スカボローフェア
野津井 香墨
第1話
商品の仕入れの為に時々旅をする宿祢は、その日もある国へ向かう途中だった。
バスに揺られて、空港へ向かう途中の事、突然話しかけられた。
「スカボローの市へ?」
こう話しかけられる時の文句は決まっているし、それを知っていた。誰がいつか決めたのかは知らないが。
「だったら、そこに居る可愛い女の子に、是非よろしく伝えてね。彼女は、かつて愛した人なんだ」
可愛いかどうかなんて主観だし、随分と曖昧とした伝言だと思ったが、了承しておいた。
この場合、断っても断らなくても結果は一緒なのだが、ついいつも承諾してしまう。
スカボローの市は昔ある国にあった催しらしい。バサーのようなもので、農作物やらのやり取りが盛んに行われていたと聞いた。
もう今はやっていないはずだ。
「俺は行けないんだ、悪いな」と、答えてみた事もあったが、変わらない。
軽い会釈をして、去られるだけだ。
「スカボローの市へ、か…」
ぼんやりと目を閉じて考えていると、何だか周りの空気が変わった気がして目を開けた。
目の前はバスの低いベージュの天井ではなく、高い青空に白い雲が泳いでいた。
自分が何かに乗っている、移動している。バスではなく、おそらく馬車なのだ。
「行商人さん、スカボローの市へ?」
馬車を操る人間が訪ねる。容姿的に、農夫といったところだろうか。
今はいつだ、ここはどこだ、お前は誰だ。咄嗟に聞きそうになったが、それを飲み込む。不審がられると厄介だ。
しかし相手の質問への答えも飲み込んでしまって、言い淀む。
答えない宿祢に対して、しかし農夫は不審がる事もなく、「あそこに行けば何でも揃うと聞きますからねえ」と浪々と続ける。
まるで船頭の舟歌のようだと思ったが、自分が何故そういう経験の記憶を持っているのか分からず更に混乱する。
「カンブリックでできた縫い目の無いシャツ、革の鎌…ええ、何でもです。」
「なん、でも」
やっと答えた声は自身が思っているより動揺している。
「あなたは何をお探しですか。それともお売りに?」
聞かれて、自分が脇に抱えていたリュックを見やる。
自宅兼店舗から持ち出したリュックは無く、ほどほどに年季の入った、しかし丈夫そうな肩下げ程度のバッグしか持っていなかった。
このバッグは見たことがある、と感じた。いつか取り扱った商品かもしれない。
そうでないと、中にコインが入っている事を知っているというこの謎のデジャビュに説明がつかなかった。
他の持ち物としては、布や紙に包まれた物が数品と、バッグよりも大きめの麻袋が畳まれて入っている。
荷物の内容的に、仕入れが主な目的だろう、恐らく自分と同様に。
そう憶測をつけた宿祢は、「ああ、まあ」と濁して答える。
暫くして、ここをまっすぐ、半日程行ったらスカボローの市に着きますよと馬車から下ろされる。
「枯れ井戸を見つけたら、エルフィンナイトを探してください。」
農夫が最後に伝えた言葉が、それだった。振り返ると、もう農夫も馬車も何も無い。
キツネにつままれるってこういう事だろうか…いや、外国のキツネは化かすのだろうかと考えながら、宿祢は道に一人で佇んだ。
ここに居てもしょうがない、スカボローの市へ行ってみよう。そう思い、農夫の示した道を暫く歩んだ。
ふと、道の外れに井戸と小屋を見つけた。どれくらい歩くかも分からない為、宿祢は水を手に入れようと考えた。
あぜ道へ出て小屋に近付く。誰も居ないどころか、最近使用された形跡もない。都合は良いが、と宿祢は思う。
そしてその思い通り、井戸は枯れていた。はあと落胆の溜息と共に、農夫の言葉を思い出した。
周囲を見回すが、誰も居ない。エルフィンナイトと言うと、妖精の騎士…だろうか。そんな事を考えていたが、時間の無駄だと感じてすぐに立ち上がる。
またスカボローの市へ至る道へ戻って来て、進もうとした。
その時、遠くに低く遠い笛の音が聴こえたと思うと、一陣の強風が宿祢に向かってきた。咄嗟に目を守っていると、あっという間に肩掛けを吹き飛ばされた。
濃緑の肩掛けは風そのものになったように舞い、高く遠くへ運ばれて行く。
自分の物でも思い入れも無い事に関わらず、宿祢は思わず肩掛けを追いかけていた。スカボローの市へ至る道を逆走し、来た道を引き返す。
笛の音はまだ鳴っている。
必死に追っていると、また笛の音が聴こえてきた。それとほぼ同時にあの突風がまた自分の正面からぶつかって来た。
また目を守りつつ、今度は周囲を素早く観察する。
視界の端、遠くに人らしき影を見たと思ったら、視界が突然何かが襲う。あの肩掛けが風に煽られて戻って来たのだ。
焦って肩掛けを外すと暗闇から明るくなり――
気付くと、宿祢はバスの中に居た。ここはどこだろうかと一瞬固まったが、すぐに自分の役割や目的を思い出す。
寝てしまっていたのだろうか。乗り過ごしていないかを確かめて、また目的地が遠いことを知って落ち着いた。
夢だったのだろうか、あの旅は…スカボローの市は…?
しかし宿祢は深く考える事をしない性質の為、直ぐに停車駅で降りる為に荷物を確認し出した。
こういうのは相談できる相手にしておけば良いし、それも今すぐでなくて良い。だったら、それまでは考えない。
「宿祢君、それエルフィンナイトに遭ったんじゃないの?」
目の前の取引先兼保護者の神庭が、黒髪を揺らしながら答える。店内の売り物であるソファにふんぞり返る姿が存分に尊大だが、彼にはそういう所がある。
「夢の話だけど…。」
「うーん、結構昔に…そういう素敵な肩掛けしてる行商人が居た気がするな…。ちょっと待ってくれ。」
神庭はソファから勢いづけて立ち上がり、オーラリーをくるくる回す。
「えーっと、いつだっけ。スカボローの市があった頃だよな、じゃあこんくらい前か。」
太陽系儀を存分に回す様は如何にも適当めいていて、止める暇も無い犯行だった。
「ちょっと、神庭君」
「宿祢君、ちょっと借りるよ。」
近くにあった幻灯機のフィルムケースをも素早く漁り、目的らしいものを抜き取る。本当に止める暇もない。
「あれ、これどうやって使うんだっけ。宿祢君、やってくれ。このフィルムが見たいんだ。」
と、思ったらあっさり止まった上に不躾な依頼をしてくる。本当にこの人は自由だな、と神庭の傍若無人に溜息をついてから、神庭の手に持ったフィルムを受け取る。
「手袋もしないで触らないでくれよ。」
「大丈夫、それ本当は無いやつだから。」
またよく分からない事を言っていると思ったが、深く追求しなかった。神庭君はそういう所があると諦めている。
「ほら、ほら!」
電気を消してランタンを持って来た神庭が、あんまり子供みたいにはしゃいでいるから、取り敢えず受け取る。
ランタンを付けてフィルムを差し込む。
「…ここだ。ここに居た。」
「どこにでもありそうな平原だからなあ、ここかどうかは…あっ、待て、居たぞ。」
神庭がフィルムをひったくって入れ替える。先ほどの平原を少しずれたところで、白い鎧を着た長い黒髪の人間が佇んでいた。
ただ立っているのではなく、角笛を吹いているようだ。二度三度吹くと、その人の髪が色んな方向へなぶられる。まるで、風を操っているようだった。
「あっ。あれって……。」
神庭が何か言おうとしたとき、幻灯機の映像の中の相手がこちらを向いた。宿祢は反射的に黙り込んで、息をひそめる。
しばしの時間が流れたが、相手はこちらの方向をしっかりと見据えているようだった。
「神庭君、これって…」
「いや、向こうからは見えてない…筈だけど。まあ、感知くらいはしてたかも……。」
それってどういう、と言いかけると同時に相手が角笛を、こちらに向けて構える。
「あっ、ヤバイ。」
あまりヤバくなさそうなトーンで神庭がフィルムを抜く。
その直前に角笛の音と、あの強風が画面を映した壁から飛び込んで来る。
神庭が咄嗟にフィルムを抜いた為、甚大な被害には至らなかったが、店内の商品がいくつか押し倒されていた。
「壊れる物じゃなくて良かった。流石に、ここの物全部をポケットマネーで賄うのは痛いからな…。」
賄えない訳じゃないのか、と心の中で神庭の懐の温かさを考えながら、電気を付ける。
いつの間にかオーラリーは戻ってるし、フィルムは抜き取られている。
「敵じゃないっていうか悪いやつじゃないっていうか…弁解しておくと俺じゃないって言うか?」
宿祢は何も聞かなかったが、神庭は何やらぶつくさ言っている。
良いから片付け手伝って、とため息をつくと「うん」と素直な返事を返された。
了
スカボローフェア 野津井 香墨 @bluebird_yy
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