62.ノクトマとスビアイ山―9
私は恋を、してしまったのかもしれない。
それはいいことなのだろうか。
過去に捕らわれ続けていることが、いいことではないというのは頭では理解している。前を向けた? 乗り越えた? それとも、逆に腑抜けてしまった? 優しい彼に、逃げている?
人の感情は、恐ろしい。それはこの自分の感情も当然含めてのことである。
恋を自覚してしまう私は、あの時の戒めを、恐怖を忘れて、己を甘やかし、逃避しようとしているのだろうか。現状が彼に頼り切った状態で、それはきっと依存と呼んでしまえるものだ。迷惑をかけている? いや、彼は私がそういった理由で離れるのを良しとしていない。それは、それだけはわかる。
なら、私は――
「おいミナ、聞いてるか?」
ひゅ、と喉の奥が鳴る。
まるで海を覗き込んでいるかのような、どこまでも深い青。流れるような細くさらりとした黒髪が、首を傾げると光を反射して煌めく。色砂が流れ落ち、零れているようにも錯覚するような、美しい輝き……天使のような、その姿。
「ユウ……?」
「うん、ぼーっとすんなよ、未開の森ほどじゃないとはいえ、一応山にいるんだから」
「あ……そう、だったね」
違う、ユウだ。あの、天界で出会った案内人ではない、私のこの世界での仲間。一番信頼できる仲間だ。
考えすぎてぼんやりしてしまっていたのだろうか。きょろりと見回し、木々に囲まれたその様子にほっとして、そして急激に違和感が全身を支配する。
山? もう、スビアイ山に入ったんだっけ。いつ?
「……ミナ? どうした?」
訝し気なユウに、声を出そうとして躊躇う。どこまで、覚えてないんだっけ。あれ、あの子に合わないといけないんじゃないかな。あの子……あのシアンって女の子は、どうしたんだっけ。
「ミナ……?」
心配そうなユウの手が伸び、私の頬に触れて、指先が滑る。緊張に体が硬くなった瞬間、あの夜の言葉を思い出した。
『いやじゃないんなら俺もそろそろ遠慮しない』
心臓が大きく跳ねる。ユウはいつでも、私をとても大切にしてくれている。そんなことはわかっている。……それが、どんな感情からくるものなのか、私はきっと、考えるのを止めているのだ。
「ユウ」
「うん?」
「私は」
私の様子がおかしいことに気付いたのだろう、心配そうな瞳が、さらに距離を縮めた。私の心の奥に、確かに歓喜する感情がある。
この感情が、絶望に塗りつぶされる瞬間が、本当に恐ろしくてたまらない。
「やっぱり
「えっと」
ああ、私は、ユウが……
『お前が好きなんだ、――――、付き合って、欲しい』
突如聞こえた声が、ぐわんと頭の中で反響するように響く。ザザ、とまるで掠れたように声が途切れるが、その声は間違いなく、私の知る声だった。
『決まってんだろ、――――は俺の大事な恋人だ』
『魔王を倒して、この戦いが終わったらどこかにでっかい家を建てようぜ。それで、あの街にいたやつらを呼ぶんだ。弟妹みたいなもんだしな!』
『俺が必ず守ってやる。だから心配しなくていい、ついてきてくれ――――』
『なんだよ、やきもちか? 心配すんなよ、疑ってんの?』
『違うっての! 可愛くねぇ……ああうるせぇな、なんで仲間を疑うんだよ』
『あの子は聖女なんだぞ、その辺の奴らじゃない、守って当然だろ! お前も魔法を使えるんだから、もう少し耐えろよ! 頼りすぎだろ、甘えんな!』
『あいつは幼馴染だったからな、そりゃ好きだったけど、恋ってわけじゃなかった。俺は本当の恋も愛も、聖なる乙女である君で知ったよ』
『あーもうめんどくせーな、もういい。恋人関係は解消しようぜ、これからはただのパーティーメンバー、それでいいだろ、お前も。甘えるのやめろよな』
「あ……」
そう、そうだ。忘れてなんていない。私は甘えすぎてしまうのだ。頼り過ぎたらいけない、相手の負担になってしまう。私はただの仲間だ。そう、その為に、私は防御力だって高めて、あの世界では最高レベルの魔術師になった筈。今はあの頃に遠く及ばない。防御力も、魔力操作も、技術も、まだまだだ。だから――
「おいミナ、落ち着けって。あの世界ってなんだ? どうしたんだ、別にミナの技術力は低くないだろ」
全部口に出てしまっていたのか。困った様子で私の肩をつかむユウの言葉に、ぶんぶんと首を振る。まだだ、まだ足りない。役に立てなければ、甘えたな私は仲間でいる資格などないのだ。だってそうじゃないと、また殺されてしまう。
『わかってるじゃん、
その声が頭に響いた瞬間だった。ドッとぶつかるような音がして、目の前のユウの肩がはねる。海のような瞳が大きく見開かれ、見上げる私の視線の先で、ユウの口からだらりと赤い雫が零れ落ちた。ゲホ、と赤が飛び散っていく。
「え」
何、と驚く私の視界に、赤い色が広がっていく。驚き原因に手を彷徨わせるユウの胸に、赤く染まる鈍色の何かが生えている。
「ユウ……?」
「み……、ナ、逃げ……」
その姿に、大切な
『お前だけ幸せにさせるか』
「いや、い、……いやぁあああああああああっ」
「ミナ!」
ぐっと痛い程肩をつかまれ、青い瞳に覗き込まれる。視線が合った瞬間荒い呼吸が耳につき、ユウ、と叫ぶようにその胸に手を伸ばす。
「ゆ、う、ユウ、ユウッ」
「どうした!」
「やだ、やだ、ユウしなないで」
「は、何……? 大丈夫だ、ミナ、どうしたんだっ」
「刺されっ、違う、わたしじゃなっ……止血っ、」
「は!? 当たり前だろ、落ち着けミナ、俺は無事だ!」
触れる指先に、刃は触れない。止血の付与術を行使し、発動しても、それはするりと解けていく。……けがをしていない? 何度触っても、伝わるのは生きた人間の熱のみだ。そのことに気付いて赤く染まっていないその胸元を注視し、息を整えながら周囲を探る。……部屋だ。少し殺風景だけれど、清潔な布が敷かれたベッドが一つ。
スビアイ山じゃない。そう、ここはノクトマの、宿だ。私の目の前にはひどく心配そうな顔をしたユウがいて、同じベッドにいて、……あ、れ?
「え? あれ?」
「大丈夫だ、俺は無事だ。怖い夢でも見たのか、ミナ」
「……夢」
その瞬間、先ほどまで見ていたものがひどく曖昧な、ぼやけた記憶となって浮かび上がる。……ああ、夢だ。ひどく納得して、がくりと腕を下ろす。
夢でよかった……本当に? あれはいつかくる、未来では?
私がユウの怪我の確認を終えたとわかると、大丈夫だ、と言ってユウの腕が背に回る。抱き寄せられたのだと気づいた瞬間、体が強張った。それが伝わってしまったのか、そろりと、ユウとの間に僅かに隙間が開く。
「ミナ」
「幸せに、なるな、って、あいつが」
「誰が」
「私は、甘えすぎてるから。だから、ユウが、殺さ――」
「落ち着け。ここには俺とミナしかいないし、俺は簡単に殺されたりしない! どうしたんだミナ、誰だ、何を見たんだよ!」
吐き出す声ががくがくと震えている私の言葉は、確かに自分の声だとわかるのに頭にどうにも入ってこなかった。どこか焦った表情を浮かべるユウが、私をじっと覗き込む。……困らせている。
誰? 誰の声か、わからない。確かに知っている声だと思ったけど、あれは誰の
……もしかして。
ひどく頭が重い。全身が、まるで全力戦闘を続けた後のように疲れ切っていた。
「……勇、しゃ?」
あれ、おかしいな。あの人の名前が、思い出せないや。
「……勇者? ミナ、お前……」
どんな夜を過ごそうと、次の日普通にやってきた朝。
昨夜騒ぐだけ騒いですぐまた寝落ちしたと起きて即気づいた私は、今度こそ意識のはっきりした状態で悲鳴を上げた。土下座で謝る私に、ユウはからりとしたいつもと変わらない様子を見せる。
「おはよ、ミナ。あの後怖い夢は見てないか?」
「ハイ」
「ならよかった。……怖い夢を見ただけでもなんでもいいから、ちゃんと俺に相談しろよ。お前が幸せになっちゃだめだとかありえないし、俺が簡単に殺される筈ないだろ。話が分からないほうがよほど心配だ」
「……そう、か、な?」
「……また後で話すとするか。さっさと準備して待ち合わせ場所に顔出すぞ、依頼者と師匠を待たせて余計な問題が起きると面倒だし……師匠を待たせてるお前が素直に話すとも思えないし」
「ア、ハイ」
昨日の夜……夢じゃなくて、あの甘い雰囲気のユウはなんだったんだと突っ込みをいれたくなるほど、普通だ。
突っ込みを入れると確実に藪蛇なのでただ黙って身支度を整える。師匠は私の身嗜みにも結構敏感なので、髪は丁寧に梳る。肌の保湿に、師匠お勧めの日焼け止めをして、防具に綻びがないかも確かめる。
仕上げで他の装備品を確認し、常用している薬の類がすぐ取り出せる場所にあるか、それとルリと天月の体調も確認。準備を終えたところで立ち上がって入口前で待っていたユウを振り返ると、ぱちりと目が合う。
「なぁミナ」
「うん……?」
「俺はたぶんお前が思ってるよりしぶといし、……そうだな」
ユウの手が伸び、頭が撫でられる。どうしようもなく胸が苦しい。その瞬間周囲に防音を担う結界が張り巡らされたことに、心臓が一度高く跳ねた。
「たぶん、冷静だ。いっそ悔しい程に」
その声が本当に苦しそうで、わけがわからず高い位置にある瞳を覗き込む。ゆらりと揺れる、潤む瞳に、息を飲んだ。
「ユウ?」
「たぶんこれが、絶望の淵にあった竜の竜核を得たってことなんだ。悲しみや怒り以外、一定以上の感情は波が静まるのが早い。溢れるような情熱だとか、盲目となって周囲が見えないような熱意も、すぐさま落ち着くんだ」
「感情が、落ち着くのが、早い?」
「そうそう。ただ、もう一つだけ、ずっと変わらず……いや、ゆっくり大きく育ち続けてる感情もあるんだ。竜核が融合するより前から、ずっと。俺はその感情だけは、間違えたりしない。不変なんて信用できないかもしれないけど、俺が唯一、一番大事にしてるものに変わりないんだよ」
曖昧で、意味がわかりにくい言葉だった。
それでもその言葉の伝えたい意味が、理解できるような気がした。胸の奥に、じわじわと熱が膨らんでいく。
私の表情を見たユウの表情が、やわらぐ。それだけで、嬉しさに全身が歓喜に震えた。
「うん、行くか」
ふわりと目が優しく笑み、頬に熱が昇る。わざとか、わざとなのか。戸惑いながらもこの部屋にはもう戻らない為に再度さっと忘れ物の確認をして、宿を出る。……体がまだ、熱かった。
ユウと一緒にいたい。ユウのそばで世界を見たい。ユウの近くで、……知りたい。
腕に抱いた天月と、頭の上に乗るルリが、どこか機嫌良さそうな感情を伝えてくる。このふたりだって、私の夜中の暴走に気付いて、朝からひどく心配そうに私に寄り添ってくれていた。……信頼できる、仲間。
私はきっと恋をしている。ああ、なんて――恐ろしい。
でもやっぱり、――ユウが好き。
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