南部人
王国南部子爵領は、領主の城という物が無い。
他の地域から見ればそれは違和感を感じるものだが、それには大きな理由がある。
他の地域と比べて圧倒的に農地に出来る土地が少なく、領主であっても兎にも角にも貧乏だったのである。
現在も王国内で一番物価の安い地域として有名だったりする。
そんな貧乏だった南部も二代前の女子爵の代から変わっていった。
魔物で溢れる海に財貨を求めて踏み出したのである。
むろん初期の頃には無謀としか評価されなかった。
しかし、現代では王国の中でも貧民街が存在しない最も民の生活が充実している地域に上げられている。
当時の南部人は、ただひたすらに貧乏を呪った。
ほんの僅かな農地しかない南部では、ひとたび天候不順でも来ればあっという間に飢饉がやってくる。
『腹が減ったと貧乏を嘆き悲しみながら下を向いて飢えて死ぬのであれば、我が子の為に我が妻の為に、魔物で溢れる海に入って1匹の魚でも取って来い』
当時の女子爵が叱咤した言葉は、元々が気性の荒い南部人の心に火を付けた。
当時は海から糧を得ると言う事が非常識だった、達者に泳げる者も少ない時代に、枯れ枝のように痩せ細り腹だけが出た体で、先を尖らせた木の枝を片手に、我が身を撒き餌に魔魚を狩る。
1匹狩れば誰かの命が繋がれる、それを知った男達は続々と海に飛び込んだ。
中には泳げず溺れる者も居たのだが、周りの者に助けられ、小魚1匹でもと海に浮く木片に捕まり、己に食らいつこうとする魔物に向かい、必死に尖らせた枝を前に突き出す。
そうして多数の男達の命を失うも、南部の民は生き延びた。
そんな時代が背景にあるからか、それとも元々そうだったのか、南部人は気性は荒いが心根は優しい、いつしかそう言われるようになってゆく。
「頼むけェ行かしてつかぁさい! 片足の兄貴に任せてはおけんのじゃ」
漁港に水揚げされた魚の重さを計る仕事に従事していた片腕の男が銛を掴み、止める妻を振り払い海に飛び込めば。
「若い男の泳ぐケツ見ながら魔道具咥えて見とれっちゅうんかァ、ワシャ行くどぉ」
飛沫を上げながら大牙鮫に真っ直ぐ向かう潜り取りの男達を追い掛けるように、1人、また1人と海に出て行く。
気性の荒らさと心根の優しさ、今の時代にもそれは受け継がれている。
港で水産業に従事する男達の殆どは、過去に魔魚との戦いで体に不自由を抱えた者達ばかりである。
そんな男達だが、海に対する思いは変わってはいない。いつかもう一度海へ、そのために密かに準備し続けていた。
そしてその日が今日訪れただけである。
それに対して女達だが、男達の持ち帰る魚をただ待っていただけでは無い。
今では王国中に輸送される海産物の100%を食用にするため日々処理している。
女衆の身に付けた技術は、海に生きる生物には絶大な効果を発揮する。
「ささっと捌いて後ろに回さにゃ足の早い魔物が傷んでまうけェ、はようトロ箱と氷を持ってきてくんさい!」
結界に捕らわれた海の魔物を、刀身が1m程もある大包丁片手に次から次へと捌き出す。
「製氷機の出力を限界まで上げるから少し待ってて」
今年のものとは規模が違うが、毎年のように訪れる海のスタンビート、サウスポートの女達は、男衆では出来ない事を、一手に引き受けていると自負している。
防波堤に張り巡らされた結界に、次々に捕らわれる海の魔物達は、女達の手によって続々と水産加工品へと姿を変えてゆく。
つい先程まで上陸した魔物達に町ごと貪られそうだったとは思えない程に、次から次へと処理されていく海の生物達。
「3番倉庫の冷凍庫はもういっぱいだよ、5番倉庫にまだ空きがあるけぇそっちに運んでくださいや」
年老いた倉庫番が叫べば、それに呼応したように運搬人足達は一斉に動き出す。
あとはただ、湾内に溢れる魔物や魚を我が物顔で貪る2頭の大牙鮫がどうなるか、ただそれだけである。
大牙鮫がどの様な存在なのか、それは過去に1頭だけ討伐された記録がある。
討伐した者の中に、後に勇者や聖女、大賢者と呼ばれる者が居た程。
記録に残っている大牙鮫の大きさは、全長約60m、体重は計測不能。
当時の勇者の呟きが今でも記録に残っているのだが。
『牙の生えたシロナガスクジラじゃないか』
討伐した者達には、シロナガスクジラと言う物が何か分からなかったので、勇者の発した言葉をそのまま記録に留めたようだ。
そして前回現れたのは15年前。
その時は2ヶ月間湾内に留まり、南部の財政に大きな打撃を与えた。
食料の備蓄が無くなりかけた頃、先代子爵の長男【鮫殺し】の二つ名を持つ男が決死隊を募り、述べ800人からなる決死隊のうち700人を超える死者を出しつつ追い払う事しか出来なかった。
当時の決死隊で生き残った者に、五体満足だった者は1人も居ない。
もはや防波堤での戦いの体勢は決した。人間側の勝利である。
港の様々な設備で働くのは大人だけでは無い。
子供達も出来る事を、現地実習と称して、勉強の1部として働くのである。
そんな子供達にも大牙鮫の驚異は伝わっているが……
父親が銛を片手に海に飛び込んだ所を見ていた少年は、今年初めて漁師として漁業ギルドに登録したばかりの新人だった。
初めての漁で父親との漁獲量の差に落胆しつつも、日々父の背中を見て育った若者には、銛を片手に飛沫を上げて海を爆進する父親が、たかだか大きな鮫ごときに遅れを取るなど微塵も思っていない。
防波堤の切れ目、漁師や冒険者が得た獲物を水揚げするために開けられている部分では、2人の冒険者を含む港湾周りを警護する衛兵達と、上陸しようとする魔物達との戦いが続いていた。
「エビ獲りさんよォ、魔物はワシらが抑えるけェ、飛び込んだ連中を助けたってくんさいや」
【エビ獲り】と呼ばれた冒険者、陸での狩りはてんでダメ。
巨体ゆえに走るのが遅く、逃げるゴブリン1匹狩れない男だが、網を引く事に関しては現在のサウスポートでトップクラスの実力を誇る。
前回の大牙鮫の襲撃の時はまだ少年だった、決死隊に加わった父親が、鮫に食われる所を歯を食いしばって見ているしか出来なかった。
しかし今、あの時の鮫が目の前の湾内を我が物顔で泳いでいる事を運命だと感じている。
「マグロのォ、バリスタの用意じゃァ」
吼える様に【エビ獲り】が叫べば。
「もう準備は出来とるでェ。何時でもええぞエビの兄弟」
通常ならば攻城兵器である大型のバリスタを背に担いだ【マグロ追い】の二つ名を持つ冒険者が答える。
2人がかりで次々に射出される大杭、杭の後部にはそれぞれに長く太いロープが繋がっている。
長さ10m以上もある大杭が何本も何本も800m以上飛翔して大牙鮫の背に刺されば、杭の先の返しが鮫の肉に食い込み、つき刺さらなかった杭に繋がれた長く太いロープが海面を漂っている。
「網漁の衆、引くんじゃ! 綱を引くんじゃァ!」
「鮫の動きを止めるでェ、潜り取り衆を助るんじゃ」
【マグロ追い】が叫びながら海に入れば、追うように網漁師達も船を出す。
そして埠頭に仁王立ちの【エビ獲】。
「怪我人はワシに任せい。綱に捕まれ言うてくれ」
飛沫を上げて鮫に向かう【マグロ追い】に向かって叫ぶ。
その声を聞いて、サウスポートで1番の泳ぎ達者【マグロ追い】が、答える様に飛沫を大きく上げて、今まさに漁師達が銛を突き立てようとしている鮫へと爆進していった。
「エビのおじちゃん、怪我人は市場の屋根の下に」
サウスポートの麒麟【ひよこ好き】の二つ名を持つ付与術師、領主の姪でありサウスポートが始まって以来1番の天才と言われている人物が【エビ獲り】に向かって叫べば。
「次々運ばせるけェ治療は頼んだで」
衛兵の中から数人が飛び出し。
「怪我人の輸送は任せてくんさい」
大型の魚を運ぶ荷駄を取りに走り出す。
小柄な少女に見える【ひよこ好き】の言葉になぜ屈強な海の男達が従うのか、それは領主の姪と言うだけでは無い。
彼女のもたらした様々な魔道具、その1つ1つがサウスポートの町を潤す物で、彼女が町に帰って来てから死傷者の数が激減した。
漁業関係者だけでは無い、町中から信頼されている錬金術師で付与術師だからである。
国内最高学府アーバイン魔法学園では戦闘に関する魔法が好まれる、そしてそれが成績に直接繋がる。
そんな中、錬金術師科・付与術コースを専攻していた【ひよこ好き】は、序列1桁で卒業したのである。
魔法学園が始まって以来、初の錬金術師科の生徒が序列1桁で卒業。天才と呼ばれて相応しい成績であった。
彼女が在学中に研究していたのは付与術の重ねがけともう1つ。
「建物全体を巻き込むから、濡れない場所に寝かせてあげて」
魔物との戦いで傷付いた者達が続々と運ばれる中で【ひよこ好き】がやった事……
「二重転写、ホーリーサークル」
師匠から預かった様々な魔法触媒、その中から選んだのは聖女の加護が付与された小さな布切れ2枚。
1枚ずつに、死者すら生き返らせたと言われる聖女の魔力が残っている布に、自然治癒力を上げて回復を促す範囲魔法を刻んだ物を、天才が全てを費やした数年の研究の成果、付与術の重ねがけを乗せて発動する。
「歩ける人は自分で市場の中に、中に入ったらじっとしてて」
彼女の師匠は、彼女の事を天才とは思っていない。
日々努力する姿を見れば、天才に見える秀才だと思っているようだ。
それともう1つ、普通では考えない様な奇抜な発想、それが彼女を天才と呼ばせる理由だと思っている。
彼女の奇抜な発想がどこから来るのか、それは……
「ゴブリンだって臭い物は嫌いなんだよ、だから腐った果物でも顔に投げ付けてギョッとして気を取られた所を攻撃すりゃいいんだ。安全だろ?」
学生時代に、そんな事を言う同級生と出会ったから。
そしてその同級生と言えば……
魔族が乗っていたと思われる鳥の魔物が町に向かって逃げた後、魔物達は正気を取り戻したかのように霧散していく。
「クルトさん、ビスマ姉さん、魔族が町に向かいました、町に何かあったんでしょうか?」
駆逐されるだけだと感じ取ったんだろう、次から次へと魔物達が川を渡って森に帰って行くんだ。
「町に何かあったとしても漁師達が居るから大丈夫だとは思うが……」
俺達を避ける様に魔物達が逃げていく中、雨に打たれて溶けていく粘液の盾から外に出てみたら。
雨の音に混じって遠巻きに聞こえたんだ。
「親父ぃ! 大牙鮫じゃ! 大牙鮫が2頭も現れよった。はよう港に戻ってつかあさい!」
大牙鮫って何処かで聞いたような……
「ビスマ姉さん、大牙鮫って……」
金棒を担いだビスマ姉さんに聞いてみたら……
「ライル、町に帰るよ!」「全速力で走るぞ」
引きつった顔になったクルトさんとビスマ姉さんがそんな事を言うもんだから。
「わかりました」
としか答えられなかった。
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