互いの存在

 月曜日からも僕は小沼さんの部屋に通い続けた。楽しく雑談することもあったが、部屋を訪ねても小沼さんは眠っていることも多くなった。そう何度も寝顔に見とれているほどの暇はなかったので、寝ているのを確認したらそのまま部屋を出ることも多かった。そうやって経口オピオイドとモルヒネの量を調節しながら1週間が経った。その頃には、小沼さんが起きているのは珍しくなっていた。そんな中でも、僕が当直をしている日は、夜に「スライム」の原作を読む合間に部屋を訪れて、原作とアニメの違いはああだこうだと話をしたり、両親の持ってくる見舞いの品がつまらないという愚痴を聞いたりした。何気ない会話であったが、それが僕と小沼さんの唯一と言っていいほどの楽しみであった。それから数日間、小沼さんはほとんど目を覚ますことがなくなっていた。両親も僕も、ただ小沼さんの寝顔を眺めるだけ、という日が多く、ほとんど会話もなくなった。


 ある日、僕はいつものように小沼さんの部屋を訪れた。この日は珍しく小沼さんが起きており、といっても体を起こすことはせず目が開いている状態であるだけなのだが、会話はできそうであった。両親も来ており、先生が来てくれたよ、と小沼さんに語りかけた。小沼さんは力なく首をこちら向け、僕を見た。


「小沼さん、具合はどうですか」


僕が尋ると、予期せぬ答えが返ってきた。


「だれ?」


その瞬間、僕の中で何かが崩れ落ちた。冗談にしては笑えない冗談だったが、冗談であってくれと願いながらもう一度語りかけた。


「中野です、わかりませんか」


小沼さんはじっと僕の方を見て困ったように


「すみません」


と短い返事をし、目線を外した。冗談ではないようだ。いつもの小沼さんの姿はなく、抜け殻のようになってしまった無表情な女性がそこにはいた。脳転移の影響か、長期入院のストレスか、原因はわからないが、小沼さんの記憶は曖昧なものになっていた。僕は叫びたい衝動に駆られて、今にも泣きだしそうになってしまったが、それを見かねたのか小沼さんの母親が話してくれた。


「私たち両親のことはわかるみたいなんですが、看護師さんや先生、自分が入院していることなどはわからないみたいです」


僕は何も言えなかった、信じられなかった。ほんの数日前までの会話が頭の中を駆け巡った。大した話はしていなかったが、それでも楽しい記憶として僕には残っている。他愛無い、何気ない会話をすることで2人が築き上げてきたものは、思っていたよりもずっと大きなものだったらしい。医学的にはせん妄という、こういう患者には十分起こりえる症状であったが、それをわかっていても僕は受け入れがたかった。理解と感情は別物だということを痛感させられた。せん妄は一般的に自宅に帰ったりおおもとの症状が改善したりすると自然と軽快するものなのだが、小沼さんにおいてそれは無理難題であった。


 僕は担当医だ。いかなる時も冷静であらねばならない。そう思いなおすのに1分ほどかかっただろうか。沈黙を破って僕が説明する。


「せん妄と呼ばれる、一時的な記憶の混乱でしょう」


そう話すのが精いっぱいだった。


「治るんですか」


母親は続けた。僕はそれに冷淡な答えしか持ち合わせていない。


「一般的には入院などのストレスを除く、つまり退院して自宅に戻れば自然に治りますが、唯さんの場合は難しいです。また、脳転移の影響が出ているとすれば、手の施しようがないです」


半ば予想通りといった顔で母親は


「そうですか」


と一言だけ言った。


これまでの記憶がなくなってしまった小沼さんに、ぼくができることはもう何もなさそうであった。ただ痛みを和らげ、呼吸苦を取り除くといった、一般的な緩和治療以外に、できることはもうない。毎日の病室通いも意味をなさないだろう。それでも、担当医は毎日訪室し、患者の状態を確認する。最期まで責任をもって、担当医の職務を全うしようと強く思った。


「それでは失礼します。今後も緩和治療は続けてまいりますが、残された時間は少ないでしょう」


そう言って僕は部屋を出て、我慢しきれなくなった涙をぬぐった。


 それから数日間は、眠っているか、起きていても窓の外を眺めながら無機質で事務的な応答しかしない小沼さんと対面することになった。話をするたび心が抉られそうになったが、必死で耐えた。僕の担当患者は当然他にも居るのだから、たとえ挫けようとも院内では気丈にふるまわなければならなかった。他の患者にまで不安や悲しみを伝染させてはいけない。僕の生活はからっぽになってしまったようだった。それほどまでに、小沼さんとの日常が僕の“普通”になっていたのだ。森田や一番合戦の言うように、僕は深入りしすぎてしまっていたのだと、ようやく気付かされた。僕の知る小沼さんはもういない。担当患者にひとり、ターミナル期の患者が居るだけだ。




数日後、安藤先生が当直の日の夜に、僕の携帯電話が鳴った。


画面に表示された「二色辺病院」の文字。僕は嫌な予感がした。


「はい、中野です」


「もしもし、二色辺病院の安藤です」


「あ、安藤先生、お疲れ様です。どうかされましたか」


「小沼さんの脈がのびてる。今から来れるかい」


それはあまりにも突然訪れた。いや、突然ではない。こうなることは前からわかっていた。頭では理解していても、その現実から目を背けていたから突然に感じるだけなのだ。誰もが予想し、誰もが心の準備をしてきたその時が来たのだ。脈がのびているというのは、心拍数が極端に落ち込んでいることを指し、それはすなわち最期の時であるという意味である。小沼さんの命の灯は、今消えようとしているのだ。僕は着替えを済ませ、病院へ向かった。外に出るとじめっとした湿った空気が体を包む。梅雨も終わりかけだろうに、晴れていてもまだまだ湿度の高い夜だった。


 ロッカーの前でKCへと着替えを済ませ、僕は深呼吸をした。ゆっくりとした足取りで病棟へ向かう。


「早かったね、夜中なのに来てもらってゴメン」


時計は夜中の1時を指している。


「小沼さんは、どんな状態ですか」


「聞くより見た方が早いね。行こうか」


安藤先生と一緒に302号室へ向かう。扉を開けるとピッ、ピッと無機質にモニターが鳴っていた。脈拍は毎分20~30回をウロウロしている。心臓が止まるのも時間の問題だろう。小沼さんは静かに眠りながら、ときどきしゃくるように顎を動かしていた。


「これが“下顎呼吸”って奴だね。死の直前はだいたいみんなこんな呼吸をするんだ。中野くんも聞いたことくらいはあるよね」


教科書では何度も読んだことがある呼吸法。実際に見ることはあまりないが、一目で普通の呼吸をしていないことは明らかであった。小沼さんはもう間もなく死ぬ。それははっきりとわかった。少しして安藤先生が言った。


「家族さんには連絡を取ったから、もうこちらへ向かってくれているはずだ。到着を待って最後の診察をすることになるだろう。」


「あの、僕このままここに居てもいいですか」


「いいよ。しっかり看取ってあげて」


安藤先生はそう言い残して部屋を出ていった。僕はいつものように家族用の椅子に腰かけ、話しかける。聞こえているのか聞こえていないのか、意識があるのかないのか。誰にもわからないが、僕は語りかける。


「小沼さん。具合はどう?…って良いわけないよね。」


さながら独り言のように。


「『スライム』の原作、まだ全然読み切れてないよ。」


悲しみを押し殺すように。


「花火、一緒に見るんじゃなかったの。」


悔しさを噛みしめるように。


「痛みは、どうかな。楽になってるといいんだけど。」


返事のないことがわかっていても、話しかけずにはいられなかった。あんなに楽しく弾んでいた会話も、僕一人では生まれるはずもなかった。


 ああ、もっと何かできることがあったのではないか、何かしてあげられることがあったのではないかと自分を責めそうになる。しかし、決して自分のせいではないことも理解している。誰のせいでもない、病気のせいだ。憎むべきは病であると、わかっていても自分を責めたくなってしまう。そうして自分の無力さを嘆き、静かに泣いた。僕と小沼さんしかいないこの部屋で、僕は泣いた。


 半時間ほど部屋にいただろうか。もう目を覚ますことのない横顔を見ながら涙を流し、そしてぬぐった。あえぐような下顎呼吸もだんだん弱くなってきて、心拍数も10を下回るようになってきた。そろそろ家族さんが到着する頃だろう。僕はナースステーションに戻って家族を待つことにした。


「じゃあね、小沼さん。」


最期の言葉をかけて、僕は部屋を後にした。笑顔の小沼さんが手を振って見送ってくれることはもうない。


 しばらくして両親が到着した。安藤先生が両親を病室へ案内したあと、戻ってきて僕に言った。


「さて、最後の診察だ。何をするか、何を言うか、心の準備は大丈夫かい」


「はい。対光反射の確認、心音・呼吸音の聴診、死亡時刻の確認、ですね」


いつまでも落ち込んではいられない。僕は担当医だ、担当医には担当医の最後の仕事がある。


「うん、大丈夫そうだね。ペンライトと、時刻確認の時計はある?」


「あ、時計はないです。電話くらいしか」


「それなら僕の時計を貸してあげるから、これで確認して。」


「わかりました、ありがとうございます。」


安藤先生はそう言って自分の腕時計を外し、僕に手渡した。こういう小さなところでトラブルになることもあるらしいから、気を付けないといけない。何せ本当に最後の診察なのだ、不格好では許されない。


 家族が到着してからしばらくナースステーションのモニター監視画面を見ていた。ゆっくりと、ゆっくりと、心拍数が減っていく。入院してきたときはあんなに元気だったのに、本当に下り坂を転げるように病態が進んでいった。安藤先生の余命1ヶ月という予想は、悲しくもほぼ正確に事実を言い当てていた。本当にあっという間だった。勉強になるからとあてられた症例を、しぶしぶといった感じで引き受けたが、そんなことも忘れて親しくなって、いつのまにか僕にとって掛け替えのない存在になっていた。小沼さんにとってもそうだったのだろうか。小沼さんにとって担当医の中野という存在は、どんなものだったのだろうか。


 やがてモニターの心拍数を示す数字が0になり、アラームが鳴り始めた。弱々しく脈打っていた小沼さんの心臓がとうとう力尽きた。


「さ、中野くん、行っておいで」


そう言って僕の肩をポンと叩いた。


「はい、行ってきます」


中野先生の腕時計と、ペンライトを持ったのを確認して、担当看護師と共に302号室へ向かう。


トントンとノックして中に入る。


「失礼します」


両親は涙を流していたが、入ってきた僕に向かって一礼した。


「それでは、最後の診察をさせていただきます」


「お願いします」


僕が言うと、父親が答えた。美しく、安らかな顔で小沼さんは眠っていた。彼女の閉じた右目を指で優しく開き、ペンライトの光を当てる。次は左目にも同じことする。どちらの目に光を当てても、瞳孔は閉じず、開いたままであった。次に小沼さんの服をめくり、聴診を行う。入院当時よりもすっかり痩せてしまった体に聴診器を当てる。心臓の鼓動も、呼吸の音も、聞こえなかった。耳から聴診器を外し、KCのポケットから安藤先生の腕時計を取り出して、言った。


「7月8日午前2時5分、死亡確認とさせていただきます」


合掌して、目を瞑る。小沼さんの死亡を定義づける僕の診察が、小沼さんに対する治療のすべてが、これで終わった。少しして担当看護師が口を開いた。


「それでは今から、体につながった器具をすべて外して、きれいにさせていただきます」


両親はゆっくりと頷き、母親が言った。


「ありがとうございました。先生、最後まで本当にありがとうございました。これ、さっきまで娘が握っていた物です。」


先ほど訪室した時には気づかなかったが、小沼さんは手に何か握っていたらしい。母親は僕にくしゃくしゃの紙を差し出した。開いてみると、下手くそなタッチで、額に角の生えた女の子が描かれていた。紛れもなく僕が描いたリーゼルだ。


「これは、あの時の」


僕が漏らすと、母親は静かにうなずいた。


「この子、唯は先生の話をするときはとても楽しそうにしていました。入院中の心の支えだったんだと思います。一緒に花火を見るんだ、とも言っておりました。それは叶いませんでしたが、唯は心から楽しみにしているようでした。あの笑顔に救われました。親にもできないことを、先生はしてくれました。中野先生、唯の担当をしてくださって、本当にありがとうございました。最期の時を先生と過ごせて、唯も幸せだったと思います」


 僕は涙をこらえながら話を聞いていた。僕は、自分自身は何もできなかったと思っていたし、これからもそう思い続けるだろう。だが、患者本人や、その家族としてはそうでないらしい。僕にとって小沼さんがそうであったように、僕もまた彼女にとっての掛け替えのない存在だったようだ。僕が何もできなかったと思っていたあの日常が、あの会話が、あのやりとりが、彼女の心の支えになっていたと、そう母親は言っているのだ。自堕落な研修医の、楽しんでやっていただけの、あの日常が、彼女を癒す医療行為だったと、この母親は言っている。ああ、これか。これこそが、安藤先生の言っていた“勉強”なのだ。僕たち医師は、薬の処方や手術だけでなく、自分が認識さえできていない一挙手一投足が、患者を癒す医療行為になり得るのだと、僕はそれを悟った。事実、何気なく描いたあの落書きすら、彼女にとっては記憶をなくしてもなお死の間際に握りしめるほどの価値あるものになっていたのだ。


「もしそうなら、光栄なことです」


僕は声を震わせてそう言うと、母親はにこりと笑った。続けて母親は言う。


「あと、唯は先生に本を貸したとも言っていました。その本は、迷惑でなければ先生が持っていてください。唯もそう望んでいました」


「わかりました。大切にします」




 僕はナースステーションで安藤先生の指導の下、小沼さんの死亡診断書を作成していた。死因や手術の有無など、必要事項を記入し、必要ない部分には定規を使って丁寧に斜線を引く。人生最後の書類なのだから、慣れてきてもきちんと丁寧に書くべき、というのが安藤先生の教えであった。


1時間ほどして諸々の処置や手続きが終わり、葬儀屋のお迎えの車が来た。僕、安藤先生、担当看護師の3人で最期のお見送りをするため病院の駐車場へ向かった。憎らしいほど晴れて星が見えるが、やはり湿度は高い。少しして両親と葬儀屋とともに、ストレッチャーに横たわる小沼さんの遺体が運ばれてきた。顔には白い布がかけられ、体には白い布団が掛けられていた。小沼さんは葬儀屋の車に移され、バタンと車の後ろ扉が閉じられた。これで本当にお別れだ。僕の心はもう静かに凪いでいた。彼女は苦しまずに逝けただろうか。小沼さんの両親を残し、葬儀屋は車へ乗り込んだ。


葬儀屋の車がゆっくりと動き始め、僕たち3人は深々と頭を下げた。車が駐車場を出ていき、見えなくなるまで頭を下げていた。しばらくしてゆっくりと顔を上げると、父親が言った。


「今日まで本当にありがとうございました。この病院で最期を迎えられて、良かったと思います。ありがとうございました。」


そう言って両親揃って深々とお辞儀をし、彼らも自分たちの車へ乗り込み去っていった。これから葬儀の段取りで忙しくなるであろう彼らは、最後にお礼の言葉を残していった。


「行っちゃいましたね」


「ああ、行っちゃったね。中野くん、勉強になった?」


「はい、とても」


「そうかい。ぶっちゃけ僕は君のことをやる気がない派閥の研修医だと思っていたんだけど」


「そ、それは」


「いや、気を悪くしないでね、責めるつもりは毛頭ないんだ、僕も同じだったから。ただ、僕も患者さんの死に触れて、少し考えが変わったことがあってね。そういう経験になればいいなと思って、君を小沼さんの担当医、というかほぼ主治医にしたんだ。」


僕が黙って聞いていると、安藤先生は続けた。


「だからね、今すぐに真面目な研修医になれとは言わないけど、もし何か感じたのなら、心の隅でいいからその気持ちを置いておいてほしい。その小さな感情の積み重ねが、君の意志としての成長の糧になると思うから」


「はい、肝に銘じておきます。すごく勉強になりました」


「本当?ならよかった」


安藤先生はカラカラと笑った。湿った夜風が僕の涙の跡を撫でて、少し涼しかった。

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