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 小さな勇気、か……。

 私は学校の帰り道。あっと言う間に暗くなってゆく夕暮れの道を歩きながら、心の中で、つい先ほどカウンセラーの先生が言った言葉をつぶやいた。私の目をしっかりと、優しいまなざしで見つめて。カウンセラーの先生が言った、私の心に深く刺さったその言葉を。

 そして、振り返る。日の落ち始めたオレンジ色の道で。今日一日の、出来事を――。

 今日は朝からとても暑くて。家を出た時には満タンだった水筒のお茶が、学校に着く頃にはもう半分くらいになるほど、とてもノドが渇く一日だった。必然的にトイレも近くなって……。

 始まりは、一時間目の授業中だった。授業前にもちゃんと行ったのに、トイレに行きたくなってしまったのだ。でも、先生の言葉を遮って手を上げ、授業をめて、みんなの前でトイレに行きたいと発言する勇気は、私にはなかった。

 幸い、それほどの行きたさではなかったし、授業時間も残り十数分だったから。授業が終わったら急いでトイレに行こう。そう決めて、私は我慢することにした。それが最初の間違いだったんだと思う。

 授業が残りあと数分という時になって、先生が少しだけ授業を延長すると言い出したのだ。少しきりが悪かったのだ。当然、生徒からのブーイングはあったが、そんなことで先生が延長をめるわけがない。授業は数分長引いてしまった。

 私は焦った。なにせ、次の授業が体育だったからだ。みんなが口々に先生の文句を言いながら、急いで着替えを持って走る中。私はトイレに行くかどうか迷っていた。

 トイレは見た感じ、少し混雑している様子だった。着替えや移動のことも考えると、残された時間で余裕を持って校庭まで行くことは難しそうだった。

 体育の先生は厳しい。この間も、一人が少し遅刻しただけで全員が五分くらいお説教されたくらいだ。今日は前の授業が延びているとはいえ、その情報が体育の先生の耳に届いているかはわからないし、下手な言い訳をすれば余計怒られることになるだろう。みんなだって急いでいる。それに何より、いつも余裕を持って体育の授業に臨んでいる私に、ここでトイレに行く勇気なんてあるはずもなかった。

 幸い、しばらく我慢していたからかそこまで行きたくはなくなっていたし。私はそのまま更衣室まで走り、着替えを終えると校庭に向かったのだった。

 体育の授業中も、やっぱり何度もトイレに行きたくなった。でも、授業中にそれを言い出す勇気なんて、やっぱり私にあるはずもなかった。私は我慢して授業を受けた。

 そして、やっと授業が終わった頃にはもう、限界だった。私はできるだけみんなに悟られないように、急いで体育棟のトイレへと向かった。

 そして、トイレはもう目前というその時。気持ちが緩んだせいか、変に力が入ったせいか。私は廊下で、我慢の限界を超えてしまった。

 思い出すだけでも恥ずかしい。私は高校生にもなって、廊下でお漏らしをしてしまったのだ。

 一度出てしまったそれは、もうどんなに抑えようとしても止まってくれなくて。下着と体育着のズボンはあっという間にぐっしょりと生暖かくなり、気がつけば足下には大きな水たまりができていた。

 私は絶望した。恥ずかしさと絶望で涙を流しながら、私は辺りを見回す。幸い誰も見ていなかったけれど、すぐに誰かが通りかかるだろう。どうすることもできない。

 高校生にもなってお漏らししただなんて、瞬く間に学校中に広まるだろう。表向きはみんな優しくしてくれるだろうけれど。裏では何を思われ何を言われるかわからない。そう思うと、残りの高校生活を考えて、私はどうしたらいいのかと、混乱して色んなことが頭の中を走馬灯のように駆け巡った。

 お漏らしをして泣きながら立ち尽くす私の姿は、きっと高校生には見えないような、とても恥ずかしいものだったんじゃないかと思う。

 そんな私の目の前に、斎藤君が現れた。私は、高校生活の全てが終わったような、そんな気がした。

 何でよりにもよって斎藤君なのかと、そう思った。斎藤君が悪い人でないことは知っていた。不真面目なところはあるけれど、頭が回って面白くて、みんなの前でも堂々と話すことができて、いつもみんなの中心にいて。同じクラスになってからずっと。すごいなぁ、って。私には真似できないなぁ、って。いつも思っていたから……。

 でも、お調子者の斎藤君のことだ。こんなところを見られてしまったら、きっと騒ぐに決まっている。そうしたら、みんなに見られてしまう。噂も学校中に広まるだろう。面白おかしく、笑い話にされて……。

 死にたいと思った。恥ずかしさでいっぱいだった。何だか時間がとてもゆっくり流れているように感じられた。斎藤君が、人生の終わりが、ゆっくりと私に近づいてくる。

「白瀬。大丈夫か?」

 私は何を言われたのか、すぐには理解できなかった。斎藤君の口から出てきたその言葉が、予想外過ぎて。まるで時間が止まったかのような感覚に包まれて固まっていた私に、斎藤君は手に持っていた物をつきつけてきた。

「ほら。これに着替えて来いよ」

「え?」

 訳も分からずに訊き返す私に、斎藤君はその意図を説明してくれた。

「こっちは俺が何とかするから、白瀬はそこのトイレでこれに着替えて来い。濡れてる体育着とかはそのままその袋に入れて、棚の奥に隠しておけば誰も見ねーから。放課後、取りにくれば誰にもばれねーよ」

「……」

 無言で固まっていた私の腕に、あったかいものが触れた。それは、斎藤君の手だった。斎藤君は私の腕を掴むと、自分の体育着を私の手に押しつけた。

「ほら、早く!」

 私は黙って頷くと、言われるままに斎藤君の体育着を持って、すぐそばの女子トイレに駆け込んだ。

 薄暗くて嫌な臭いのする体育館のトイレで、私は斎藤君の少し汗臭い体育着に着替えながら、徐々に落ち着きを取り戻していた。冷静になってくると、だんだんと色々なことが私の頭をよぎった。斎藤君はどうする気なのだろうとか、斎藤君に見つかってすぐ思ったことに罪悪感を抱いたりとか、助かったことに安心したりなんかして。着替えを終えた頃にはもうだいぶ落ち着いていた。

 私は個室を出ると、誰か入ってくるんじゃないかとびくびくしながら、濡れた体育着や下着を軽く洗い始めた。すると突然、廊下から体育の先生の怒鳴り声が聞こえてきた。私は思わずとび上がってしまった。廊下の外で何が起きているのだろうかと、斎藤君は一体どうしたのだろうかと、やはり隠すことなんてできなかったんじゃないかと急に心配になった。私は急いで体育着を絞り棚の奥に隠すと、トイレの外へ出た。

 廊下に出ると、人だかりの中心で斎藤君が体育の先生に怒られていた。先生は一瞬私の方を見たけれど、すぐに斎藤君に目を移した。どうやら私がお漏らししたことはばれていないようだった。私はなにか言うべきか迷いながらも、声を出す勇気なんてあるはずもなく、胸元の名前を隠しながら急いで更衣室へと向かった。

 私のせいで斎藤君が怒られている。そのことに罪悪感を抱きつつも、斎藤君が上手く罪を被ってくれたことで安心している最低な私がいた。斎藤君のしてくれたことを無駄にしないためにもばれないようにしなければだなんて、都合の良いことを考えて。まだ事態の重大さを知らなかった私は、後で斎藤君にちゃんと謝ってお礼を言おうと。そのぐらいのことで許して貰おうと考えていたのだ。本当のことを言う勇気なんて、当然私にはなかったから。そのまま何事もなかったかのように制服に着替えて教室へと戻った。その次の授業に、斎藤君は姿を見せなかった。

 お昼休み。罪悪感で食欲がなくなってしまった私は一人、教室で斎藤君がどうなったのかを考えていた。そんな私の耳に、斎藤君の噂話が入ってきた。それを聞いて私は愕然とした。

 斎藤君は、私のしたお漏らしを自分がしたものだと言ったばかりか、その理由を火遊びの後始末のためだと言ったというのだ。

 私は焦ったものの、それでもまだ、すごく怒られるだけで済むんじゃないかと安易なことを考えていた。いや。自分にそう、必死で言い聞かせていたのだ。そんなことで済むはずないのに。

 そして、五時間目の授業の初め。斎藤君の不在と先生の話が、私に現実をつきつけた。私は今にも泣き出しそうになりながら、授業が終わったら本当のことを言いに行こうと決心した。五時間目の授業は、今までで一番長く感じる授業だった。

 授業が終わってすぐ、私は教室を後にした。そして、そのまま真っ直ぐ職員室に向かった。本当のことを言うために。

 しかし、いざ職員室の前までつくと体が動かなくなってしまった。次、誰かが出入りしたら入ろう。次、誰かが出入りしたら。次。次……。そんな風に立ち尽くしている内に、休み時間は残り少なくなった。私の前を通り過ぎる先生に、そろそろ教室に戻るように一声かけられ、私は急に軽くなった足で教室に戻った。次の授業が終わったらすぐに言いに行こう。そう決心して。

 でも、そんな勇気。やっぱり私にはなくて。ホームルーム、放課後、あと五分したら、次誰かが出入りしたら……。そうやって先延ばしにしているだけで、時間はゆっくりと流れ過ぎていった。

 何度目の先延ばしだっただろう。隠してある体育着を取ってきたら言おう。そう決めて、私は体育棟のトイレへと向かった。

 トイレに着いた私はふと、つい数時間前、ここで着替えた体育着の臭いを思い出した。すると、急にぽつり、ぽつりと、目から涙がこぼれだした。泣きたいのはきっと、斎藤君の方だろうに。私に泣く資格なんてないのに。涙がしばらく止まらなかった。

 少し経っていくらか落ち着いた私は、今度こそ。そう思って湿った体育着をカバンにしまい、トイレを後にした。

 ドアを開けると、藤崎君達とカウンセラーの先生がいた。私はカバンの中にあるしめった体育着に気づかれたらどうしようと恐くなって、逃げるようにその場を後にした。自分のことばかり。本当に最低だ。

 いざ、職員室の前に戻ってきても、やっぱり私にそのドアを開ける勇気はなかった。ただ、廊下に立ち尽くしているだけだった。そんな時、藤崎君から、斎藤君が起こした事件の謎解きをするから来てほしいとLINEがきて。しかも、私が必要だと書いてあって。心臓が急に激しくなりだした。なぜ私が呼ばれたのか。もしかして、バレたのだろうか。そう思った。

 私はこれから若村先生や藤崎君の前で、事件の真相を。私がお漏らししたことを明らかにされるかもしれないと思うと、これから処刑される罪人のような気持ちになった。でも、その通りだと思った。この期に及んで、まだ本当のことがバレるのを恐がっている。そんな最低な私への罰なんだと。どうせ自分の口からは言えないのだから、これで斎藤君が助かるのならと。絶望と同時に藁にもすがるような気持ちで体育棟へ向かった。

 でも、カウンセラーの先生が語った事件の真相は、真実とは全く違うものだった。

 けれど、その真相の犯人も、斎藤君ではなかった。

 だから、私はそれに乗った。嘘をついた。嘘に嘘を重ねて、私は本当に最低だ。

 ――小さな勇気。

 私はもう一度、その言葉を、頭の中で呟いた。

 蝿川先生がそう言った時。先生は確かに、私の目を見ていた。

「小さな勇気……」

 私は小さく呟くと、少し考えてから、スマホを取り出してネットを開いた。

 すっかり暗くなった空の下。手のひらの光が、私の顔を明るく照らしていた。

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