第90話 ハリュートの狐と狸
アンコウたちは、ハリュートに至る道程の最後の山を越えた。
「もうあと一刻ほど、このまま進めばハリュートが見えてまいります」
シクが馬上からアンコウのほうを振り返りながら言った。
アンコウたちがイェルベンを発し、旅程についてから、すでに一ヶ月以上が過ぎている。長旅の目的地が近いことを知り、一行の顔に喜色が浮かぶ。
しかし、そうと聞いてもアンコウの顔色は優れなかった。
無論、元々全く乗り気でないこの領地行きの話だ。それに加えて、このコールマル領に入ってから見てきた光景が、アンコウの気持ちをさらに暗くしていた。
アンコウは、ここに至るまでにいくつかの村落を目にして来た。いずれも農村であったが、荒れた畑も多く、農民たちに活気は乏しく、どう
(………もし俺が領主様になりたがっている人間だったとしても、ここはハズレだ)
アンコウは率直に、そう感じている。
アンコウは馬を操り、するするとシクに近づいていき、声をかける。
「なぁ、シク」
「はい。何ですか、アンコウ様」
「コールマルも、最近大きな
「はい、小さな争い事はここでも日常茶飯事ではありますが、先般の叛徒との戦いのおりも、領主の代官は早々にその身柄を拘束されましたゆえ、領内で大規模な戦闘にはなりませんでしたし、近年は比較的落ち着いているかと」
「………そうか……じゃあ、
「いえ、特には…見てのとおり、山がちで農地自体にあまり恵まれているとは言えませんが……それがなにか?」
「いや、ちょっとな……」
アンコウはシクとの会話をやめ、馬の手綱を緩めて、また後方へ下がっていった。
(典型的だな) とアンコウは思う。
(生かさず、殺さずってやつだ)
この世界の現実として、決してめずらしくない農村の姿ではあるが、年貢・税金として相当搾取されているんだろう と思った。
「はぁ、……町だけでも、もうちょっとマシであってほしいもんだ」
このコールマル領に入る直前に立ち寄ったスネという領境の町は小さいながらも、なかなかの繁盛をみせていた。
これから行くハリュートという町は、このコールマル領の中心城市とのことであるし、ここまでのコールマルに対する印象はあまり
「………これ以上、あんまり陰気臭いのは勘弁してくれよ。……まぁ、期待は捨てずにいこう」
と、一人
―――――――
このアフェリシェール大陸において、街(町)と呼ばれる存在は、かなり小さなものでも周囲を防壁や柵で囲まれているほうが一般的だ。
アンコウたち一行が今、足を踏み入れたハリュートもまた、町の周囲を防壁で囲まれている。シクが言うには、防壁に囲まれた町の広さは、アンコウが比較したスネの町よりはかなり広いとのこと。
しかし、
「………広いって言ってもな………」
アンコウは周囲を見渡しながら眉をしかめている。
「……スネの町のほうが、ずっと活気があったな」
町の大通りを歩いても、閉まっている店が多く、人通りもまばらだ。それに、これは町に入る前からなのだが、物乞いの数がかなり多い。
「はぁぁー……」
この町に入ってから、アンコウはもう何度ため息をついたのかわからない。
そんなアンコウの横に、モスカルが馬を並べて進んでいる。
「………なぁ、モスカル。お前、知ってたのか?」
「いえ、ただ地方の町では、同じように疲弊した町は少なくありませんので」
モスカルは予想の範囲内であったらしく、淡々としたものだ。
アンコウはまた、ため息をつきながら天を見上げる。アンコウが見上げた空はどんよりと曇っていた。
(……上も下も陰気くせぇ……)
□
「わっはっはっは。さぁさぁ、アンコウ様、どんどんお飲みになってください」
ハリュート城‐本館宴の間。今、新領主歓迎の宴が開かれていた。
コールマルに着いた当日に開かれた宴。アンコウたちに、ろくに休息も与えない配慮のなさに、自分たちを迎え入れたコールマル側の悪意を感じつつも、アンコウはそれに素直に応じた。
「何をしておるっ、御領主様の盃が空いておるぞ。おつぎせぬか」
高級そうな布地の衣服を着たでっぷりと肥えた男が、アンコウに酒をすすめている。
領主であるアンコウに次ぐ席次に座るこの男が、コールマル第一の実力者ナグバルだ。
ナグバルの言葉をうけ、後ろに控えていた女が酒の入った容器を抱えて、アンコウの横に。
「失礼いたします」と声をかけて、女はアンコウに豊満な体を押しつけるようにして酌をする。
「さぁ、どうぞ。御領主さま」
「ああ、悪いな」
アンコウは手に持った盃を口の運び、酒をあおる。酒に女、それにアンコウの目の前には豪勢な食事がずらりと並べられている。
アンコウ側の出席者はモスカルとダッジ。モスカルはこういった宴席にも慣れているのだろうが、ダッジがこなれた挨拶をし、テーブルマナーも心得ていたのは意外だった。
(……ダッジのやつ、ほんとに騎士の家の生まれだったんだな)
それ以外の出席者は皆、ナグバルをはじめとするコールマルの土着実力者の面々がずらりと顔をそろえている。
その末席には、アンコウたちをハリュートまで案内してきたシクの姿もあった。
酒と女と豪勢な食事、居並ぶ皆の顔には笑みが浮かび、アンコウの顔にも同じような笑みが浮かんでいる。
いや実に……アンコウは気分が悪かった……。
「チッ」
アンコウは顔に笑みを張り付けたまま、誰の耳にも聞こえない小さな舌打ちを漏らす。
アンコウを見る宴席に座る者たちの顔には、一様に笑みが浮かんでいた。
しかし、顔は笑っていても、アンコウを見る誰の目も笑っていないのだ。
(狐と狸の化かし合いだな)
コールマル側の誰もが、新領主となったアンコウの品定めをしている。こちらの腹を探りに来ている。
無論、一方のアンコウたちもしかりだ。
( くそっ、酒が全然うまくない。タチの悪い接待営業みたいなもんだ)
元の世界では、接待するほうの経験しかなかった駆け出しヒラ営業マン
「なに、アンコウ様は、領地を持たれるのは初めてとのことですが、何もご心配には及びませんぞ。このコールマルのことは我々がよく存じてますゆえ、安心してお任せくだされ」
ナグバルの一見親切そうな言葉に、アンコウは無言の笑みで返す。
ナグバルは、先ほどから似たような発言を繰り返している。
(うぜぇ………)
アンコウは早くも
何が親切なものか、ようは新領主となったアンコウに、このコールマル領内のことは自分たちがするから、お前は何もするなと言っているのだ。
この男はアンコウから、その言質を取ろうとしている。
(うっとおしいな、このヒゲブタ)
ナグバルは、見た目40ぐらいのヒゲブタである。髪の毛はフサフサしている。しかし、幾ばくかの抗魔の力を有しているようで、実年齢は60近いという。
現在では、このコールマルで最も広い所領を有し、筆頭執政官の地位にもある名実共にこのコールマルにおける最大実力者だ。
ここにいる他のコールマルの土着実力者は皆、ナグバルの顔色をうかがいながら、アンコウに接してきている。
(………まったく、どっちが御領主様かわかったもんじゃないな)
アンコウは、その笑顔とは裏腹に、まったくもって楽しんではいない。
しかし、かなり面倒くさく、うっとおしい思いをしていたが、それほど腹を立てているわけでもない。
ただ、
(早く終われっっ)
とは、全力で思っていた。
結局、アンコウの上っ面の笑みの奥にある本当の気持ちを察してくれていたモスカルが、ほどほどのところで、
「御領主様は長旅でお疲れですので」と、助け舟を出してくれるまで、アンコウはナグバルたちの腹に一物も二物も含んだ腹芸の相手をさせられ続けた。
しかしその間アンコウは、心底うんざりしつつも、その顔に笑みを張りつけ続けていた。
—————
そして、宴の間を後にしたアンコウたちは、領主のブライベートスペースとして割り当てられた城内の一区画に移動して来た。
その区画にある小さな部屋に今、アンコウ、モスカル、ダッジの三人はいた。
「……ダッジ、あんた最初に挨拶したきり、ずっと酒飲んでたよな」
アンコウがダッジに、非難がましい口調で言う。
モスカルに関していうと、最終的に宴がお開きなったのはモスカルの言葉があったからだし、それまでにも何度となく、ナグバルらとの言葉の神経戦にアンコウを援護する形で加わってくれていた。
一方ダッジはというと、宴に出された芳醇な香りのする酒を実にうまそうに最後まで飲み続けていただけ。
「何言ってんだ、大将。歓迎の宴だろう?酒を飲むのが仕事だろうが」
ダッジの様子には、まったく悪びれたところはなく、ニヤリと笑って見せた。
「チッ、」
アンコウは、椅子の背もたれに大きくもたれ掛かり、舌打ちひとつ。
「……まぁ、いいさ。なかなか見事な挨拶だったぜ、ダッジ」
「そいつぁ、お褒めにあずかり光栄だ、大将」
そう言った後、ダッジの口調が少し真剣なものに変わる。
「……そんなことより、これからどうするつもりだ。連中ありゃあ、これっばかしもこっちに権限を譲るつもりはねぇぞ」
さすがに酒飲みダッジも、ナグバルたちの真意はちゃんとわかっているようだ。
「…ああ、そうみたいだな」
アンコウは、その点に関しては実にあっさりしている。
このコールマルの領主となったには違いないが、どうしてもこの地の実権を握りたいとは思っていない。
逆に、この地で自由気ままに生きて行けるのなら、政治的な権力なんて、まったくもって欲しくはないのだ。
アンコウのそういう
「……チッ!」
そんなダッジの不満気な様子も、アンコウは完全に受け流している。
「ふあ〜ぁ、ねむ………」
これからどうしようかと、ぼぉーっとしてきた頭で、アンコウは考える。
「……なぁ、モスカル。この町の近くに迷宮でもないのかなぁ?」
アンコウは貴族チックな遊び‐キツネ狩りならぬ、魔獣狩りでもして余暇を過ごせないかと思ったらしい。
「いえ、この辺りには、迷宮もたいした魔素の森もないようです」
「……そう。……ほんと、なんもねぇなここ。あんな権力キチのおっさん連中との宴会づくしの日々なんてごめんだぜ……」
アンコウは力なくぼやき、天井をあおぐ。
「しかしアンコウ殿、先ほどの宴席での対応は、なかなかお見事でございました」
「ん〜、何言ってんだ?普通だろ」
アンコウは天井を仰ぎながら、だるそうに言った。それ以上、言葉を続けることもない。
そんなアンコウの態度に、モスカルもそれ以上言葉を重ねなかったが、その普通というのが、なかなかできないものなのだ と、思っていた。
アンコウは先ほどの宴席で、ナグバルらの術中に
(簡単なようで、誰にでも出来るということではない)
アンコウと同じように知行地を与えられ、領主となり、赴いたその領地で土着勢力にいいようにあしらわれ、時に煮え湯を飲まされ、時に命まで失う羽目になった者をモスカルは何人も知っている。
(とりあえず今宵は、アンコウ殿は、あの連中を上手くあしらわれた。ただ、勿論……これで終わるわけもない……)
モスカルには、よくわかっている。
アンコウが、権力は要らない 自由気ままに生きたいだけだと言ったところで、ナグバルたちが信用するわけがない。
それを疑いなく鵜呑みにし、信用するような者がいれば、そいつはただの愚か者だとすらモスカルは思う。
そして、そのことは口にはしなくても、アンコウもダッジもわかっている。
(アンコウの野郎、この状況で、
(あぁ、面倒くさい………あぁ、面倒くさい)
三人それぞれに明日以降のことに思いを巡らせ、さらに夜は更けていく。
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