二話

「さて、と」

 穆哨が食事を終えると、風天巧は盆を持って一旦部屋を出たあと、戻ってきてまた穆哨の枕元に陣取った。

「あまりしつこく詮索すると君の幇主にお咎めを食らうかもしれぬが……」

 風天巧は独り言のように切り出すと、右手を出して軽く回した。瞬間、その手の中に赤い鞘の長剣が現れる。

 穆哨は目を見開くと同時に、反射的に剣に手を伸ばしていた。それを見越したように風天巧は剣を高く持ち上げる。穆哨は飛び起きてその軌道を追いかけようとしたが、途端に脇腹の傷が悲鳴を上げた。

「何故君が、この剣を持っているのかね」

 崩れ落ち、痛みに呻く穆哨を冷ややかな目で見下ろして風天巧が問う。

「お前に何の関係がある」

 歯の間から唸るように穆哨は言い返した。風天巧は答えずに剣を鞘から抜くと、見せつけるように赤銅色の剣身を検分し始めた。

「しかも何人か斬ったな。孔麗鱗もさぞ喜ぶだろう、盗みに行かせた手下が『火』の功体を持っているのだから。面白い偶然もあるものだ」

「何の話だ、風天巧」

「とぼけるのはよしたまえ。それともまさか、孔麗鱗が、何を盗らせるかも言わないまま君を東鼎会とうていかいにやったとでも言うのかね?」

 風天巧は立ち上がると鋭く息を吐き、くるりと振り向いて今まで座っていた椅子に斬りかかった。一瞬にして変化した空気から風天巧が内功を込めているのが分かる――穆哨が息を飲んだ刹那、しかし赤銅色の剣身は耳障りな音を立ててあっさり弾き返された。

 たかが椅子一脚に、内功を使った一撃が通らない。椅子にはかすり傷はおろか、物が当たった跡すらついていない。

 自分の言うことを全て聞いたこの剣が、風天巧には全く扱えない。それが意味するところはひとつ、穆哨に言い逃れの余地はないということだ。

「さて、穆哨。まだ認めないつもりかね」

 風天巧が問う。足元を見透かされたような口調に、穆哨は観念して頷いた。

「そうだ。こいつは鳳炎剣、幇主が魏龍影ぎりゅうえいのもとから盗ってこいと俺に命じた剣だ。ひとつだけ言わせてもらうが、俺は自分にこいつが使えるとはつゆほども思っていなかった。幇主も師父もおそらくはご存知ない」

 この言葉に噓はなかった。風天巧が示したとおり、今更はぐらかそうと足掻いても無駄なのは明白だった。

「ほう。ではなぜ孔幇主は君を指名したのか?」

「知らぬ。師父には行かせられないからか」

「さあ。私に聞かれても困るよ。彼女の事情は君よりも知らないのだから」

 風天巧は悠々と剣を卓に横たえると、穆哨に向き直った。

「だが、傷が癒えたら、彼女の巣穴に帰るのだろう?」

「ああ。鳳炎剣は幇主に献上する」

 穆哨は頷くと、布団に体を預けた。逃亡に失敗したつけがこんなところに回ってこようとは思いもしなかった。



 古の時代、まだ神仙たちが人間の生活に深く関わっていた頃のこと。この世は神仙の住まう「天界」、魑魅魍魎の住む「地界」、そしてこの二つの間に位置し、人間たちが暮らす「人界」の三界に分かれ、微妙な均衡のもと繋がっていた。

 そして今から百年ほど前のこと、天界の神から五振りの剣がもたらされ、当時人界で最も強いとされていた五人の剣客に託された。「五行神剣」と称されるこれらの宝剣は、その名のとおり五行の木・火・土・金・水のそれぞれに由来する力を持つ。神剣は瞬く間に江湖の注目の的となり、その力を狙う者が次々と現れた。

 そして各地で争いが勃発した。ある者は殺され、ある者は武功を絶たれ、またある者は弟子に剣を託し——神剣は人の手を渡り続け、多くの血が流された。ついには争いに耐えかねた者たちが神剣を持ち込んだ神に責任を問おうとしたが、時すでに遅し。神はすでに天に還っており、人間たちには果てしない争乱だけが残されていた。

 五行神剣には、ともすれば欠陥とも言える大きな特徴がある。それは五行のそれぞれに由来した強大な力を持ちながら使い手を選ぶという点だった――すなわち、使い手が五行のどれかに即した功体を持っていなければ、神剣はたちまちなまくらと化すのだ。「火」の剣ならば使い手の功体は火、「水」であれば水、「木」であれば木というように、全ての修練の基盤となる功体が五行のそれぞれに当てはまる者だけが五行神剣を使うことができる。そのために、剣を手に入れても使うことができず、持て余す者が出始めた。

 このことで江湖の様相は再び変化した――神剣を回収していたずらに保有されることがないようにしようとする者が現れる一方で、自分にその素質がないのなら剣と使い手を両方揃えれば良いと考える者が現れた。

 とはいえ、両者に共通して言えるのは、五振りの神剣とそれに見合う使い手を全て揃えた側は絶代な力を手に入れるということだ。神剣の所有数はそのまま江湖の勢力図に反映され、現在は三者が互いに睨み合う状態となっている――あるべき秩序を取り戻さんとする正道の老剣客欧陽梁おうようりょう、江湖の支配を目論む蛇眼幇じゃがんほう孔麗鱗こうれいりん東鼎会とうていかい魏龍影ぎりゅうえい。欧陽梁が蛇眼幇・東鼎会の双方に目を光らせ、蛇眼幇と東鼎会が互いにしのぎを削りつつ欧陽梁に対抗するという三つ巴の対立関係が出来上がったのが十数年前のことだ。そこからは小競り合いと睨み合いが続くのみだったが、ついに孔麗鱗が動きを見せた。

 孔麗鱗は東鼎会の所持する鳳炎剣を盗み出し、我が物とすることを決めた――その大役を任されたのが穆哨だったというわけだ。


 始めのうちは順調だった。穆哨は首尾よく宝物庫に忍び込み、奥に安置された鳳炎剣から封印の鎖を外した。

 その瞬間、宝物庫の仕掛けが作動し、穆哨めがけて一斉に矢やらつぶてやらが襲いかかってきた。穆哨はとっさに剣を掴んで急いで死角に逃げ込んだ。

 そのとき、穆哨の全身に、今まで感じたことのない力が流れ込んできた。

 柄を握れ、剣を抜けと何かがささやいた。すでに切羽詰まっていた穆哨は鳳凰の頭部をかたどった柄に迷わず手をかけた――ところが、剣を抜き、死角から出ると同時に振り抜いた途端、武器庫が一瞬で火の海へと変貌したのだ。仕掛けが壊れ、壁から天井までが激しく燃える中、穆哨は転がるように外に出た。驚きも冷めやらない中で待ち構えていた東鼎会の戦士と対峙した穆哨はさらに、先頭の数人を一太刀で焼き尽くしてしまった。

 初めて目にする五行神剣の威力に、その場にいた皆が驚愕した。穆哨もたった一撃で全てを灰に変える炎の剣に呆気にとられていたが、だからといって剣を捨てて逃げるなど論外だ。剣を振るいながら退路を切り開くうちに、穆哨は鳳炎剣が自分に順応していっているような奇妙な感覚に襲われた。重さも長さも使い心地も、まるで彼のために作られたといわんばかりだ。

 悦に入る暇もなく出口を目指してひた走る穆哨を最後に足止めしたのは、彼よりもふたまわりは小さい若い娘だった。

 黒を基調とした身軽な服装に、血のように赤い髪飾り。金糸で縫われた龍の紋様が控えめな胸元を物々しく飾り立てている。穆哨は足を止めると、どす黒い怒りと殺気を漂わせる娘と睨み合った。

 この娘は名を魏凰ぎおうという。東鼎会の現任の頭目・魏龍影の一人娘にして、次の頭目の呼び声高い東鼎会の戦士だ。

「蛇の子風情が、我が東鼎会で狼藉を働きおって!」

 誰に似たのか、彼女が声を荒げるとおいそれとは逆らえない気迫がみなぎった。

「ハ、その蛇の子にここまで毒を回されたのはどこのどいつだ?」

 穆哨も冷ややかに言い返す。罵り合いに煽り合い、悪党の真っ只中で育った二人にとっては武術の次に得意とも言える芸当だ。

「たわけ。貴様ごときが暴れたところで、間抜けが何人か死ぬだけよ」

「随分と舐められたものだな。俺は天下の至宝を使えるのだぞ?」

 穆哨はそう言いながら鳳炎剣を構え、狙いを魏凰に定めた。どういうわけか、鳳炎剣を持っていると今までにないほど頭が冴えた。全身を巡る気は狂おしいほどに燃えているのに、それが逆に心地よく、むしろ自分はこうあるべきとさえ思える。

 しかし魏凰も穆哨の脅しにやすやすと屈する手合いではなかった。

「言ったな。痛い目を見るぞ」

 魏凰が低い声で凄むと同時に、両腕を覆う手甲から一対の白刃が現れた。

「父上からの伝言だ。今この場に鳳炎剣を捨て置くなら、盗みの件は見逃し、お前が斬った仲間の命だけでことを済ませてやる。だが剣を持って逃げるというなら、我が東鼎会は蛇眼幇との直接対決も辞さぬ。上手く逃げおおせたらあのに宜しく伝えておくがいい」

 「雌蛇」は孔麗鱗の蔑称だ。これは明らかな宣戦布告だった。

 穆哨は苛立ちに任せて全身の気を鳳炎剣に集めた。剣を握る右手に熱が走り、地を蹴る足が土を抉って跳ね飛ばす。その跡が赤く灯り、かすかな白煙をくゆらせる中、白刃のぶつかる音とともに火花が散った。互いの肌を殺気が撫ぜる。穆哨の剣は一手一手が重く、対する魏凰は素早い動きで相手の動きを封じにくる。しかし、鳳炎剣のまとう熱気に圧されてか、魏凰は苛烈に攻めているようで身を守る動きが多く見られた。穆哨はその隙を見逃さず、彼女の腹に掌を叩き込んで下がらせた。くぐもった呻き声とともに魏凰は後方に飛ばされ、着地と同時に雷のごとき怒りの視線を穆哨に投げつけた。

「おのれ……!」

 両腕の白刃がギラリと光る。穆哨が鳳炎剣を構えると同時に、魏凰は地を蹴って飛びかかってきた。一瞬で目の前まで迫った魏凰が矢継ぎ早に繰り出す攻撃を穆哨はひとつひとつ破っていったが、最後の一手を流したと思った刹那、脇腹を殺気がかすめた。次いで痛みが胴を貫き、溢れ出る血が服を濡らす。穆哨はとっさに剣を突き出し、退く時間のない魏凰は両腕を交差させて攻撃を正面から受けた。

 切っ先が魏凰の得物に触れた瞬間、髪を焼き、肉を焦がすような猛烈な熱気が魏凰を襲った。魏凰が顔をかばって飛び退いた隙に、穆哨はその場をあとにした。背後からは魏凰の命令が風に乗って聞こえてくる。点穴を施してその場しのぎの止血をし、わき目もふらず駆け出した穆哨だったが、執拗に追ってくる東鼎会の面々に次第に体力と思考を削られ、気付いたら風天巧の山に入り込んでいたというわけだ。

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