過去をなくした男
ジュン
第1話
「あなたの忘れたい過去を売ってくれませんか」
見知らぬ男が私に話しかける。
「忘れたい過去をですか?どうしてまたそんなものを」
「人はどんな過去を忘れたいのか知りたいのです」
「いくらで買ってくれるんです?」
「百万円でいかがですか」
私は少し考えた。
「百万円で、私の過去から、忘れたい記憶を除いてくれるわけですか?」
男は答えた。
「そうです」
私は少し考えた。そして言った。
「では、失恋の記憶を買ってくれ」
「わかりました」
男は、そっと私の肩に触れる。すると、なにやら、ふわふわした気持ちになった。
男は私に訊いた。
「あなたは失恋したことがありますか」
「ない」
男は続けて言う。
「あなたの忘れたい過去を売ってくれませんか」
「学校で苛められたこと」
「学校で苛められたのですね?どうしてまた?」
「苛められっ子の友達をかばったら、僕も苛められたのさ」
「それは、お辛かったでしょう。その過去、買います」
男はまた私の肩に触れる。
男は言う。
「苛められた記憶はありますか?」
「ない」
男は言う。
「忘れたい過去はありませんか」
「ない」
男は言う。
「ありがとうございました。お約束どおり、百万円お支払いいたします」
私は得した気分になった。忘れたい過去がなくなった上にお金までもらえたのだから。
男と別れた。
道を歩いていると、美しい女性に不意に声をかけられた。
「島さん!島良太郎さん!」
私は驚いた。
「失礼ですが、どちら様ですか」
女は言う。
「あら、忘れちゃったの。奈美です。塩野奈美」
「塩野奈美さん。誰だったっけ……」
女は言う。
「ほら、同じ高校だったじゃない。都立綿布高校」
「確かに綿布高校だけど……」
「良太郎さん、クラスの子が苛められたときに、その子の友達だったから、苛めをやめさせようとして、それで、良太郎さんまで苛めの標的にされて……」
「そんなことあったかなあ」
「私、そんな良太郎さんに惚れてたの。恥ずかしくて告白できなかったんだけど……」
「…………」
「そしたら、良太郎さんが、私に告白してくれた。うれしかった。でも……私、断った。なぜって、私たち、まだ高校生だったから。まだ早いと思ったの」
「記憶にないなあ」
私は思った。
「忘れたい過去を売って失敗だった」
女は言う。
「私たち、もう大人よ。良太郎さんと一からお付き合いしたいの」
「本当に『一から』お付き合いするでいいの?」
私は思った。
「忘れたい過去は、あの忘れたい過去を売ってほしいという男に出会った過去だ」
終わり
過去をなくした男 ジュン @mizukubo
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