二人で暮らすこと

司田由楽

第1話 足先の水、指先の灰

「足、借りてもいいですか」

「ん? いいよ」

 小さな瓶を手にした年下の同居人の頼みに、特に違和感を抱くでもなく頷いた。夕飯も済ませて本を読んでいるところだったので、本棚に戻してその手元に視線をやる。

「新しいやつ?」

 こくりと頷く彼女、新井マナが持つ小瓶は、粘度の高い液体で満たされていた。鮮やかなブルー。俺でも聞いたことのある化粧品のブランドのネイルだ。

 四つ年下の同居人は、化粧っけは薄いがネイルが好きだ。小さな爪に色を灯して、忙しい日々をくるくると立ち回っている。古い化粧台の引き出しに几帳面に並んだ色とりどりの小瓶が増えたり減ったりしているのを時々見て、少しダウナーな表情が常の彼女が楽しそうにしているのを、俺は少しの安堵と共に見ていたりする。

 同居を始めて四年になる。彼女が十七、俺が二十二の時からだ。俺たちの複雑なファーストコンタクトのこともあって、慣れてもらうのにもずいぶん時間がかかったように思う。彼女は俺に長いこと遠慮していて、ネイルを集め始めたのも一年半くらい前の話だ。俺が足の爪を貸すようになってからは――まだ一年もたってないんじゃなかろうか。


 ある日、小さな瓶を三つ並べて唸っている彼女にどうしたんだと声をかけると、困ったように教えてくれた。本当は二種類だけ買って、手と足に一色ずつ塗るはずだったのだと。けれども偶然目に入ったもう一色がどうしても欲しくて、気づいたら買っていて、試したくてたまらないのに残りの二色とは合わないのだという。

 話を一通り聞いたものの、どうしたらいいのかは分からない。座椅子を引いて隣で困っていると、新井はパッと顔を上げた。

「この一色、西江さんに塗ってみてもいいですか」

「え? ……別にいいけども」

 頷いて手を差し出すと、頼んだ新井の方が戸惑った顔をした。

「手だと目立つじゃないですか」

「別に俺は気にしないけど」

「色を見たいだけなんで、足でいいです。男の人ってあんまりネイルしないでしょ」

「まあ確かに」

 足の爪であれば、靴下を履けば誰かに見られることもない。俺はそういう配慮が時折すっぽり抜け落ちてしまうものだから、彼女がいてくれて助かっている。

「じゃあ、足の爪貸してください」

「俺のでよければ、どうぞ」


 そういうやり取りがあって以降、回数を数え忘れるくらいには新井に足の爪を塗られている。黄色、オレンジ、青に赤――肌の色を透かした白っぽい透明が、人工的な色に覆われるのはなんだか面白い。だから頼まれた時には断らず、爪先に色が乗せられるのを大人しく待つことにしている。

 爪の形がきれいだと、新井は俺によく言う。言われるたびにそういうもんかなあ、とぼんやり思う。特段変な形をしていないというだけではないのか。ピンクがかった薄紫色を足の爪を塗られているときにそう聞けば、視線を一瞬こちらに向けて、すぐ手元に戻した。

「いつ見てもね、ちょうどいい長さだなって思うんですよ」

 そういうところがいいんです、と気分が上向いている時の声で言う彼女が、やっぱりちょっと不可解だった。別に不快ではない。どこまでいっても他人同士、理解できないところがあって当然だ。ただ彼女は新しいネイルを試したくて、俺は足の爪に頓着なんてしないから構わないという、それだけの話なのだ。

「風呂はいるから待ってて」

 こくりと頷いた新井に「すぐ行くから」と言い置いて風呂場へ向かう。

 足を丁寧に洗って、髪を乾かすのも中途半端に部屋に戻れば、新井は座椅子に腰かけて待っていた。小瓶をつまむ指先は、今はレモンイエローに彩られている。明日はどこか遊びに行くのかな、と根拠もなく思った。

 小瓶の蓋を開けると、小さな筆がたっぷりと液を含んでいる。細い指が慎重に、爪に色をのせるのを見る。密度の高い睫毛が、瞼の動きに合わせてゆっくり動くのを眺めていると、ああ明日は休みだな、なんて実感が急に湧いてきた。たまった家事を片付けて、それから何をしよう。

「できた」

 やりたいこととやらなくちゃいけないことを頭の中で仕分けていると、新井が小さく囁いて顔を上げた。

 鮮やかなターコイズブルーが、つやりと電灯の光を反射している。まだ乾いていない色が目に眩しいくらいだ。瓶に入っているときの色と、実際に塗ってみたときの色が少し違って見えるのが不思議だという話をしたら首を傾げられた。

「乾いたらトップコート塗りますから」

 あっという間に仕上げの作業だ。すいと離れていくなんだか名残惜しい、と思った次の瞬間には、口が勝手に動いていた。

「明日休みだしさ、手にも塗ってくれないか」

 ぎょっとした表情で振り向いた新井に笑いかける

「いつも楽しそうに塗ってるから、興味があって」

 駄目かな、と聞くとほんのわずかなためらいのあとに「かまやしませんが……」と戸惑いの色濃い返事。

「駄目ではないですけど……気になりません?」

「何が?」

「何って……いや、いいです、気になんないんでしょ」

 彼女が言うのはおそらく人の目とか外聞とかそういうことなんだろうけども、まあ明日は知り合いに会う予定もなく、買い物に行った先で見られたところで気にならない。

「……何色にします?」

「選んでいいの?」

 他意なく聞けば少しばつが悪いような顔をしている。いつも選択肢がないのを気にしたのだろうか、「ちょっと待っててくださいよ」と言い残して立ち上がると、引き出しの中身を丸ごと持ってきてくれた。全貌を把握していたわけじゃないが、結構な数がある。驚いた。

 しかし、興味がわいたのはいいけど何色にするか聞かれると困るな。改めて新井が集めた瓶の数々を見ると、本当に色とりどりで、傾向があるようなないような、でも暗い色よりは明るい色が、濃い色よりは淡い色が多いように感じた。

「これかな」

 あまり減っていない、薄いグレーを手に取った。あんまり可愛らしいのを選んでもなあ、と思ってのチョイスだったが、手に取ってみればなんだか妙にしっくりきた。

「うん、これにする」

 そう言えば、この色は俺の足には塗られなかった色だな。新井がつけているのを見た覚えも、一度か二度しかない。好みの色じゃないんだろうか。新井は頷きかけてから、少し困ったように眉を下げた。

「これ、乾くまで時間かかりますよ」

「いいよ」

 頷いて手を差し出すと、新井はふっと息を吐き出して瓶のふたを開けた。

「動かないでくださいよ」

 足とは勝手が違うのか、少し緊張した声で言われた。白っぽいベースコートを塗られ、それはあっという間に乾く。吐息が爪の縁を、手の甲を撫でて、ふは、と小さく笑いがこぼれた。新井は少し眉をあげただけで、特に何も言わなかった。

 両手の爪が灰色に濡れて、少し気分が高揚する。足の爪と違って視界に入りやすくて、鮮やかな色の爪を見るときの新井の笑顔の理由が分かったような気がする。

「飯作るときとか、気になりそうだなあ」

「それはわからなくもないです」

 そういって苦笑いした新井の声がふっと途切れて、視線が下を向いた。不思議な気分だ。一回り二回り小さな手が、まるで大事なものでも扱うみたいにうやうやしく俺の手を支えている。ムラのないように、凹凸のできないように。目で追っているとゆっくりとした動きに見えるのに、気づけばもう片手を塗り終わってもう一方に手を伸ばされていた。見下ろす手元に、檸檬色が揺らめく。その様をじっと見つめていると、小指の爪までグレ―に覆われて、新井は止めていた息を吐いた。

「はい、できた」

「……ありがとう」

 つるりと濡れた灰色の爪。月を思わせる、明るいグレーだ。不思議な感動に気を取られて、黙ってしまった新井が俺の手を掴んだままなのを忘れていた。すいと引き寄せられ、目を丸くする。

 小さな手が、手の骨をなぞるように動いた。爪には触れないように注意を払った、遠慮がちな手つき。そんな触れ方をされるのは初めてで、少し戸惑った。一回りも二回りも小さな円い爪。肉付きが薄いのに、どうしてかころころと丸いように感じる手。四年前はもっと痩せていて、血色も悪かった。下手に動くわけにもいかないのでされるがままになる。関節をなぞり、指のまたを滑る指先があたたかい。物言いたげなのに固く閉ざされた口許に視線をやって、尋ねてみる。

「なんか気になる?」

「んん……」

 新井は小さく首を横に振り、指と指は離れた。何事もなかったかのように、新井は透明な液体の入った小瓶を手に取った。

「足の方、トップコート塗りますね」

「ああ、ウン」

 いつも見下ろしてるつむじが近いところにある。そういえば髪を染めたところも見たことがないな、と思った。彼女の指先の鮮やかな色が目を引くのは、全体的に見ると地味な色合いの格好をしているからかもしれなかった。彼女が自分に許す唯一の贅沢が、一つ千円もしない塗料だけなんだと思うとやりきれない。

 いろんなことを我慢させている。自分で選んだ道だと新井は言うけれど、彼女が選択を迫られた時に、多くの選択肢を用意できなかったのは俺の責任だ。俺に全面的な信頼を寄せるには彼女は成長しすぎていたし、俺だってお世辞にも頼りがいがあるとは言えなかった。

 すぐそばにある小さな頭に、そっと触れる。髪の毛と、その下の体温を確かめるように撫でようとして――がしりと手首を掴まれた。

「触るなっ! ネイルが崩れる!」

「は、はい……」

 叱られた。まあ確かに髪にネイルがついても悪いしなあ。鋭い視線で爪をチェックされ、「動かさないでくださいよ」とつっけんどんに言われた。テーブルの上に手を置くと、しまい忘れた団扇を持ってきて扇いでくれる。まだ水っぽい灰色に風を受けて、気になっていたことを聞いてみた。

「この色、あんまり使わないのか?」

「まあ、そうですけど……」

「それなら、また使ってみていいか?」

 骨ばった手に並ぶ大きくて四角い爪に色が塗られているのを、滑稽に思う人の方が多いのかもしれない。でも俺はこれ、すごくいいと思うんだ。

「無理ならいいんだ」

「気に入ったんなら、同じのを買いますよ」

「うーん……それだと使いきれる気がしないな」

 そう何度もつけるわけでもないだろうし、と言うと、「それもそーですね」と新井は頷いた。団扇を動かす手を止めず、明日の朝食をパンに決めたくらいの気軽さで言う。

「別に、好きな時に使っていいですよ。これだけじゃなくて、他の色も」

 特に気にした様子もない新井に、俺の方が困惑してしまう。彼女が一つ一つ集めた色を、俺が好きな時に使っていいだって? 俺が言うのもなんだけど、同居しているとはいえ他人の、しかも男に自分の私物を好きにさせるのはよくないと思う。俺に気を許しすぎではないかと思うけど、それは俺にも責任があるので何も言えない。

「それは悪いからいいよ」

「そうですか」

 何故か少し不服そうな新井だったが、特に何も言われなかった。

 手の爪に塗った方も乾いて、トップコートを塗ってもらう。意外と似合ってるんじゃないか? なんて浮かれて、自慢するように新井に見せる。

「新井がいつもやってるやつみたいになってきた」

「まだ触っちゃダメですからね」

 釘を刺され、大人しく手を下ろす。

「自分で塗ってみるのもいいかもな、新井に塗ってもらうばっかじゃなくてさ」

 俺の指先を真剣に見つめる新井の視線を思い出す。夢中になれるものがあるというのはいいことだ。乾き始めた爪を電灯の明かりにかざしつつ呟けば、新井は瞬きのあとに意味深に笑った。

「いいんじゃないですか? やってみれば」

 その笑みの意味が分からずに首を傾げる。目はすうと細められ、唇の端が持ち上がる。息を漏らしただけのような笑い声に、底意地の悪い色が混じる。

「今までは私が塗ってたんだし、今度は西江さんにやってもらうのもいいかも」

 新井の意地の悪い笑みは、子供っぽく見えて可愛い。その笑顔の裏で考えていることが何であれ、笑っているならまあいいか、と俺は大きく頷いた。

「もちろん、俺でよければ」

 後日、自分の爪で試してみたところ全然綺麗に塗れなくてショックを受けた。はみ出さないように塗ることからして不可能で、笑いながら除光液をしみこませたコットンを渡してくる新井に恨みがましい目を向けて、はみ出した部分を拭きとった。

「そりゃ私は慣れてますからね、じゃあほら、私のもお願いしますよ」

「ええ? 駄目だ、綺麗にできないし」

「そんなん練習しなきゃうまくなんかなりませんよ。それに自分にやるのと人にやるのじゃ違いますし。ほら、早く」

 そう急かされてやってはみたものの、やっぱり綺麗にできるはずもなく。自分でやるより多少ははみだしも少なかったが、大して差があるわけでもない。小さな爪の、ムラがあってでこぼこした表面にため息をつく。ため息交じりに除光液に手を伸ばした俺を、新井は笑って止めた。

「いいんですよ、これで」

 自分でやった方がよほど見栄えがいいのに、新井はしばらくその不格好な爪のままでいた。自分が失敗したときはそれはもうひどく不機嫌になるというのに……一緒に過ごし始めてもう四年、しかしてまだ四年。俺が彼女のことを理解できるようになるまでは、まだまだ時間がかかりそうだ。

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