第32話 もう少し先に言え!

「行きましょう」

 言いたいことはあったが、相沢はそれを飲み込んで立ち上がった。どういう結果が待っていようとも、自分をここまで受け止めてくれた前川を死なせるわけにはいかない。

 相沢の目に鋭さが戻った。

 それを見て前川は嘆息したが、意を決して立ち上がる。

 監視している者たちは、二人が出ていくのを目で追っている。しかし、相沢は店を出て数歩進んだところで、

「一旦監視を巻きますよ」

 それだけ言って走り出した。

「もう少し先に言え!」

 食べた直後の前川は思わず愚痴を零した。この後で走るんだったら、もう少し加減して食べていたというのに。

 相沢は少し加減しているのか前川が追いつける速度で走っていく。そんな中、慌てて後ろから追い掛けてくる足音は一つだった。

 どんどん小道に入って行くかと思えば大通りに出る。それを数度繰り返した。

「まだか」

 もう足音の確認が出来ない前川は叫んだ。

「あと一人です」

 冷静な相沢の声が答える。息ひとつ上がっていない。

「危ない」

 いきなり相沢は前川に体当たりした。前川は派手に転ぶ。その前川の目の前に、鉄パイプが振り下ろされた。

「うおっ」

 前川は後ずさったが、すぐに背中が壁に当たった。人通りのない、薄暗い路地だ。いつの間にかこんなところに入り込んでいたらしい。

「どこを見ている?」

 相沢の声が聴こえるも、姿が見えない。前川を襲ってきた男もきょろきょろしている。

 突然、相沢が二人の視界に飛び込んできた。なんと、相沢は地面に伏せて敵が油断するのを待ち構えていたのだ。

「っつ」

 男は鉄パイプを構える暇もなく、相沢の強力な肘鉄を鳩尾に食らった。うめき声もなく、男はその場に倒れる。

 警戒を解かずに相沢は男に近づき、懐を確認した。そこから出てきたのは、なんと警察手帳だった。

「何で」

 前川は思わず呟いた。

「昨日会ったあいつの仕業です」

 相沢は立ち上がると、無造作に警察手帳を男の胸に投げた。

「まさか、警察関係者なのか?」

「ええ。米田刑事部長ですよ」

「なっ」

 前川はついこの間、その米田と警視庁で会っている。何を隠そう、前川の捜査一課復職を決めた人物だ。

「どうして?」

「前川さんを押さえるためでしょう。刑事には刑事をぶつける。何とも彼らしいやり方です。それに、前川さんは相手が同僚だと気づけば手加減してしまうでしょうしね」

「なんてこった」

 危険と隣り合わせの世界は、やはり前川の理解が及ばない。誰が敵で誰が味方かが解らなくなる。

「大丈夫ですか」

「ああ」

 呆然となった前川だが、相沢の言葉に力強く頷いた。相沢に頼りっぱなしとはいかない。

「そうだ。彼に伝言させましょう」

 不敵に笑うと、相沢は伸びている男に近づいた。

 前川は胸騒ぎがしたが、あえて何も言わなかったし見なかったことにした。




 米田はいつものように黒のスプリングコートと中折帽を被り、相沢に指定された場所へと向かった。

 場所は昨夜会ったビルの屋上だった。

 ここへ来る前に、佐々木にも連絡を入れた。どういう反応をするかと思ったが、淡々としたものだった。やはり、政治家というのは読めない生き物だ。そんな奴らに、自分も相沢も命運を握られている。自分の意思というものは存在しないのだ。

「俺もまた、人形の一人なんだろうな」

 思わず独白が漏れ、苦笑してしまう。相沢という殺人人形は、どうしてこうも多くの人の心を掻き乱すのだろう。今までいた奴らは、操る奴らの思い通りに動き、解りやすい反発を示して始末されていったというのに。

 ビルの屋上に出た。

 春には遠い冷たい風が吹きすさんでいる。その屋上の真ん中に、相沢と前川が立っていた。前川の手には手錠が嵌められている。

「お前が果たし状なんて洒落たことをするとは、知らなかったよ」

 米田は口の端を吊り上げた。

「そうでもしないと、都内中の警官に気を配る羽目になりますからね」

 相沢も笑顔で返す。

 二人を見比べながら、前川は冷や汗を掻いた。まさか自分が出しに使われるとは思ってもみなかった。しかも前川の命の保証は、お互いのやり取りに口出しさせないこと。そんな約束が交わされている。

 納得はできないが、前川に手出しできる問題ではない。目の前にいる米田は、前川の知る刑事部長としての米田ではないのだ。相沢の今の立場を作り上げている人間の一人であり、ショウビを撃った犯人だ。あの状況下で正確に心臓を撃ち抜くなど、一般の警察官には出来ない芸当だ。それを考えると、彼もまた特殊な一人と言える。

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