第39話 異世界の勇者アンコウ

「行くぞっ!」


 アンコウは赤鞘の魔剣を鞘にしまうことはなく、そのまま山道を馬を駆り、下っていく。


 そしてアンコウの指揮下で、銀髪の獣人の戦士ラースカンを討ち取るために戦っていた兵士たちもアンコウに続いて走り出した。


 アンコウと共に走る兵士たちは、ラースカンを討ち取ったことでその士気はきわめて高い。剣を高々と掲げ、敵将ラースカンを討ち取ったりと、口々に叫びながら走っていた。

 アンコウもまた、敵兵の動揺を誘うため、馬上でラースカンは死んだと大声で叫んでいる。


 アンコウの視線の先では、敵味方が入り混じって白兵戦を展開していた。

 今のところ彼らは五分の戦いを繰り広げており、どちらが優勢劣勢といえる戦況ではない。


 しかし敵の指揮官であるラースカンがすでに死んだことを目下の敵全体に知らしめ、アンコウたちがその乱戦に新たに参入すれば、こちら側に優勢な戦況が生まれるだろうことは明らかだ。


 アンコウはこの有利な状況を生かし、早くこの戦場を離脱しなければと焦ってもいた。どうやら敵の後続部隊の動きが早いらしいという情報を考慮すれば、自分たちに有利な時はそう長くはないだろうとも、アンコウは考えていた。


(目前の敵に手早く一撃を加え、即退くしかない!)


 そしてアンコウたちはこの機を逃すまいと、山道を駆け下りてきた勢いのままに次々とその乱戦の中に突っ込んでいった。


「「オオォォォォーーッ!!」」





 太陽もずいぶんと高くなってきた。砦の上に立っているとなんとも心地の良い風が吹いている。

 ヒルサギは全身に太陽の光をうけ、心和こころなごますような風をうけながら、サミワの砦の防壁の上に立っていた。


 そのヒルサギの表情には笑みなく、緩みなく、厳しい顔で防壁の外に広がる森林を見下ろしていた。


 夜明け前に砦を出立したアンコウたち奇襲襲撃部隊は、この森林地帯のどこかですでに戦闘を行っているかもしれない。ヒルサギはそれを思うと自然と奥歯をきつく噛みしめ、ギシギシと周りにも聞こえるような歯が軋む音を立てていた。


「ヒルサギ様」

「どうした?」

「偵察部隊の者が一人戻ってきました」

 防壁の上に立つヒルサギにむかって部下の者が報告する。

「そうか、ここに連れてきてくれ」

「はっ!」


――――――――

 草者からの報告を聞くうちに、それでなくとも厳しかったヒルサギの表情がさらに険しくなっていった。


「ご苦労だった。引き続き頼む」

「はっ」


 草者は下がり、そのヒルサギの表情から、あまりよい報告ではなかったのだろうと心配しつつも、ヒルサギの部下の者が問うた。


「ヒルサギ様何か?」

 ヒルサギに問うた部下の表情も硬い。


「……どうやら敵の部隊編成に変更があったらしい。先陣はいつもどおりラースカンが率いているようだが、その後続の部隊がこの砦に進軍するスピードがいつもより速いようだ」

「それではアンコウ様たちの部隊は」

「ああ、アンコウ殿らに与えられた時間はおそらく予想よりもかなり短い……」


 ヒルサギは、アンコウたちが敵の先陣をきる指揮官ラースカンを討ち取ってくれると信じている。アンコウに賭けたと言ってもいい。


 しかしそれは事前に罠をはり待ち受け、奇襲攻撃が成功した結果、ラースカンを討ち取ることが可能であるというところまであり、敵との数の差を考えれば、ラースカンを討ち取ることに成功しても、その後はアンコウたちは一目散にこの砦まで逃げるほかない。


(後続の兵に追いつかれれば、アンコウ殿たちに勝ち目はない………)


 しばしのあいだ黙考していたヒルサギは、何やら意を決したように顔をあげると、防壁の階段を駆け下りていった。



「ヒルサギ殿お待ちなされっ!」


 ヒルサギは出撃の準備を手早く整え、馬に乗り、手勢と共に砦の門前にいた。

 今にも出撃しようとしているヒルサギに、他の砦の将官があわてて駆けつけ、ヒルサギを引き止めている。


「何を考えているんだ、ヒルサギ殿!仮にもあなたは今、この砦の総大将なのだぞ!そのあなたが手勢を率いて砦を出るだなんてとんでもない愚行だ!あなたがこの砦内に留まり指揮を取ることは、事前の会議でも了承しておったろう!」


 ヒルサギは自分に詰め寄る将官たちをじっと見つめる。彼らが言う事は間違いなく正論だ。


「状況が変わり申した。このままでは、たとえあのラースカンを討ち取ることに成功したとしても、アンコウ殿たちの襲撃部隊が全滅しかねない」


 敵軍の後続部隊の動きが昨日までと違い、かなり早いようだという情報は他の将官にも伝えられていた。


「そ、それは、朝出撃した者たちは皆、それ相応の覚悟はして出たはずだ!会議のおり、アンコウ殿も総大将が奇襲部隊に参加するなど愚行だと言っておられたし、それに彼らが全滅するなどと決まったわけではない!ここは計画どおり、あなたはこの砦の守護に専念すべきだっ!」


 しかし、味方の将官の強く引き止める言葉を受けても、ヒルサギは引くことはなかった。


「状況が変わったと言った!無謀な戦いを仕掛けるつもりはない。私はアンコウ殿が、私が立てた策を成功させていると信じる!しかし、それはラースカンを討ち取るまでだ。もし後続の敵軍に飲まれたら、どうしようもなくなるだろう。

 今ならまだ間に合うはずだ!彼らに合流し、即この砦に引き返してくる。確かに彼らは命をかける覚悟をして出撃しただろう。私は武人として、その彼らの覚悟を侮るつもりは毛頭ない!

 しかし!助けられる仲間の命を見捨てることこそ、この砦を預かる者として私はできない!」


 ヒルサギは最後は顔を真っ赤にして叫んでいた。その言葉は彼を止めた将官だけに向けられたものではなく、この場にいる皆に向かって叫んでいるようだった。


「門を開けいっ!」


 ヒルサギが叫ぶ。もはや誰もヒルサギを止められなかった。

 そして門が開いた瞬間、ヒルサギは先頭を切って、砦の外に飛び出していった。





ザシャッ!

「ギャーッ!」

 アンコウの馬上からの一刀をうけ、敵兵がまたひとり血飛沫をあげ地面に倒れる。


 しかし、剣刃をきらめかせ、アンコウに殺気を放ちながら迫る敵兵の数は、減るどころか増える一方だ。


「く、くそっ!まずいぞ!」

 アンコウの顔には焦りの色が濃く浮かんでいる。


 アンコウたちが事前に立てていた作戦はここにいたって完全に狂ってしまっていた。

 そう、アンコウたちが恐れていたとおり、ラースカンが率いていた部隊を完全に敗走させる前に後続の敵部隊が到着し、この戦闘に参加してきたのだ。


 それによって戦況は一変した。ラースカンを失い、アンコウらの猛攻をうけて、崩壊寸前であった敵兵は見る間に勢いを取り戻した。


 アンコウが警戒していた以上に敵後続軍の到着は早かった。

 それにアンコウはこういった大規模な戦場経験が乏しく、これほど急速に優勢であった自軍が崩れていく事態に指揮官として対応しきれていなかった。


「くそっ!怯むなっ!進めぇーッ!」


 アンコウは大声を張りあげるが、すでにこの戦場の優劣は固まりつつあった。アンコウが何人斬り倒そうとも、あまりに敵味方の兵数の差が大きい。


 それに、まわりにむかって進めと叫んでいるアンコウ自身がすでに完全に逃げ腰になっていた。

 それでもアンコウが剣を振るって戦っているのは、まわりを多くの敵兵に囲まれ、逃げるに逃げられなくなっていただけだ。


 それはアンコウだけでなく、部隊全体にいえること。

 彼らは大きく周囲を敵兵に取り囲まれつつあり、このままでは全滅もありうる事態になりかねないほど劣勢に立たされつつあった。


 アンコウは焦る。アンコウはこの戦いに負けることを恐れているわけではない。

 次々に味方の兵の命が狩り獲られていることにいかっているわけではない。


(やばい!このままじゃられる!)

 アンコウは、ただただ自分の命が奪われてしまうことを恐れていた。


 アンコウは自分が生き残るために、この奇襲作戦に参加した。サミワの砦を守るためが一番の目的では決してない。

 アンコウにしてみれば、皆の前で口に出して言うとはできないが、サミワの砦を死守したところで自分が死んでしまえば、その勝利にクソほどの意味も無いのだ。


 無論、戦場はそれ自体が死を生み出す場所である。殺すか殺されるか、自分のうえに死神が微笑むこともあることはアンコウもよくわかっている。

 しかし、よくわかっているからといって、アンコウは自分の身に迫る死の臭いに恐怖しないなどということはできなかった。


 アンコウの内面は、決してヒルサギのような武人ではない。


「ハァハァハァ、」

 アンコウの呼吸の荒さが増していく。

 激しい戦闘で疲労したというだけではない。アンコウは徐々に精神を恐怖に塗りつぶされはじめていた。



「あの男だ!あの金色の腕輪をした男を討ち取れーっ!」

 アンコウのほうを剣で指し示し、敵兵が叫ぶ。


「ふぐっ、」

 アンコウの臣下の腕輪は戦場でも目立つ。

 そしてそれは、戦場においては敵を自分に引き寄せるアンコウにとって死の腕輪と化していた。


 アンコウはいまさらながら腕輪に布切れをぐるぐると巻きつけ隠そうとするが、まったくの無駄である。


「ち、ちくしょう」


―――――――――


ウオォォォーー!


―――――――――


 どんどんと敵軍の勢いは増していく。わずかな時間で戦況の優劣は完全に逆転し、ついにアンコウたちの部隊の統制が崩壊し始めた。


「に、逃げるなーっ!戦えっ!こ、こいつらを押しのけるんだーっ!」


 もはやアンコウの命令が味方の兵たちにとどくような状況でもなくなってきていた。それにアンコウとしても、すでにこの戦況を挽回できるとは思っていない。

 アンコウは、自分が逃げるための道を開くため、味方にむかって叫んでいるに過ぎなかった。


 そのアンコウの命令に反応する者はいない。それぞれが自分の命惜しさに、てんでばらばらに逃げはじめていた。

 アンコウは所詮、味方の兵たちにとっても、ついこのあいだ突然空から振ってきた上官だ。自分の命を捨てても、アンコウを守ろうなどという義理や忠義をもっている者はいない。


 たとえそれがグローソン公の臣下の腕輪をしているアンコウであっても、いざとなれば自分の命のほうが惜しいということなのだろう。


 それにこの作戦の標的としていた敵将ラースカンはすでに討ち取っている。このまま戦線を離脱し、砦に逃げ帰ったとしても、彼らが罰っせられる可能性は低い。

 そのことは一兵卒でもわかっていた。


 また、組織内の上下関係は明確にあっても、アンコウの命令を聞かずに逃げ出す兵士たちのことを、一方的にけしからん奴らだと批判することもできない。

 なぜなら、彼らもアンコウも同じく自分の命を最優先に行動しているだけの似た者同士なのだから。


「ふざけんなよ!お前らーっ!」

 アンコウが思わず叫んだ罵声は、敵味方関係なく、周囲の者すべてにむけたものだった。


 すべてのことが今、アンコウにとってまずい方向に動き出していた。

 アンコウは徐々に味方から孤立しつつあった。まわりを敵兵に囲まれたアンコウは強引に馬を走らせ、この危地を脱しようとした。


「どけーっ!」


 アンコウが剣を振るうたびに血飛沫があがる。

 アンコウはまわりを敵に囲まれてはいたが、共鳴を起こしたアンコウの剣を受け止めることができるほどの戦士はいないようだ。


(いま逃げるしかない)

 時間が経てば経つほどアンコウにとって不利な状況になることはわかりきっている。


 作戦がここまで狂ってしまった以上、アンコウも、もはや味方の部隊全体のことなど考慮しなくなっていた。


 アンコウは他の連中がどうなろうと自分は絶対に死んでたまるかと強く思い、さらに馬の速度を上げるべく、馬の腹を強く蹴った。

その瞬間、


「ヒヒィィィーン!」

 馬は反り返るかと思うほど、前足を大きく宙に浮かし、アンコウは馬の背の上で大きく体勢を崩す。

「なあっ!?」


 アンコウが騎乗していた馬の首に矢が刺さっていた。

 アンコウが馬を走らせ、わずかに敵の包囲網を脱した瞬間、いずこからか矢が射かけられたのだ。


ヒュン、ヒュンッ!

 次々とアンコウ目掛け、飛空してくる矢。

「ちぃっ!」

 アンコウはとっさに馬から飛び降り、馬の体を盾代わりにした。


ザクッ!ドスッ!ザクッ!

「ヒヒィィィーン!!」


 大きく嘶いた馬が、ドサンッと大きな地響きを立てながら地に倒れた。

 そしてアンコウにむかって、アンコウの首を獲らんと功名乞食こうみょうこじきと化した敵の歩兵たちが再び迫ってくる。


「くっ!」

 それを見たアンコウは、敵がいない方向へ急いで走り出す。


ヒュン、ヒュンッ!

 すると、再びアンコウにむかって矢が射かけられる。


「くそぉっ!」

 アンコウは飛んでくる矢を次々と剣で叩き落す。


 しかしアンコウの目には、少し離れたところから、次の矢を放たんと弓に矢をつがえる者たちの姿が見えていた。


「くそぉっ!卑怯だぞっ!」


 アンコウは弓を持つ者たちにむかって、先ほど銀髪の誰かが言っていたのと同じような罵声を浴びせかけた。

 そしてそのアンコウの罵声の返礼に返ってくるのは、アンコウを狙う次の矢であった。


 アンコウは次々と襲い来る矢を叩き落とすことに囚われて、その場に足止めされてしまう。


「ひぃっ、キリがないっ!」

 アンコウの脳裏にハリネズミのようになって死んでいったラースカンの姿がよぎる。

「く、くそおっ!ダメだぁ!」


 このままでは自分もハリネズミになると思ったアンコウは、苦肉の策として、それまでとは方向を変えて走り出し、敵歩兵の集団の中に自ら突っ込んでいった。

 敵の集団の中に突っ込んでいくと、飛んでくる矢は止んだ。しかし、その代わりにアンコウの体目がけて、無数の白刃が襲いかかって来た。


「イ、イイィィィーッ!!」


―――――――


 アンコウは死んでなるものかと必死で剣を振り回し続ける。

 アンコウは思わず脱糞だっぷんしそうになるほどの恐怖を感じながら、次々と敵兵を斬り殺していく。


 しかし切れ間なく押し寄せる敵兵たちは、目の前で仲間が次々とアンコウに斬り殺されていく様を見ていながらも退くことはしなかった。


 彼らは数の力を背に、自分たちの勝利を確信していた。

 そして、金色の臣下の腕輪をした男を討ち取るという功名乞食と化した彼らは、戦場の狂気に酔い、アンコウという獲物を狩る興奮が死の恐怖を凌駕していた。


 一方アンコウの心は、どんどんと迫り来る絶望的な死の恐怖に飲み込まれていく。

 アンコウは叫びながら剣を振るい続け、大人の意地で何とか脱糞だっぷんしないようにするのが精一杯だった。


「イギィィィーッ!!」


 次々と押し寄せる敵兵を斬り倒すことに必死になっているアンコウを尻目に、アンコウの部隊の者たちの中には戦線を離脱することに成功する者もいた。


 アンコウの近くにいた者たちの中にも、アンコウが敵兵を引きつけている隙に戦線から離れていく者がおり、そういった者たちの姿が剣を振り回すアンコウの視界にも入った。


「お前らぁー!俺を置いていくなぁ!卑怯者がぁー!砦に帰ったらブチ殺してやるぞーっ!」


 アンコウはいつのまにか半泣きになりながら、味方を大声で罵り、敵を竜巻のごとく斬り殺している。


 この状況が続く中、アンコウもいつまでも無傷のままというわけにはいかない。

 アンコウはいつのまにか体中に大小の刀傷を負っており、アンコウが剣をふるたびに敵の血だけでなく、自分の血も舞う状態になってしまっていた。


 そんな状態でもアンコウは、共鳴する魔剣の呪いに飲み込まれずに何とかギリギリ理性を保っていた。

 この共鳴とその影響に関することで、アンコウは自分自身の変化として、ここに至るまでに気づいていたことがあった。


 それは、現時点での呪いの魔剣との共鳴レベルなら、アンコウは共鳴に伴う呪いの影響を制御することができるようになっていること。

 また、呪いの影響を制御できている状態では、それまで呪いの影響のひとつとして、共鳴中はほとんど感じなくなっていた恐怖や畏れ、あるいはやさしさという感情が、さほど消えることなくアンコウの心に残り続けているということだ。


 その変化は先ほどからアンコウが赤鞘の魔剣を振り回し、敵を屠りながらも、抑えきれない恐怖を感じていたことからも明らかだった。


「ヒギイィィーッ!!」


 それがために今のアンコウは、共鳴を起こしている状態にありながら、次々とアンコウの命を狩ろうと襲いかかってくる狂気じみた敵兵の殺気の前に、死の恐怖に心を侵食され、恥も外聞もなく剣を振り回しながら喚きつづけるはめになっている。


 ただそれでいて、今は恐怖が勝っていても、呪いの魔剣との共鳴によってもたらされる戦いを求める衝動と血を喜ぶ快感が、アンコウの心の中から完全に消えているわけでもない。


 アンコウの心は、恐怖と悦楽の入り混じった 何とも言えない不安定な気持ちの悪い状態だった。


 アンコウはこの世界で生きていく以上、いまさら戦いを忌避するような考えは持ち合わせていないし、生きるためなら自らの意思でこの戦いに参加したように、進んで剣をとる覚悟はできている。


 しかしアンコウは、グローソン公ハウルのように元の世界を異世界と呼び、心の芯の部分まで変質させるほど、この世界に染まることがまだできていない。


 あるいは、ヒルサギのように貧しい農村から身を起こし、武人戦士にあこがれ、自らの苦労と努力で形づくってきた武人としての誇りや固き信念、そういったものもアンコウは持っていなかった。


 アンコウの心の根っこの部分は未だ元の世界でつくられたものでできているのかもしれない。


 アンコウが生まれ育った世界は平和で豊かな世界。

 良い悪いは知らないが、平和を守りたければ武力を持つな使うな他者を信じて話し合えという謎教育なぞきょういくを受け、この世界に来るまでは漫然とそれを受け入れていたアンコウである。


 戦う覚悟はできても、この世界で生きるためには、まだ大事な何かが足りていないのかもしれない。グローソン公ハウルの狂気。ヒルサギの武人の信念。今のアンコウは…………


「ぐがあぁぁーっ!誰が助けに来てくれーっ!」


 アンコウの絶叫が響く。しかし、いつのまにかそのアンコウの声が届く範囲に生きている味方の姿はなくなっていた。





「全軍停止ぃ-っ!」


 ヒルサギが右手を上げて、大きな声で命じる。


「皆の者停止せよ!」

「止まれっ!止まれっ!」


 ヒルサギの停止命令を部下の者たちが次々に全体へと伝えていく。

 ヒルサギたちはサミワの砦が建てられている山の山腹、眼下に急な斜面が広がる小さな丘の上に集結していた。


「「おおおー、」」


 自分たちの眼下の急斜面の先に広がる光景を見て、ヒルサギたちはさまざまな思いを乗せて、唸るような声をあげた。

 ヒルサギたちの目は、激しい戦闘を繰り広げている敵味方両軍の姿をとらえていた。


「くっ、間に合わなかった」

 ヒルサギの横に立つ年若い戦士が、思わずつぶやいた。


 彼の目に映る戦場は、明らかに敵の兵数が多く、敵の後続部隊がすでに戦闘に参加していることは明らかだった。


 しかも彼の目には味方の兵士たちが潰走を始めている姿が映っていた。


「ヒルサギ様!いかがしますか!」

 若き戦士がヒルサギに尋ねる。


 しかし、ヒルサギは答えを返さない。ヒルサギの視線は斜面の下で繰り広げられているある一点に集中されていた。


「ヒルサギ様?」

「……カジュール、あれを見よ」

 ヒルサギは、眼下に広がる戦場の一点を指し示しながら言った。


 ヒルサギが指差す戦場はまだかなり離れている。

 ヒルサギも抗魔の力を持つ戦士だ。抗魔の力を持つ者は、持たぬ者よりもはるかに身体能力は強化され、体力面だけでなく、五感、第六感に至るまで強化される。


 そのヒルサギの視力をもってしても、ヒルサギが指差す地点で繰り広げられている戦闘はまだ豆粒ぐらいの大きさでしか見えていない。だがヒルサギの意識はその地点での戦いに集中されていた。


「………ヒルサギ様、あれは………」

「間違いない。あれはアンコウ殿だ」

「おおっ……」

 若き戦士カジュールもそれに気づき、思わず声を漏らす。


 そう、ヒルサギが指さす先、豆粒ぐらいの大きさで見えているのはアンコウであった。


 その豆粒アンコウは、まわりを囲まれて逃げるに逃げられず、半泣きになりながら自分を置いて逃げる味方を大声で罵り、恐怖でうんこを漏らしそうになるのを我慢しながら襲いかかってくる敵を狂ったように斬り倒し、全身血まみれになって大声で助けを求めているアンコウであった。


 しかし、遠目から見るヒルサギの目には、そうは映らない。

 ヒルサギは鼻の奥からじわりと広がるある感覚を覚えていた。その感覚はヒルサギの涙腺を刺激し、薄っすらとヒルサギの目に涙が滲む。


「……見よ、カジュール!アンコウ殿を!」

「はっ!」


 ヒルサギの目に映るアンコウ―――――


 アンコウの力を持ってしても決して敵わぬであろう敵の大群。それに一人敢然と立ち向かい、一歩も退かず、敵の死体の山を一人で築きあげていくアンコウ。

 そして敵は、明らかに相手の指揮官であるアンコウを集中的に狙っていた。

 アンコウは逆にそれを利用し、もはや勝ち目の見出せなくなった戦場において、一人でも多くの仲間を逃すべく、多くの敵をひとりで引きつけ剣を振るう。

 アンコウが体と命を張ってつくり出したその隙に、まわりの味方の兵たちは次々に戦線を離脱していく。


 無論、これだけの数の敵兵全てをアンコウひとりで引きつけておくことなどできない。進むことも退くこともかなわず、敵の剣刃によって斬り倒されていく多くの味方の兵たちもいた。


 ヒルサギの眼下に広がる戦況は極めて悪い。


 絶望ですべてをあきらめてしまってもおかしくはないその状況の中であっても、アンコウの諦めるそぶりすら感じさせない猛烈かつ献身的な戦いぶりは、まるでヒルサギが幼少のころ、あちこちから隙間風が入ってくる貧しい農村の家で、寝物語に母親が読んでくれた物語に出てくる勇者のようであった。


 ヒルサギの思い込みがつくりあげた武人アンコウの姿は、ヒルサギの武人の魂を激しく刺激し、ヒルサギは一種の感動すら覚えていた


………事実はどうあれ、ヒルサギの目と心にはそう映っていた。


「ア、アンコウ殿」

 手綱を持つヒルサギの手が激しく震える。


 豆粒アンコウの戦いを体を震わせながら見ていたヒルサギに、1人の兵士が駆け寄り、片ひざをついて頭をさげた。


「ヒルサギ様っ、」

 その兵士はヒルサギに命じられ、周囲の偵察にあたっていた者であった。

 ヒルサギは視線を前方の戦線から外し、その兵士のほうを見た。


「どうした?」

「はっ!逃げてきた味方の兵士を数名確保いたしました!」

「そうか、何かわかったことがあれば申せ」

「はい!彼らが申しますには、アンコウ様率いる奇襲襲撃部隊の攻撃により、すでに敵の先陣を指揮していた敵将ラースカンは討ち果たしているとの事です!」


 ヒルサギの前に片ひざをついている兵士は、周囲に響くような大きな声で言った。

「「おおーっ」」と、敵将ラースカンがすでに討ち取られているとの報告を聞き、周囲の者たちは驚きと感嘆の声をあげる。


 ヒルサギは他の者とは違い、声をあげることはしなかったが、目を一瞬大きく見開き、口を真一文字に結び、さきほどより激しく体を震わせていた。

 そしてヒルサギは、もう一度豆粒アンコウのほうに目をやる。


「見よ、カジュール。アンコウ殿は私が立てた策に従い、すでにこの攻撃の目的であった敵将ラースカンを討ち取り、その責を果たしているのだ。にもかかわらず、この戦いの最前線にいまだ踏みとどまり、命を惜しまず戦っている。

 見よ、多くの味方の兵士たちが逃げていく!それはこの状況にあっては仕方がないことだ。彼らも敵将ラースカンを討ち取ったことで、すでにその役目を全うしている。多勢に無勢、ここは逃げるが最善の策だろう………ぐぐっ、」


 顔を真っ赤に染めながら話すヒルサギの言葉に、さらに力が籠もる。


「しかしアンコウ殿は!この劣勢の中にあっても、己のなすべきことを知り、そのためには己の命などまったく顧みず剣を振るっているのだ!

 アンコウ殿は!己の命と引き換えに1人でも多くの兵士を生きて砦に戻そうとしている!多くの兵を率いる戦場の指揮官として、戦士の矜持きょうじを重んじる一人の武人として見事であるというほかなし!」


 ヒルサギは最後は唾を飛ばしながら大声で吼えるように言った。

 その気迫に若き戦士カジュールは思わず馬から飛び降りて、膝をおり、ヒルサギに頭をさげる。


「ははぁーっ!!」


 アンコウがこのやり取りを見ていたら何と言っただろうか。

 何の時代劇だと、どこのどなた様の話だと。まちがいなくヒルサギに、

『いい加減にしろ!うだうだくっちゃべってないで、とっとと助けに来い!』と、怒声を発していたに違いない。


 アンコウはこの時もまだ、まわりを敵に囲まれて逃げるに逃げられず、半泣きになりながら自分を置いて逃げる味方を大声で罵り、恐怖でうんこを漏らしそうになるのを我慢しながら、襲いかかってくる敵を狂ったように斬り倒し、全身血まみれになって大声で助けを求めている最中であったのだから。


 ヒルサギはおもむろに剣を抜き、うしろに従う戦士たちのほうを振り返る。


「皆の者!アンコウ殿を死なせてはならない!ここでアンコウ殿を死なせては、サミワの砦守備隊末代までの恥である!ゆくぞ!これは我らの戦いだ!」


 ヒルサギはそう叫ぶと、馬首を返し、馬を走らせ、急な斜面を一気に駆け下り始めた。


「「おおーーっ!」」


 そして、そのヒルサギの背中を追うように、闘志あらわに多くの兵たちも走り出した。

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