70-2
「ハァ、ハァ……」
――息も絶え絶えの中、倒れる寸前の体を持ち堪えさせる。
「ハ、ァ……」
もはや体には一片の力すら残されていない。すぐにでも楽になりたいという、体の欲求そのままに倒れ込もうとした、次の瞬間。
「『快』様!」
ふと柔らかな感触が――崩れ落ちようとするオレの体を抱き止めた。
「ル、ナ……」
「ええ……わたくしです。『快』様」
絞り出した呟きに、穏やかな声が応える……ハハ、情けねぇ。もうこうして体を支えられなきゃ、立つこともできやしねぇ。
「……ヨウ、は?」
「え?」
だが……まだだ。
「タイヨウ、は……?」
まだヤツは、立ち上がるかもしれない。アイツが起き上がらないことを確認するまでは……闘いは終わらない。
「……」
それに応える様に、ルナが先程の衝撃で舞い上がった粉塵の方を見やる。
そして、数秒の後……
「ああ、くそ……いってぇな……」
オレと同様の、今にも倒れそうな様子で――そいつが姿を現した。
「タイヨウ、さん……」
死に体のオレを守るようにして、ルナが体を前に出す。
「へっ……そう怖い顔すんじゃねぇよ」
そうしておぼつかない足取りの中、そいつは――
「負けだ負け! 俺の『負け』!」
不貞腐れた様子で両手を挙げ、ギブアップの意を示した。
「え……?」
「だ~か~ら! 俺の負けつったんだよ! 誰も数えるヤツいねえから、自分で数えたよ、テンカウント! わかるかよ? フラフラの体で、自分が負けるためのカウントを数える気持ちが!?」
きょとんとするオレとルナをよそに、タイヨウが一人でうだうだと喋り始める……どうやら何を以って勝敗を決めたのかを語っているらしい。
「えっ、と……」
「それで……いいのですか?」
しかし余りの急激なノリの変化についていけず、オレとルナは揃って首を傾げる。
確かにボクシングの試合ならそれがルールだが……そもそもそれに合わせるのなら、オレはとうにKO負けしている。
「そりゃ当然、思うところはあるさ……そもそもルールもクソもあったもんじゃねぇしな」
不満全開と言った様子で、タイヨウが愚痴を零す……ああ言いながらも、やはりは納得いかないものはあるらしい。
「けどな……俺の中では『これ』は、歴としたお前との『試合』なんだよ。そして例え色々無茶苦茶やろうが、お前のステージはボクシング。俺のステージは総合格闘技だ。なら『決着』ぐらいはその流儀に乗っ取ることにしたっていう—―ただそれだけの話だ」
しかし……それでも敗北は敗北だと。あくまでヤツが定めた枠においてだが、オレがヤツを上回ったのだと――タイヨウはそう告げる。
「……ふざ、けんな。こんなんで勝ったなんて……思えるかっつの」
結局のところオレにできたのは、唯の一度だけ、全身全霊を込めた一撃を叩きこむことのみだ。しかもヤツは手負いで、こっちは
「ああ、そうだろうよ。だがな……」
闘いに身を置く者なら必ず分かるだろうその感覚を、タイヨウもまた当然のように肯定する。
だが……
「俺の方も……敗北感しかねぇんだよ」
どうやらそれは――ヤツの方も同じだったらしい。
「『惚れた女』の為の闘いで、勝ちきれなかった……これが負けじゃなかったら、一体なんなんだっての」
誰に語るでもなく――タイヨウが一人呟く。
「え……?」
「だから……今回はお前の勝ちだ。敗者は潔く、リングを去るだけさ」
呟きを聞き取れず首を傾げるが、それに対する答えはなく……更に一言語った後、ヤツはオレ達に背を向ける。
「タイヨウさん……」
「そんじゃな、ルナ。色々辛い目に遭わせて悪かった」
「いえ……」
そうして――まずはルナに。
「タイヨウ……」
「じゃあな、カイ。またいつか……今度はちゃんとしたルールの下で、やり合おうや」
「……ああ」
最後にオレへと向けて、そう言い残し――
「……あばよ」
オレ達の『師匠』は、その場を去っていった。
「……ルナ」
タイヨウが去って行くのを見届け終えた頃—―不意に隣で寄り添う『そいつ』に声をかける。
「はい、なんでしょう?」
応えるその表情は、とても晴れ晴れとしている……昨晩見た、悲しみに満ちたものとは大違いだ。
「……」
それを見るなり、自身の鼓動が早くなるのを感じる……どうやら柄にもなく、『緊張』しているらしい。
「『快』様?」
不審に思ったのか、ルナが訝し気にする。だが……正直な所、これぐらいは勘弁してほしい。
なぜなら、オレが今からしようとしていることは……
「……話が、ある」
オレ史上、最大の――それこそ、タイヨウとの決戦以上の……『大一番』なのだから。
「ここ、は……」
「……よく見えるだろ?」
「はい……」
辿りついたその場所で目に飛び込んできたその景色に、思わず言葉を失くす。
――現在わたくし達が座っているのは、クレセント号の甲板の中で最も高い位置に当たる場所だ。『快』様から話があると言われ、まず頼まれたのが動けない『快』様をここに運ぶことだった。
早く治療をしなければならないのに何を言い出すのかと思ったが、どうしてもとお願いされ、渋々承諾した結果この場所へと至ったわけだが――確かにその価値はあったと言えるかもしれない。
「すごい……もう夜が明けようというのに、あんなにもハッキリと見えます」
時刻は午前6時。既に明るくなり始めている空に浮かぶのは……輝かしいまでの存在感を放ち、今まさに満ち足りようとしている『月』の姿だった。
「きれい……」
その余りに壮大な姿に目を奪われ、思わず口にした直後のことだった。
「なあ、ルナ……」
「はい?」
不意に声を掛けられ、『快』様の方へと振り返った、次の瞬間。
「……誕生日、おめでとう」
「……へ?」
一切予想していなかった『その言葉』に――わたくしは完全に呆気に取られた。
「いや、だから……誕生日おめでとうつったんだよ。まあ日付としてはとっくに過ぎてるのは知ってるが……お前にとっちゃ、こっちが『本命』なんだろ?」
「……」
呆然としながら、『快』様の口から出る言葉を聞き入れる。
よもや――彼が『あのこと』を知っているだなんて、思いもしなかった。
わたくしにとっての『誕生日』は、『
そして、修学旅行最終日を迎えようというこの時間こそが――まさに『その時』なのだということを。
「まさか……このために?」
――余りの衝撃に、言葉がうまく出てこない。
だって、あの『快』様だ。気の利いた言葉とか、そういうったものとは完全に無縁の彼が……こんなサプライズを用意していただなんて。
「まあ、それもあるけどよ」
そして、それだけでも驚きだったというのに――
「それ……『も』?」
「……ルナ」
戸惑うわたくしを真直ぐに見据え、『快』様は……
「……『月』が、綺麗だな」
「……!」
一言、そう口にした。
「……二度は言わねぇぞ」
「……」
それを聞いた瞬間—―もう、喋ることなどできなかった。
「柄じゃねぇのはわかってるがよ……」
だって、『その言葉』が意味することは。
「まあ……そういうことだ」
『あなたが好きです』という意思を示す――愛の告白なのだから。
「ひっ、く……」
――気が付けば、目から溢れんばかりに涙が零れ始める。
「いぃっ!?」
急に泣き出したわたくしを見て、『快』様が驚きの声を上げる……どうやらこの反応は予想外だったらしい。
「お、おいルナ。どうした? どっか痛いとこでも……」
いくらカッコ良く決めようと、やっぱり鈍感なのは変わらない……まったく、本当にわかってないですね、『快』様は。
こんなの……泣いてしまうに決まっているじゃないですか。
「うっ、うぅぅ……」
だって、
「うわぁぁぁぁぁぁあん!!」
この世界中の何よりも……わたくしが欲して止まなかったものなのですから。
「ひぐっ、ぐっ……」
「ったく……ひでぇ顔だな」
—―数分後、未だ泣き止まないわたくしに、『快』様が呆れ顔で語りかける。
「だって、だってぇ……」
いい加減泣き止まなければ、とは自分でも思ったが、一度決壊した感情は最早止まることを知らず、一向に収まってくれない。
「でも……そうやってる方が、お前らしいよな」
「え……?」
そうして、やっとわたくしの涙が収まろうとし始めた頃――不意に『快』様が自身の手を、わたくしの頬へと伸ばす。
「どんなに綺麗でも、触れもしない
夜空に輝く、あの美しい『月』。
「泣いて笑って、くしゃくしゃで……でもこうして手が届く『
それよりも、お前の方がいいのだと――伸ばした手で涙を拭いながら、その口が告げる。
「……」
「……ルナ?」
「……死んでもいいです」
暫し黙り込んだ後、首を捻る『快』様にそう言って返す……冗談抜きに、それでもいいと思った。
「へっ?」
だが肝心の『快』様は、意味がわからないとばかりに呆けた声を上げる……どうやら『言う』方ばかり考えて、『返事』の方は調べていなかったらしい。
「……わからないなら、いいですわ」
そう、それは――『月が綺麗ですね』という、告白に対する『返し』の一つ。確かにロマンティックだとは思うが、正直こういう婉曲な表現は性に合わない。
だから……
「—―大好きです。『快』様」
ただ一言……正直な想いを告げ、目を閉じる。
「……ああ」
それ以上の言葉なんて、必要ない。
「オレも……
そうして重なり合う、二つの影を――満ち足りた『月』が照らしていた。
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