#21 夏草
僕は今日、どんどんと勘が良くなっている。
虫の知らせってやつ。
たくさんの超常現象に触れたおかげで磨かれたのだろうか。
外に出る直前、僕はトワさんに追いついて鏡を受け取った。
そしてそれが正しかったことがすぐに分かる。
ミラーハウスを出たところでは、金髪マッチョ達がトリーとネイデさんをがっしりと抑え込んで僕らを睨みつけていた。
ああ、鹿の頭から角だけ外したのか……その角を、トリーとネイデさんの喉元にあてている。
僕はトリーの目を見つめた。
トリーはわずかに肯く。
それで充分だった。
今、僕とトリーの心はつながっている。
この瞬間、僕だけがトリーの願いを叶えることができる。
それだけで。
もう迷わない。
これ以上トリーを苦しめたりはしない。
一呼吸も置かず僕は静かに鏡を合わせた。
今まで感じたことのない寒気が両手から、氷の牙を突き立てながら登って来る感じ。
肩が震え、耳が痛くなり、何か大きなモノが僕を実際に振り回しているんじゃないかと思うくらい酷い目眩がきて、僕は地面にしゃがみ込む。
鏡と鏡の間からたくさんの光が漏れて行く。
綺麗だった。
輝いていた。
陽の光とも、月の光とも違う輝き。
その光はやっぱり涙でにじんでいる僕の視界を、きらきらと彩った。
「ありがと」
トリーの声が、聞こえた気がしたけれど、鏡と鏡の間の光が全てなくなるまで、僕はぼんやりとそれを眺め続けていた。
しばらくすると、遠くに蝉時雨が戻って来る。
あの、降ってくるくらい圧倒的な。
今は夏なんだな、と、改めて想った。
誰かが僕の手から鏡を取り上げた。
僕はぼんやりしていたから、すぐには気付かなかった。
トワさんがスタンガンを当てたのはエナガの体にであって、菊池の体ではないってことに。
「やめ……」
トワさんの声が聞こえたあと、トワさんが地面に倒れ込むのが見えた。
「初めてだったんです……僕のを触った女の人はあなたが初めてだったんです」
ああ彼は、トワさんが出たという企画モノのために集められた素人男優ってやつだったのか……なんかぼんやりと、全てのことが他人事みたいに、僕が僕を見下ろしているような……。
「フーゴはきっと、助けると思うな」
トリーの声が聞こえてハッとする。
僕は、今なんでぼんやりしていたんだ?
菊池が、ギロチン・クロスの方へ走っていくのが見える。
「坂本さん。僕はあなたと目を合わせますよ! それで婚約成立です!」
くっそ出遅れた。
周囲の人たちもぼんやりと辺りを見回している。
事態が呑み込めていないようだが、それも仕方ない。
「ネイデさん、トワさんを頼みます」
そう叫んで走り始めた僕の横を、黒い影が抜き去った。
ネイデさんだった。
そして既にギロチン・クロスのレールによじ登り始めている菊池のあとを追って、するすると登り始めた。
僕なんかより全然早い。
ネイデさん、何者なんだよっ。
「く、来るなっ! 鏡、壊しますよ? そしたら坂本さんは永遠に戻れないかもしれませんよ?」
菊池は白い手鏡を持っている。
もしも鏡の中に囚われている人が全て解放されたというのであれば、あの中にはトワさんが一人だけ閉じ込められていることになる。
「そんなことくらいじゃ壊れないわよ。試してみたら?」
ネイデさんは構わず登り続ける。
菊池はソワソワしているものの、鏡を割る素振りは見せない。
目を合わせるとか言っていたな……何をするつもりなんだ菊池は……うわ、まさか、カップルが幸せになれるっていうあのジンクスを?
でも鏡の中のトワさんを見ようとしたら入れ替わっちゃうよね。
小さなループのほぼ頂上で、菊池とネイデさんが数メートル離れた状態で対峙している。
僕はと言えばまだ、レールの半分よりかなり下。
「誰にも邪魔させません。自分と坂本さんはもう誰にも邪魔されなくなるんです」
そう言って菊池はレールの縁に立った。
まさか覗き込んだあと、自殺するつもりなのか?
そんなことしたらトワさんは……。
思わず鳥肌が立つ。オカルトの怖さではなく、人怖の方で。
そんなこと絶対に止めないと……なのに。
自分の身体能力のなさが恨めしい。
「き、菊池さん、早まっちゃダメだ!」
僕がようやく半分まで昇って、かけた声に、菊池は僕のことを睨みつけながら怒鳴り返した。
「お、お前が言うなぁぁぁ!」
あれ? 僕は今日、勘が冴えてたはずだろ?
どうして菊池を刺激するようなこと、言っちゃったんだろう?
どうして、言う前に気付けなかったんだろう?
そう僕が思ったのは、彼が無情にも鏡を覗き込んだ直後だった。
菊池はゆらりと体の力を無くし、ギロチン・クロスのレールの頂点から、そのまま空中へと倒れ込んだ。
そのシーンは、スローモーションのように、やけにゆっくりと見えた。
菊池が鏡を覗き込んだ時、ネイデさんはもう走り出していた。
そして跳んだ。
空中へと倒れ込んだ菊池の体が自由落下し始めた時にはもう、その菊池の体をつかんでいた。
白い手鏡を持っている方の手を。
一瞬の出来事のはずなのに、僕にはなぜかしっかりと見えた。
ネイデさんの、菊池をつかんでいない方の手には黒い手鏡が握られていて、菊池の手にある白い手鏡と合わせられたことが。
一筋の白い光が合わせ鏡の隙間からどこかへと飛んだことも。
ドサ、という鈍い音が聞こえて、スローモーションが終わっていることに気付く。
それからガラスが割れる音も聞こえた。
僕は完全に傍観者だった。
登りかけのレールにしがみついたまま、僕はしばらくぼんやりとしていたと思う。
「風悟さぁぁん!」
トワさんの声が聞こえた。
ネイデさんが鏡を合わせたのは間に合ったのか。
良かった……良かったのか?
……耳の奥にはまだ、トリーの声が残っている。
トリーが望んだこととはいえ……僕は……。
「風悟さん、無事なの?」
トワさんが走って来る。
僕はようやくコースターのレールから降り、地面に足をつけた。
ノロノロとトワさんの方へ向かって歩いている僕。
全身に力が入らない。
そんな僕を迎え入れるようにトワさんが僕に飛びついて抱きしめる。
「ネイデさんは? キチ野郎は?」
僕はぼんやりと首を横に振る。
トワさんはようやく理解したのか、僕にしがみついて泣きだした。
ああ、そうだな。
僕もとても泣きたい気持ちだ。
でもその涙は自分勝手な僕だけの苦しみが理由だから、トリーがようやく苦しみから解放されたのだから、僕が泣くのは変なんだ……変なのに……視界がぼやけて、とまらない。
僕の横を何人かが走り抜ける。
ツアーの人たち、元に戻ったのか……トリー以外は……。
「ダメだったよ、ありゃぁ即死だろうな」
そんな声が聞こえた。
その言葉は僕の心に突き刺さる。
なぜだろう、さっきまでは妙な万能感があって、なんだってできるような気さえしていた。
こんな小市民の僕なはずなのに、誰だって救えるような気でいた……ああ、そうか。
その気持ちの源は、トリーへの想いだったから……僕は電池が切れたんだな。
「おい、こっちは大丈夫だ!」
大丈夫?
何が大丈夫なんだ?
まさか鏡が?
僕は思わず体を捩って声の方を見る……幾筋かのライトが照らす中に金髪マッチョと……え?
ネイデさん?
ネイデさんがヨロヨロと歩いて……僕らの方へ。
「彼が落ちたのがコンクリートの上、彼女が落ちたのが茂みの上。ツイてるってのはこういうこと言うんだろうな」
「ネイデさん!」
トワさんが僕から離れてネイデさんへと駆け寄り、二人してぎゅっと抱き合いながら泣き始める。
良かった……良かったことがまだあった。
闇夜のような心の中に、小さな星のような救いがぽつぽつと光る。
その光もまた、きらきらとしていて、僕は目を閉じる。
トリーの言葉が、僕の心の中に染みてゆく。
そうか、トリーは僕のことを夏草と言ったんだ。
だとすると、僕の両目からこぼれる雫の一つ一つはすべて夏草の露なのかな。
僕は露をひと雫もこぼさないよう、両手で顔を覆った。
夏草の露は、やけに温かくて、それがまた余計に露を滴らせる。
そんな僕にはお構いなしに、人の声が周囲に増え始めた。
「で、小沼ちゃんよぉ、どうするよ? 主催者さんだろ? シャキっとせぇよ」
野太くて特徴がある金髪マッチョの声だろう。
「さ、相模ちゃんはどう思う?」
情けない声が聞こえて……僕は目を開いた。
そうだ。
トリーは……いや、相模治恵はどうなっ……目の前に立っていた。
その傍らには、エナガがトリー……相模治恵を支えるように立っていた。
「姉さんは発作を起こしました。ちょっと精神が不安定な状態なんです。申し訳ないけれど主催者としての仕事はしばらく免除してくださいませんか?」
ね、姉さん?
「ほら、カッくん、ちゃんと謝りなさい」
「その……姉が……戻ってきました。とても感謝しています。あと酷い態度もいろいろとすみませんでした」
えっと……今の……相模治恵? 相模治恵の本当の言葉?
相模治恵はというとじっと僕を見つめている。
「……フーゴ、さん?」
「は、はい」
思わず変な声で返事をしてしまう。
相模治恵は手を伸ばし、僕の頬に触れて、指先にひと雫を拭った。
「きれいな雫ね。きらきらしてる。トリーネがくれた秘密の鍵みたい」
トリーが? 相模治恵に?
「相模治恵です。改めてよろしくお願いします」
「はい。よ、よろしくお願いします」
何がどうなっていると言うのか。
まさかトリーというのははじめから相模治恵で?
なんだかこんがらがってきた。
「ハイハイハイ、皆さん! 事故現場は保存します。あとは警察に任せますので、とりあえずバスに戻りましょー!」
背中をポンと押され、僕らはゾロゾロと正面ゲートへと向かい始める。
あまりにも多くのことがあり過ぎて、僕は心の消化不良を起こしている。
そんなただでさえいっぱいいっぱいの僕の手をぐいぐいと引っ張る人が現れた。
トワさんだった。
ネイデさんと手をつないでいる。
「ね、聞いて、風悟さん! ネイデさん、彼と再会したんだって!」
「複雑な気持ちなんですけれどね」
ネイデさんは苦笑いする。
「複雑?」
「鏡を合わせたあと、私は夢を見ました。時間としては一瞬だったのでしょうが、とても長い……それとも短い、そんな不思議な夢でした。私は彼と一緒にギロチン・クロスに向かっていました。彼は小さい方へ、私は大きい方に乗ることにして、それは当時噂になっていたおまじないだったのですけれど、とにかく私たちはそれぞれ別々のコースターに乗ったのです」
これは、トワさんが聞いたっていうあの事故の時の話か……。
「私はループの途中で彼の姿を探しました。でも、彼が乗っているはずのコースターには誰も乗っていなかったんです。すぐ耳元で彼の声が聞こえました。ごめんね、と、言っていました。私がたまらずにプロポーズはって聞いたら、彼は答えてくれたんです。プロポーズはしない。指輪は返してもらう。代わりに違うものをあげるよって……」
あれ?
ネイデさん、眼帯していない。
「こんな歳まで待たせておいて、いまさら、ですわよね。男って本当に勝手なんですから」
「ネイデさん強ーい! そういえばネイデさんの腕、風悟さんのよりたくましい!」
「鍛えたんですのよ。いつかあそこから後追いするつもりでしたから。飛び降りるためにはまず登れないと、でしょう。ボルダリングっていうのを始めたら、上達が早いって褒められたりもして」
自殺するためにボルダリングって……僕は思わず笑ってしまった。
ネイデさんもトワさんも、泣きながら笑っている。
いつか僕もああやって、泣くだけじゃない思い出話をできるようになれるだろうか。
そうだよね、トリー。
消えたとしても、なくなりはしない、だよね。
「よっ。それにしても大活躍だったね!」
急に背中をドンと叩かれ、むせそうになる。
「なぁ、兄ちゃんかい? 略奪愛しにわざわざ飛び入り参加しにきたってのは? いいねぇ。おいらそういうの好きだぜ。あー、飛び入りだから自己紹介まだだったね。おいらはマルモリ。モリは三本木の森じゃなく守る方の守な」
金髪マッチョ……丸守さんというらしい。
「いやほんと助かったぜ。ここを甘く見ていたよ。一応、準備してきたんだけどな……で、どうだい。ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけどよ」
月が照らす丸守さんの笑みは、ちょと悪そうに見えた。
それにしても今更手伝いが必要なことって……そう。僕はもう何もかもが終わったと思っていたんだ。
そんな僕の耳に、不穏な言葉が届いた。
「やっぱり気のせいじゃないよね?」
周囲がザワつき始め、丸守さんは「また後で」と言い残し小沼さんの所へと走って行く。
「ね、風悟さんアレ……」
「何?」
トワさんの見ている方向を僕も見るのが怖かった。
だってトワさんの顔が明るいんだ……それも色とりどりに明滅する幾つもの光。
彼女の涙に濡れた顔を照らしているのは、どう考えても月の光には見えなかったから。
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