第三章9 『決戦直前』

 天狗達に運んでもらい、あしは天井近くに設置された透明な足場に着地した。材質はわからんが、いくら激しく動いても落ちる心配はなさそうなぐらいしっかりとした踏み心地じゃった。突貫工事とは思えぬ、頑丈な作り。

 今もなお観客席から起こる連続爆破のごとき怒号にも動じない。ひとまず落下死の心配はなさそうでほっとした。


「こちらをどーぞ」

 豪奢な服を着た長らしき天狗が顎をしゃくって天狗の一人に合図をする。

しずしず出てきた部下から、ぶっとい筆を手渡される。


 あしは思わず「ほう」と感嘆の声を漏らした。

「ええ感じちや」

「柄の部分はご神樹(しんじゅ)によって作られているそーです」

「ふむ。重さといい、質感といい完璧じゃ。よう手に馴染む」

「硯はここに置いておきますね。照明はすぐ点(つ)けますかー?」

「うむ、そうしてくれ」

「かしこまりー」


 天狗達はどこぞへと飛んでいく。照明の上に位置するここからでは、すぐに天狗達の姿は見えなくなった。

 照明が点く前に、筆先をこれまたぶっとい硯に満たされた墨に軽く浸(つ)ける。

 毛先の感覚が今まで使っていたものと違う。


 確か天狗は一角獣とやらの背の毛を使っちょると言うとったが、なるほどこれはなかなか面白い。柔らかな弾力ながらも腰がある。自分の理想通りに筆が沈み込んでいく不思議な感覚。

 いつもとはまた違った字が書けるかもしれん。

 胸を期待に膨らませていると、ぱっと照明が一斉に点いてあしのことを照らし出した。

 眼下の観客席からさっきまでとは違う戸惑いの声が起こる。


 こうやって大勢の前で注目されながら字を書くのは初めてじゃが、なかなか新鮮な感じがして悪くない。

 天井に貼られた紙を見やる。正確には硬く平べったい板状のものを設置し、そこに紙が貼りつけてある。

 いつもと違う態勢じゃが、問題ない。

 筆があり、紙がある。


 ならばたとえ状況が違えども、やるべきことはただ一つ。

 字を書く。それだけじゃ。

 何千何万、いや、軽く億を越える回数繰り返してきたことちや。


 もはや呼吸同然――しかしたった一つ違うのは。

 一筆入魂。そこに熱き魂を込める。

 筆を持つ手に力を入れ、毛先を紙に近づていく。

 毛先が紙面に触れた瞬間、意識が己が体と筆、紙と三位(さんみ)に宿る。


 もはや全てが一体である。

 筆が紙から感じている感触、紙に引かれた線の思いなどが理解できるようになった。

 その域に達したなら、すべきことはたった一つ。

 自分の迸る熱を訴えるのじゃ。

 誰もが見とれるような、魂に響く字を書きたい。

 心が通い合ったなら、感情も共有できる。これは道理である。


 もともと人は、字を書くことを書道と呼んだ。

 書道の道は火之本に伝わった時からすでに存在した、中香由来のものじゃ。

 彼等いわく。

 道とは人間の理屈を超越した理のことを指すという。

 人は自分達を超越した神さんに至るべく、字を生み出した。すなわちそれ、道である。


 そうして。

 道は神だけでなく、人の心にも伸びていく。

 詩的なものなら、こう呼ぶかもしれない。

 架け橋、と。

 呼び方なんて、どうでもええ。つまり文字っちゅうのは、それ自体に人の心に訴えかけるもんがあるってことぜよ。


 文字は一部例外を除いて、真っ直ぐな線だけでは構成されとらん。

 曲線がいくつも重なり、複雑な形を成しているものもある。

 じゃけんど、どんな文字であってもそこに魂がこもっとるなら、真っ直ぐに書字者の想いが伝わってくるもんじゃ。


 熱き魂こそが、真っ直ぐな道を作る。

 それがあしの信条じゃ。


 筆が最後の一線を記し、紙面から離れる。

 できた。最高の字じゃ。

 でっかく描かれた自身の字を眺めていると、胸の内が満たされるのを感じた。


 さっきまで憤懣吹き出す活火山となっとった観客席から、わっと歓声が沸き起こった。

 書字者――字を書(しょ)す者(もん)の登場に。

 二柱の女性の天狗がやってきて、あしを高台へ下ろしてくれた。


「お兄ちゃーん!」

『頑張ってください、継愛さま』

 観客席から手を振ってくれているもなかと美甘に、あしも同じように返す。

「では、わたし達はこれで」


 去っていく美人な天狗を見送っていると、後ろからドンッと体当たりを食らった。

「わっと!?」

「もーっ……! なんで両脇に女の子はべらせてんのよ!?」

 トウフウが抱き着きながら不満をぶつけてくる。


 あしは力任せに引き離しながら、反論を試みる。

「しゃあないじゃろう」

「仕方ないで済むなら奉行所はいらないわよ! 継愛のお嫁さんはあたしなのにぃ……」


「うふふ、相変わらず仲がいいわねぇええん」

 豚肉とみたらしを無理に絡めたような声が割って入ってくる。

 見やると向かい側に立つ亮大が、腰をくねらせながら近づいてきていた。


「はあ。あたしは今までこれの相手を散々させられてたってのに」

「……そいたぁ、すまんかったのう」

「二人して酷いわねぇん。あ、もしかして照れ隠しぃ? ツンデレってヤツぅ?」

「ようわからんが、ぞっと寒気がするのう……」

「くっ、精神攻撃を仕掛けてくるなんてっ……。やるわね」

「あぁん、二人共いけずぅ」

「いけずでええから、さっさと試験、始めてくれんね?」


「いいわよぉ。まずはルール説明を軽くさせてもらうわぁん」

「そ、そいつぁ、おらの仕事で……」

 と言いかけた赤鬼を、亮大は鋭い目つきになって睨みつける。その一瞬だけ雰囲気が武士のごとき殺意をまとっていた。

「あぁたは黙っててくれるぅ……?」

「へっ、へい、わかったでごわす!」

 わざわざ二度返事し、直立する赤鬼。


 亮大は満足そうにうなずき、元のぶりっ子な雰囲気に戻る。

「それでねぇん、ルールは簡単よぉ。神さんを場外に出すかぁ、戦闘続行不能にするかっていうだけぇ。わかったかしらぁん?」

「なるほど、単純じゃな」

「つまりその子をおねんねさせればいい、ってことよね」


 青龍は相変わらず首輪をつけられ、それから伸びた鎖を亮大が持っていた。

「そういうことよぉん。うふふっ、それにしても今日のトウフウたんは前と違った可愛さよねぇん。ブシドーガールって感じかしらぁん? ね、お願い。あちしにギューッてさせてぇん!」

「ダメよ。あたしは継愛のお嫁さんなんだから」

「別に嫁やないけどな」


「んもう、いけずよねぇん。彼女がこんなに熱烈アピールしてくれてるのにぃん。でもでもぉ、そんな生流たんにもきゅんきゅんしちゃうぅ。倒した後は二人まとめてあちしのものにしちゃおうかしらぁん?」

「……トウフウ、この勝負は負けられんぞ。スサノオのためにも……あし等のためにも」

「ええ。絶対に勝つわよ」


 あしとトウフウは顔を見合わせて大きくうなずいた。

 亮大は気味の悪い笑い声を立てて、青龍を連れて高台の反対側に向かった。

 審判の赤鬼は高台の両側を見やって、咳払いした後に、金棒を前に差し出して高らかな声で唱えた。


「かたやぁ、トウフウ。こなたぁ、青龍」

 あしは和紙を開き、筆を構える。

 トウフウは胸元から扇子を出し、臨戦態勢を取った。

 一方の青龍はぼうと立ち尽くしたままで、亮大は墨のついた筆をくるくると指先で回しちょった。

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