第二章 毒蛇の住む洞窟

一話

 蛇眼幇の本拠地こと蠱洞居こどうきょは北西部に広がる山岳地帯の一角に位置している。山肌をくり抜いて作られたこの巨大な洞窟は、元は寺院として掘られたものだったが、今では余すところなく改造されて孔麗鱗の要塞と化していた。

 風天巧とともに旅を続けること二週間、穆哨はようやく毒蛇の頭が鎮座する巣穴に帰ってきた。

 絡み合う蛇を模した物々しい黒門の下には、穆哨のものとよく似た黒装束の男が二人立っている。まさか穆哨が帰ってくるとは思っていなかったのか、穆哨と風天巧が近づくと、二人はぎょっと目を見開いて固まった。

「……俺だ。ただ今帰還した」

 穆哨は二人を睨みつつ、懐から、これまた蛇を模した円形の佩を取り出した。しかし二人の門衛はそれを見るまでもなく、一人はあたふたと門の中に消え、残る一人は上ずった声でここで待つよう告げた。穆哨が分かったと返す横で、風天巧は扇子を開いて口元を隠し、くつくつと笑っている。

「何がそんなに面白い」

 穆哨がじとりと睨んでも風天巧は笑みを消さない。穆哨はため息をこぼすと、これ以上彼に話しかけないことにした。風天巧と言葉を交わすたびに胸中にもやが広がるような気がして、どうにも我慢がならなかったのだ。


 三人ともが黙りこくったまま一香柱が過ぎた頃、中に入っていった門衛がようやく戻ってきた。その後ろを女が一人、ひとつに結い上げた黒髪と黒い外套をなびかせて歩いてくる。その姿を認めるなり、穆哨は拱手して深々と頭を下げた。風天巧も顔を引き締めると扇子を閉じ、鳥籠を中の小鳥ごと縮めて袖に仕舞い込む。

「師父」

 二人の前で女が立ち止まると、穆哨は頭を垂れたまま呼びかけた。女は頷きもせず、左の目で穆哨をじっと見つめている――右目は顔の右半分を覆う前髪で隠されていたが、黒い簾の隙間から白濁した眼球と瞼を上下に貫く傷跡がのぞいている。穆哨が師と仰ぐこの女剣客こそが楊夏珪ようかけい、孔麗鱗の義妹にして蛇眼幇の二番手だ。

「帰還が遅くなり申し訳ございません。ですが鳳炎剣はこのとおり、しかと持ち帰りました」

 返事はないと予想していたのだろう、穆哨はさっさと背中の包みを下ろして差し出した。中身はもちろん鳳炎剣だ。

 楊夏珪は包みを睨んだままじっと黙していたが、やがて左目を風天巧に移して口を開いた。

「すると、本当に鳳炎剣を献上する気なのだな」

「いかにも。以前伝えた通りだよ」

 二人の言葉に穆哨は眉をひそめた。何やら嗅ぎまわっている気配は感じていたが、まさか蠱洞居について来たのが蛇眼幇と示し合わせた上だとは思いもしなかった。この様子ではきっと孔麗鱗とも織り込み済みに違いない。そんな穆哨の予感を裏付けるかのように、楊夏珪は

「ついて来い。大姐ねえさまがお待ちだ」

 と告げて踵を返した。



 楊夏珪の先導で着いたのはがらんどうの広場だった。大量の松明や提灯の灯りも届かない一番奥の壁面には、巨大な仏像が誰にも顧みられることなく鎮座している。その下に設置された豪奢な椅子にゆったりと全身を預け、下女に扇で風を送らせているのは絢爛たる装束に身を包んだ豊満な美女だ。

 この女こそが毒蛇女どくじゃめの異名を持つ蛇眼幇の首領、孔麗鱗だった。楊夏珪と穆哨は椅子の前に着くと同時にその場に跪き、

「幇主に拝謁いたします」

 とおごそかに言った。

 一方の風天巧は余裕を崩すことなく、華奢な手を重ねて一礼する。

「鍛冶師風天巧、孔麗鱗幇主に拝謁いたします」

 孔麗鱗は楊夏珪と同じ暗い紫の衣を着ていたが、楊夏珪が男衆と変わらない格好をしているのに対し、孔麗鱗は皇帝の囲う女たちのように胸元を大きく開け、露出した肌を金の首輪で飾り立てている。高く複雑に結い上げた黒髪といい、手首を飾る金細工といい、泥臭い江湖のならず者とは思えない風貌だ。

「なおれ」

 孔麗鱗はひらりと手を振ると、自らも体を起こして穆哨たちと対峙した。

「風天巧よ、大儀であったぞ。この死に損ないと鳳炎剣をわざわざ届けてくれるとはな!」

 あでやかな声が急に荒くなり、妖艶な笑みが突如として歪む。孔麗鱗はいきなり立ち上がると、目にも留まらぬ速さで穆哨めがけて右腕を振るった。鋭い怒りが空を切り裂き、鞭の先が見えたときには穆哨は腹に衝撃を受けて吹き飛ばされていた。あまりの痛みに動くこともできず、体勢を変えて亀のように丸くなるのが精一杯だ。

「鳳炎剣は持ち帰ったゆえ、今日はこのくらいにしてやろう。だが穆哨よ、魏龍影の娘ごときに傷つけられるとは何事だ? 我ら姉妹の顔に泥を塗ろうとは、それが弟子のすることか?」

 孔麗鱗は右手に鞭を持ったままうずくまる穆哨に歩み寄ると、髷を掴んで無理やり上を向かせた。その所作は宮廷の女子のそれとは正反対だ。

「……申し訳、ございません……ッ」

 激痛とせり上がる血で穆哨は声を詰まらせた。孔麗鱗は鼻で笑うと穆哨を放り出し、地面に転がる包みを取り上げた。白い布をはぎ取って捨て、穆哨の背に構わず腰を下ろす。たまらず呻いた穆哨の声などまるで聞こえていないかのように、孔麗鱗は悠々と脚を組むと手の中の赤い鞘をうっとりと撫でた。次いで鳳凰をかたどった柄を握り、赤銅色の剣身を抜き放つ。

「失礼ながら孔幇主。穆哨は先の怪我も癒えたばかりで半ば病人のようなものです。能力を見込んでおられるのならなおのこと、体を壊しかねない仕打ちは避けた方がよろしいかと」

 風天巧が静かに口を開いた。楊夏珪は何も言わずにじっと立っている。穆哨は目だけを上げて二人を交互に見たが、痛みと重みで視界がぼやけ始めていた。

「だが、しくじった。我らの可愛い阿哨といえど失敗にはそれ相応の罰を与える、それが我が蛇眼幇の掟よ。それに、其方は知らぬかもしれぬが、私はこれでも加減しているのだぞ? なあ、小妹」

「そのとおりです、大姐」

 真上から孔麗鱗の声がし、続いて楊夏珪の短い肯定が聞こえてくる。

「まあ良い。何がともあれ、これで我が幇は天下に一歩近づいたのだ。それに今日は客人も見えている」

 ふっと背中が軽くなり、穆哨は孔麗鱗が退いたことを悟った。

「小妹、阿哨を下がらせて薬をやれ。私は風天巧と話がある」

「はい、大姐」

 解放されたと分かった途端、穆哨は呻きながら横向きに転がった。そこに楊夏珪が近寄って、脇の下に手を入れる。

「立て、穆哨」

 楊夏珪はそう言うと、剣訣を作って穆哨の体を数か所突いた。目にもとまらぬ早業に穆哨は驚いたが、それでも痛みが鈍り、楊夏珪にすがればなんとか立って歩くことができる。楊夏珪に支えられ、今にも倒れそうな足取りで出ていく穆哨を風天巧はじっと見送っていた。

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