第114話 勝ち馬に乗れば、怠惰な生活

「アンコウ様っ」

 ドルングは、馬をアンコウの真横につけて話しかける。


 アンコウが探していたマラウトとその仲間たちの一団は、もうすぐ近くに見えていた。


「どうした、ドルング」

 アンコウは、まったく馬の速度を落とすことなく言葉を返した。


「あ、あまりにもあからさますぎるのでは。私たちが援軍を連れて来たのではないのは明らかですし」


 ドルングはあまりに見え透いたアンコウの変わり身が、マラウトたちの不興を買うのではと心配していた。


「チッ。いいんだよ、そんなことはわかってる。でもな、俺たちは今のこの状況を切り抜けてコールマルに戻ることができれば、それでいいんだ。

 あからさまでも上っ面でもかまわない。マラウトたち相手に分厚ぶあつい面の皮はりつけて、俺たちは味方だってデッカイ声張り上げていればそれでいい。

 この場をしのげれば、それでいいんだ。連中の味方で、ここを切り抜けることができれば、俺たちは問題なくコールマルに戻れるはずだ。それ以外のことは、どうでもいいんだからよっ」


 アンコウはそう言うと、ハアッ!と、声を出しながら、さらに馬に気合を入れた。

 アンコウの乗る馬が土を跳ね上げ、速度を上げる。


「アンコウ様っ!」


 ドルングも慌てて馬の速度を上げアンコウの後についていった。

 二人はそのまま真っすぐに、マラウトたちがいる所へと突っ込んでいく。


そして――

 マラウト殿っ 助けに来たぞおおーっ ――アンコウの大音声が森に響いた。



―――――


 アンコウたちは問題なく、マラウトたちの集団に受け入れられた。

 そして、その後、戦況は大きく変化した。 


 アンコウとドルングは、『助けに来た、援軍を呼んできた』と大声で叫びつつ、周囲にいるグーシの敵兵を斬り倒しながら満面の味方面みかたづらを貼り付けて戦い続けた。


 そのアンコウたちを見て、多少眉をひそめる者たちがいても、アンコウとドルングの持つ戦闘能力を思えば、未だ窮地にいたマラウトが総大将の判断として、アンコウたちを拒否するという選択肢はなかった。


 そして、アンコウたちの再合流後半刻はんときもしないうちに、アンコウが丘の向こう側に見たマラウト救援の騎馬部隊と、それに続く歩兵部隊が森の木々を斬り裂くかのような勢いで次々に現れた。


 グーシの反乱軍は、またもや千載一遇せんざいいちぐうの機会にマラウトの首を獲り損ねた。

 これが、この戦いの大きな転換点となった。





「な、何をしているのだ!どうなっているっ。マ、マラウトの首はどうしたっ!」


「グ、グーシ様っ。敵の突撃部隊に加え、戻ってきた騎馬部隊が我が軍の横腹に突っ込んできたようです!」


 マラウトを救出に来た援軍の数は歩・騎兵合わせて、およそ七百。グーシ側の約3分の1に過ぎなかったが、その質と戦意はグーシ反乱兵をはるかに勝っていた。


 グーシは馬上にあり、周囲を護衛の兵士たちに囲まれている。そして、その全員の表情が険しい。

 敵兵は未だグーシたちがいる場所までは到達していないものの、もうかなり近いところから戦いの騒々しい音が聞こえてきている。


「マ、マラウトはどうしたのかと聞いているのだっ!」


 グーシの荒げた声も、彼の中の焦りと苛立ちそのものをさらけ出している。


「……首級はあげられなかったようです。おそらくはすでに現れた援軍とともに行動しているかと」


「こ、この役立たずらめがああーっ!」


 いくら大声で怒鳴ったところで、戦場の状況が変わることはない。

 グーシには何度も何度も、兄マラウトを打ち取る機会があったのだ。戦女神がグーシを袖にしたわけではない。

 己の指揮官としての無能さが、手の平の中にすくい取った大いう結果を生んだ。


 しかし、グーシ陣営の中にも冷静に今の状況を判断できる者はいる。

 グーシの近くにいる武将格の男がひとり、騎馬のまま進み寄ってきた。


「グーシ様」

「何だっ、レイガルかっ」


 苛立ちを隠せないグーシと違い、進み寄ってきたレイガルと呼ばれた武将は比較的まだ落ち着いている。


「敵に勢い有りといえども、まだまだ数の上では我がほうが勝っております。代官が援兵の懐の中に入ったとしても未だこの近くにはおりましょう。

 今こそ全軍をあげ、一丸となり突撃を仕掛けましょう。まだ、代官の首を獲る機会はあります」


 それを聞いたグーシの側近の一人が口を挟む。


「しかしレイガル殿っ、もはやマラウトめの所在は把握できていませんぞっ。この混戦でいたずらに兵を進めれば、敵の罠にはまり、グーシ様の身に敵の刃が及ぶようなことにもなりかねんっ」


 レイガルは、その側近の言葉に実にわずらわしそうな顔をしたが、グーシの子飼いの部下であった その側近を無視することはできなかった。


「……戦場に完全な安全地帯などありますまい。ましてや、このような事態になれば、どれほどの危険を背負っても、ここで代官の首をあげておかなければ取り返しのつかないことになりますぞ」


「何と無責任なっ、殿を危険に晒せとはっ。

 グーシ様っ、一旦この場を退くべきです。本拠地に戻られれば、まだ新たな兵を集めることができましょうし、周囲から我らの味方に馳せ参じる者も多くいるはずっ。マラウトのような劣等者の代官に誰が味方しましょうかっ」


 二人の言い分を聞いて、グーシは「むむむむぅ」と唸っている。決断ができないのだ。


 よくこのようなざまで謀反など起こせたものなのだが、グーシにおもねることしか能のない側近たちがこの舞台を用意し、それを自分の発案のように乗っかり、まるで物語の主人公のような心持ちで戦場にやって来たグーシだ。

 膨れ上がった虚栄心と自負心だけで行動し、現実的な計算は何もできていなかったようだ。


 グーシが決断できずに悩み続けている間にも、戦況は動き続ける。


ドオオォンッ! どこからともなく飛んできた精霊封石弾が地に落ち爆ぜた。

 グーシたちがいるすぐ近くだ。


 地面が爆ぜたすぐ近くにいた兵士とその馬が派手に吹き飛ぶ。飛び散った土や血が、グーシの頭上にも降り注いだ。

 喚声、爆音、馬蹄の響き、剣戟の響き、マラウト側の突撃部隊がすぐ近くまで迫って来ていた。


「ひっ!」

 顔を真っ青にしたグーシが、馬の手綱を引き絞り、くるりと馬首を返した。


 そのままグーシは何の命令も下すことなく、馬の腹を強く蹴り、全力で走り出した。グーシはこの戦場からの撤退を選択したようだ。


「グーシ様っ!お逃げなさるのかっ!」

 レイガルがグーシの背中に向かって、非難めいた声をあげる。


「レイガル殿っ!言葉をひかえられよっ!これは戦略的撤退だっ!」


 グーシの側近たちはレイガルを叱責すると、次々にグーシの後を追って馬を駆りだした。

 あっという間にレイガルの周りから、グーシとその側近たちの姿が見えなくなった。



「……何と情けない。あのような男だったとは……」


 レイガルはグーシたちが逃げ去った場所で、グーシ側についたことを心から悔いていた。


「くくっ、無念だ」


 そして、レイガルのような戦う意志のあったグーシ側の戦士たちも、次々に戦場から逃げ出していった。



――



 一方アンコウは、


(ハデに煙が上がっている。あの方向は確か、敵の本陣があるっていっていたほうだな。……距離的にも間違いなさそうだ)


 アンコウは馬を走らせながら、森の木々の上に立ち上る煙を視認していた。走る馬は、その煙が上がっている方向に尻を向け、真逆の方向に駆けている。


 そのアンコウのすぐ前方には、マラウトを乗せた馬が走っている。

 マラウトはひとり馬に乗っているのではなく、マラウトの後ろにもう一人ガタイの良い鎧兜の男が馬にまたがり手綱を握っていた。


 そのマラウトとアンコウたちの周囲には、百近い護衛の兵たちが取り囲むように並走していた。


「アンコウ様、どうかなさいましたか」

 アンコウに話しかけてきたのはダークエルフの男だ。


 彼はマラウトのすぐ近くで、ずっとここまで付き従ってきた男であり、先刻、アンコウの正体を見抜いた男だ。


 今マラウトを護衛している百余りの武人たちには、アンコウの正体が隣領コールマルの領主で、自分たちの味方であることが、マラウトより直接伝えられていた。

 ゆえに今はアンコウもマラウト同様に、彼らにとって護衛の対象となっており、アンコウもその状況を受け入れていた。


 彼らにしてみれば、なぜ今この場所に隣領の領主がいるのか皆目見当はつかなかったが、主であるマラウトの味方であり、そのマラウトよりアンコウを守るよう命令されれば、それに従うのみである。


「もう、あの突撃部隊が敵の本陣に到達したのかと思ってな」


 グーシの本陣に突撃した部隊の中には、マラウトを救出に来た兵士の大部分が合流していた。


 アンコウは、自分たちに直接攻撃を仕掛けてきたグーシ兵の弱兵ぶりを見て、抗魔の力を持つ強兵たちは、後方のグーシの本陣近くに配置されているのではないかと推測していた。

 だから、さすがにあの煙が上がっている地点に到達するのは少々骨だろうと思っていたのだ。


「……あの反乱軍はそんなに力を持っている者が少ないのか。本陣の主力まで普通人兵なのか」

「いえ、賊将グーシをはじめ、本陣には抗魔の力を持つ者が少なからずいるかと」

「にしてはもろ過ぎやしないか」


「いえ、おそらくグーシ本人が逃げだしたのでしょう。あの男は自尊心の塊ながら、その反面実に胆力がない。

 そして、本陣を固めている強者つわものたちは皆、グーシを守ることを任務としている兵たちです。グーシが動けば彼らも動く。それだけのことかと思います」


「………そうなのか」


 まさにポンコツ兵団。アンコウの反乱軍に対する評価は完全に固まった。

 もうどっちにつくのかとか、どうやってひとり逃げ出すのかということは考える必要はなく、このままマラウトについていけばよいと最終判断をした。

 

(マラウトの奴もだいぶ疲弊してはいるが、命の心配をするような怪我じゃない。俺の扱いも悪くないし、油断は禁物だけど、変に利用される心配もないだろう。

 後は少しでも多く恩を売っておくべき)


 アンコウは馬の手綱を引き絞り、その速度を落とす。


「せいっ、」

 ズルズル後退していくアンコウに、話をしていたダークエルフの男が声をかける。


「アンコウ様っ。どうされましたか!」

殿しんがりを務めさせていただこう!」

「なっ!アンコウ様にそのようなことをさせるわけにはいきませんっ!」

「皆疲弊しているようだ。兵の数も多くはない。隣人としてマラウト殿のため、その程度の働きはしないとなっ!ドルング行くぞっ!」


 アンコウの呼びかけに、ドルングが はっっ! と間髪入れずに答え、二人は後方に下がっていく。

 それを見ていたマラウトの兵たちのあいだに、ささやかながら熱い感動の思いが湧きあがってくる。


「アンコウ様……」


 困ったときの友こそ真の友。つまり困っている人間の心には、つけ入る隙が多くあるということだ。


「……へへっ、悪くない反応だな」

 アンコウは後退しながら、注意深く周りの反応を確認していた。


「アンコウ様っ、このドルング。命に代えてもアンコウ様をお守りしますっ!」


 若干アンコウの評価が下がりつつあったドルングの中でも、アンコウのこの行動により、再び評価があがってきているようだ。

 しかし、アンコウはそんな気合の入ったドルングを見て、

冷静に考えろよ。そんなに危なくなることはないだろ と声に出さずに思う。


 敵は間違いなくポンコツ兵団だ。それに、本当に敵の本陣が撤退を始めたのだとしたら、間違いなく間もなく敵の全軍が混乱し始め、統制を失う。


(今でも、さっきまでと比べれば、これだけまとわりついてくる敵兵は減っている。

 それに加えて、自分たちの大将が逃げだしたとしたら、独自にマラウトの首を狙ってくる気概のあるやつがこのポンコツ反乱軍の中にいるかどうか、その可能性は低いだろうな)


 それに殿しんがりと言っても、アンコウはマラウトの周りを取り囲むように展開しているおよそ百の兵士の最後尾につけるだけのつもりだ。それを殿しんがりと呼んでいいものかどうか相当怪しい。

 しかし、そんなことはアンコウにとってどうでもいいこと。


(まぁ、この後のことを考えてのイメージアップ作戦の一環だからな)



 アンコウはそのまま最後尾に馬を移動させ、森の中を走り続ける。

 今宵の月の明かりは力強い。むろんそんな光がなくとも、森自体が光って見えるアンコウに夜の闇が障りとなることはない。



 そして、その後もアンコウの予想通り、敵が集団で攻撃を仕掛けてくることはなかった。

 ただアンコウは、時折混乱している敵の小勢を見つけるたびに、


「マラウト殿には指一本触れさせないっ!」


 と、叫びながら、敵兵を派手に己が魔戦斧の錆にしていった。





 ロワナ領カナン。カナンは領主の居館があるロワナの中心城市である。

 中心城市とはいっても、その規模はコールマルのハリュートと同じぐらい、田舎の大きな町だ。


 また、領主の居館とはいえ、このロワナの正式な領主であるグローソン公ハウルの有力家臣ハナモンは、この所領には一度も来たことがなく、当然、このカナンの居館の実質的な主は、領主代官であるマラウト=ゼバラその人であった。



「今日は小春日和だなぁ」

 アンコウが少し眩しそうに空を見上げながら言った。


 アンコウは今、カナンの領主館の別館、その一室に滞在している。

 あてがわれた豪華な部屋のルーフバルコニーに椅子を置き、気分良さそうに新鮮な果物を頬張っている。


 ロワナもコールマル同様、山に囲まれた土地で明け方などはかなり冷える日もあるのだが、雲一つない空に太陽が昇れば、実にポカポカした陽気になる季節だ。


パチッ

 丸テーブルをはさんで座っているドルングが、盤上の駒を一つ進め、アンコウの桂馬を取る。


「っと、そうきたか」


 アンコウは手に持っていたブドウのふさを皿の上に戻し、盤面をにらんで、ムムムと頭をひねる。


「……あの、アンコウ様」

「んん~、なんだドルング」


 アンコウはドルングの呼びかけに答えるが、盤面から目は離さない。


「あ、あの、本当にしばらくここに滞在するつもりなのですか」

「ん?ああ、まぁな。問題ないだろ、ひと月やふた月俺がいなくたって」


 アンコウがこの館に滞在して、今日でちょうど10日目。

 他人の喧嘩にこれ以上巻き込まれるのはまっぴらごめんと、初めは早々にロワナから退散するつもりのアンコウだったが、マラウト軍の警護をうけているうちに、このカナンまで同行してしまった。


 着いてみれば、このカナンには全く戦乱の気配などなく、代官マラウトの危機に現れ、その救出に尽力した隣領の領主ということで、熱烈な歓待を受けたアンコウだ。


 むろん、隣領の領主が供の者を一人だけ連れて、なぜこのロワナに突然現れたことについては、かなりいぶかしがられた。


 アンコウはそれに対し、

『個人的に親しい部下が一人、このロワナ領内にある村に婿入りすることになった。その者の見送りに身分を隠して、ロワナに来たのだ』と、言った。


 これも十分にいぶかしい話なのだが、アンコウはその部下との関係については、わけあって詳しいことは話せない。

 だが、このロワナに対して害意は全くないと説明した。


 それなりに真実もちりばめてアンコウは話を作っているが、ロワナ側にすれば、どう言われてもいぶかしい話であることに違いはない。


 しかし、アンコウがマラウトを救出するために共にグーシ兵と戦ったという事実と、それ以上の詮索は大切な客人に対して失礼であると代官マラウト自身が制したため、それ以降アンコウに対して、そのことを詮索してくる者はいなくなった。



「しかしアンコウ様。今このロワナは、いわば内乱状態。もしこの町が襲われでもしたら」

「それはないな、ドルング。お前もそれなりに情報を集めているんだろ?マラウトがグーシに負けると思うか?」

「はっ、確かにそれは……」


 アンコウはこのカナンに来て十日。グーシはマラウトの首を獲る最後の機会をあのツゥンツァイの森で失ったのだと確信するに至っている。

 カナンの町の守りは固く、マラウト軍の兵の結束も強い。


「グーシの討伐に四千の軍勢を動かしているそうだ。その討伐軍の総大将はマラウト殿の長男殿で、ここの精鋭ぞろいだそうだぜ。

 で、一方お家に逃げ帰ったグーシに味方する者は少なく、どんどん離反者が出ているらしい。おそらくあの森にいた人数よりも、兵の数は減っているんじゃないか。あのポンコツ兵団がさらに弱くなってるってことだ。

 あの森での戦いが、グーシがマラウトに勝つ最後のチャンスだったんだ。連中はそんなことにも気づいていなかったんだろうな。お気楽な脳ミソだ。

 この状況になって、まだこの町を襲ってくる者がいるとは思えない。まぁ、仮にいたとしても、この町の守備兵の餌食になるのがおちだろうさ。

 万が一マラウトの兵が負けたときは、その時逃げ出せばいい。

 そう心配するなよドルング。クークにはマラウト殿が使者を出してくれた。そいつにしばらくここにいるからって書いた手紙を渡しておいたからさ」


「は、はぁ、」

「まぁ、うまいもん食って、うまい酒飲んで。しばらくゆっくりしようやドルングよ」


パチリ

「へへっ、王手だドルング」





「や、やめろっ!き、貴様何をしているのかわかっておるのかっ!」


 体中のあちこちから血を滲ませたグーシが、床に尻もちをつきながら後ずさっている。ここはグーシの本拠地、その館である。


「いい加減お覚悟を決めなされよ。見苦しい」


 グーシを見下ろす形で、やいばに血が伝い落ちる剣を手に、男が冷たく言い放った。

 その男の名はレイガル。ツゥンツァイの森の戦いにも参加していたグーシの配下の武人の一人だ。


 先ほどまで、この館のあちこちで悲鳴、怒号が飛び交っていたが、今はもう収束に向かいつつある。


 ロワナ領主代官のマラウトに謀反を起こしたマラウトの弟グーシ。

 そして今、そのグーシの配下の武人であるレイガルらが、グーシに対して反乱を起こしていた。


 グーシに剣先を突き付けているレイガルの後ろには、昨日までグーシに対しこうべを垂れ、忠誠を誓っていたいくつもの面々が連なっている。


「こ、この裏切り者めらがああーっ!」

 グーシが叫び声をあげる。


 もはやグーシは完全に追い詰められていた。

 すでに館と町を取り囲む防壁の向こう側には、マラウトの息子レイリーが率いる討伐軍が、ありが這い出る隙間もない堅固な陣を構えている。

 その状況下での身内の反乱だ。


「こ、このわしを裏切って、あの劣等につくというのかっ」


 何を言われようとも、グーシを見つめる冷たいレイガルの目に変化は起こらない。


『貴公はグーシの虚言に騙されただけ、反逆者グーシの首を持参すれば、此度のことについて一切罪は問わない』

 町を取り囲むレイリーの使者が密かにレイガルらに遣わした手紙には、そのような内容がしるされていた。


 ツゥンツァイの森から撤退して以降、あっという間にマラウト勢に追い詰められて、もはや自らの無残な死しか想像できなくなっていたレイガルらにとって、それは唯一示された救いの道。


 グーシが何を言おうと、最早、レイガルらの心が変化することはない。


「裏切り者とは心外っ!元々我らが仕えているのはマラウト様だっ!グーシっ!貴様に騙されて我々はここにいるだけだっ!貴様のその首を持って、我らが潔白のあかしとせんっ!」


 レイガルは剣を大きく振りあげて、すでに血まみれになっているグーシに向かって躊躇ためらいなく振り下ろした。


「やめっ、ぎいゃああああーーっ!」


 正面からグーシの背骨を斬り裂くような強烈な一撃。

 グーシはバタリと床に倒れ伏し、一面の血の海に沈む。

 時に裏切り、時に裏切られ、生き残った者こそが正義を名乗れる。それは戦乱の世の常であろう。


 れるときにりそこなったグーシの上に、死が落ちてくるは必然というものだ。



 レイガルらは、その口を開くことのなくなったむくろから首を切り落とし、それを土産にレイリーの陣に駆けこんでゆく。


 そして……彼らは明日という日を生きるのだ。





 チチチチチッ チュンチュンチュン

ギヨォーギョォー


 様々な鳥たちのさえずりが聞こえ、心地よい清浄な風が頬をなでる ある晴れた日の庭。


 マラウトの居館にある実によく手入れされた庭だ。その庭の芝生の真ん中、白い木製の椅子の座ったアンコウの姿があった。

 グーシの乱が鎮圧されて、すでに一カ月が過ぎ、ロワナ領内は完全に平穏を取り戻していた。


 アンコウの頬には少し肉がつき、非常に血色がよい。マラウトの客分として、何申し分ない待遇を受けていた。


そして今は、

パチッ

 働きもせず、また将棋を打っている。

「王手です。アンコウ殿」

「な、なにっ」


 本日のアンコウの将棋のお相手は、代官マラウトの継嗣けいしレイリーだ。

 レイリーはまだ15歳の少年ではあるが、父マラウトとは違い抗魔の力を生まれ持ち、その体躯もすでに大人と変わらずラガーマンのようにたくましい。


 また性格は比較的温厚ながら線の細さはなく、先日、実の叔父である逆徒グーシを打ち取るという大功をあげたばかりだ。


「むむむむぅ」

 盤上をにらみ、唸り声をあげるアンコウ。


「……レイリー殿、将棋はこのあいだ教えたばかりだよな」

「この遊戯はそうですが、似たような盤上遊びは子供のころから好きでして」

「くそっ、これをこっちに動かしていれば、」

「待ったをされますか?」

「…………いいのかい」


 気持ち悪い上目遣いで見るアンコウに、15歳のレイリーはさわやかな笑顔を返した。

 アンコウは、いや~さすが、マラウト様のご嫡男レイリー殿だ。器が違うなどど臆面もなく言いながら、盤上の駒を手早く三手も戻した。


「ああ、賭け金は変わらないぞ。レイリー殿」

「かまいませんよ、アンコウ殿」


 暖かい日差しの中、二人は仲よく将棋を打っている。

 そんな二人を少し離れたところから見ている者たちがいた。見張っているわけではない、たまたまアンコウたちがいる庭に面した廊下を通りがかったのだ。


 それは、ロワナ領代官職マラウトとその側近事務官だった。

 マラウトの体調は完全に回復しており、すでに日常の務めに戻っている。

 代官職としての業務こなしている途中、たまたまここを通り、アンコウたちの姿を見つけた。


「マラウト様」

「何だ」

「……アンコウ様が当館に滞在されて、もうひと月になります。いえ、アンコウ様が滞在されることに否やはないのですが、アンコウ様は隣領コールマルの御領主、あちらとの間で問題はないのでしょうか」


 そう言われてマラウトは難しそうな顔になる。

 コールマルにはとうに使者を出しているし、あちらからも確認の使者が来た。

 アンコウ自身がコールマルから来た使者に、自分の意思でしばらく滞在するとの話もしている。


 しかし、突発的な滞在で、すでに問題も解決している今、一カ月を超えて帰らないとなると、確かにいささか長い。


「コールマルの者たちに痛くもない腹を探られる様なことになるのでは」


 という側近の心配ももっともで、マラウトもこれ以上アンコウの滞在が長引くことは、あまり良いことではないと考えていた。


 しかしマラウトは、性格的に自分の窮地に力になってくれたアンコウを邪険にするようなことはできず、アンコウに対して、できる限りの厚遇を続けていた。

 そんな状況に甘えて、どっぷりと浸かっているアンコウである。



――「おーい。このめちゃくちゃおいしい何かのジュースお代わりっ」

 と、アンコウが言えば、

「はーい。ただいま」

 と、見目麗みめうるわしいメイドたちが、謎のおいしい飲み物をすぐに持ってくる。


 同じ田舎町と言っても、クークに比べれば、このカナンのほうが他地域との交流が容易で、物資も豊かで娯楽も多い。


「あーっ、こっちのほうが居心地がいいな」

 というのが、アンコウの偽らざる本音であった。


 しかし、アンコウも常識というものはわきまえている。

 もうそろそろここからおいとましなければ、いろいろと不都合が起きてくることは当然予測できている。

 実際、自分のことを冷たい目で見る者が、日に日に増えていることは察知していた。


(……まぁ、当然だわな。気を使わなければならない穀つぶしなんて、いつまでも世話やいてられないよな)


しかし、レイリーから

「ああ、アンコウ殿。そういえば、イェルベンから上質な蒸留酒が近いうちに届くのですが、今度ご一緒にどうですか」


 などと言われると、


「!ほ、ほんとに?………そりゃあ、せっかくだから御馳走になろうかなぁ……」


 (も、もう少しだけならいても大丈夫だろう)ということになってしまうアンコウである。


 しかし、いつまでもこのような居候生活を続けられるわけもなく、この日から十日ほど後に、コールマルのほうから、アンコウを連れ帰るための使者が到着することになる。





 アンコウがカナンに滞在して、ひと月半。

 アンコウを迎えに来たというコールマルからの使者は、代官マラウトに挨拶をすませて礼物を渡した後、早々にアンコウが居座っている部屋へとやって来た。



「……全然似合ってないな、その格好」


 アンコウがソファに座ったまま、自分の目の前の立っている男に話しかけている。


「うるせぇ、大きなお世話だ。あんたこそ、突然いなくなったと思ったら、いつまでもこんなところで何していやがる」


 男の言葉遣いは乱暴だが、怒っているというより呆れているようだ。


 代官マラウトに挨拶をしてきたということもあり、その男は達磨のように筋骨の発達した体に、宮廷吏官きゅうていりかんのような整った衣服をまとっていた。

 しかし、その顔には無精髭が生やし放題になっている。


「……中途半端だな。顔と服装が全く合っていない。せめて無精髭ぐらい剃って来いよ、ダッジ。コールマルの品性が疑われる」


「……大将、てめぇにだけは言われたくねぇな。あんたがここで食っちゃ寝の生活をしていることは知っているぞ。それが隣領の領主のすることか」


「別に俺が頼んだわけじゃないさ。向こうが勝手にしてくれているだけ。人の好意を無碍むげにはできないだろう?ダッジ」


「だから他人の好意に甘えまくっている野郎に、品性云々言われたくねぇって言ってんだよ」


 今のダッジにとって、アンコウは主君だ。しかしその言葉遣いは極めて粗雑ぞんざい

 この部屋に今もう一人いるドルングは、二人の以前の関係性をいまいち知らないため、ハラハラと二人の会話を聞いていた。


「ハハハッ、そりゃそうだな」


 しかしむろん、アンコウは、ダッジが多少ぞんざいな言葉遣いを自分にしたところでいかるようなことはない。

 アンコウ自身、自分がひと月半もここに留まっていることが、多少他人から文句を言われ、なじられても仕方がないことだという自覚もある。


「しかしよ、そろそろまた誰か来るかとは思っていたけど、なんでお前なんだ?」


 山賊面で無駄に威圧感があるダッジは平時の使者に向いているとは言い難い。


「チッ、モスカルが言うには、大将、あんたにはっきりものをいうには俺が適任だそうだ。俺だって暇じゃねぇんだぞ」


「ハハハッ、そりゃあ悪かったな。しかし、モスカルたちがいれば、領内の運営に支障はないだろ」


「チッ、そうはいくかよ。南部のナグバル派執政府、北山の山賊ども。北部の豪族にしてもだ、あんたに心から忠誠を誓っている奇特な奴なんざ、ほとんどいねぇんだぞ。

 あのちっぽけな領内に、あんたは味方よりも敵のほうが多い。たとえ寝ているだけの領主でも、あんたがクークにいない、領外にいて戻ってこないっだけで怪しい動きを見せる連中ばかりだ」


「………あー、そうだったな」

 と、抑揚なく言って、天井を見上げるアンコウ。


(そんなことはわかってる。だからここのほうが居心地がいいんだろ)

 と、思うアンコウであった。


「で、どうすんだ。大将」

「わーってるよ、帰るさ。これ以上長居していたら、こっちの人間に追い出されることになるだろうからな」

「ふん、わかってるじゃねぇか。いつまでも無駄飯食いを置いてくれる場所なんざ、どこにもねぇからな。で、いつ出立する」

「…………来年」

「おいっっ!」





 カナンを去る日が明日に迫り、アンコウはマラウトの私室へと、これまでの歓待に対する礼を言いに訪れた。


 マラウトは名残惜しいと、アンコウが去ることを残念がる言葉を口にしたが、内心はホッとしている部分があることは明らかだった。

 これ以上アンコウの滞在が長引けば、内からの疑問の声以上に、


(周りから見れば、わしが隣領の領主を人質に取っていると思われかねない)


 という恐れがあり、コールマルはもちろん、その他の周辺地域との関係が悪化する可能性さえあったからだ。


「それとアンコウ殿」

「何ですか」

「先日アンコウ殿から伺ったロワナとコールマルのツゥンツァイの森をつなぐ、魔素無き道のことなのですが」


 アンコウたちは、コールマルからこのロワナに来る際、互いのツゥンツァイの森につながっている無魔素の道を通ってきた。


 道といっても整備されたものではなく、コールマルとロワナを隔てている魔素地帯に、魔素がない場所がまるで道のように伸びていたというものなのだが、その存在をアンコウはマラウトに教えていた。


「アンコウ殿が言われた地点に、確かにそれが存在していることを部下に確認させ申した」

「そうですか。あれがコールマル側のツゥンツァイの森まで、魔素の山林を横断する形でつながっているんですよ」


 アンコウはあの魔素無き道に関して、マラウトに一つの提案をしていた。それは魔素無き道を整備して、本当の道をつくってはどうかという提案だった。

 コールマルとロワナの領境の魔素地帯は、その濃度は薄い。

 出没する魔獣も、スライム、ゴブリン、グレイウルフ、角ウサギなど、かなり弱い種類の弱い個体だ。


『魔素無き道は山林に走っているが、その山林もかなり平坦な部分が多い。周囲の木々を広めに切り開き整備すれば、往来可能な道をつくることはできそうだ。

 むろん実際そこを通ろうとすれば、それなりの護衛はつける必要はある。

 また、それとは別に警備拠点をつくり、警備兵を常駐巡回させておけば安全性が、より確保できると思う。

 コールマルとロワナの領境は北から南まで完全に魔素地帯が走っているが、それができれば他領を迂回することなく、普通人の商人でも互いに行き来することが今より容易になる』

 というような話を、アンコウはマラウトにしていた。


 ただ、それはマラウトにとってそれほど魅力的な話というわけではない。

 なぜなら、コールマルはロワナ以上の田舎であり、何か特別な特産品があるわけでもない。ロワナにとって交易をするメリットが大きいとはお世辞にも言えない。


 しかも、それなりの資金労力を投じてもできるのが道一本では、その後の費用対効果も知れているだろう。


 一方アンコウとしては、道一本通すぐらいだったら、侵略を受けるリスクがさほど高まることはないだろうし、何よりこのカナンでは、田舎町といえどもグローソン公都イェルベンからの物品がそれなりに流通している。

 そのことを知ったことが大きい。


 これからコールマルのクークに帰らなければならないアンコウとしては、このロワナと交易路を確保することは、自分自身の身の回りの生活必需品を充実させることができるという極めて個人的なメリットを感じていた。


「で、どうですか。マラウト殿」


「ふむ。家臣の中には反対する者もいたが、わしは悪くない案だと思っております。こうしてアンコウ殿と親しきえにしを結べたことも、素晴らしきえんでしょう。やってみましょう」


「お、おお。さすがマラウト殿、私もまったく同意見です」


 この世界の土木技術というのは、クークやカナンのような町でも、立派な防壁と要塞を備えていることからも分かる通り、かなり高度なものがある。

 やろうと思えば、アンコウが出した案は十分に現実可能な計画だ。


「ハハハッ、いや~、良いご縁が結べましたよ。マラウト殿っ。ハハハッ」


 ダメもとでした提案が通り、アンコウは上機嫌だ。



 こうして、アンコウは楽しいカナンでのプチバカンス生活を終えた。


 この次の日の早朝、マラウトとその息子レイリー、家臣一同に見送られながら、カナンの町を出立していった。




 短い反乱が終わった後、この時のロワナには平穏な時間が流れていた。

 アンコウにダッジにドルング、それにマラウトが付けてくれた屈強な護衛兵十名ほどが、クークへの帰路の道を移動している。


 穏やかな日差しの中、アンコウたちはゆっくりと馬を進めていた。

 


「どうせ領主になるんだったら、コールマルよりロワナのほうがよかったな」

「チッ、ぜいたく言ってんじゃねぇよ、大将」


 権勢栄達けんせいえいたつ願望が強いダッジが、アンコウをたしなめる。


「んだよ、ダッジ。お前だってどっちを取るって言われたら、ロワナを取るだろうが」

「チィッ、だからそんな話は早々ねぇんだよっ。どっちもなっ」

「ああ?じゃあ、お前もグーシみたいに俺に反乱起こしてコールマル奪ってみるか?そうしたらカルミに命じて、お前の寝首を掻かせてやるぜ」

「誰も反乱起こすなんざ言ってねぇだろうがっ」


 アンコウとダッジは何やら言い合いながら、それなりに楽しそうに馬を進めていた。

 そんな中に、真剣な表情をしたドルングが入ってきた。


「あの、アンコウ様。少しよろしいでしょうか」

「ん?どうしたドルング」

「あの、もしよろしければ、途中でハカチ村に寄っていただくわけにはいかないでしょうか、」

「ん?ハカチ村」


 その村の名を聞いてもピンと来ないアンコウ。


「いえ、できればもういちどベジーの様子を確認したいと思いまして……」

「……あ~、そうだな。ハカチ村ね。そうだな、ベジーか」


 すでにハカチ村の名も、ベジーのことも頭になかったアンコウ。

 しかし、ドルングはベジーが新兵のころから知っている関係があり、どうにも気になっているようだ。


(まぁ、あの村は、帰りの通り道の途中にある村だからな)


「いいぞ、ドルング。ベジーのことが心配だからな、寄っていくか」


 ベジーの存在すら忘れていたくせに、適当なことを口にするアンコウ。


「は、はい。ありがとうございます。アンコウ様っ」


 しかし、ドルングは素直に喜び、深くアンコウに頭を下げた。


「じゃあ、少し、スピードを上げていくとするか。

ハイヤァッ!」


ピシッ! ヒヒィン!



―――― 翌日、アンコウたちはハカチ村に到着する。


(………おい、おい。なんだこりゃ)


 アンコウたちが村の入り口あたりに到着した時、そこには老若男女、おそらく村人全員が、文字どおり地に額を擦りつけんばかりにアンコウたちに平伏して、待ち構えていた。


「……え~、」


 グーシの反乱兵に襲われていたこの村を守ることに、確かに少しは手を貸したアンコウだが、ここまでありがたがられることをした覚えはない。

 そして、そのへいつくばる村人たちの先頭にはベジーの姿があった。


「アンコウ様、ありがとうございますっ!村人一同を代表して心から御礼申し上げますっ!」


 ベジーが額を地につけたまま、叫ぶように言った。


「おい、大将。あんたこの村で何をしたんだ?」

 アンコウの横に並んでいるダッジが不思議そうに聞く。

「………さぁな」

 アンコウもいぶかしげな表情で、馬上から村人たちを見渡している。



「……チッ。おいっ、ベジー!顔をあげろよ。ほかの村人も全員だ。何だこれは、大げさすぎるだろ」


「大げさなんてとんでもないっ。村が再建途中で、何もおもてなしもできず心苦しいばかりですのに。村があの野獣どもに襲われて、本当なら、あのまま村を捨てることになってもおかしくなかったのに。

 代官マラウト様の御厚情により、多大なる援助物資をいただいたうえ、ケガ人病人の治療までっ。このような厚助を受けるなど今まで聞いたことがないと村人全員が言っております。マラウト様のご使者の方は、我らにアンコウ様の御徳に感謝せよと申しておりましたっ」


 顔をあげ、体を震わせながら一気に言うと、ベジーはまた額を地に伏した。


(……そういうことか。マラウト…ほんと人格者だな、あのヤローは。粋な真似をしてくれるよ)


 アンコウはカナンに滞在するにあたって、あのグーシの反乱のさなか、隣領の領主である自分がこのロワナにいた理由を問われた。

 そして、その理由として、結婚することになった大切な部下を見送りに、このロワナまで来ていたという、内容的には、かなりいい加減な話をマラウトたちにしていた。


(ちゃんと調べて、大体のことは把握済みってことか……まぁ、当然ちゃあ、当然か。それで、ハカチ村に特別な支援をしてくれたのか……なるほどねぇ、立派な御代官様だ)


 アンコウは自分の護衛として、マラウトに命じられて、カナンから付き従ってきた者たちを見た。その表情、

(……なるほど、こいつらも知っていたか)


「ふぅっ………ベジー、お前はこのままロワナに残るんだろ?」


「は、はい。私はコールマルには、もう近しい家族はいないので。レマーナたちの側にいてやりたいと」


「そうか。なら、このことで俺に礼を言う必要はない。この恩はすべてマラウト殿にお返ししろ。お前との主従のえにしはここを持って切るが、ドルングがお前に教えたクークの騎士としても誇りは決して忘れるな。

 一朝いっちょうことが起こった時には、その剣をマラウト殿に捧げ。御恩に報いろ」


 アンコウは、今自分が言ったことが護衛兵たちの口からマラウトの耳に入ることを計算して言っている。


「はいっっ。このベジー、アンコウ様、マラウト様より受けた御恩は決して忘れませんっっ!」


 そのアンコウとベジーのやり取りを見ているドルングの目が涙で潤んでいる。

 同様にあくびをかみ殺したダッジの目も涙で潤んでいた。


 そして、アンコウの目がベジーの横で寄り添うように控えている若く愛らしい娘、レマーナを見つめる。

 きちんとした正装に身を包んでいるレマーナは、アンコウの目にはやはり幼く見えるものの、天使のような美しさではあった。


 アンコウはベジーがレマーナを抱いていた場面を思い出す。

(……まっ、べジーもクークで兵隊なんかやってられないな)


「……式は挙げるんだろ?ベジー」

「は、はい。近々とり行う予定です」

「そうか、ほらよっ」


 アンコウはそう言うと、魔具鞄の中から取り出したきれいな刺繍が施された布袋をベジーに向かって放り投げた。

 ガシャッと重みのある袋を受け取ったベジーが、その袋の中を開けて見る。


「こ、これはっ、銀貨がっ」


 袋の中にはいっぱいの銀貨。それはアンコウがカナンで、土地の有力者や裕福な商人から言葉巧みに手に入れた贈物の一部だった。


「祝儀だ。受け取れ」


「こ、こんなっ。あ、ありがとうございますっ、アンコウ様っ!

 我が妻となるレマーナ、クシュカともども心からお礼を申し上げますっ。この御恩一生忘れませんっ!くくくっ」


 感極まった様子で泣き崩れるベジー。ドルングの目からも流れ落ちるものが。

 一方ダッジの目はかなりシラケたものになってきている。


「気にするな、ベジー」


 いい加減面倒にもなってきているアンコウは、たいして面白味もないこの村を早々に離れようと思っていたのだが、

(……ん?あれ?)


 先ほどのベジーの言葉に、少し引っかかるものを感じた。


(!あっ)


「……おい、ベジー。我が妻となるレマーナ、クシュカともどもって言ったか」


「あ、はい。レマーナの父、クシュカの夫である村長が先の賊徒の襲撃で命を落としましたので、このたびレマーナとともにその母であり、寡婦であるクシュカも私の妻となることになりました」


 クシュカとレマーナが、ありがとうございましたと揃ってアンコウに頭を下げる。


 それを見て、(なんだそりゃっ!?)のアンコウである。


 天使レマーナの母だけあって、クシュカも童顔だが、大人の女の美しさも漂わせている。

 また、細身ながら出る所はしっかり出ているクシュカの肉体は、何とも言えないエロスも感じさせた。アンコウとしてはこちらのほうが好みだ。


「ほ、ほう。二人と結婚するのかい……」

「はいっ」

 ごく自然に当たり前のことのように返事をするベジー。


 アンコウは周囲をゆっくりと見渡す。どの顔にも特別の驚きはない。

 どうやら、そんなおかしなことではなく、このあたりの村では珍しくない慣習なのだろう。


 しかしアンコウの心のうちは、

(レマーナだけでも犯罪臭かったのにっ。初婚で、こんな美人の母娘を妻にするだと!?ざけんなっ、コノヤロウッ)

 という、妬み嫉みねたみそねみの感情が噴き出していた。


 それでも、せっかくかっこよく決めた手前、そのどす黒い感情を表に出すことはできない。


 本心では、馬から飛びおりて、ベジーのまたぐらを全力で蹴り上げ、渡した銀貨袋を取り返して、顔にツバでも吐きかけてやりたい思いがしていたアンコウだが、ここはグッとこらえた。


 アンコウは無言のまま馬首を返す。

 そして馬はハカチ村を背に歩き出した。


「アンコウ様っ!?」


 その背中に向かってベジーが声をかけるが、アンコウは振り向かない。

 そしてアンコウは振り返ることなく、そろえた指を三本、上にあげて、


「幸せにな」と言った。


「アンコウ様っ!ありがとうございましたっ!」

 ベジーの涙まじりの絶叫が響いた。


 空に向かうアンコウの三本の指がかすかに震えている。そのアンコウの震えに気づくことができた男は一人だけ。


 その男がアンコウの近くまで来て、周りには聞こえないように小声でささやいた。


「おい、大将。指が震えてるぜ。ションベンでもしたいのか?」


「……うるせぇ。殺すぞ、ダッジ」

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