蠱毒屋奇譚
鎌倉行程
蠱毒屋
都市伝説、薄れていく意識、
月の光は黒い雨雲にさえぎられている。一見、
「ここか……」
男は建物のドアを開け、誰もいない管理人室を横切り、エレベーターに乗り込む。目的の階のボタンを押そうと指を伸ばしたが、何度見ても地下三階のボタンまでしかない。仕方なくエレベーターから出る。すると、すぐ右手に『非常階段』と書かれたドアがある。そのドアを開けると、切れかけた蛍光灯の光が、薄暗くあたりを照らし、階段が存在することだけを、久しく途絶えていたであろう客人に伝えていた。
男は、足を踏み外さないように慎重に下りの階段へと歩みを進めた。雨で湿った靴音が、静かな闇に溶けていく。ひとつ、またひとつと階段を下りていくと、不思議なことに鉄製のドアが
鉄製のドアには、一枚の紙が貼られ、そこには『毒、売ります』とだけ書かれている。間違いない、そう思いながら、男はドアノブに手を伸ばした。
その瞬間、背中にぞくりとする冷気を感じた。ドアノブに手を掛けたまま、おそるおそる背後を見る。しかし、切れかけの蛍光灯がカチ、カチと音を立てているだけでそこには何もいなかった。
男は覚悟を決めて、鉄製のずっしりとしたドアを開けた。
ドアの向こうは、男が想像していたよりもずっと広く、
見た目は三十代半ばといったところで、薄暗くても分かるほどに端正な顔立ちをしていた。白衣の下に黒いシャツ、そして何よりも目を引くのは、年齢に不似合いな真っ白な髪。
男が店主を見ていると、バタンと音を立てて、男の背後のドアが閉まった。その音で、店主は男に気付いた。どうやらカウンターに隠れて見えなかったが、店主は本を読んでいたようだ。
「ようこそ、
予約が必要とは
「冗談、予約なんて必要ないですよ。どうぞ、こちらへ」
店主は男をカウンターの前に置かれた椅子に座るようにうながした。男は解せないと思いながらも、店の奥に進み、椅子に腰を掛けた。
「さあ、どのような物をお求めでしょう。もし傘が欲しいなら、大通りに出てすぐのところにコンビニがありますよ」
そう言いながら、頭の先から足元まで雨でびしょ濡れの男を店主はまじまじと観察していた。すると、少し間をおいて、男は腹の底から絞り出すような声で答えた。
「この店で一番、人を苦しめられる毒が欲しい」
「最も人を苦しめる毒、ですか……。毒は大なり小なり人を苦しめるものです。ここにはお客さんが思うよりも遥かに沢山の毒がある。痺れさせたり、腹を
店主は微笑んだまま、淡々と伝える。すると、男はしびれを切らし、カウンターに手のひらを叩きつけた。
「……人を殺す毒だ」
腹の底から湧き上がる憎しみを吐き出すかのような声で男は答えた。店主は
「そうですか、わかりました。しかし、このような稼業をしていると勘違いされてしまうことが少なくないのですが、人を殺せるような毒を
店主が手を叩くと、男はドアノブに触れた時と同じぞくりとした冷気を感じて、
男の約一メートル後ろには、
「
「はい、マスター」
青年は短く答える。そして、店内の薄闇に溶けていくように消えたように見えた。いつの間にか店主と男の間には紅茶の入ったティーカップが二つ置かれていた。
「驚かせて申し訳ないね。彼には接客とは何たるかを教えている最中なのです。
店主がティーカップを口元に持ち上げ、香りを楽しんだ後、紅茶を一口飲んだことを確認してから、男は自分の紅茶に口をつけた。ほんのりと甘みを感じる味で、そのやさしい温かさは、雨と緊張で冷えて
「さて、本題に入りましょうか。毒を欲しがる理由なんてものは、ある程度限られていますが、人を苦しませて殺す毒と言ったことから推測するに、理由は恨みですかね」
店主がそう言うと、男は手で握りしめてボロボロになった写真を一枚、カウンターの上に置いた。写真は、若い男女がホテルから出てくるところを写したものだった。
「これは探偵に撮らせた写真だ。このくそったれ女は俺の婚約者だった。半年後に結婚式の予約もしていたというのに、こいつは、俺が結婚の資金のために、一生懸命働いている間に、別の男と寝ていやがったんだ……。普段はそんな様子を一切見せなかったくせに、俺との将来もあんなに楽しそうに話していたくせに、あいつは裏切ったんだ。あっさりとは死なせない、一番苦しむ方法で、殺してやりたい……」
その後も男は声を荒げて、大粒の涙を流し、怒りにぶるぶると震えながら、負の感情をまくし立てた。
男の話が途切れると、少し間をおいて店主は小声で「なるほど」とつぶやき、右手の人差し指を男の左後方へ向けた。男がその方向を向くと、既に
「
店主は、話しながら瓶に入っていた毒をカプセルに詰めると、さらに無地の茶色い紙袋に包装し、男に渡した。男は紙袋を受け取ると、店主に尋ねた。
「これを飲ませれば、あの女は本当に死ぬんだろうな」
「はい、私の勘が正しければ」
「待て、確実に苦しませて死ぬんじゃないのか。一体どういうことだ」
店主は改めてにっこりと微笑んだ。
「この毒の名は『愛』です。彼女のしたことは、確かにまぎれもない裏切り行為でしょう。しかし、おそらく彼女の『心』は
店主が話し終わると、男は黙ってポケットの財布に入っていた
「
店主がそう
しばらくして、
「マスター、あの男は悩んだ末に、自ら毒を飲みました」
「報告ご苦労様。そうか、自分で飲んだのか……」
男が何をきっかけに彼女の浮気を疑い、探偵に浮気調査を依頼したのかは分からない。しかし、殺したいと言いながらも、本心では彼女との関係を諦めきれなかったのは事実だろう。そして、あの毒を男が飲んだのなら、彼女を
ただ、『毒を以て毒を制す』という言葉があるように、苦しみに男が耐えることが出来れば、結果として以前よりも二人の愛情は深まっていく、という可能性もあると信じたい。
そんなことを考えながら、店主は紅茶の残りを飲み干す。それとほとんど同時に鉄製のドアがバタンと閉まる音が聞こえた。店主が視界を店の入り口に移すと、誰かが立っているのが見えた。
「ようこそ、
蠱毒屋奇譚 鎌倉行程 @to_da_shoten
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