四話

 荒れ狂う運河を半ば流されながら泳いで二人は街を脱出した。風天巧が静かに陸に上がる横でボコボコと泡が立ち、派手な水しぶきとともに穆哨が水面に現れる。穆哨は大慌てで岸によじ登ると鳳炎剣を放り出し、四つん這いになったまま激しく咳き込んだ。

「いやはや、君は君で泳げなかったとはね」

 顔に貼りつく髪を払いながら風天巧が苦笑する。穆哨は地面に大の字に転がると、風天巧に睨みをくれてやった。蠱洞居の地理が原因で、蛇眼幇では水連ができる者は稀だ。孔麗鱗・楊夏珪の義姉妹を筆頭にそもそも泳ぎ方を習ったことがない者がほとんどで、当然穆哨もその一人だった。それが混乱の中、突然川に引きずり込まれて無理やり泳がされたのだからたまったものではない。

「まあ良い。火事はあれで収まっただろうし、東鼎会の連中もひとまずは撒いた。体でも乾かして英気を養うとしよう」

 風天巧は何事もなかったかのように言うと、寝転んだまま半ば目を閉じている穆哨に歩み寄ってその肩を叩いた。

「起きたまえ。風邪をひくぞ」

 穆哨は瞼を持ち上げると、緩慢な動きで起き上がった。顔に貼りつく髪を払い、姿勢を整えて目を閉じる。すると突然、風天巧の指が穴道を三箇所突いてきた。

 ……やられた! 全身の経脈から火が出ているような感覚に穆哨は一声呻き、振り返って風天巧に殴りかかろうとする。

「集中だ、穆哨!」

 風天巧が鋭く言う。穆哨は反射的に動きを止めた。

「私が刺激したのは君の功体だ。鳳炎剣を使う者は炎の功体を持つ、これは内功の練度にかかわらず一様に言えることだ。どうだ、鳳炎剣を持ったときのような心地がするだろう」

 風天巧の言葉を聞いてようやく、穆哨はこの熱さに慣れていることに気が付いた。剣を持っていないにもかかわらず、鳳炎剣が呼び起こす熱が体内を駆け巡っている。

 穆哨は熱を帯びた気の流れに身をゆだね、全身に余すところなく伝えることに集中した。へその下、丹田から体の端々へと経脈が熱されるにつれて衣が吸った水が蒸気となって排出されていくのがどこか面白い。

「見たところ、今は君が剣に呼応して炎の功体を操っているようだが、本来これは逆であるべきものだ。剣が人に呼応する、人が剣の威力を支配して己の力と成す、これができなければ一流とは呼べない。今のままでも鳳炎剣は力を発揮するが、その力を完全に掌握し、完璧に操るにはより高い修位が必要になる」

 風天巧が語る。その声を聞きながら、穆哨は深く息を吐いた。白く細い煙が闇に昇り、消えていく。

「……よし、今日はこのくらいにしておこう。今流れている気を丹田に戻せ。調息の終わらせ方と同じだ」

 穆哨の様子をしばらく見守っていた風天巧が頷いた。穆哨は言われたとおりに体の中心に意識を向けた。焼け石を飲み込んだような熱が腹に集まり、根負けしそうになるのをぐっとこらえる。熱を収めきり、ほうと息を吐いたときには、靴の中から髪の間までがからりと乾いていた。

「なぜ、俺にこれを」

 呆気に取られている穆哨に、風天巧は軽く笑って答えた。

「今のうちに、鳳炎剣を使いこなす基礎を身に着けてもらいたくてね」

 整った目元がスッと細められ、穆哨の右肩の後ろをちらりと見やる。穆哨が振り返った瞬間、木々の間の暗がりから空を切って何かが飛んできた。

 穆哨はとっさに地面を転がった。次の瞬間、穆哨がいたまさにその場所に錘がめり込む。風天巧も反対側に飛びのいており、錘の飛んできた方向をじっと見つめている。

 錘から伸びる鎖がぐいと引かれ、丸いおもりが闇に消える。次の瞬間、もう一度放たれた錘とともに姿を現したのは黒い外套に身を包み、頭巾で顔をすっぽり隠した男だった。穆哨は再度飛びのくと、地面に放り出したままの剣を急いで拾い上げた。もともと持っていた剣は逃げる途中で落としてしまったらしく、手元にあるのはこの偽の鳳炎剣だけだ。男は錘を手元に戻して握り込み、手前にいた風天巧に殴りかかった。風天巧は右に左に攻撃をいなし、ときに手を翻して反撃に出ていたが、唐突に剣訣を突き出して男の眉間を狙った。男がのけぞり、その瞬間に頭巾が落ちる。

 そこに現れたのは中年の男の顔だった。険しい目元さえも大きな特徴とは思えないほどありふれた風貌だ。しかし、その顔を見た風天巧はしたりと口元に笑みを浮かべた。

「これはこれは、東鼎会の林氷伶りんひょうれい殿ではないか。誰かいるとは思っていたが君だったとはね」

 林氷伶は目元のしわを深くして舌打ちすると、鎖のもう一端に付いた錘をも顕にする。

「見たところ、君が魏ご令嬢のお目付け役のようだね? 娘をあごで使いきれないとは、魏龍影もやはり親といったところかな」

 風天巧が言い終わらないうちに、再三錘が空を切る。風天巧が身を翻して錘を避けると、林氷伶はそれに追いすがって錘を両手に握り込んだ。

 魏龍影の懐刀、林氷伶は没臉ぼつけんのあだ名を持つ――いつも頭巾を目深にかぶり、闇に紛れて魏龍影に仕えて滅多に姿を見せることがなく、高い実力を誇りながらも暗躍に徹することからつけられた名だ。そんな男の顔を穆哨はこのとき初めて見た。しかし、ありふれた容貌とは裏腹に、双流星錘を軽々と操る技は尋常なものではない。下手に受けると手が砕けると分かっているのだろう、風天巧は長袍を巧みに翻して錘の勢いを殺すばかりで、なかなか反撃に出ようとしない。林氷伶と拳を交えること自体を避けているようにさえ見える。

 ふと、林氷伶がちらりと穆哨の方を見た。次の瞬間、林氷伶は風天巧と距離を取ると穆哨めがけて錘を放った。穆哨は迫りくる殺気に歯を食いしばり、鋭く息を吐いて鳳炎剣を横倒しに構える。刹那、耳障りな音とともに錘が剣身に激突し、穆哨は衝撃にたたらを踏んだ。腕が痺れて鳳炎剣を取り落としそうだ。錘を回収して襲いかかってきた林氷伶はやはり強力で、一手一手が骨肉を砕かんと唸りを上げている。拳と錘、さらには錘をつなぐ鎖までもが絶え間なく襲い来る中、穆哨は丹田の熱を再び全身に回し始めた。風天巧も対象が変わったことを見て取るやこちらに飛んできて、林氷伶の背後に掌を叩き込む。林氷伶が体を捻って攻撃を避け、その隙に穆哨が刺突を送る。しかし切っ先は空を捕らえ、気づけば林氷伶に背後を取られていた。本能的な危機感に脳がこわばると同時に、穆哨は背中に殴打の衝撃を感じた――が、背中が隆起するような妙な感覚とともに林氷伶の方が弾き飛ばされた。反動で倒れ込んだ穆哨の後ろで風天巧が何やら叫んだが、穆哨が起き上がったときには林氷伶は姿を消していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る