さんに夢中になってる間に台所に行って包丁取って、刺したの。そしたらお父さんも呆気なく死んじゃって。どうしようって思ってとりあえず扉閉めて考えてたらお兄ちゃんが帰ってきたの」


「待て待て……じゃあ父さんと母さんは」


「うん。死んでるよ。ねぇ、私これからどうしよう……警察行った方がいいのかな……」


 そりゃあ警察に行った方がいいに決まってる。というか行かなきゃダメだろ。そう言おうとして飲み込んだ。


 もし警察に行ったら妹はどうなる? 殺人罪で逮捕……終身刑になる可能性だってある。未成年だから少年院? に行くのか? その辺よくわからないけど少なくとも僕らがもう会うことはないだろう。

 それにこの荷物。着替えや食料がこれでもかってほど詰められてる。初めから逃げるつもりだったんじゃないか? どうしようと言っているが、僕が警察に行けと言ったら……おぼろげな父さんの成れの果てが浮かぶ。僕もああなるのかもしれない。


 結局僕は、自分の命が大切だった。


「僕は警察に行った方がいいと思う……過剰防衛で捕まるかもしれないけど、そっちの方が人としては正しい……はずだ。でもお前が逃げたいならそれでもいいと思う。でも、決めるのは僕じゃない」


 素直に逃げろ、とは言えなかった。僕の中の良心がそうはさせてくれなかった。

 顔を赤らめている妹の目を真っ直ぐに見れない。妹がどっちの選択をするのか、多分僕はどこかでわかってたんだろう。だからそう驚かなかった。


「お兄ちゃん……一緒に逃げてくれる?」


 元はと言えば気づかなかった僕にも責任がある。その事実に気付いてしまった僕にはもう、選択肢など残されてはいなかった。


「あぁ。一緒に逃げよう」




 まだ朝までは時間がある。僕は一旦家まで帰り、足りない荷物をまとめて家を後にした。もうここに帰ってくることはないだろう。両親の死体に手を合わせる。

 さよなら、父さん、母さん。今まで育ててくれてありがとう。


 ホテルに戻り、妹と共にチェックアウト。スマホのロック画面には03:52の文字。


 僕らは駅に向かう。さぁ、逃げよう。幸せな日常から。残酷な現実から。

 次は何一つ、見逃さないよう目を凝らして。

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