漂泊の民と葡萄酒煮込み

 旅、とは帰る場所のある者がすることである。

 仮寝宿だろうが、ひと時の止まり木だろうが、目的の場所と帰るべき場所が離れているのならば、それは旅だ。即ち、基盤を持たず、ただ手に持てるものだけを持って歩き続ける者達のことは、旅人ではなく、漂泊の民という。生まれつきなのか、やむにやまれぬ事情があったのか。自らそう望んだのか、誰かに無理やり弾かれたのか。理由は様々だが、国にも、街にも、土地にすらも留まれず、縛られず、気の向くままに歩く者達。

 しかし彼らとて、足を止めて休まねばならない時もある。人里から離れて、国の権威も及ばない辺境には、そうやって漂泊の民が集まる場所がいくつもある。

 荒野の中、所狭しと天幕が張られた、街というよりはひと塊の人間達、と形容した方が正しい場所。荒れ地で開墾も行えない程の辺境だが、泉がある為昔から動物や旅商人、そして漂泊の民達が集まる場所だった。

 もう捨て置かれていると言った方が正しいぼろぼろの大きな天幕の片隅で、そんな漂泊の民の一人であるスヴェンも目を覚ました。

「っあー……」

 呻いて起き上がり、凝り固まった体をほぐす。地べたに寝るのは慣れているので、例え隙間風だらけの天幕でも有難いものだ。目を擦り、隣を見る。

 小山のような大きな体が、目の前で胡坐をかいたまま丸くなっている。その体は赤紫色の鱗で覆われており、瞳は瞼ではなく白く曇った皮膜だ。蜥蜴人の眠り方は初めて見た時驚いたが、短くない付き合いでもう慣れた。いつもなら自分よりも早く起きている筈だが、昨日はここに辿り着くまでに狼の襲撃を受け、術を使い切ってしまったから疲れが激しいのかもしれない。緊急時でない限り相棒の眠りを妨げたくはないので、黙って別隣りに視線を移した。

 スヴェンの体と天幕の間に、大きな体を畳んでころんと寝転がっているのは、青い髪の少女。見た目だけなら背の高い豊満な体の女性、と表現できるが、実年齢は十に満たない。彼女が、成人すれば山よりも巨大になるという巨人の血を引いているが故に。長い青髪を地べたに広げて、ぷうぷうと太平楽な寝息を立てている少女の緩んだ口元から涎が垂れている。何とも平和な光景に、スヴェンも苦笑するしかない。

 さて、ふたりが寝ている間に朝飯の支度をしなくては。ごく自然にそう思い、スヴェンは足音を立てずに歩き他沢山の寝ている漂泊の民の間を擦り抜けて、天幕を出た。




 ×××




 諸事情あって、手持ちの金や食料はここに辿り着くまでほぼ使い切ってしまった。道中で狩った兎の毛皮や、昨日の狼の牙などの戦利品を抱えて、両替のところに行く。

 といっても店があるわけではなく、集まった者達がいるものといらないものを交換する市場のようなものだ。漂泊の民の集まりに顔を出せるほど度胸のある旅商人がいれば良いものが手に入るのだが、残念ながら今日はいなかった。

「いいね、毛並みも綺麗だ。かかあがガキ用に冬服を作りてぇって言っててな」

「じゃあそいつでよろしく」

 幸い、北に向かう家族の男が毛皮を欲しがったので、古いパンに加え干し肉まで代わりに手に入れることが出来た。残念ながら牙はこういう場所ではあまり喜ばれない。大きな町なら装身具に加工したりするらしいので、かさばるものでも無しと取っておくことにした。

 天幕の側に戻り、炊事場と銘打った火を起こせる場所で竃を組み、湯を沸かす。水もこれで使い切ったので、後で汲みにいかなければならない。

 沸いた湯に固い干し肉を放り込み、塩気を少し抜いて柔らかくする。更に竃の周りにパンを三つ置いて温めておく。石のように固いが、温めれば少しはマシになるだろう。二つに切って肉を挟めば、水分のおかげで更に柔らかくなる。碌なものでなくても手間をかけて、少しでも美味く食べたいのがスヴェンの信条だ。

 しかし赤紫鱗もモルニィヤも健啖家――はっきり言うなら食いしん坊だ、これっぽっちではとても足りないだろう。普段ならばスープも作りたいところだが、干し肉数枚では味も量も足りない。朝はこれで我慢してもらうとして夜はどうするか、と頭を悩ませていた時。

「おい、スヴェン? スヴェンじゃないか!」

 不躾に名を呼ばれ、眉間に皺を寄せたスヴェンは振り返らない。漂泊の民にとって、名前が知られているというのはあまり良いことではないのだ。頬に罪人の焼き鏝を押された身では、更に。

「やっぱり! 生きてたのかお前! お前も諦めが悪い奴だな!」

 馴れ馴れしく笑いながら、ぐいと肩を引っ張られ、鍋の側から離れざるを得なかった。狼藉を働いた男の顔を渋々見上げるが、覚えはない。内心首を傾げていると、反応が無いことに苛立ったのか、男は少しだけ声を荒げた。

「カシム芸人団にいただろう! しらばっくれるんじゃねぇ!」

「……ああ、あん時の連中か? 悪いね、碌に覚えてねぇんだ」

 嘗てスヴェンが身を置いていた旅芸人の一座の事だ。かなりの大所帯だったため、顔を知らない相手がいてもおかしくない。スヴェンはもっぱら下働きで、子供達の面倒を見ていたから尚更、他の団員達には詳しくなかった。

 スヴェンの反応が芳しくない事が不満だったのか、男はわざと声を大きくして言う。

「つれねぇこと言うなよ! 置いてったのを拗ねてんのか? 仕方ねえだろ、王太子暗殺未遂なんてやらかしたからにはな!」

 ただのよくある諍いかと無視していた周りの人間がざわりとどよめく。面倒くさいことしやがって、といよいよスヴェンは溜息を吐いた。

 王太子暗殺未遂。仰々しいその罪状が、スヴェンが頬に焼き鏝を押された理由だ。勿論、スヴェンは何もしていない。ただ、当時滞在していた街に逗留していたその国の王太子が、毒を仕込まれて死にかけた、らしい。もしかしたら只の食あたりかもしれないが、すべて伝聞、詳しいことなどなにも解らない。しかし王家は怒り、犯人を捜せと息巻いた。街は当然その要求を突っぱねることは出来ないが、田舎の街で碌に兵士もおらず、調査は難航した。

 しびれを切らした王家に怒られる前に、手頃な犯人をでっちあげてしまおう、と考えたのだろう。その時点で唯一街にいた漂泊の民である、カシム芸人団がやり玉に挙げられた。

 当然所属している者達は、そういう色眼鏡で見られるのが慣れていたので、下手なことに巻き込まれぬうちにと三々五々逃げ出した。スヴェンは逃げ遅れた身寄りのない子供達を庇って逃がし、代わりに捕まった。間抜けな話だ、とスヴェンは自答する。自分の身を守れない者が漂泊の民として生きていけるわけもないのだから。

 結果、スヴェンは己の頬に付けられた火傷の後を軽く指でなぞる。自分の取った行動に後悔してはいないし、この傷を治すつもりもない。なるべくしてなったと受け止めたし、今生きていることが奇跡だという自覚もある。だから、いきなり現れたこの男がこんなことを言ってくる理由がさっぱり解らない。

「……で?」

「あ?」

「何の用だよ。朝飯がそろそろ出来るから食いてぇんだけど」

 心底鬱陶しい、という感情を隠さずにぼそりと言うと、男は鼻白んで罵声を浴びせてきた。

「生意気言ってんじゃねぇ! 焼き印つきのくせして――」

「やめとけよ」

 尚も続けようとした男の言葉を、掌で塞いで止めた。目を白黒させる男に、諭すように低い声で言う。

「そんなん、この辺じゃあ当たり前なんだよ。周りの連中全員敵に回す気か?」

 そこで初めて、自分が周りの人垣から蔑んだ目で見られていることに気づいたのか、男が慌てる。人々の半分以上は、腕や足に同じような焼き印が押されているからだ。辺境では決して珍しくない。最近初めてこの辺りに来たのかもしれないが、それでもすぐに解るだろうと内心呆れる。スヴェンが彼の言葉を止めたのも、巻き込まれたくないからだ。

「こんなもん、この辺りじゃ箔にもなんねぇし、脅しなんてもっての外だぜ。身ぐるみ剥ぎ取られたくなきゃとっとと帰りな」

「く……糞餓鬼が! 覚えてやがれ!」

 月並みな台詞を吐いて去っていく男の背を追っていた人々が、一人また一人と視線を逸らしていく。下手な諍いにならずに済んだとスヴェンはほっとした。芸人団が「比較的」定住者に近い生活をしていたからといって、考えが無さすぎる。……彼も寄る辺を失って、ここまでやってきたのだろうか。

 僅かに飛ばした思考をすぐに戻す。他人の人生などに興味はない、何せ今は自分のことで精一杯だ。更に養う相手が増えた今は、尚更。

「――何があった?」

「旦那」

 崩れかけていた人垣が割れて、ずいずいと近づいてきた大柄な蜥蜴人に、スヴェンは体の力を抜いてへらりと笑った。その後ろに、毛布を被ったまま半分眠っているモルニィヤも続いている。

「何もねぇよ。それよか朝飯、食うかい?」

「貰おう」

「……ごはん!」

 火の周りにどかりと赤紫鱗が座る。そして匂いに気づいてぱちんと目を開ける巨人の子に笑い、スヴェンは切ったパンの間に湯から拾った干し肉を挟んで、ふたりへ手渡してやった。




 ×××




 まだ日が高くならないうちに、広場は騒然とし始めた。先刻スヴェンが会いたかった「根性の据わった商人」のキャラバンが、土埃を蹴立ててやって来たからだ。当然漂泊の民はわらわらとそれに集まり、馬車の中に負傷者が多いことに気付いて驚きの声を上げた。

「一つ目牛が出やがった! 腕に自信のある奴は手を貸してくれ! 革と角は早いもん勝ちだ、全部買い取ってやる! 肉は全員で山分けだ!」

 商人頭らしい男が叫び上げ、おおお、と天幕が一斉に揺れた。

 一つ目牛は辺境に出る猛獣で、その大きさは南方に居るという象に負けない程。気性も荒く雑食性で、一度目を付けられると死ぬまで追いかけられる。並の冒険者では数を揃えなければ歯が立たないが、革や角は様々な武具に、目玉は術師の触媒に、肉は硬いが大変美味という、かなり美味い獲物でもある。

 何より、このままではキャラバンを追って一つ目牛がこの広場に突っ込んでくる可能性が高いのだ。腕利きは次々と立ち上がり、女子供は負傷者を奥に運ぶ。辺境でのこういう生き方を、皆知っているからだ。仲間でも友人でも無くても、こういう時に一塊にならなければ死ぬ。

 スヴェンも素早く荷物を開き、愛用の小弓を腕に結わえる。戦闘に使える刃渡りのあるナイフを何本もベルトに挟み、靴の紐を結び直す。赤紫鱗は自分の術の触媒である石や鱗、乾燥した花の詰まった袋の中身を確認し、術師の杖を手に取った。

「魔法、何発いける?」

「大事ない、三回だ。“誘眠”や“酩酊”は一つ目牛とやらに効くか?」

「わかんねぇ。逃げたことはあるが戦ったことはねぇな」

「了承した。己が練磨を信じるのみ」

 互いの打ち合わせはすぐに終わり、ふとふたり揃って一点を見る。洗った後の鍋を頭に被ったモルニィヤが、鼻息をふんふん言わせながらそこで待っていた。

「……お前は駄目だ」

「えー!!」

 がーん、と本気でショックを受けた顔でモルニィヤが叫ぶが、スヴェンは頭を抱えるしかない。ついこの間まで奴隷商に閉じ込められていた、推定五歳前後の子供を一つ目牛狩りに連れていけるわけがないのだから。しかし勿論、彼女自身が納得するわけがないという事も解ってしまうからだ。

「やだ!」

「仕方ねーだろ、聞けって」

「やだあああ!」

 裸足で地面を踏み鳴らし、必死に駄々を捏ねるモルニィヤに、慌ただしく行き交う人々が胡乱な目を向けてくる。何せ見た目は成人女性にしか見えないのに、喋り方や声がとても幼い。

「モルニャもかり、するもん! おとさんといっしょに、したことあるもん!」

「お前よりでかい牛が獲物だぞ、下手すりゃ死人も出る。隠れて狩りならともかく、まともな戦いなんてお前やったことないだろ」

「やだああああああ!!」

 がっちりとスヴェンの腕を掴んだ彼女の手は、多少振ったぐらいでは全く離れない。そもそも膂力が普通の人間とは段違いなのだ。武器の扱いなど知らなくても、棍棒一本持っていればかなりの戦力になるだろう――しかし、モルニィヤはつい先日まで、他者の暴力に怯えて檻に閉じ込められていた身だ。戦場で一瞬でも竦んでしまえば、命が危ない。どれだけ彼女の体が頑丈で力持ちでも、スヴェンは了承できなかった。

「あーもう離せって! 肉取ってきてやるから!」

「うー! うーうー!!」

 全く譲らず騒ぐふたりに、いよいよ周りの視線が冷たくなる。なまじモルニィヤが妙齢の女性に見えるので、愁嘆場にも見えるのだろう。黙って様子を見ていた赤紫鱗が、天を仰いで口を開く。

『聞け、モルニィヤ』

 精霊語の言葉――スヴェンには相変わらずよくわからない鳴き声のようにしか聞こえなかったが――に、泣きじゃくっていたモルニィヤがぐっと口を禁む。我儘を言っているのは承知の上で、それでも嫌なのだろう。彼女にとって、狭苦しい虜囚の身から救い出してくれて、温かい食事をくれるふたりは何よりも大切な幸福の証だ。離れたらそれがまた、元に戻ってしまうと思っているのかもしれない。

『共に行きたいか』

「ひっく、んっ、うん」

『我等が良いというまで、声を上げるな、音を立てるな。守れるか』

「うん、んっ」

 まだ泣きじゃくりながら、それでも必死に頷くモルニィヤの姿に、赤紫鱗は全く表情を動かさず続ける。

『戦いが始まれば我等もお前を守れぬ。ひとりでも声をあげ、恐れずに武器を振るえるか』

「ん゛!!」

「おい、旦那――」

 どうも説得の方向が違うということに気づいたスヴェンが声を上げるが、時すでに遅し。

「ならば我等と共に戦え、モルニィヤ」

「うん!! する!! がんばる!」

「マジかよ……」

 ぱあっと顔を輝かせて喜ぶモルニィヤに、呆れたようにまた頭を抱えるスヴェンだが、顔に浮かぶのは心配だけだ。その気持ちを無下にするつもりはないらしく、赤紫鱗は相棒に向き直る。

「巨人は幼くとも、皆戦士。野牛ごとき敵ではない」

「だけどよぉ……」

「なればこそ、我等はこれに戦いを教えねばならん」

 蜥蜴人の言葉は正論で、スヴェンは口を噤まざるを得なかった。漂泊の民として生きていくのならば、戦う術を覚えねば生きていけない。それだけ、全ての網から零れ落ちた者達が命を繋ぐのは厳しいのだ。……国の兵士に追われた子供たちが芸人団にも戻れずに、無事にあれから生きていけたかすら、自分は知らないのだから。

「……ああ、糞、解ったよ! モル、始まったら絶対に俺達の言う事を聞け、聞かねぇなら置いてくからな!」

「あいっ!!」

 ぴんと背筋を伸ばしていい返事をする娘にがくりと脱力するスヴェンの背を、宥めるように爪の長い鱗の手がそっと叩いた。




 ×××




 やがて、地平線の向こうから土煙が上がったと、見張りからの声が届いた。

 どう、どう、と地面を押し潰すような、断続的な音が響いてくる。

「弓持ちと術師は構えろ! 残りは前だ!」

 檄を飛ばすのはキャラバンの商人頭だ。流石、この辺りの荒くれを統率出来るぐらいには財と実力がある男の声だ、戦場にも良く通る。そうでなければ辺境を旅するキャラバンなど組めまい。

「目を潰しちまっていいのか!?」

「保存も出来ねぇし売れもしねぇ、好きにしろ!」

 そんな言葉を混ぜ返しつつ、高台に並んだ大弓を持つ者達が弦を引き絞り、近場の窪地で伏せていた術師達が杖を構える。スヴェンは隣でぎゅっと縮こまっていたモルニィヤの背を軽く叩き、体を低くして前に進み出す。

「旦那のとこに合流するぞ」

「んっ」

 言いつけを守って、片手で口を塞いだまま少女はこくんと頷く。別の手に抱えているのは、倒れた天幕から持ってきた古い支柱だ。長さはそこそこ、重さもかなりのものだろうに、軽々と片腕だけで抱えている。下手な刃物や武器は使えないだろうし、いざという時は思い切り振れとこれだけ渡しておいた。

 スヴェンの小弓では近づかないと威力は出せないし、そもそもそこまで腕が立つわけではない。自分達と同じような実力の者達も、おっかなびっくり、じりじりと前に進んでいく。いきり立った足音はどんどん近くなっていた。

 やがて目視できるほど、小山のような一つ目牛の巨体が近づいた頃。窪地に身を伏せていた術師達が立ち上がり、一斉に術を発動させた。

「“泥濘”!!」

 その中に赤紫鱗の声が聞こえて、自然とスヴェンの口端が上がる。同時に、稲妻や術矢が空を飛び交い、一つ目牛の目玉に集中し――まるでつんのめったようにがくりと両の前足が折れた。荒野の大地があっという間にぬかるんだ沼に変わり、牛の足を飲み込んだのだ。

「今だ!」

 好機を叫んだのは誰だったか、近づいていた戦士達が一斉に雄叫びを上げる。

「モル! 走るぞ、足を思いっきりぶっ叩け!」

「あいっ!」

 勇ましく駆け出した娘に怯えの影は見えず、内心安堵しながらスヴェンは用意していた小さな袋を矢の先に括り付け、一つ目に狙って放つ。ここまで近づけば当たる程、その目玉はでかかった。

 泥まみれの足をどうにか持ち上げようとしていた一つ目牛は、飛んでくる術や矢を受け止めても傷を得ている様子が無かった。目の粘膜ですら硬いのか、刺さってはいても致命傷になっていないらしい。だが、スヴェンの細い矢が辿り着いた瞬間――凄まじい嘶きが牛の口から漏れ、頭を大きく振った。

「っしゃ、効いたか!」

 矢で飛ばした袋の中には、商人から譲ってもらった古い唐辛子の屑を山ほど詰めていたのだ。狩りの為と銘打って、有難いことに無料だ。それでこれだけ効果があるなら上等、二発目を構える。

「泥から上がるぞ!」

 が、その前に斬りかかっていた者達からの悲鳴が聞こえ、一瞬躊躇する。目を潰せば攻撃が甘くなるかと思ったが、下手に今の拘束から離れて暴れ出したら逆に危ない。どうするか、と迷ってしまった時、後ろから強く押された。

「ッ――!」

「おかさん!?」

 驚いたモルニィヤの声が遠くなる。ずるりと足が滑ったと思いきや、あっという間に体が転がり落ち、術で造られた泥沼の中に脚を突っ込んでしまった。当然、一つ目牛が足を取られるほどの深さだ、すぐに体は腰ぐらいまで沈む。

「やっべ……!」

 咄嗟にナイフを抜いて、手近な崖に突き刺す。そこもかなり柔くなっていたがどうにか体がとどまり、咄嗟に上を見ると。

 こちらを覗き込むモルニィヤと、手柄を立てようと集まってくる戦士達の中、逃げるように離れていく男の背中が見えた。心当たりがあるので一瞬あの野郎、と思うが今はそんな暇は無い。油断するとまた泥の中に体が沈むし、何より――ついに一つ目牛が片足を泥から持ち上げてしまった。

 目が潰れた牛はがむしゃらに前に進もうとして尚も滑っているが、その足がだんだんこちらに近づいてきている。あんな蹄に蹴り飛ばされたら骨が折れるどころか体が潰れかねない。じわりと体が冷える感覚がして、普段は目を逸らしている非常に身近な死が、牙を剥いてこちらに向かってくるのを覚悟して――

『ぅ、わああああああああ――っ!!』

「――モル!?」

 雄叫び、と言っていい声だった。びりびりと空気が震え、人間は勿論、一つ目牛すら驚いたように一瞬動きを止める。そして、どうにか振り向いたスヴェンの元に、躊躇いなく崖を滑り落ちてきた少女は青髪を振り乱し――

「あっち、いけえええ!!」

 どうにか持ち上げられようとしていた巨大な蹄を、太い支柱を両手で掴んで思い切り、横薙ぎにぶん殴った。ぐわん、と響く音と共にぐらりと巨体が傾ぎ――半分以上が泥に埋まる。歓声が上がり、止めを刺すべく皆が殺到していく。

 呆然としていると、ぐいと脇下に腕が回され、引き上げられた。あっさりと泥を掻き分け、ずいずいと進むその腕は、赤紫色の鱗に覆われている。

「無事か」

 普段通りの抑揚のない、しかしほんの少し早口の声に、スヴェンの口は自然と弧を描いて笑った。

「勿論」

 ふす、と僅かに鼻息を吐く音がして、それを返事として受け止めた。沼地に慣れている蜥蜴人はそのまま悠々と泥の中を歩き、着地を考えず頭から埋まっているモルニィヤをも片手で引っ張り上げた。

「ぶはっ! ぷぇっ、」

「生きてるか、モル!」

 安堵と叱りが半々の声で名前を呼ぶと、泥だらけになった顔の中から青い瞳がぱちぱち瞬き――大声で泣いて二人に飛びついてきて、最終的に三人とも沼地に全身を沈めた。





 ×××





 かなり大物の一つ目牛だったこともあり、全員に配布された肉は中々の量になった。一番の功労者はモルニィヤだと周りから口々に上がったお陰で、そこそこの報奨金とおまけに葡萄酒を丸々一本貰ってしまった。

「モル、お前酒飲んだことあるか?」

「んーん」

「だよなぁ」

 どうにか一張羅の泥を泉で落とし、乾かす間に毛布に包まりながら首を振るモルニィヤにスヴェンも頷く。普通なら彼女が全部飲んでしかるべきものだが、幾ら体が大人と変わらなくても酒量の解らない子供に酒を一本渡すのは正直怖い。試しにカップに少しだけ注いで渡してやると、不思議そうに匂いを嗅いで、ぺろりと舐め――

「っううー!」

「やっぱきついか」

 舌が痺れたのか、いやいやと首をふるモルニィヤを宥めるように、毛布の隙間から腕を伸ばして頭をぽんぽん撫でてやる。

「これ、やだ! いやないっ」

「あー……、これ使って美味い肉料理、作ってやるから譲ってくれねぇか?」

「ほんと? じゃあおかさんにあげる!」

 何の未練もなく葡萄酒の権利を放棄されたので、ちょっと騙した気分になる罪悪感を振り払って調理を開始する。既に火を起こしておいた竃に鍋を置いてから、ふと気づく。

「あれ、旦那は?」

「んー、さっき、ようじがあるってゆってた」

「そか」

 一緒に旅をしているからこそ、たまの安全地帯での自由行動を咎める気はスヴェンにもない。鍋が温まる前に、血抜きした肉を一口大の大きさに切り離す。その様子をしゃがんでじーっと眺めている娘に苦笑して、ナイフをひっくり返して持ち手を差し出した。

「手伝うか?」

「ん!」

「じゃ、切った後の肉にこうやって、軽く何度も刺してくれ」

 肉の表面に傷をつけることで味を染みこみ易くするのだ。モルニィヤは意味が解らないらしく不思議そうだったが、仕事があるのは嬉しいのだろう、真剣に肉をナイフの先でちくちく突いている。

 褒賞金を崩して手に入れた塩と僅かな香辛料を肉に塗してから鍋に入れ、そこに葡萄酒を遠慮なく注ぐ。本当はもっと時間をおいて漬けた方が美味いのだが、そこまでは自分含めて全員の腹がもたないだろう。

「……これ、ほんとにおいしい?」

「大丈夫だ、煮込めば渋くなくなるから」

 先刻味わった葡萄酒を警戒しているらしいモルニィヤがぎゅっと眉を顰めるが、笑って宥めてやる。事実、くらくらと鍋が煮立ってくると何ともかぐわしい芳香が漂ってきて、現金な子供はすぐ口の端から涎を垂らし始めた。周りの連中も匂いに惹かれているようだが、残念ながら他の奴に分けるほど量は無い。

「――良き芳香だ」

「お、お帰り」

「おとさんおかえり!」

 厳つい蜥蜴人、しかも術師が戻ってきたことで、ご相伴に預かろうと狙ってきた者達が慌てて踵を返した。ほくそ笑みつつ、浮かんでくる灰汁を丁寧に取っていると、隣に座ったモルニィヤがぎゅうぎゅうとくっついてきた。

「おかさん、まぁだ?」

「まだだ。肉が固めだからもうちょいかかる」

「具体的には如何程」

「アンタも待てねぇのかよ」

 逆側からは鱗がぺたりとくっついてきて、耐え切れずスヴェンは笑ってしまった。その後すぐ邪魔だから武器の手入れでもしてろ、と渋々な二人を追い払ったが。




 ×××





 少し時間を戻して。

 狩りで負った怪我をぶつぶつと文句を言いながら治療していた一人の男。荒事などやったことが無いのに、周りに流されて参加して酷い目にあった。それで貰えるのが肉の一切れなど割に合わない。僅かに溜飲を下げてやろうと、あの生意気な餓鬼を泥沼に落としてやったが、死に損なった上、報奨金を貰ったのがそいつの連れだと聞いたのがまた腹が立つ。

「くそ、なんでいつもこうなんだ。全部あいつのせいだ」

 悪態を吐く。元々軽業師ではあるが、大した技があるわけでも無く、芸人団におこぼれを貰おうと着いて行ったのが運の尽き。ふざけた容疑をかけられて、巻き込まれてたまるかと慌てて逃げた。捕まった奴のことは間抜けとしか思えなかった。

 しかし、捕まった者が出たせいで、今度は芸人団自体があの国では白い目で見られるようになってしまい、自然と解散した。そうなると今度は寄る辺がなくなり、ただただ目的も無く放浪しながらその日暮らしだ。結果こんな辺境まで流れて来てしまった。

 そう、あいつが捕まったからこんな目にあったのだ、と男は本気で思っていた。碌な力もない餓鬼の癖に生意気で、暇潰しに子供達を小突こうとしたら止めてくるような馬鹿な奴。少し位意趣返ししたところで誰に咎められることもないだろう――そんな思考が、目の前の地面をざりりと掻いた足で止められる。俯いたその先に立っている足は靴を履かず、鋭い爪で地面を掴み鱗に包まれていた。

「――はぁ!? あ、あんたは……」

「貴様を探していた。言いたいことが、有る」

 大きい――蜥蜴人としては普通だが只人から見れば十分に大きい体に覆い被されるように見下ろされ、男は戦慄する。確かあの腹の立つ男が戦場から帰ってくる時、この蜥蜴人に肩を貸されているのを見たからだ。

「な、なんだ。お礼参りか?」

「否。戦場で他者を出し抜くは定石。不愉快だが理解は有る。あれもそれを承知の上だろう。其処に我が何某を差し挟むつもりはない」

 そう言いながら、縦長の瞳孔を煌めかせる大きな瞳は爛々と輝き、男を睨みつけている。蜥蜴人はその気になれば、只人の頭蓋を噛み潰すことが出来るとすら言われている。すっかり委縮してしまった男に鼻先が近づき、低い声が響く。

「だが、あれの誇りを汚すような言い様は度し難い。謝罪をしてもあれは受け取らぬ、ならば我が奪おう。――謝罪せよ、そして二度とあれの元に顔を見せるな」

「わ、わかった、わかった! 悪かったよ! こっちだってもうこりごりだ!」

 慌てて立ち上がり、逃げていく男を見送り――赤紫鱗は僅かに鼻を鳴らす。別に義憤でも正義感でもない、単純にあの男が気に食わなかっただけだ。

 弱きものを守り、自分が犠牲になるということは、確かに愚かなことかもしれない。弱きものが弱きもののままに残ってしまうからだ。弱いのならば死ぬ、強いものが生き残る、それは蜥蜴人とて同じこと。

 だが、だからこそ――子供達を守る為に罪人の汚名を被り、虐げられていた子供を救わんと動くその魂を、尊ばぬわけがない。そしてそれを踏みにじる輩を退けるのは、己の誇りに相応しい行いだと赤紫鱗は誓っている。

 踵を返し、悠々と広場を歩いていくと、かぐわしい香りが漂ってきて自然と赤紫鱗は喉を鳴らした。思った通り、その香りの先に、鍋を囲んで並ぶ黒髪の青年と青髪の娘がいる。こんなにも美味を期待させる料理を作れるのはあの男しかいないと、赤紫鱗は本気で思っていた。




 ×××




 更に煮込んで暫く、すっかり夜闇も更けた空の下、寒さを堪えてどうにか乾いた服に着替えて。

「うし、出来た!」

「ふぁああああ」

 蓋を開けて湯気の下から現れ出た、柔らかく蕩けた肉達に、子供の歓声が上がった。

「いいにおい! おいしそう!! たべる!!」

「はいはい、ちょっと待ってろ。ほい、こっち旦那の」

「うむ、有難く」

 器に赤紫鱗の分、自分の分、と分けてから残りの鍋を全部モルニィヤに渡す。すっかり待たされて我慢が出来なかったのだろう、まだ湯気の立つ肉をひと切れ無造作にフォークで刺し、躊躇いなくぱくんと口に入れる。

「あひゅい! んん、おいひいいぃ!」

「だーから、慌てんなっての。零すぞ」

「――うむ、美味也」

 熱さと美味から大暴れするモルニィヤを宥めているうち、二・三個の肉を一気に口に放り込んだ赤紫鱗が万感の思いを込めたような口で唸る。そいつはどうも、といつも通り頷いてから自分も一口食べた。

「……ん、上出来だなこりゃ」

 思わず唇が綻ぶ。しっかり酒で煮込んだおかげで、かなり固い筈の一つ目牛の肉は簡単に噛み切れる程柔らかくなっているし、塩だけの単調な味付けに慣れていた口には信じられない程の芳醇な旨味が溢れている。旅暮らしを続けるならもうちょっと保存食に回したり気を遣うところだが、今日は祝いも兼ねているのだから出し惜しみはしない。たまにはこれぐらい贅沢をしないと、漂泊の民もやっていけないのだ。

 ところで、さっきから美味しい美味しいと騒いでたモルニィヤが静かになったので、不思議に思って隣を見ると。

「んむう……」

 もにゅもにゅと肉を噛みながらも、その瞼はとろとろと下がりかけている。あんなに動いたのも緊張感があったのも今日が初めてだったのだろう、腹が膨れれば眠くなるのは当然だ。既に鍋の中身は半分以上減っているのが彼女らしいが、流石に危ないのでフォークを取ろうとする。

「ほら、これ寄越せ。もう眠いんだろ」

「やぁ……たべぅ……」

「取らねぇから、残しとくから。明日の朝食え、な?」

 いやいやと何度も首を振るが、眠気に耐え切れなかったらしくついに頭がかくんと下がった。素早く咥えていたフォークをスヴェンが奪い取ると同時、さっと腕を伸ばした赤紫鱗が頭を支えてやった。抱えて離さない鍋をどうにかもぎ取り、毛布でくるんで寝転がせてやる。あっという間にすやすやと寝息を立てだした子供に、ふたりで溜息を吐いた。

 約束をしたので冷めた葡萄酒煮込みの残りにはそっと蓋を被せておく。寝ている隙に空腹を抱えた奴に奪われそうな気もするので、見張りは立てておくべきだろう。

「……なぁ、旦那」

「何か」

「モルのあれ、あの叫び声。なんか、術みたいなもんなのか?」

 辺りにいた全員が一瞬動けなくなった。驚きや恐怖ではなく、体が痺れたように感じたのだ。すぐに元に戻ったし、気にすることでもないと思ったが――赤紫鱗は得たりと顎を上下に動かした。

「あれぞ巨人の神秘。闘いの咆哮。弱き物を縛り蹴散らす為の雄叫びぞ」

「はぁ、成程な……」

 改めて、すっかり寝入った少女の顔を見下ろす。どう見ても、話していても、子供にしか見えないが、少なくとも自分よりは余程戦いに向いている。あまり侮るのも良くないか、と思いつつ、普段の彼女を見ているとどうしても心配が先に立ってしまう。良いタイミングでごろんと寝返りを打たれたので、そっと毛布を直してやった。

 ――代償行為って奴なのかね、これは。

 あの男のせいで思い出してしまった過去を勿論口には出さず、自嘲の笑みだけ浮かべて荷物を探る。隠しておいた葡萄酒の瓶は、中身を殆ど使ってしまったが、それでもカップに一杯ぐらいは残っていた。二つの器に分けて注ぎ、片方を赤紫鱗に出しだしてやると、縦長の瞳孔の瞳がぐるりと回転する。

「モルには内緒な。ま、ちっと舐めさせたら嫌がってたし、良いだろ」

「ふむ。――頂こう」

 共犯者の笑みを見せると、ぐるぐると蜥蜴人の喉が鳴る。

 子供が寝静まった夜の中で、聞こえないように小さく乾杯をした。今日を生き延びられたことを感謝する代わりに、言えないことを酒で飲みこむ。何故だか赤紫鱗の瞳が、労うように見つめてきたので、軽く肩を竦めるだけで答えた。

 感傷に浸る暇など、その日暮らしの漂泊の民には贅沢すぎる時間なのだから。

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