蘢樹(るき)
「では参りましょう」
人の匂いがしなくなってから、蘢樹は水干(すいかん)を引き摺って滝を潜った。恒星の爆発光は瞳を痛く貫き、視界を白くさせる。こういうときは、人も同じ感覚になるのだろうか。
いままで座していた窪みにしばらく別れを告げ、蘢樹は空を見上げた。青龍に転変せずとも、この快晴なら虎杖が運んでくれるだろう。山を飛ぶ猛獣は、それは何と言っても速い。何気に背負われるのは初めてなので、蘢樹は嬉しい反面振り落とされないか心配だった。
分け入った草の匂いは、思っていたよりうっそうとしていた。水の匂いは微かにするだけ。あれほど巨大な滝であるのに、民の元へ届くころには緩やかな川に成り果てている。
「李殿へはどうされましょう?」
「また後で挨拶しに行きます。すぐに森に引き返すでしょうから」
允可が終われば自分は街にいる必要がない。この身体は、恐らく民にほとんど見せずに終わる。しかしそれでいいのだ。問題がなければそれに越したことはない。蘢樹は、木々の間を過ぎ去る風を感じながら街へ下っていった。
「どうぞお傍へ」
い草の香り。細く割いた草を編み込み、固い床材が出来上がる。この星特有の、木々に囲まれた造りだ。吹き抜ける庭には一面の緑。光り照らされて、神々しく透き通る。
一段高いところに御簾が掛けられ、中央が巻き上げられていた。中にはすでに誰か待っている気配がある。爽やかに風が立ち、その老竹色の髪を撫でた。
蘢樹の獣者は正座をし、厳かに待機していた。先程声を発したのは卯の耳を持つ少女。瞳は前髪で隠れてよく見えないが、蛇結茨と同じく聴力で判断するのだろう。遠慮がちでありながら、それでもひしひしと進言している。
「あなたたちは、青龍の獣者さんですか?」
「はい。青帝、蘢樹樣は御簾の中へおいでです。誠に僭越ながら、互いの獣者はこちらで控えるようお願い申し上げます」
「そちらがここにいるのであれば、過失が起こる可能性を考えなければなりません。火威樣を捧げるのには抵抗があります」
「いいんだよ、蛇結茨」
しかしそれを制したのは火威自身だった。緋色の双眸に不安はない。すると次いで虎杖から声が上がる。
「我々は後方へと下がります。炎帝樣のお傍へは、どうぞそちらがいらしてあげてください」
「ありがとう、獣者たち。謹んで、主の身をお借りします」
獣者が自ら下がるということは、誰かに危難を与えられる可能性があるということ。彼らにとっては身体が引き裂かれる思いだろう。神とはいえ、朱雀に青龍が脅かされないとは絶対に言えないのだった。
だが火威の言葉に幾らか救われたようだ。青龍の獣者たちは一礼して、速やかに後退していく。やはりこの文化は彼らのほうが染みついていた。火威たちでは両方の膝を折ったままそこまで優雅に移動できない。
獣者が下座で停まったのを見届けると、火威は御簾の中央へと進む。潜り戸のようになっていた空間を通ると、同じくらいの歳の少年が左翼側に座っていた。
「こんにちは。どうも遠いところを、ありがとうございます」
「……あなたが、青龍?」
にこやかに語りかけてきた蘢樹に、火威は立ったまま質問をする。長い睫毛を更に細め、少年は答えた。
「はい。そちらは朱雀ですね? どうぞおかけください。椅子のほうがよろしかったですかね?」
「いいえ、大丈夫です」
火威は同じくはにかみ、青龍の正面に腰を下ろす。こちらも向こうも、いまの衣装にこの場は合っているようだった。火威は紅、蘢樹は青緑。白色(はくしょく)は御簾と植物に照らされて、若苗色に変化する。朱雀が胡坐(あぐら)をかいたのを見ると、青龍は口を開いた。
「初めまして。わたしは青龍、蘢樹と申します」
「申し遅れました。僕は火威、朱雀です」
互いに頭を下げ、自己紹介をする。火威にとっても蘢樹にとっても初めてのことなのに、なぜか蘢樹には慣れた感じがしていた。青龍は順応した所作で言葉を続ける。
「さて、允可でしたね。火威さん、どうぞ遊星朱雀をお治めください」
「……ありがとう、ございます。蘢樹さん。……あの」訊きにくく、火威は言を紡ぐ。「白虎から、青龍は……盲目だと伺いました」
「ああ、それは――」
一瞬蘢樹は答えを切り、眼を伏せ口籠る。一瞬の逡巡のうち、決心したように語り始めた。
「先代の、青龍ですね」
その言葉の意味が表すのは、桐子の話に登場した、一瞬の神だ。その証拠なのか、蘢樹の瞳は火威を見据えているようである。悲しむように眉を下げ、過去の悲惨さを強調していた。
「そうでしたか。答えにくいことを、訊きました。ごめんなさい」
「いえいえ。気にする必要はございません。この話は忘れるべきなのですが、残しておくことも大事です」
「……どうして?」
困り顔で笑う青龍は、火威の理解が追い付かないことを言う。その話は、さっさと忘れてしまったほうが互いのためになるのではないだろうか。不敬のための罰を受けることもなければ、神殺しのための罪を背負う意識も薄れてゆく。
純粋に訊く火威に、蘢樹の瞳は戸惑いで揺れた。
「それは……、紛いなりにも、史実ですからね」
一時だけ俯いて無表情になったが、青龍は瞬時に元の笑顔に戻る。彼の言動には一瞬の迷いもない。だから火威には違和感だった。
「どうして、嘘のことを本当と言うの?」
「――え?」
落ち着き払っていた蘢樹から、気の抜けた驚嘆が上がる。唇を震わせ、ぎこちない笑みを作っていた。この青龍は笑いながら平気で嘘を吐く。いや、平気ではないのだろう。本心は民の前に堂々と立っていたいのだろう。それを、不当な神だからと、不完全な身体だからと、殺されたはずの死体だからと言い訳をして、誰の眼にも晒されないように生きていくのだ。
それは大変に辛いこと。それでも、先に産まれただけの神は、本来最初に産まれるべきであった神にも蹂躙されてしまう危険性を孕んでいる。どちらを取るかは彼ら次第だ。火威は史実を曲げることを善しとはしなかった。
見透かされて戦慄(わなな)く蘢樹は、いま火威がどのような表情をしているのか、どうしても見えなかった。
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