第三章6 『蛙はお好きですか?』
あしは筆を持ち上げ、彼女の腕に毛を触れさせた。
やわこい。トウフウの時は背中じゃったが、そん時とはだいぶ違う感触じゃ。
無論、毛の方がなよいから書く分には問題ない。今まで色んなもんに書いてきたから、毛先の触れとるもんの違いがわかるっちゅうだけの話じゃ。
手首より先を動かして、字を書いていく。腕に収まるぐらいの大きさじゃ、あまり大胆な動きをせんでええ。細い線を躍らせ、素早く書いていく。
最後の線を書き終えて筆を離し、硯に筆をおく。
あしはもなかに笑いかけて言うた。
「できたぞ」
もなかは自分の腕を見やり、ぱっと顔を輝かせた。
「わっ、可愛い!」
そこには柔和な書体で魂と書かれとった。丸みを帯びた、伸びやかな線の重なりじゃ。
「へえ。継愛ってこんな字も書けるのね」
『まるで文字全体が微笑んでいるようです』
「えへへ。お姉ちゃんもやってもらったら?」
『いえ、わたしは遠慮しておきます』
二人に散々見せびらかした後、もなかはこちらを見やり、満面の笑みを浮かべて頭をぺこっと下げた。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「よか、よか」
あしはもなかの頭をわしわしと撫でちゃる。
彼女はくすぐったそうに目を細めた。
●
外に出てふと空を見上げたら、空模様が怪しい。
「これは一雨来るかもしれんのう」
『どこかで傘を買った方がいいかもしれませんね』
あしと美甘が曇り顔で話し合っちょる横では、トウフウともなかが嬉しそうにはしゃいどった。
「わーい、雨、雨!」
「もなかは雨が好きなの?」
「うん、好きー! だからね、今まで一度もてるてる坊主を作ったことがないんだー」
「へえ。子供のくせに、雨のよさがわかるなんて、やるわね。少し見直したわ」
「……トウフウちゃんも、まだ子供だよ?」
「あ、あたしはれっきとした大人よ! 大人の女性!!」
「えー、子供だよー」
「大人なの! あたしが大人って言ったら、大人ッ!」
「子供だよー」
「大人だって!」
「子供だもん」
「大人よッ!」
「大人だよー」
「子供よッ! ……あっ」
口を押さえて、苦々しい表情になるトウフウ。
勝ち誇ったようにもなかは笑う。
「やっぱり子供なんだー」
「ちっ、違うわよ! 今のは……」
「もなか、ちゃんと聞いたもん。トウフウちゃんが自分のこと子供って言ってるの」
「違うって言ってるのに……っ、むっきー!」
あしは苦笑を漏らし、二人に言った。
「遊んどらんで行くぞ、子供達」
「はーい!」
「もうっ、継愛までーッ!」
この反応を見る限り、誰だってトウフウの方により幼い印象を抱くじゃろう。
当の本人はその後もさんざっぱら、自分がいかに大人かを長々と語っとった。
「この前買い物に行ったら、お店のお爺(じい)さんがお嬢ちゃんは可愛いからって一つおまけをくれたのよ。これってあたしに女として魅力を感じたってことでしょ?」
「はいはい、そうじゃな」
「ふふーん。ようやくあたしが大人ってわかったようね」
悲しいかな、語るほどに理想とは真逆の印象が雪玉式に膨れあがっていった。
傘を買ってすぐに雨がぽつぽつと降りだしてきた。
あし等は傘を差し、濡れゆく石畳を踏みしめて国戯館に向かっとった。
所持金の都合で傘は二本しか買えず、あしとトウフウ、美甘ともなかの組み合わせで傘に入っとった。
「継愛、継愛、けいあーい♪」
「コラ、ベタベタくっつくな。歩きにくいじゃろうが」
「ねえねえ。これって、相合傘ってヤツよね」
あしは幼子に無理矢理付き合わされた双六で賽を投げる時のような調子で答えた。
「傍から見たら、そうかもしれんのう」
「愛々傘ってヤツよね!」
「……理由はわからんが、答える意欲が微妙に削がれたんじゃが」
「むう……。まだそこまでの仲じゃないってことね」
トウフウはどんよりした空を見上げて、ぎゅっと両手の拳を握った。
「でもいつか、世界一仲睦まじい夫婦になってみせるわ!」
「……応援しとるぞ」
「なんで他人ごとなのよー!? 継愛だって――」
トウフウが何か言いかけた時に、ちょうどいい瞬間で美甘が口を挟んでくれた。
『こちらを通ると、近道なんですよ』
彼女が指差したのは建物に挟まれた、地面が踏み固められた土の細道だった。傘の端が引っ掛かったりしないだろうかと不安になるぐらい狭い。
「ほお。地元民しか知らん、秘密の抜け道っちゅうわけじゃ」
「わあっ、秘密! うんうん、ここは秘密の道なんだよー」
「ふふん、そんな言葉程度ではしゃぐなんて、やっぱり子供ね」
「まだ言ってるー」
ふんぞり返るトウフウをもなかが笑う。
そんな二人を微笑して一瞥(いちべつ)し、美甘は細道へ入った。
あし達もその後に続く。
傘もなんとか引っかからずに入った。
建物の間を抜けると、ちょっと広い道に出た。地面は土のままだ。
道の片側には洋風の細い棒が並んで作られた塀があり、庭がよく見えた。
ちょうどトウフウともなかの目線辺りに、紫陽花(あじさい)が咲いていた。
青と紫の二色の花がいっぱいに咲いている。
「紫陽花、可愛いね!」
「こういう時は、きれいじゃないの?」
「えーっ、可愛いよ」
二人が言い合っていると、ゲコッ、ゲコッとゲップでもしちょるような鳴き声がした。
なんじゃと思うた矢先、緑色の葉でぴょんと蛙(かえる)が跳ねた。同色で今までいることに気付かなかったんじゃろう。
美甘はあからさまにビクッと身を竦ませる。
対照的にトウフウともなかはきゃっきゃとはしゃぐ。
「あ、蛙ちゃんだー」
「うわぁ、可愛いわね!」
「うん、可愛い!」
今度はバッチリ意見が合ったようじゃ。
その一方で美甘が顔を紫陽花のように青くさせていた。
『そ、そろそろ行きましょうか?』
「えー、もうちょっとー」
『でも、継愛さま達が試験に遅れてしまったらいけませんし……』
「ふっふふーん、こういう時は大人の出番ね」
鼻高々に胸を張ったトウフウが、意気揚々と言う。
「この子を連れて行けば、一緒にいられるじゃない!」
「おおー!」
拍手を送るもなか。
めずらしくものすっごくイヤそうに顔をしかめて美甘が訊く。
『……本気ですか、トウフウさま』
「え、なんで?」
きょとんとした顔のトウフウ。
美甘は眉間の皴を限界ギリギリまで深めて言った。
『こんな気色悪いのを大勢の人が集まるところに連れて行くなんて、正気の沙汰とは思えないのですが』
「なにそれ。この子に失礼じゃない!」
ちょうどよく蛙が「ゲコッ!」と鳴いた。美甘の体が痙攣したように震えた。
『失礼とかそういうんじゃなくて……』
「お姉ちゃん。蛙ちゃんだって、もなかたちみたいに一生懸命生きてるんだよ! 差別はよくないよ!!」
『そっ、そんな不衛生で知性がないものを、わたし達人間と一緒だって認められるわけがありませんッ!!』
強く断言する美甘。
対するトウフウはニヤリと笑った。
「へえ。知性があればいいのね?」
『……え?』
「ふふふっ。この若緑(わかみどり)を舐めちゃあいけないわよ」
「……げに若いんか、その蛙(かわず)は?」
「若いに決まってるじゃない。元気にぴょんぴょん跳ねてたんだから」
さも当然といった感じで言い切るトウフウ。若緑は「ゲコゲコッ!」と威勢よく鳴く。年齢はわからんが、ともかく元気は確かにあり余っちょるようじゃった。
「さあ若緑、こっちへいらっしゃい」
すっと手の甲を差し伸べると、若緑はぴょんとそこに跳び移った。
得意気に美甘の顔を見やるトウフウ。
「どう? この子はちゃんと人間の言葉がわかるのよ」
『ぐっ、偶然に決まってるじゃないですか!』
「往生際が悪いわね。それじゃあ、決定的な証拠を見せてあげるわ」
『しょ、証拠……ですって?』
お白洲に呼ばれた罪人のように、冷や汗を流す美甘。
トウフウは蛙の顔を見やって言った。
「ねえ、若緑。今から、ここにいる人数分の回数を鳴いてみてくれる?」
『そ、そんなこと、できるわけ……』
美甘が絵魔保越しに乾いた笑い声を発した瞬間。
若緑は頬袋を膨らませ。
「ゲコッ、ゲコッ、ゲコッ、ゲコッ」
四回きっちりと鳴いた。過不足はまったくない。
勝ち誇った笑みを浮かべるトウフウともなか。
「ふふふっ、どう?」
「ちゃんと四回鳴いたよ、お姉ちゃん」
『……あっ、あり得ません!』
「残念だけど、あり得たのよ。ね、継愛?」
傘を共有しているため、いつもより間近から顔を見上げられる。右手の甲の若緑もなぜか一緒にあしの方を向いた。
「……まあ、四回鳴いとったのう」
『そんなぁ……』
傘を持つ手をそのままに、がっくりと肩を落とす美甘。
哀れやが、敗者の落胆は勝者の目には得てして映らないものである。
「やったわね、勝利よ!」
「これで若緑ちゃんも一緒に連れてけるね!」
雨に濡れるのも構わず、両手を繋いで喜ぶトウフウともなか。
揺れるのを嫌ってか、若緑はぴょんとトウフウの肩に跳び移った。
美甘は頬をピクピクひくつかせながら二人に尋ねた。
「……あの、どこまで……連れていく気なんですか?」
「ん? 連れてくっていうか……」
「飼っちゃダメなの、お姉ちゃん?」
逆に問い返された美甘は、言葉も発さずに頭を押さえた。
ひさにどうすべきか悩んだ。
ふと試験のことが頭に浮かんで、そろそろ時間が差し迫ってきたのではと心配になってきた。
もしも反対すれば議論になるじゃろうし、長いことここから動けなくなってしまうかもしれん。それが原因で受験権利を剥奪でもされたら、笑い話にもならん。
今日のところは美甘には我慢してもらうことに決め、あしは二人に言うた。
「連れこっちょくのはかまん(構わん)が、絶対に他の人に跳びついたりせんようにきちんと言い聞かせておくんじゃぞ」
「「はーい」」
二人して片手を上げ、声をそろえて返事した。蛙も折よく「ゲコッ」と鳴いた。あしも本当にこいたぁは人語を解してるんじゃないかって、少し疑る気持ちになってきた……。
まさかのうと思いつつ、「さ、行こう」と美甘に言って、案内を再開してもらった。
若緑はゲコゲコと時折鳴きながらも、トウフウの肩でじっとしちょった。
そろそろいつもだったら夕日が沈みだす頃。
雲の色は白から灰、黒に変わりつつあった。
次第に雨脚が強くなる。
闇の中に響く雨音は、まるで無数の弾丸が天より放たれているかのようじゃった。
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