終章 日記の続き

「神は人間と比べて頑丈と聞いとったが、こうも差があるとさすがに不公平に思えてくるのう」

 楽し気な鼻歌を聴きながらぼやくと、その歌の主、トウフウがこちらを見やって「ふっふーん」と得意そうに笑った。

「いいでしょー」


「……玩具感覚で自慢されるとは思わんかったぞ」

「だっていいものじゃない、この体。なんでも老けないうえに、大抵のことじゃケガもしないし。ただ病気になりにくいのが難点よね」

「なして?」

「だって、病気になりにくかったら旦那さんに看病してもらえいないじゃない」


 チラ、チラとトウフウはこちらに目線を投げかけてくる。

 それに気づかんふりをして、あしは言うた。


「そりゃ、旦那さんが楽でええのう」

「そっかー。でもたまには仮病するから、そうしたらおかゆ作ってよね!」

「あしに言うな、あしに」

「えーっ、だってあたしの旦那さんじゃない」

「おまんまはまた……」


 文句を言おうとしたところで、がらっと障子が開いた。

 見やると網上の皮の果物を持ったスサノオがおった。


「よっ」

「スサノオ……、何しに来たのよ?」

 ジトっとした目で見られてもスサノオは激高せず、ゆったりと受け流して返した。

「お見舞いに決まってんだろ。でもお前はやっぱりもう復活してたな」

「あたしはれっきとした神だかんねー。多少のケガや病気は一晩寝れば、朝飯前に治ってるってわけよ!」


「……微妙にツッコミたいが、まあいいか。ほれ、見舞いの品を持ってきてやったぞ」

「わぁ、何これ? めっちゃ甘そうな匂いするんだけど!」

「メロンって名前の果物らしい。でも分類上は瓜(うり)だったりするらしいぞ」

「へえ。まあ美味しければ分類とかどうだっていいけどね!」

「一人で食うなよ。それは一応お前のもんでもあるが、半分は継愛のためにもってきたんだからな」


 釘を刺されても、トウフウの頬の緩みっぷりは変わらない。

「わかってるわよ。うふふ。西洋では夫婦でそろってケーキっていうのに包丁を入れるらしいけど。甘いなら、メロンでやっても変わりないわよね」

「……んな丸っこいもんを二人で切ろうとしたって、上手くいくわけないじゃろう」

「大体それ、見舞いの品だからな。元気になってから食われたって、あんまり意味ないんだよ。ってか、もうトウフウは元気なんだから食うなよ」

「冷たいわねー。あの時の青龍の水流弾並みよ」


「へいへい。で、継愛の様態はどうなんだ?」

「お医者さんが言うには、当時の状況と照らし合わせて考えれば症状は軽めで、あと一週間もすれば動けるようになるって」

「ほう。その頃にはもう、夏だな」

「夏……? ああ、そういえば新暦になったんだったわね」


「トウフウ、おまんの記憶はまだ戻らんのか?」

「うーん。こう、なんか喉元まで出かかってる気はするのよね」

「……そこ、胸元じゃぞ」

「コイツが本当の自分を思い出すのは、もうちょっと先になりそうだな」

「別に思い出さなくたっていいけどね。継愛にもらったトウフウって名前もあるし。たとえ実家があろうとも、絶対に帰らないんだから!」


「……はあ」

「大変そうだな」

「同情するなら、助けてくれい……」

「ごめん被る。犬だって腹の足しにしないんだぜ? 神の俺様にゃ、なおのこと価値がないしな」


 スサノオがひらひらと手を振った時、再び障子が開いた。

 そこには二人の女子がおった。

「お兄ちゃん、来たよー!」

『こんにちは、継愛さま』

「よう来たな、もなか、美甘」

「えへへー。あのね、あのね。もなかお見舞いとお祝いに来たんだよ」


「お祝い? お前、今日が誕生日だったりするのか?」

「ああ、おまんにはまだ言うとらんかったか? 先日、あしん所に書字者管理機関から正式に試験合格の通知が来たんじゃ」

「へえ。ってことは快復したら書字者として働くってわけか」

「そういうことじゃ。まあ、当分は見習いじゃろうけどな」

「頑張ってね、お兄ちゃん!」

「おうよ!」


『わたしもご検討をお祈りしています。……あの、青龍さん。そろそろ出てこられてはいかがでしょうか?』

 と美甘が呼びかけると、ややあって生流が障子の向こうから姿を現した。

「おおっ、めんこい恰好しとるのう」


 青龍は以前の継ぎ接ぎだらけの粗末なもんではなく、小綺麗な着物を召しとった。矢絣模様の上着に袴と、どことなく背伸びした感じが青龍には不思議と似合っていて、可愛らしかった。

 何より、今の彼女には首輪がついていない。それが無性に嬉しかった。

 彼女は自分の角をしきりに触り、視線を左右にきょろきょろ忙しなく動かしてちょった。


 きっとここに来る間も、ずうっとあんな感じだったんじゃろう。

 寝転がったままでは失礼じゃと体を起こそうとすると、トウフウが急いで近寄ってきて支えてくれた。

 あしは「おおきに」と礼を言ってから、青龍に向き直った。


「……えっと。その。……けーあい?」

「おう。あしは継愛じゃ」

 青龍は顔を上げ下げしながらこちらをちらちら見やった後、やがて意を決したようにあしに視線を定めて口を開いた。

「その、……いっぱい、いっぱい迷惑をかけて……ごめん」

「謝らんでもいい。悪いのはあの亮大ってヤツなんだからのう」

「でも……」

 まだ納得していない風の青龍に、あしはちっくと考えて言うた。


「のう。どうしても申し訳ないって気持ちが消えんのなら、一つあしの頼みを聞いてほしいんじゃが」

「……頼み?」

 青龍の視線がぴんと伸びる。

 場の全員の視線が、あしと青龍の間を交互に行き交う。

 誰もが話の終着点が見えず、困惑していると見た。

「そう構えんでええ。まあ、達成するのはまずまず難しいかもしれんがのう」

『……あの、継愛さま。青龍さまはまだ幼いので……』

「ええから、ええから」


 あしは三度青龍に目を向け、彼女の目を覗き込んだ。

 前までの荒涼とした大地を思わせる感じではない。

 今はちゃんと感情が芽吹き、この一瞬の時に思いを馳せている。

 それをもっと育んでやりたくなり、あしはトウフウに言った。


「おい、トウフウ。筆と硯、あと紙を取ってくれんか」

「え? 別にいいけど……。もう字を書いても大丈夫なの?」

「ああ。そろそろ少しずつ、勘を取り戻していかんとな」

「わかったわ。ちょっと待ってて」

 トウフウはあしの机を漁り、頼んだもんを手早く準備してくれた。


「もうすっかり嫁が板についてるな」

「えへへー。あたぼうよー」

「おまんはすぐ調子に乗るな……。まあ、おおきに」

「よきにはからえ、よ」

「絶対芝居の見過ぎで影響受け取るな」

「曽根崎心中とかお気に入りなの。元気になったら一緒に観に行きましょ」

「それ、面白いのー?」

『もなかにはまだ早いわよ』


 あしは姿勢を正して筆に墨をつけ、紙に黒く染まった命毛を入れた。

 久方ぶりの書だったが、心はすぐに筆と紙に同化することができた。

 何をどうすれば、どんな線が書けるか。それが手に取るようにわかる。

 これは青龍のための字じゃ。

 でもあしのためでもある。

 寝込んでいて筆に触れられん時間がずっと続いとったが、それが酷く辛かった。

 こうして書ができる今、とても満たされた気分になることができた。

 一画一画を噛みしめるように書き、あしは筆を置いた。


「青龍。おまんは、字を読むことができるか?」

「……少しは」

「じゃあ、これはなんちゅう読み方をする?」

 そう言って今しがた書いた字を見せてやると、青龍は僅かばかりあっぽろけた表情になりながらも、ぽつりと言うた。


「……さち」

 幸。

 それがあしが青龍に送った文字じゃった。

 あしは彼女の小さな顔に以前の影がないのをじっくりと確認した後に言うた。


「幸せになりい。難しいかもしれんけど、あしも手伝っちゃるきに。な?」

 あしが言うと、トウフウが続けて声を上げた。


「あたしもあんたがどうしてもってお願いするなら、力になってあげてもいいわよ」

「……お前、こんな小さい子によくそんな横暴な言い方できるな」

「るっさいわねえ。あんたはどうなのよ?」

「俺様は神の味方だからな。当然、青龍の手助けはするぜ」

『私も微力ながら、お手伝いできたらと』

「もなかもするー。シナモンちゃんは?」


「我も協力することに異論はない」

「……シナモン、おまんそう簡単に人前に出てきてええんか?」

「出てきてはならん理由がないからな」

「……まあ、ええ」


 場にいる全員の思いを聞いた後、あしは改まって青龍に訊いた。

「みんなはこう言うてくれてる。青龍、おまん自身はどうじゃ?」

「……ぼく、自身?」

「そうじゃ。青龍、おまんは幸せになりたいか?」


 青龍は角から手を放して、長いことじっと黙考した後、やがてはっきりとした声音で言うた。

「……ぼく、……幸せになりたい。……毎日、楽しく……生きたい」

 青龍を見るみんなの顔がほころんでいく。

 あしはうなずき、自身の書いた字を撫でながら言うた。


「そうか。なら、幸せに生きられるように、これから一緒に頑張っていこうな」

 青龍はしっかりとうなずいてみせた。




 賑やかだった病室兼旅館の客室も、今はみんなが帰ってしまい、静かになった。

 傍らに座っとるトウフウは眠くなってきたのか、さっきから頭をふらふらと前後に振っちょった。

 あしは長いこと眠っちょったせいで、すっかり目が冴えてしまっとった。

 唯一の話し相手がこうでは、一人で時間を潰すしかない。


 あしはまだ微かに痛む体を動かし、文机の前に行った。

 その上には一冊の薄汚れた手帳があった。

 これは長いことご無沙汰していた、日記帳じゃ。


 ずぼらな性格のあしにゃ、やはり三日坊主の四字がお似合いらしい。

 じゃけんど今日までの日々は、この先の人生で振り返ってもきっとかけがえのないものになる。そう確信できた。


 じゃからあしは、記そうと思う。

 無論、文章力という面では目も当てられんもんになると思う。

 あしは書字者であって、文筆家ではないからじゃ。

 それでも、この胸中の思い、そして魂は余さず込めようと思う。一文、一文字、一筆全てに。


 いずれあし以外の者がこれを読んだ時、その一文字一文字から時を越えて思いを共有してくれると嬉しいのじゃが。

 師匠に近況を伝えるという目的をすっかり忘れたまま、あしは一ヶ月近くの日記の執筆にとりかかった。


 〈了〉

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