蠱毒屋奇譚

鎌倉行程

蠱毒屋

 摩天楼まてんろうのそびえ立つ大通りから外れた路地裏。高層ビルに挟まれるように立っているほそく小さな雑居ビルがある。しかし、法務局の登記簿とうきぼで確認しようが、そんな建物の記録は一切存在しない。本来、存在してはならない建物の地下四階に、その店はあるとされていた。

 都市伝説、薄れていく意識、走馬灯そうまとう白昼夢はくちゅうむ、概念、空間と時間から切り離されたうつろな次元に、人々は迷い込むことがある。蠱毒こどく屋と呼ばれるその店は、迷い込んだ者たちを誘い込む。


 月の光は黒い雨雲にさえぎられている。一見、きらびやかに見える大都会の経済活動が灯す光も届かぬ場所で、土砂降どしゃぶりの雨の中、傘も差さずに雑居ビルの前にひっそりと立つひとりの男。目を血走らせながら、一枚のボロボロになった写真を握りしめ男はつぶやく。

「ここか……」

 男は建物のドアを開け、誰もいない管理人室を横切り、エレベーターに乗り込む。目的の階のボタンを押そうと指を伸ばしたが、何度見ても地下三階のボタンまでしかない。仕方なくエレベーターから出る。すると、すぐ右手に『非常階段』と書かれたドアがある。そのドアを開けると、切れかけた蛍光灯の光が、薄暗くあたりを照らし、階段が存在することだけを、久しく途絶えていたであろう客人に伝えていた。

 男は、足を踏み外さないように慎重に下りの階段へと歩みを進めた。雨で湿った靴音が、静かな闇に溶けていく。ひとつ、またひとつと階段を下りていくと、不思議なことに鉄製のドアが薄闇うすやみの中にありながらも、目の前にはっきり見えてきた。

 鉄製のドアには、一枚の紙が貼られ、そこには『毒、売ります』とだけ書かれている。間違いない、そう思いながら、男はドアノブに手を伸ばした。

 その瞬間、背中にぞくりとする冷気を感じた。ドアノブに手を掛けたまま、おそるおそる背後を見る。しかし、切れかけの蛍光灯がカチ、カチと音を立てているだけでそこには何もいなかった。

 男は覚悟を決めて、鉄製のずっしりとしたドアを開けた。


 ドアの向こうは、男が想像していたよりもずっと広く、奥行おくゆきのある部屋だった。両側の壁には、瓶の置かれた棚が壁一面にずらりと並んでいる。視線を部屋の一番奥へ移すと、腰の高さほどのカウンターがあり、店主と思われる男がカウンターの向こうに座っていた。

 見た目は三十代半ばといったところで、薄暗くても分かるほどに端正な顔立ちをしていた。白衣の下に黒いシャツ、そして何よりも目を引くのは、年齢に不似合いな真っ白な髪。

 男が店主を見ていると、バタンと音を立てて、男の背後のドアが閉まった。その音で、店主は男に気付いた。どうやらカウンターに隠れて見えなかったが、店主は本を読んでいたようだ。

「ようこそ、蠱毒こどく屋へ。お客様、ご予約のお名前をお聞かせいただけますか」と、薄暗く不気味な店内とは対照的な態度で男に声を掛ける。まるで、高級ホテルのフロントスタッフのような、自信に満ちた表情と声色だった。

 予約が必要とは露程つゆほどにも思わなかった男は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情を見せた。すると、店主は先程とは一転して、いたずらっ子のような笑顔で言葉を続けた。

「冗談、予約なんて必要ないですよ。どうぞ、こちらへ」

 店主は男をカウンターの前に置かれた椅子に座るようにうながした。男は解せないと思いながらも、店の奥に進み、椅子に腰を掛けた。


「さあ、どのような物をお求めでしょう。もし傘が欲しいなら、大通りに出てすぐのところにコンビニがありますよ」

 そう言いながら、頭の先から足元まで雨でびしょ濡れの男を店主はまじまじと観察していた。すると、少し間をおいて、男は腹の底から絞り出すような声で答えた。


「この店で一番、人を苦しめられる毒が欲しい」


「最も人を苦しめる毒、ですか……。毒は大なり小なり人を苦しめるものです。ここにはお客さんが思うよりも遥かに沢山の毒がある。痺れさせたり、腹をくださせたりする毒、面白いものだと身体中から汗が止まらなくなるなんて代物しろものもあります。『苦しめる』と一言に言っても様々ですからね。もう少しどんなものを欲しいのかヒントをもらえませんか」

 店主は微笑んだまま、淡々と伝える。すると、男はしびれを切らし、カウンターに手のひらを叩きつけた。

「……人を殺す毒だ」

 腹の底から湧き上がる憎しみを吐き出すかのような声で男は答えた。店主は微塵みじんも動じる様子もなく、相変わらず顔に張り付いた笑顔で深く頷くと答えた。

「そうですか、わかりました。しかし、このような稼業をしていると勘違いされてしまうことが少なくないのですが、人を殺せるような毒を誰彼だれかれ構わず売るようなことを私は良く思わない。まずは少し、話を聞かせてもらいましょうか」

 店主が手を叩くと、男はドアノブに触れた時と同じぞくりとした冷気を感じて、咄嗟とっさに振り返った。

 男の約一メートル後ろには、長身ちょうしん瘦躯そうくの青年が立っていた。シンプルな白いシャツに黒のスラックスを履いた青年の顔を見上げると、焦げ茶色の長髪で目元が隠れている。

鬼灯ほおずき君、お茶だ」

「はい、マスター」

 青年は短く答える。そして、店内の薄闇に溶けていくように消えたように見えた。いつの間にか店主と男の間には紅茶の入ったティーカップが二つ置かれていた。

「驚かせて申し訳ないね。彼には接客とは何たるかを教えている最中なのです。勿論もちろんこのお茶には毒なんて入ってないですよ」

 店主がティーカップを口元に持ち上げ、香りを楽しんだ後、紅茶を一口飲んだことを確認してから、男は自分の紅茶に口をつけた。ほんのりと甘みを感じる味で、そのやさしい温かさは、雨と緊張で冷えて強張こわばった男の身体を芯からほぐしていった。


「さて、本題に入りましょうか。毒を欲しがる理由なんてものは、ある程度限られていますが、人を殺す毒と言ったことから推測するに、理由は恨みですかね」

 店主がそう言うと、男は手で握りしめてボロボロになった写真を一枚、カウンターの上に置いた。写真は、若い男女がホテルから出てくるところを写したものだった。

「これは探偵に撮らせた写真だ。このくそったれ女は俺の婚約者だった。半年後に結婚式の予約もしていたというのに、こいつは、俺が結婚の資金のために、一生懸命働いている間に、別の男と寝ていやがったんだ……。普段はそんな様子を一切見せなかったくせに、俺との将来もあんなに楽しそうに話していたくせに、あいつは裏切ったんだ。あっさりとは死なせない、一番苦しむ方法で、殺してやりたい……」

 その後も男は声を荒げて、大粒の涙を流し、怒りにぶるぶると震えながら、負の感情をまくし立てた。

 男の話が途切れると、少し間をおいて店主は小声で「なるほど」とつぶやき、右手の人差し指を男の左後方へ向けた。男がその方向を向くと、既に鬼灯ほおずきが店主の指示した棚から、瓶をひとつ取り出しているところだった。鬼灯がカウンターに瓶を置くと、店主は話し始めた。

貴方あなたにぴったりの毒をひとつ、鬼灯ほおずき君に持ってきてもらった。この毒は、人それぞれの適切な濃度に薄めて使うことで、幸福感が得られる薬にもなる。しかし、そのまま使用すれば、恐ろしく人を苦しめる劇薬、猛毒となる。貴方には勿論もちろん、死に至る濃度でカプセルに詰めてお渡ししましょう。この毒は古今ここん東西とうざいじつに多くの殺人事件に間接的、または直接的に関わってきた非常に古い歴史のある毒です。決して高級品というわけではないですが、仕入れに時間と労力を要するものであり、毒の性質上、本来ので、あえてこちらから価格の提示は致しません。したがって、おだいは貴方のお気持ちの金額で結構です。夜の街には、成分が似ている極限まで薄められた品に価格をつけて売る人たち、またそれを好んで買う人たちが沢山います。まあ、この毒の本質を知っている者からすれば、そんなものは単なる粗悪品そあくひんに他なりませんがね」

 店主は、話しながら瓶に入っていた毒をカプセルに詰めると、さらに無地の茶色い紙袋に包装し、男に渡した。男は紙袋を受け取ると、店主に尋ねた。

「これを飲ませれば、あの女は本当に死ぬんだろうな」

「はい、私の勘が正しければ」

「待て、確実に苦しませて死ぬんじゃないのか。一体どういうことだ」

 店主は改めてにっこりと微笑んだ。

「この毒の名は『愛』です。彼女のしたことは、確かにまぎれもない裏切り行為でしょう。しかし、おそらく彼女の『心』は貴方あなたとの関係を崩すつもりは無かったのではないか、と私は思います。現に普段は一切そんな様子を見せず、半年後の結婚式を控えて、貴方との将来を楽しそうに話していた。人間の心は弱く、何らかの理由をつけて、大きな後ろめたさを抱きながらあやまちを犯してしまうことだって、そう珍しいことじゃない。この毒は、彼女が抱えているであろう貴方への罪悪感、つまり『心』に作用します。毒を飲ませれば、彼女は己の過ちを深く悔いて、もだえ苦しみ、最後には貴方への愛情と罪悪感に押しつぶされ、自ら死を選ぶことでしょう」


 店主が話し終わると、男は黙ってポケットの財布に入っていたがねの全てをカウンターに置き、店を出た。

鬼灯ほおずき君、いつも通り頼んだよ」

 店主がそうつぶやくと、長身ちょうしん瘦躯そうくの青年は闇に溶けていった。


 しばらくして、蠱毒こどく屋の薄暗い店内で、店主が紅茶をゆったりと飲んでいると、鬼灯ほおずきが闇の中から現れた。

「マスター、あの男は悩んだ末に、自ら毒を飲みました」

「報告ご苦労様。そうか、自分で飲んだのか……」


 男が何をきっかけに彼女の浮気を疑い、探偵に浮気調査を依頼したのかは分からない。しかし、殺したいと言いながらも、本心では彼女との関係を諦めきれなかったのは事実だろう。そして、あの毒を男が飲んだのなら、彼女をゆるし、歩み寄ることに苦しみ、それに耐えきれなければ自ら死を選ぶことだろう。

 ただ、『毒を以て毒を制す』という言葉があるように、苦しみに男が耐えることが出来れば、結果として以前よりも二人の愛情は深まっていく、という可能性もあると信じたい。

 そんなことを考えながら、店主は紅茶の残りを飲み干す。それとほとんど同時に鉄製のドアがバタンと閉まる音が聞こえた。店主が視界を店の入り口に移すと、誰かが立っているのが見えた。

「ようこそ、蠱毒こどく屋へ。お客様、ご予約のお名前をお聞かせいただけますか」

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