第42話 ピノキオ

「ここは一体何だ?」

 前川は正直な疑問を口にした。

 まさに普通の、企業の持ち物としか思えない場所。ここに一体何の用事があるのか。

「僕が殺し屋としての生き方を教えられた場所です」

「なっ」

 答えた相沢の表情はとても硬い。どうやら外観に惑わされては駄目なようだ。そもそも非合法な殺し屋を、それも戸籍のなかった子どもを利用して仕立て上げたのだ。こっそりとそんな大掛かりなことをしようと思えば、このような外観になるのも頷ける。

「それにしても、生き方?」

「ええ――殺しの技術は二の次でしたね。俺たちに必要とされるのは政治的な判断のとおりに動けるか、ですよ。無学というわけにはいきませんからね」

 口調はおどけているというのに、相沢の目は深淵のように暗かった。どうやら教えられたことは、この国の政治についてばかりではなさそうである。

 それにしても、初めて見るその目を、前川は計りかねた。だが、相沢が他の犯罪者とかけ離れ、それでもなお平然と殺しを行える理由がここにある。

「それで、今から会う奴は」

「そうですね。言うなれば真の黒幕です」

「何だと?」

 前川は訊き返したが、相沢の様子を見て押し黙った。

 前屈みになり、両手を顔の前で組んでいる。まるで祈っているような格好だが、相沢は闇しか見ていないようだ。

 相手が手強いことは、昼間の電話で解っている。そんな相手を前に、相沢はどこまで殺さないという意思を貫けるだろうか。いや、相沢健一として生きるという覚悟を示せるだろうか。

 色々なものを捨てすぎたと相沢は言う。では、相沢が普通でいるために捨てたものとは、一体何なのか。殺し屋として生きてきてもなお、アウトローを感じさせない雰囲気。それを作り出すために捨てたものとは。

「もうすぐ十時です」

 スマホで時間を確認し、相沢は深呼吸してから前川を見た。その目に残っていたのは、意外にも哀しみだった。

「相沢、お前――」

「行きましょう」

 前川の言葉を遮ると、相沢は車を降りた。

 真冬に戻ったかのような寒風が吹き渡っている。まだ春は遠いのだろうか。

 建物を見つめる相沢の背に、前川はやはり言い知れぬ不安を抱いた。そのまま闇と同化してしまいそうな、危うさが滲み出ている気がした。

「相沢」

 鋭く呼んだ前川を見た相沢の目には、やはり哀しみしかない。だが、次の瞬間、相沢は何かを悟ったかのように笑った。

「大丈夫です。もう、独りじゃない。あなたがいる」

「そうだ」

 肯くと、前川の中から不安は消えていた。

 美咲と別れた時、相沢はまた独りかと呟いていた。それを、乗り越えられたのだ。今の相沢は確実に変化している。

「行きますよ」

 決然と相沢が言った。

 よろよろと歩く相沢を、前川はすぐに支えた。相沢は一瞬戸惑ったものの、素直に力を掛けてきた。

 建物の中は灯りが点いておらず、冷たい空気が張り詰めていた。中の作りも研究所のようだった。

「いるのは地下のはずです」

 相沢が非常口の扉に手を掛けた。

 薄暗い電灯に照らされた階段が現れる。それを、足並みを揃えてゆっくりと降りていく。その間、互いに一言も発しなかった。ただ息苦しいくらいの緊張感が二人を包む。

 地下二階まで降りると、相沢は一度躊躇ったものの扉を開けた。中はコンクリートの壁に囲まれた、小さな部屋だった。全体的に薄暗い。

 部屋の中央に椅子に縛りつけられた米田と、その横に悠然と立つこげ茶色のスーツの男がいた。

 こいつが、黒幕。

 前川は注意深く男を観察した。

 年はよく判らない。若くも老けているようにも見えた。不思議と多くの印象を与えない。口元に浮かんだ笑みが不気味だった。

 米田は相当痛めつけられたのか、ぼろぼろだった。喋れないように猿轡を噛まされている。前川を見る眼が、何故相沢を止めなかったと非難しているようだった。

「待っていたよ。殺人人形。操る者の手から逃れて自立しようとするとは、まるでピノキオだな」

「俺は人形じゃない」

 男の言葉を相沢は強く打ち消した。

 殺人人形。それは何度か出てきた言葉だ。しかし、前川はそれを相沢たちを貶めるために使っているのだとばかり思て知多が、それは相沢がずっと呼ばれてきた呼称だったと今になって気づく。

「どうかな。過去というのは思いの外消えない。どれだけあがこうと、君は人間との差を感じずにはいられないはずだ」

 男の浮かべる笑みが、どこか哀しげになる。驚いたことに、それは相沢が時折見せる目にそっくりだった。

「それが、あなたの出した答えですか?」

 相沢の発した問いに、男の顔が曇る。

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