惨劇
そんな中、島で事件が起こった。島外から訪れた若い男女四人が、南岸の砂浜に出かけた後に消息を絶ったのである。優李の父、幸平はすぐさま捜査に乗り出したものの、一人では当然できることは限られる。とはいえ異常な事態であることには変わりない。幸平は本土からの応援を要請するとともに、暫くの間海水浴場を閉鎖することを提案した。
だが、村議会は、彼の提案を受け入れなかった。
「もうすぐ海開きは終わるのだから、それまで待ってもいいではないか」
というのが、村議会の総意であった。村議会議員の身内は、観光客向けの商売で稼いでいる者が多い。ほんの一日たりとも稼ぎを逃したくない、彼らの底なしの強欲さが見て取れる。
――人命に関わる問題かも知れないというのに、どうして日和見などしていられようか。
これまで幸平は、妻が島に縁のある人間ということで、島の人々とは上手くやっていけていると思っていた。だからこそ、自分の提案が強硬に否認されたことは衝撃に値することであった。幸平は村議会のそうした態度に失望と憤りを覚えた。
***
八月三十一日のことである。この日は午前中授業であった。
「夏終わる前に海行かね?」
学校で、とある中学二年生の男子がそのようなことを言い出した。彼は島生まれの少年だ。もうすぐ、海開きの時期は終わってしまう。一応その後も海水浴場に立ち入れないわけではないが、監視員がおらず救護所も設置されないため、自己責任での遊泳となり危険である。当然ながら、基本的に子どもだけでの立ち入りは固く禁止される。
その提案には、その場の男子生徒のほぼ全員が賛意を示した。ほぼ、と書いたのは、一人だけ、返事をしなかった者がいたからである。
「青野も来るよな?」
九波順也が、ただ一人参加の意を示さなかった優李に対して問いかけた。順也の声色には、有無を言わさぬ圧力が込められている。
「う、うん……」
優李は渋々といった風に返事をした。本音を言えば、あまり乗り気ではない。しかし、仲間外れにされるよりはまだ良い。ここで変に処世を誤れば、また前の学校で味わった地獄が待っているかも知れない。前の学校でのことを思い出して、優李は肝が冷えるものを感じた。
その日の放課後、優李は島の南の海水浴場に出かけた。天気は良かったが、八月の最終日ということもあって、流石に人影は少なくなっていた。
「青野、遅かったじゃないか」
海水パンツ姿で脱衣所から出てきた優李を、他の少年たちは砂浜で待ち受けていた。何だか皆、好意的とは言い難い、嫌な雰囲気をまとっている。優李は途端に心細くなった。
――真がいてくれたら……
この場に一人でいいから、はっきりと自分の味方だといえる存在が欲しかった。優李はまるで狼の群れの中に放り込まれた羊の如くに怯えていた。とはいえ、無いものねだりをしても仕方ない。真はもう、この島にはいないのだから。
少年たちは、一斉に海へ入っていった。優李も遅れて、海水に足をつけた。優李は決して泳げないわけではなく、水を怖がるような子どもでもない。しかし、味方をしてくれそうな人が一人もいないという状況が、この少年の心を
足を進めるにつれて、優李の体がどんどん水に浸かっていく。他の少年たちはもう随分と先に行ってしまっている。
「青野、遅いぞ」
「早く来いよ」
先に行った少年たちが、盛んに優李をせかしている。さっきまで晴れていた空は雲を呼んだのか、段々と鉛色に覆われていく。優李の細い体が、再びぶるっと震えた。
やがて、全身が浸かるような場所まで来た時、突然、優李の足が何者かにぐい、と引っ張られた。
「あっ……」
自分の体が、急に沈んでいく。急なことに驚いて海水を鼻から吸ってしまったことが、優李の頭にパニックを巻き起こした。わけも分からずに視線を振っていると、一人の少年の姿が水中ゴーグル越しに見えた。
それは、にやにやと陰気な笑みを浮かべた、順也であった。彼は沈む優李を一瞥すると、水面に上がっていった。それと比例して、優李の体は水に沈んでいく。喉の奥から口にかけて、不快な塩辛さが広がっていった。
――誰か、助けて。
優李は必死にもがいたが、誰も彼に手を差し伸べる者はない。
――もしかして、最初からこれが狙いだったんじゃないか。
そうした最悪の想定に、優李は思い至った。順也と他の皆はグルになって、自分を酷い目に遭わせようと画策したのではないか……。
前の学校でのことを、優李は思い出した。思えばあの時、教室内に味方と呼べる存在はなかった。それに引き比べて今はどうか。殆ど変わらないのではないか。結局、自分はこれからも、理不尽な悪意に晒され続けるしかない。そう思うと、もう自分のこれからの人生さえ、どうでもよいものに思えてきてしまった。
――もう、このまま死んでしまった方が……。
その時であった。視線の端で、何かが蠢いた。驚いた優李は、必死にそちらを向いた。
赤いものが、海中に広がっていた。それが人間の血であると気づくまでに、そう時間はかからなかった。
また、視線の端で何かが動いた。今度は血を垂れ流しながら、子どもの腕が流れてきた。
危機感を抱いた優李は、死に物狂いで海面から顔を出した。口からいっぱいに空気を取り込んだ優李の目の前には、血の海が広がっていた。所々には、子どもの腕や脚が浮かんでいる。
「何……これ……」
これが異常で危険な状態であることは、優李も分かっていた。先程まで自分の命を軽んじていた優李は、再び自らの生への執着を取り戻した。逃げなければ……そう思って泳ぎ出そうとした優李の目の前に、順也の姿が映った。
「やめてくれ! 来るな!」
順也は何かに怯えたように叫んでいた。しかし、その叫びはすぐに中断された。海中に引きずり込まれるかのように、順也の姿が消えてしまったからだ。
優李の背筋が、氷を当てられたかのように冷え冷えした。優李は手足を動かして必死に泳いだが、泳げども泳げども、岸に辿り着かない。自分の体が離岸流に押されていることに気づいた頃には、もう岸はすっかり遠ざかってしまっていた。
――もう、自分は死んでしまうのだ。
優李はもう、望みを手放してしまった。優李の体は、海中へと沈んでいった。
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