令和、武蔵野淑女。
本上 梓
令和、武蔵野淑女。
「淑女」は葉擦れのさらさらした音と、水の瀬せらぎを聴くのが好きだった。
自然の音、それは「淑女」を生き返らせる。
三ヶ月ぶりに、「淑女」は「教授」と小金井の野川を歩く。緑は目に鮮やかで、彼女に現実の感触を思い起こさせた。
無味乾燥なweb授業とはまったく感触が異なる。
しかし、二人は「ソーシャルディスタンス」を保ち、教授は自らが欲しているのに、手を繋げないままでいた。
気持ちもどこか、堰き止められている。
「淑女」にはちゃんとした名前があるのだが、恋人である大学教授は彼女に心酔し、「淑女」と呼ぶのだった。やがて教授は「淑女」を略して「S」と呼んだ。ここからは、Sと呼ぶことにしよう。
Sさん、直に会えなくなって3ヶ月あまりが過ぎましたね。お変わりありませんか?
ええ…変わりはありません。
どうしたのですか?課題がわからない?
いえ、そんなことは…
気分転換したいですね。自粛が解除されました。もし良ければ、来週の土曜日に野川を歩きませんか?
いいのですか?ご家族は…?
…妻と子は、来週一週間は静岡の実家に帰省すると言っています。気兼ねなく散歩しましょう。
気兼ねは、いつでもしています…
…Sさん、僕がほんとうに愛しているのは、貴方だ。今だって、君を抱きしめたくてうずうずしています。
私だって…教授にお会いしたいわ。でも…
来週土曜日、あなたの下宿に迎えに行きます。浮かない顔をしないで。早く貴方に会いたい。
…わかりました。お待ちしていますわ。
楽しみだな。おやすみなさい。
ええ、おやすみなさい。
Sは、大きな溜息をついた。
web授業の終わり、教授と個人で通話したが、気分は晴れない。
Sと大学教授は道ならぬ恋をしていた。
大学が休校して、通学はままならず、web授業に切り替わってはや3ヶ月が過ぎた。その間、二人はオンライン上で密会していた。
しかし、Sは二人の関係を疑問に思い始めていた。
きっかけは、web授業だ。未曾有のウィルスが世に蔓延する前は、Sは熱っぽい視線で教授の授業を受けていた。いつも講義室の、最前列の真ん中を陣取り、教卓を隔てた長身で細身の教授を見つめていた。ロマンスグレーで、インテリジェンスで、どこか憂いを帯びた美しい教授。
二人の距離は程よく遠く、Sが教授を神格化するのも、教授がSを愛おしく思うのも、自然の成り行きだった。
ただし、web授業によってSの目は覚めた。
胸から上がクローズアップされるweb授業では、Sの教授への気持ちは冷めた。どこかうす暗い画面の中、大写しにされたその顔は、Sが講義室で見ていた教授とは違う、萎びた高齢の男性をありのままに写していた。
私は、教授のどこに惚れていたのかしら?あれは、講義室の中での恋だったのかしら…?
Sは、自分の気持ちがわからなくなっていた。
憂鬱なSを他所に、大学の研究室でのweb授業と通話を終え、帰宅した教授は、元教え子の妻の手作りパスタを食べ、愛する我が子と魔法少女のアニメの録画を見ていた。
晩婚での若く可愛い妻と、孫のような年齢のむにむにした娘。Sのことなど、すっかり忘れていた。
教え子に手を出す教授は常習犯であった。
来たる土曜日。
教授は時間きっかりにSの部屋にやってきた。
普段は上等なシャツとスーツに身を包んでいた彼の、古びたスウェットとマスク姿は、Sを大いにがっかりさせた。
教授の燻銀の魅力は、妻の甲斐甲斐しく丁寧なアイロンにかけられた、魔法だったのである。
いま目の前にいる、よれよれの為体はなんだ。ロマンスグレーというよりも、枯れたおじいさんだ。
教授は部屋に入るなり、すぐさま、Sにキスをしようとしたが、Sはそれを拒んだ。
マスクの意味がないですよ、というと、教授は内心しぶしぶながら、納得した。
では、行きましょうか。昨日とはうってかわって、今日は気持ちの良いお天気ですよ。
小金井の野川を歩きながら、彼らはぽつぽつと話をする。川の両脇には、日に照る紫陽花が鮮やかに、水彩画のような面持ちで前日の雨露をはじく。
Sさん、三ヶ月で何か、僕への気持ちが変わってしまった?
教授のことは、今も好きよ。
でも…いつかのweb通話のとき、後ろからお子さんの声と、奥様の声がしたわ。
お家に大切なご家族がいるのでしょう?
私、もう、たくさんです…
新小金井街道の坂道を登る。やがて、厳かな朱色の門が見えてきた。「滄浪泉園」と、犬養毅の文字が門標に刻まれている。
二人は、神妙な面持ちで門をくぐる。
Sさん、そんな寂しいことは言わないでください。私は、家族といてもとても寂しかったんだ。君に会いたかった。家族が近くにいればいるほど、貴方の孤独を案じていたんだ。
両脇に深い緑を仰ぎ見ながら道を下り、二人は、泉に着いた。
鬱蒼と生い茂った杉の木が泉に影を落とし、水面は前日の台風の激しい雨によって、深緑に淀み濁っていた。
初めて教授と泉を見にきたとき、優雅に泳ぐ黒い鯉たちに、自分の恋心を重ねていたっけ-
Sは、その当時の、自分の心のときめき、清らかな泉の鮮やかな緑を冷静に思い返していた。
孤独を案じる?ずいぶん上からなんですね。
私、もうたくさんよ。
昨日の激しい台風がもし、今日の夜来ていたら、もし電車が止まっていたら、二人の関係は変わっていたかしら?
泉の水が前日の台風で濁っていたことは、二人の恋路を邪魔した。
ちなみに、Sは日本文学を専攻する学部二年生である。真面目で勤勉に文学に取り組む姿を、教授に見染められ「淑女」と呼ばれるようになったのだ。
ある時、教授はSのことを、汚れなき湧水-清水のようだ、と評したが、Sのこころはすっかり大人の女へと成熟していた。
今月教授から出された課題は、『武蔵野夫人』の姦通に関しての、レポートであった。
課題の提出は、全てオンライン上で、文章をwordファイルに保存して添付し、提出する。
Sは次のように、word文書にタイピングした。
コロナウィルスは、令和における武蔵野台地の姦通をしらけさせる、格好の装置となったのではないか。
この恋は終わりだ。「恋ヶ窪」はもはやただの文字になりはて、現代は結局、一夫一妻制なのだ。
そして私は地方出身の、気軽な下宿人。『武蔵野夫人』なんかにはなりはしない。
Sはようやく、不倫を辞めることができた。
令和、武蔵野淑女。 本上 梓 @catalpa_on_the_book
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