前編

 もう夏も近づく、というかほとんど夏と言っていい七月。放課後の熱い教室で俺は二人きりでいる――。


「おい、まだかよ永井」


 しかし、相手は女の子ではない。いつも通りの水島だ。残念ながら未だ女の子とイチャイチャラブラブエッチは出来ていない。

 普通、放課後夏の暑い教室に好き好んで残る奴は居ない。

 俺が不本意ながら暑さに耐え、汗を流しているのは日直の仕事のせいだった。

 俺はホームルーム後、ペアの女子に良い格好をしようとして言った。


「先に帰っておいて、後は俺がやっておくから」


 もちろん、ズボラな女子運動部員が教室で着替えを行う可能性も織り込み済みだった。


 しかし、それがマズかった。まさか全く仕事をやっていなかったとは。

 休み時間にも何も言ってこないから、てっきり向こうでやってくれているものだと思っていたのに。

 こんな今日の授業内容とか、今日一日を振り返ってとか書けるわけがない。全授業寝てるし。

 しかも、ズボラな女子運動部員なんて一人も来やしない。それなのにズボラな男子運動部員なら三人も来やがった、こんなの質の悪い嫌がらせだ。あいつらには因果応報の意味を教えてやりたい。


 そして水島がこの場に居るのは、今日の授業内容を教えてもらうためだ。


「終わったぜ」


 俺がペンを置いて言うと、水島はため息をついた。


「やっとかよ。とっとと女の子を口説きに行こうぜ」


 最近分かったことだが、この自称硬派は浮気さえしなければ硬派だと思っているらしい。


「そうだな。捜査は足で稼げって言うものな」


 奇抜な作戦も良いが、時には泥臭く堅実に行くのもアリだろう。

 大事なことは色々な手を使う事。決して一つのことに固執しない。その柔軟な考えこそが勝利へと導いてくれると俺は信じている。


 しかし、こんな俺でも未だに彼女が出来ないとは。

 こんなにも彼女を作るのが難しいなんて、九割の男が生涯独身で人生の幕を閉じるだろうな。実際、うちのクラスで誰と誰が付き合い始めたとかいう噂は、聞いたことが無い。皆それぞれ苦労しているらしい。

 まあ、一番に彼女を作るのはこの俺だがね。




 俺と水島は教室を出て戸の鍵を閉めた。

 さて、これからナンパしに繰り出すぞという時に、あいつがやって来た。


「おお、君たち。丁度いいところで会った」


 中野達典だ。珍しく慌ただしい様子だった。

 何より引っかかるのはセリフの中身。何やら嫌な予感がする。

 よく分からんことに利用されたくはない。早いとこお暇させてもらうとしよう。


「俺たちには丁度悪いところなんだがな」


「まあ、そう言わんでくれたまえ。君とて、これを見てくれたら考えは変わるはずだ」


 そういって中野は俺のズボンの端をつまんで引っ張る。こっちに来いということらしい。

 その先に何かあるのだろうが、俺たちには関係ない。美少女だらけっていうなら話は別だがね。

 ……いや、美少女だらけの可能性はゼロではないな……。


「分かった。見るだけ見よう」

「おい、永井」


 水島は不服そうだ。この自称硬派は早くナンパしに行きたいらしい。俺だってそうだ。


「なに、見るだけだよ。大したことじゃなかったら帰るからな。それで良いな中野?」


「ああ、構わない。もっとも、きっと無視出来ないだろうがね」


 いったい何が待ち受けているというのだ。

 案内された先はすぐそこ、隣の教室一年A組だった。


「なんだ? 忘れ物でもしたのか?」


「中を覗いてみたまえ。いいか、そっとだぞ?」


 そう言われ、訝しく思いながらも戸のガラス部分からそっと中を覗く。

 中には男とショートカットの美少女の二人が向かい合って立っていた。

 放課後の教室で美少女と二人きりだと? あの男、ムカつくなあ。俺なんて男同士だったってのに。


「それで、これがどうかしたのかよ?」


「あの美少女は先週転入した澤北絵美里という。スポーツ万能で明るい性格をしている」


「……俺のデータにはないな」


 機関の奴らめ、サボりやがったな。可愛い子は俺の耳に入れろって言ってあるのに。


「そして、男の方は憎き糞野郎、吐き気を催す邪悪、男の敵、性は愛野、名は米次郎。人呼んでラブコメ次郎!」


「なんだその女たらしみたいな奴は?」


 愛野米次郎、そいつのデータはもちろんない。というか男のデータは要らない。だが、中野が言うにはとんでもない悪党のようだ。


「奴が何故ラブコメ次郎と呼ばれるか、それは単なるダジャレだけではない」


 ダジャレも含めるんだな少しくらいは。


「奴は知り合う女子を片端から、全く苦労せずに自身の虜にしていくのだ。転入早々、澤北も奴の毒牙にかかった。もう、うちのクラスの女子は全滅だ! しかし、愛野本人には全くその自覚が無い。そう、まるで漫画やアニメのラブコメ主人公の様に!」


 それを聞いて俺は怒った。冷静でいられようか?

 後ろの水島も拳を強く握りしめている。

 この場にいる者全員が、愛野に対する怒りを隠せなかった!


「苦労せずに片端からだとぉう!? しかも自覚が無いっ!?」


 俺が一体どれほどの苦労をしていると思っているんだ!? 死にかけたり股間が死んだりしたんだぞ!?


「しかも、奴はイベントに事欠かない。こけたら必ずパンチラから、胸を触るなどのラッキースケベを引き起こす」


「もう許せん! ズタズタに引き裂いてやる!」


 俺は教室に乗り込もうとした。しかし、そんな俺を中野は制止する。


「何故止める!? このために俺を呼んだんじゃないのか!?」


「確かにその通りだ。しかし、中をもっとよく見たまえ、そこはかとなく良い雰囲気だと思わんか? 夕暮れの教室に二人きりだぞ?」


 そう言われて、中を再び今度は水島と一緒に覗く。

 言われてみれば確かに、二人とも何やらモジモジしているし、澤北の頬は紅潮しているように見える。あれは夕日が照っているからではない。


「だったらなおさら、早く乗り込まないといけないんじゃないか? このままだと、キスだの告白だのしちまいそうだぜ?」


 水島がもっともなことを言う。俺も同意見だ。しかし、中野は反論する。


「奴はラブコメイベントを引き起こすと言ったであろう? 中を見たまえ、あそこに掃除用具を入れるロッカーがある。このまま踏み込めば、きっと二人はそのロッカーの中に隠れる」


 確かに、ラブコメではよくある展開だ。

 お互い本当は好き合っているのに、恥ずかしさとか噂されたくないとかで、誰かが来た時、反射的に二人一緒に物陰に隠れる。ロッカーはその隠れ先に引っ張りだこな存在だ。

 ラブコメ次郎のラブコメ力が本物なら、きっと二人はロッカーの中に入ってしまう。


「確かに、二人をロッカーの中で密着させるのは面白くない。しかも今は熱い夏だ。夏服は薄い。さらには、それでも暑くて脱ぐとかいう展開になったら嫉妬で気が狂いそうだ!」


 俺は頭を掻きむしった。


「だったらどうすりゃ良いってんだよ!」


 水島は壁を殴った。拳から血がつーっと流れた。


 俺たちは皆黙った。しばし沈黙が流れた。

 皆諦めてはいなかった。しかし、踏み込めば二人はロッカーの中で密着、踏み込まなければこのまま良い雰囲気に任せて、キスや告白があるかもしれない。

 手を出しても終わり手を出さなくても終わり、一体どうすれば良いのか、誰もその答えを出せなかった。


 やがて、水島が口を開いた。


「おい、このままあのラブコメ野郎に、美少女を何人も好き放題されて良いのかよ? 永井、いつものように作戦をパパっと閃いてくれよ!」


「うるせえ! そんなことは分かってる」


 俺だって必死に考えてんだ。

 くっそー、どうやって二人を引き離すかだ……いや、そうか! 引き離しさえすれば良いんだ! 何も乗り込む必要はない。


「お、その顔は何か閃いた顔だな? 言ってみろ」


 水島は瞳を輝かせる。


「よし、じゃあ放送室に行ってこい。それであのラブコメ次郎を呼び出すんだ」


 水島と中野は驚きと納得の表情をし、二人して笑った。


「どうして我輩は、その程度のことを考え付かなかったのだろうな。しかし、君を頼って良かったよ」


「よし、じゃあ、ちょっくら行ってくるぜ」




 水島は走っていった。放送室はこの校舎とは別棟にあり、歩いて五分くらいかかる。走れば三分とかからない。

 まあ、これにて一件落着。数分後呼び出しに教室を出たラブコメ次郎を、袋叩きにしてこの件はお終いだ。さて、放送を待つとしようか。

 と、茶でも飲んで一服しようとしたとき、中野が俺の肩を叩いた。


「おい、マズいぞ。あれを見たまえ」


 中野の指さす方を見ると、そこには風紀委員の腕章をした男が歩いていた。

 紛れもなくそいつは、放課後の見回りをしている下っ端風紀委員に違いなかった。

 なお、俺も同じく風紀委員だが、下っ端の、それも男の名前と顔なんて一々覚えていない。


 俺は中野がマズいと言った理由を瞬時に理解した。

 この風紀委員の見回りの主目的は、男女の逢引きの取り締まりなのである。

 無論、それは真面目なお仕事ではなく、嫉妬によるものだ。風紀委員は嫉妬とセクハラに塗れているのだから。

 中にはビデオに撮って、データを寄こせば見逃すなんて手合いも居るが、今はどんな奴であろうと関係ない。あの風紀委員がこの教室に入ろうとした時点で、俺たちの負けだからである。あの二人はロッカーに入ってしまう。


 奴は各教室の中を覗きながら、ゆっくりとだが、しかし確実にこちらに近づいてきている。

 そのペースから、俺の頭脳が割り出したこちらへの予想到着時刻は、二分後。水島が放送室に辿り着くのとほとんど同時だった。

 確かに、このままにしておくとマズいのだ。


「もしも水島より先に風紀委員がこの教室に着いてしまえば、我輩たちはお終いだ! 早急に手を打たねばならん!」


「そんなことは分かってる!」


 中野は気が気でない様子だ。無理もない。やっとこさ、名案を思い付き安心を手に入れたと思った矢先、再び地の底の追いやられたのだからな。

 何より絶望感が増すのは、さっきの案を出すのにも相当の苦労があったということだ。

 あの風紀委員が到着するまでに、あれに匹敵する代案を果たして俺たちは考え付くことが出来るのであろうか……?


 だが、こういう時こそ冷静にならなければ、良い案は浮かばない。

 凡人が考え付きそうな手は風紀委員の足を止めることだが、これは無理だ。男風紀委員の足を止められるのはおっぱいの大きな美少女か、お尻の大きな美少女のいずれかしか居ない。


 他には放送を使わずここからラブコメ次郎を呼び出す方法だが、これも厳しいものがある。

 放送での呼び出しなら、なにか大事な用事だと思い、呼び出しに応じる可能性が高いが、そうでない呼び出しでは無視される危険がある。

 しかも、今教室の中は良い雰囲気。女子がラブコメ次郎を引き留める可能性すらある。さらには人の到来を感知したことにより、ロッカーの中に隠れるというバッドエンドまっしぐらのパターンも否定しきれない。


 俺たちはもっと確実な手段を用いなければならない。

 クソ、どうしてラブコメ野郎たちはロッカーに隠れたがる!


 俺は冷静かつ必死に考えた。

 風紀委員のカツカツという足音が、さながら時限爆弾の時計の針が終わりに近づくのを教える様に、じわりじわりと近づいてくる。


「ええい、どうすれば良いのだ!?」


 隣の中野もうねりながら必死に考えているようだが、この様子では間に合いそうにない。つまり、俺がこの場を解決しなくちゃならないってことだ。


 ――面白くなってきやがった!


 いつの間にか俺は燃えてきていた。

 この誰も解決出来ない窮地を如何にして突破するか。

 きっとこれを解決出来るのは俺だけだ。そう思うと、俄然やる気が沸き、やってやろうじゃないかという気持ちになる。

 これくらい難しい仕事じゃなければ、寧ろ張り合いが無いってもんだ。


 俺は状況を整理した。俺たちの最大の敗北は、あの二人が狭いロッカーの中に入って密着してしまうことだ。

 良い雰囲気に流されて告白やキスというのは、風紀委員の登場により無くなったので、ロッカーの事だけ考えればいい。


 俺の考えることは、呼びかけも侵入もせずにロッカーに二人を入れない手段だ。

 俺は最高の強化人間と言われた所以の脳細胞をフル回転させる。

 俺は熱さもあって、鼻血を少したらりと垂らした。脳に負荷をかけたため、少しクラリとする。


「おい、大丈夫か永井?」


 中野が俺の顔を心配げに覗き込む。

 俺は鼻血を拭って前を向いた。


「思い付いたぜ、最高の作戦がなっ!」


 俺はニヤリと笑った。



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