いつもとかわらない日常 3

「エレノア。聞いているのですか、エレノア」


 予定していたよりも少しだけ早く全ての授業が終わり、余裕を持っていつもより早めに一階に向かった私を待ち受けていたのは、夕食の準備に追われている給仕達ではなく、いつにも増して人を威圧し萎縮させる様な雰囲気を身に纏ったお母様であった。


 何故こんなにも見るからに不機嫌なのか、間違いなく朝の出来事のせいだ。殊勝なことにお母様は朝の話の続きをするためにわざわざ待ち構えていたのだった。だとすれば、私は蜘蛛の巣にまんまと引っかかってしまったというわけか。なんと間抜けなことか、逃げ出そうにもその場を離れるに足る理由が見当たらない。今の私には、蜘蛛の巣に絡め取られた羽虫の様にもがき回ることすら叶わない。早めに来るという選択肢を選んだ時点で、もうすでに手遅れだったのだ。


「いいですかエレノア、貴方には何度も言わなければ理解ができないようですから今一度説明しますけれど、このフラウギス宗主国で、わたくしたち貴族は与える者と呼ばれています。そして、そこにいるメアリや執事長のローゼスらを仕える者と言います。人とされるのはここまでであり、それ以下は使われる物、そう道具なのです。ちなみに、我がフォーサイス家の中にはそんな下品な道具は一つたりとも置いてはありませんが、……そういえば例外が一つだけ存在しましたね、あれに関しては種そのものが人に使われるために生まれたというのに。いくらアデルバートのお気に入りとはいえ、あんな下品な道具を家に置いておくなどわたくしは認めたくはないのだけれど、アデルバートの功利主義には本当に困ったものです。まぁ、アデルバートが変わり者であることなど今に始まったことでもないけれども。いいですか、そもそも我々与える者の義務とは――――」


 お母様の長い説教を少しでもかわすために今の私にできる事は心を無にして頭を働かせず耳から入ってくる全ての言葉を右から左または左から右へ聞き流すことだけだった。


 説教に紛れて少し離れた場所からキィとドアの開く音が聞こえた。音を聞き、お母様が一度話を区切る。お母様の話が終わったのを確認し、メアリは一度頭をさげ、口を開いた。


「フレヤ様、旦那様がお見えになられます」


「――そうですか。エレノア、今日のところはここまでにしておきましょう」


 そう言ってお母様は、私から背を向けお父様を向い入れるため所定の位置へと向かう。


「――お言葉、ありがとうございました。お母様」


 言葉とともにお母様に頭を下げ、私も所定の位置に着く。


 少しして、コツコツと、耳障りにならない程度の足音と共に、お父様が大広間にお見えになられた。合わせて執事やメイド達が軽く頭を下げ、お父様が前を通り過ぎるのに合わせて顔を上げる。もっと人数がいればお父様に合わせて揺れる波のようになるだろうか、そんな考えが頭を過ぎる程には統率のとれた綺麗な動きをしていた。毎度のことながらこの動きには関心せざるを得ない。


 夕食の時間を迎え、家族全員が食卓に集まった。まず最初にお父様が席につき、続いて少し後にお母様も席につく。私は最後、そういう決まりだ。お母様いわく「貴族たる者、その場いる人物の序列を瞬時に把握し、それに即した行動を即座にとらねばなりません」と言う事らしい。そう言うお母様だが、心の奥底ではお父様のことを自分より下に見ている節があるのを私は知っている。


「皆、席についた様だな。では、今日までの神のお導きに感謝を示し、祈りを捧げる。――皆、目を閉じなさい――」


 お父様の言葉に従い全員が、この国、フラウギス宗主国で最上位神と位置付けられている、主神キルクスに、祈りを捧げるに相応しい体勢を取り始める。


 まず、この場で一番位の高い、最上位者であるお父様が手のひらを天に晒す。するとその場の皆が目を閉じ、フォーサイス家に仕える執事やメイド、給仕、所謂中位から下位者にあたる者達は体を地に伏せ首を垂れる。上位者にあたる私たち家族は体を地に伏せる必要はなく、代わりにテーブルに頭を伏せ首を垂れる。


 全員、祈りの体勢が取れたのだろうか。しばしの静寂の後、お父様が祈りの言葉を捧げ始めた。


「われら主神キルクスの敬虔な信徒なり。主よ、人は皆、主の導き無くしては生きてゆく事すらままならぬ無知蒙昧の愚物なり。しかし主は、本来、神の奴隷でしかなかった、われら人に、手を差し伸べ、知恵を授け、生の道を示した。主こそ、われら人の真なる導き手なり。われら人が、今日こんにちも人としての生を真っ当できることに感謝を示し、われらの骨肉、血の一滴までの全てを、主に捧ぐ。全ては未来永劫、主の所有物なり。主よ、変わらずわれら人を、未来永劫導きたまえ。敬虔なる信徒より主に捧ぐ」


 言葉の後に、コツンと、何かが机にぶつかるような音がする。


 お父様が首を垂れたのだ。


 「エィスクリーブ」


 お父様が祈りの言葉を捧げ終わり、続けて全員が「エィスクリーブ」と唱える。


今日こんにちも主は我らの願いを受け入れてくださるだろう。フレヤ、エレノア目を開け、楽にしなさい」


 最上位者であるお父様からお声がかかってやっと、お母様と私の祈りの体勢を解くことを許される。もちろん、私は、お母様と同時に目を開かないように一泊ほど間を置き目を開く。私たち二人が目を開いたのを確認し、お父様はお母様に向かって目配せをし、お母様がローゼスに告げる。


「ローゼス、目を開けなさい」


 お母様から声を掛けられた執事長のローゼスは、即座に祈りの体勢を解き、姿勢を正し、お母様のお言葉聞き入れる姿勢に入った。


「以降の指示は全て貴方に委任します」


「かしこまりました。フレヤ様」


 パンッ。


 ローゼスが一度手を叩くと、この場にいる執事やメイド達が一斉に祈りの体勢を解き、食事の準備に取り掛かり始める。


  みるみるうちに食卓の上に食事が運ばれ、五分もしないうちに夕食の準備が整う。だからと言って、並べられてすぐに手を付けては決してならない。


「それではいただくとしよう。各々自由に手をつけなさい」


 まず、最初に最上位者から食事に手をつけても良いという様な旨の許可が下りる。そして最上位者が一口食すのを確認して、やっと次の上位者達が食事に手をつけても良くなる、が序列をもっと細かく分けると家族間で序列が一番低いのは私であり、細心の注意を払うのであれば、私はお母様が手をつけるまで待たねばならない。


 いつも思うのだが、この場に存在しない神に向かってあそこまで畏って平伏したり、人にいちいち位をつけたり、なんだか違和感を覚えずにはいられない。なんというか、ふに落ちないのだ。お母様に何度説明されようが、キルクス経典を何度読もうが、納得ができないのだ。しかしこの家でこんな当たり前のことに、いつまでも疑問を感じているのは私くらいだろう。この国でこんな疑問を抱えたままじゃ、いつまでたっても生きづらいままなのは分かってはいるが、こればっかりはしょうがない。だって納得ができないのだから。そのせいで、いまだに私の所作にはぎこちなさが付いて回ってしまっている。


「エレノア、あまり食が進んでいない様だが。そういえば朝食の時にもいなかったな、何かあったのか」


 私が脳内で言い訳をこねくり回しているうちも変わらず時間流れていた様で、しかし体だけが流れに乗り切れておらず、そのせいで行動にズレが生じていたのだろう。意識の外側からふとお父様の声がした。


 適切に言葉を返さねば。間を取り違えるなどあってはならないし、無視など到底許される事ではない。


 失礼のない様、ナイフとフォークを食卓に置いて、一度ナプキンで口を拭き、軽く頭を下げ、内側に向いていた思考回路と神経を無理やりに外側へ向け直す。


「お父様、朝はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。どうやら、昨日の疲れが少し残っていた様です」


「エレノア、お前の体は健常とは言えないのだ。注意だけは決して怠らないようにしなさい」


「かしこまりました、お父様。ご助言いただき感謝致します。ですがご心配には及ばないかと、ただの疲労でございます」


「そうか。自身のことは自身が一番よく分かっているだろう。自らでよいと判断したのなら私からはこれ以上何も言うまい」


「ありがとうございます」


 会話に区切りもつき、再びフォークを手に取り食事に手を伸ばした私に、今度はお母様から声がかかる。


「エレノア、お父様に向かって肯定以外の返答はよくないわね」


「フレヤ。状況を正しく判断するためには時には否定も必要だ」


「アデルバート。ですが、言い方というものがありますわ。自身よりも目上の者の意見に対して、あんなに真っ向から否定するのは貴族としていかがなものかと。それにエレノアはまだ子供です。正しい判断が下せているかと言われると、少し疑問が残りますもの」


「エレノア、トリスティア女史から贈られた検査機で確認はしたのか」


「はい、お父様。確認したところ魔力が少ないとの結果でした。睡眠中に魔力が回復しきらずそのために疲労感があったのかと」


「そうか。そういうことであれば問題はないだろう」


「エレノア、そういうことは早く言いなさい。でないとお母様が困ってしまうでしょう?」


「申し訳ございません、お母様」


「わかればいいのよ。わかれば――」


 会話に区切りがつき、以降言葉を交わすこともなくなったためか、その後粛々と食事は進み、今日で唯一家族全員が揃った夕食の時間は、長針が一周するよりも早く終わりを迎えた。

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