天の何処に〜鳥籠の仙人は炎の花に抱かれる〜

故水小辰

第一章 神剣の乱

一話

 覆い茂る木々は月の明かりを遮り、そこを行く男の姿を上手く隠していた。通った後に点々と落ちる血も闇にまぎれ、荒い呼吸も木々のざわめきと一体化している。抜き身の剣が時折鈍い赤銅色の光を放つ以外、そこに人がいることを示すものはないと思えたが、それでもこの剣客、穆哨ぼくしょうは不規則な足取りを止めようとはしなかった。

 握りしめた剣はまだわずかな熱をとどめているが、穆哨はそれを気にすることなく歩を進めていた。「鳳炎剣」と呼ばれるこの剣は、五行に由来する力を持ち、江湖じゅうから狙われている五振りの宝剣・五行神剣のうち「火」に属する剣だった――彼の属する蛇眼幇じゃがんほうは、この五行神剣を全て揃えて江湖を支配することを掲げてあちこちで乱暴狼藉を働いている。穆哨もその例に漏れず、今回は首領の命を受け、幇の長年の仇敵である東鼎会が所有する鳳炎剣を盗みに行った。

 しかし、剣を手に入れて逃げる段になってしくじった結果、負傷した体で逃げ回ることを強いられている。偶然行き着いたこの森に飛び込んだ穆哨には、果たしてここがどこなのか、本拠地の蠱洞居こどうきょからどれだけ離れているのか、何の見当もつかなかった。

 ガサガサと梢が鳴り、穆哨はびくりと肩を跳ねさせた。一拍置いてから鳥が飛び立っただけらしいと気付き、胸を撫で下ろす。追手を撒く、その一心でこの森に飛び込み歩を進めていたが、気づけば辺りは暗闇と静寂が広がるばかりだ。獣はおろか人の気配すらしない。おまけに地面がいくらか勾配になっているようにさえ思えた。いつの間に山に迷い込んでしまったのか――これ以上動き回るのはむしろ悪手だと考えた穆哨は、詰めていた息を吐くと近くの木に寄りかかるように腰を下ろした。止血のために自ら施した点穴はとっくに解けていて、傷口からぽたぽたと血がこぼれている。穆哨は衣の裾を引き裂くと、傷ついた脇腹をぐっと押さえつけた。

 鳥の声。風の音。梢のざわめき。

 息を吸って吐くたびに、消耗しきった体から力が抜けていく。放心ともまどろみともつかない混濁した意識の中、穆哨は静かに目を閉じた――


 突然、静寂の中に雑音が混ざった。穆哨はハッと目を開けると、足元に投げ出していた剣に手を伸ばした。

 何者かがこちらに近付いている。脚は二本、歩みは軽く、足音も隠さずこちらに近づいてくる。痛みをこらえながら体勢を変え、剣の柄を握りしめる間にも、足音はどんどん近付いてきていた。斬り損ねたら終わりだと直感が告げる中、提灯と思しき灯りが視界に映る。

 その光が視界を埋めると同時に穆哨は相手に斬りかかった。しかし振り抜いた剣が空を切ったのは途中までで、軌道に割り込んだ何かが切っ先をがっしり押さえつけている。

 灯りの中、愕然とした穆哨の目に映ったのは色白の細面だった。

「全く、怪我人が迷い込んだから助けに来たというのに」

 呆れたような口調で男が言う。明るさに目が慣れてくると、男が反対の手に持った鳥籠の柵に刃を噛ませているのが見えた。籠の中では、萌黄色の小鳥が愛らしい顔をちょこんと傾けてこちらをじっと見つめている。

「なっ……」

 穆哨は驚愕に目を見開いた。

「無茶はするものではないよ、お若いの」

 男はそう言うが早いが鳥籠を素早く後ろに引いた。柵に引っかかっていた剣が抜け、穆哨は思わずつんのめる。ピッ、とうなじに鋭い衝撃が走ったのを最後に、穆哨は意識を失った。



***



 穆哨が目を覚ましたのは床の中だった。軽く、柔らかな布団が疲れ切った体を優しく覆っている。首を巡らせて周囲を見回した穆哨は、目の前の卓に置かれた鳥籠を見てぎょっと体を引いた。

 昨晩、彼の一太刀を受け止めた鳥籠が、今度は彼の目の前に置かれている。中の小鳥はそのときと全く同じように小首をかしげて、じっとこちらを見つめている。この鳥が作り物であると穆哨が気付いたのは、さらにもう少し間があってからだった。

 彼が寝かされているのは風雅な部屋だった——というよりも、これが「風雅」というものなのだろうと穆哨は感じていた。室内は白と黒の濃淡で統一され、開け放たれた窓からは瑞々しい木の葉の緑が風に揺れているさまがよく見える。黒く丸い窓枠が切り抜くその鮮やかさに、穆哨は痛みや疲れも忘れてしばし見入っていた。幼い頃から武芸の上達にだけ勤しみ、風流なんて気にも留めたことがない身でも、この景色に何かしらの美学があることは分かる。

「やあ、目が覚めたかね」

 悠々とした声とともに昨晩の男が部屋に入ってきた。昼の光の中で改めて見ると、男は小柄で細身、色白で整った顔立ちの、いかにも風流を好みそうな文人といった風貌だ。身なりは淡い緑色で統一され、帯には扇子を差し、豊かな黒髪を銀の小冠でゆったりと結い上げている。男は小鍋と食器を乗せた盆を鳥籠の横に置くと、寝台の横に椅子を引いてきて腰かけた。

「気分はどうだ?」

「お前は誰だ」

 にこやかに尋ねた男に穆哨は即座に言い返した。しかし男は気にしたふうもなく、それどころか断りもせずに穆哨の手首に白く整った指を添える。

「……ふむ、脈は安定しているな。熱もない。腹の傷がひどかったから心配していたのだが、杞憂だったようだね」

「おい、聞いているのか。お前は誰だ」

「君の方こそ、聞いているのかね。もし私が孔麗鱗こうれいりん楊夏珪ようかけいだったら、最初の質問に答えていないと首が飛ぶのではないかな?」

 男に言われ、穆哨は黙り込んだ。

 孔麗鱗は穆哨の所属する蛇眼幇の首領、楊夏珪はその右腕だ。楊夏珪は穆哨の剣術の師でもあり、穆哨は若手の構成員の中では最も可愛がられているといっていい。とはいえ、蛇眼幇を牛耳るこの義姉妹に楯突けばただでは済まないというのがこの江湖での常識で、それは穆哨といえど例外ではなかった。

「とは言え、名乗らないというのも礼を欠いているな。まずは挨拶と行こうではないか。私は風天巧ふうてんこう、この山で鍛冶師をしている」

「穆哨だ。俺が蛇眼幇の者だと何故分かった?」

 穆哨が聞くと、風天巧は扇子を開きながら答えた。

「手当の際に背中の刺青を見せてもらってね。牙を剥いた一つ目の黒蛇、孔麗鱗の目印だろう」

 穆哨は曖昧に頷いた。この刺青は幇の連帯と孔麗鱗への忠誠を示すものだが、同時に彼女の示威でもある。すなわち、この刺青を見た者には孔麗鱗の毒牙が待ち受けているぞという脅しなのだ。仲間が助けられた場合であっても、彼女は自身の覇業のために刺青を見た者をとことん利用する。風天巧は気にも留めていないようだが、その報復、或いは「褒美」の手先として何度も駆り出されている穆哨にとってはとても軽視できたものではなかった。

「ひとまずは恩に着る。幇主が何と言われるかは俺には測りかねるが……」

「なに、心配せずとも良い。彼女とは知り合いだから、悪いようにはされないさ」

 風天巧は扇子を閉じて立ち上がると、先ほど置いた盆に近付いた。

「お互い素性も知れたところで、何か腹に入れると良い」

 風天巧が小鍋の蓋を取ると、ふわりと湯気が立ち昇る。手を借りるには警戒心が先に立ち、穆哨は傷をかばって自力で起き上がった。

 すると掛け布団がはらりと落ち、包帯の巻かれた裸体が露わになった。穆哨はそれをしばらく眺めたのち、

「何か着るものをくれないか」

 と言った。

「すまないが、私の手持ちでは大きさが合わなくてね。君のは洗濯しているのだ、少し待っていてくれたまえ」

 風天巧は答えると、湯気の立つ椀を差し出した。

「食べ終わったら、もう少し話をしよう」

 穆哨は風天巧に礼を言うと、椀を受け取って粥を食べ始めた。薬草のような不思議な匂いのする粥だったが、嫌な味はしなかった。

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