五線譜の未来〜雨の夜に君の声だけが響いた

黒瀬 カナン(旧黒瀬 元幸 改名)

第1話 瘡蓋

突然、空から大粒の雨が降ってきた。

仕事終わりの疲れた体には冷たい雨だ。


俺は雨に打たれながら駅の方に向かって歩く。その目は行き交う人々が雨を避けるために足早に家路を急ぐ姿を見ていた。俺と同じ疲れた顔のサラリーマンに濡れる事を嫌ったOL、雨の中はしゃぐ20代前半の若者達を横目に見ながら、やけに年老いてしまったような思いに駆られる。


なにもない、ただ退屈な気持ちに億劫になりながらも、1日また1日と日は過ぎていく。生まれて30年と言う歳月だけが過ぎて行ったでなにも代わり映えしなかった。


10代は友人達と共に馬鹿をしたり、夢を持って行動をしてきたつもりだ。

20代は共に夢を追った友人達と離れ、一人でも夢を叶えるために努力をして来たつもりだった。

だけど30歳になった今、その夢への情熱は冷めてしまい結局は若い頃に自分が嫌っていた社会の歯車になる事を選んでいた。


それは自分が生きるために働いて生活する事であり、自分生かして生活することではなかった。


自分の特性や生きる道はここではないと否定しながらも、そこでしか生きることのできない自分という存在に腹を立てながら毎日を送っていく。


「はぁ……。」

誰にも気に留められることはないため息を小さくつく。

自分の中にある、自分を認めて欲しいと言う承認欲求だけが心の中に募らせる。


駅のそばにある駅とビルをつなぐ遊歩道から地下鉄に乗るために地上へと降りていく。その道中、俺はピアノの音を耳にした。


この周辺は以前から路上ライブが盛んなところで、有名アーティストもここからメジャーデビューを果たしたことで有名だった。


昨今は路上ライブ禁止の張り紙などのため、以前に比べてライブをする人間は減っていた。だから、久しぶりに耳にした路上ライブの音に興味を持った俺はゆっくりとその音のする方向に向かって歩いていく。


雨の中の遊歩道の下、女の子が一人で雨に濡れないように電子ピアノを弾いていた。だが、その周囲には誰もいなかった。


それもそのはずだ。

この雨の中、足を止めて歌を聴こうとする好奇な人間はそういない。

道ゆく人々は彼女の姿を横目に足早に帰っていくだけだった。


俺はただ、彼女の弾く曲にどこか興味を持ち、雨を避けるために遊歩道とは反対側にある駅舎の壁に寄りかかる。


徐々に強くなる雨音の中、彼女は歌っていた。

その曲は俺は知らない曲で、彼女のオリジナルか何かなんだろう。

滑らかな手つきで弾く音色に、緊張し声を震わせながらマイクもなしで精一杯歌う声が聞こえてきくる。


その歌の最中、彼女は一瞬ちらりとコチラを見た。

距離が少し離れていたからその表情はよく分からなかったが、その視線が俺を捉えると、声はますます硬くなったような気がした。


一曲が終わり、彼女は顔を上げる。そして一言、「ありがとうございます。次が最後の曲になります。」と呟く。


そして、ピアノの演奏を始める。

どこかもの悲しい曲調の旋律が俺の耳を通して、心を震わせる。


その曲は俺も知っている曲だった。

ヴォーカロイドと作曲者が一緒になって歌っている曲で、もの悲しい曲調に似つかわしくないジャズのようなリズム。そして、直近の失恋を歌った切ない歌詞が胸中をざわつかせる歌だった。


この曲を知った当時、俺は失恋したばかりでこの曲に自分を重ねた時期もあり、好きな曲なのだがそこそこ人気も出たはずなのに、いまだにカラオケにも入っていない。


そんな星の数ほどある歌に埋もれてしまった名曲をこんな街中で聞くことになるとは思ってもいなかった。


彼女の奏でる綺麗な旋律と柔らかい声は本家と比較しても遜色のないものだった。だが、何かが足りなかった。

彼女の歌に足りないものはないはずなのに、粗を探すと物足りなさが増してくる。


自然と俺は小さな声で彼女の歌に合わせて小さな声で歌う。

そして、指を弾く動きをしてしまう。

足りなかったものは男性パートとベースのリズム感だった。


俺の行動を目の当たりにした彼女は俺の行動を見て、演奏をしながら目を見開く。その様子はどこか驚いているようであった。


その曲を彼女が歌い終わると、俺はあることに気がついた。

目頭が熱くなってしまっていたのだ。

すでに当時から5年以上経っているはずなのに涙が出てくる。


おかしい……、清算はすでに済んでいるはずなのに、なぜか心に当時の感情が蘇ってくる。


「あの……。」

突然の涙に困惑している俺に、路上ライブをしていた女の子が声を掛けてきた。


その言葉に驚いた俺は、涙を見せるのが恥ずかしかったのかなぜか分からないまま、「すいません……。」と言って足早にその場を立ち去る。


彼女はその様子にびっくりしたのか、俺の背中を茫然とした表情で見つめていた。


帰りの電車の中で落ち着いた俺は、あの時の唐突な涙の理由がわからずに理由を探した。


だが結局はその理由もわからないまま、電車は自宅最寄り駅に着いた。


そして、家にたどり着く。

一人暮らしで散らかったまっくらな部屋に入ると、雨で濡れた体を拭くことすら忘れて俺はクローゼットに収められたある物を探す。


「あった……。」


俺は目的のものをクローゼットから取り出すと、被っていた埃を払う。

一つはソフトケースにしまわれた“フェンダージャパン製のジャズベース“、そしてもう一つは“マーシャル製のアンプ“だった。


この二つは学生時代から俺が愛用してきた愛機というもので、一時はこれで食べていく事を望み、叶わなかった物。


そのベースを雨音をバックにただひたすら引き続けた。


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