第2話 侵食される日常 前編

 翌日。夜を跨げば普段通りに収まるだろうと思っていた。しかしそれはもちろん大きな間違いであった。

「おはよう、カレン。今日も健康的な脚でいてくれて嬉しいよ」

 いつもなら「カレン」のところで挨拶が終わるはずだったが、今日はその続きがあった。しかも、朝に聞くにはかなりキツめの内容が。

 二の腕にざわりと奇妙な感覚が走る。

 ――いつも通りなんて、無理!



 学校にて。

 一人で教室を出ていくカレンにアユミが速足で追いかけてきた。

「カレン。次の授業は体育だよ?」

「わかってるよ。アユミこそ、何で着替えてないの」

「私は見学だからね。それよりも、なぜ下は短パンなんだい?」

 質問の意図が分からず、カレンは小首をかしげた。

「なぜって……体育だから」

「それならばジャージを履くべきだ。万が一転んで、膝でも擦りむいてしまったら大変じゃないか!」

 今にも涙を浮かべそうな必死さで訴えるアユミ。

「唾付けておけば治るから心配ないって」

「それはそれでよくないと思うけど。ああいや、もし唾を付けるときには私にやらせてくれないかな」

「うん……ジャージ取ってくるね」

 アユミの瞳は中で花火が打ち上がっているのかと思うほどに輝いていた。

 そして逃げるようにして踵を返すカレン。いや、実際逃げたのだ。


 また、とある別の日では――。

 学校の階段を登っていたカレンは足を踏み外してしまった。片足が階段を捉えず空を切り、バランスを崩したカレンは背後の踊り場へ落ちていく。視界にコンクリートの天井が見えた。

「危ない!」

 カレンの一歩前にいたアユミが叫ぶ。

 アユミが伸ばした手は宙に投げ出されたカレンの手をしっかりと掴んだ。もう片方の手で手すりを掴んで、落下しかけていたカレンを踏ん張ってとどまらせてみせた。

「カレン、大丈夫かい?」

「う、うん」

 ゆっくりとカレンの手を引くだけにとどまらず、彼女を自分の胸元に引っ張った。まるで男性が思い人を抱き寄せるように。

 その様子を見ていた何人かの生徒から感嘆の声が上がる。一部の女子からは黄色い声も聞こえてきたのは、アユミのビジュアルのせいもあるだろう。その振る舞いはまさにおとぎ話の王子様であった。

「ケガはないかい? 擦り傷とか付いていない?」

 この囁きには、多分「脚に」が省略されているのだと思うカレン。他の生徒が注目している中、アユミはさすがに露骨に性癖を爆発させることはなかった。まだそのあたりのブレーキは正常に作動しているのだろう。

 さわさわ。

「……あの、アユミさん?」

「何かな」

 さわさわ。さすりさすり。

「脚に這わせている手は何なのでしょうか?」

「ん――ああ、ごめんね。自然に手が動いちゃった」

「自然に?」

「自然に」

 前言撤回。ブレーキは期待できなさそうだ。


 その他にも数えきれないくらいの奇抜な行動は日々の随所にチクチクと現れていた。カレンは拒否するのでもなく、快く受け入れもせず、生返事と苦笑いの頻度が人生で一番多い日々を送った。カレンに新たな扉が開かれない以上、二人がこれ以上歩み寄ることはない。しかしカレンの方から離れることもないのは、アユミとは旧知の仲であることはもちろんだが、アユミのビジュアルよって奇行にある種のかっこよさが出てしまい、不快感を感じることがほとんどなかったからだ。言語情報よりも視覚情報が優先される……何の法則だったろうか。

 もし、アユミがアユミでない外見であったら、どうなっていたのだろう……?

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