ヒヤシンスは夏の色

日音善き奈

ヒヤシンスは夏の色

「二学期になったら、放送部に入りたいな」

日差しが眩しい夏の夕暮れ、クリニックの帰りにママに言った。

「音楽が好きだから。お昼の時間にかけたいの」

「そう。入れるといいね」

運転席のママはただ前を見てハンドルを握り続けてる。

私は座席から覗くママの髪を見て、こんなに白かったっけ、と不思議に思う。

「うん……」

六月の初めに学校に行けなくなった。行けなくなった理由はわからない。クラスのみんなも好きだったし、友達もいたんだけど。

それから夏休みに入って、週に1度のメンタルクリニックとママの買い物の付添以外は家から出ることなく過ごしている。


ああ、十四歳の夏が暮れていく。何も残せぬままに。

家に帰って、もらったお薬をカレンダーにセットする。スヌーピーのカレンダー。犬が好きな私のために、ママが買ってきてくれた。

そのカレンダーのとなりには学習机。学校の教科書やノートが並んでいる。


時々その教科書を開いて、少しだけ勉強してみる。でも、数学は解き方がわからないし、英語はすぐ疲れてしまう。国語は、もう全部読んでしまった。


今日はすごく疲れたので教科書はちらりとも見ずにベッドに横になった。西日が顔にあたって、すこし眩しい。顔に腕を回すと、あっという間に意識が枕に吸い寄せられていく。

眠りに落ちる時、私はほんの少し、うしろめたい心地がした。


目が覚めた時にはすっかり夜だった。

部屋を出てリビングに行くと、パパがナイター中継を見てる。

ママは冷蔵庫からラップのかかったツナとトマトのおそうめんと、昨日私がつくったポテトサラダの残りを出してくれた。

「クリニック、仲いい人はできた?」

とパパ。

「おじさんとおばさんしかいないよ」

パパが言ってるのは、クリニックで土曜早朝にやってる自助会の人たちのことだ。

パパは私が自助会のひとたちと仲良くすることばかり勧める。

でも歳も全然ちがうし、話も合わないし、一緒にいたって面白くない。

それより私は、早く学校に通えるようになって、同級生の子たちと話したい。

「週末、庭で花火でもしようか」

「ん……」

うなづきともあいづちとも取れない返事をあいまいにしながら、おそうめんをすすった。


私がいつもいるこの部屋も、頭の中でさえも真っ白に焼き尽くすような夏が終わって、私は今年も自分がもう十四歳の少女じゃないことに気づく。

「あやちゃん、音楽専門学校なんてどうかしら」

「え?」

「こないだ、放送委員になりたいって言ってたでしょ。

パートの人に聞いたらね、それならDJってお仕事がいいって。

みんなにあやちゃんの自分の好きな音楽を聴かせてあげられるってよ」

「そんなこと言ったっけ……?」

夏の間のことは、全然記憶にない。

「言ったわよ。それでね、そのDJってお仕事に就くためには……」

「いいよ、私もう三十八だよ。若い子たちと一緒に専門学校になんて通えない」

ママはしゅんとしょげかえった。

「……どうするの?これからのこと、何か考えてるの?」

「大丈夫だよ死ぬから!」

私はうんざりして、突き放すように言った。

「パパとママが死んだらすぐ死ぬから!心配しないで!」

ヒュッと、息を呑む音がしてママがおびえたように肩をすぼめる。


ママは泣いていた。


翌朝、ママはいつもと変わらない様子で慌ただしく朝食を作っていた。今日は自助会があるから、私もパジャマを着替えて髪をとかす。無理に明るくふるまうママが痛々しくて、心が痛くて、私はつい

「私、アルバイトするね」

と言ってしまった。ママは何も言わず、ただ泣きそうな顔で笑っていた。


自分にアルバイトができるかわからない。今まで働いたことなんて一度もなかったのだから。こんな私を、ママが何も言わずに見守っててくれたのは、パパがあんまり急かさない方がいいと言ってたから。

パパは、いつか私がお嫁に行くと思ってたのだと思う。


私は、なぜか毎年夏になると昔に戻ってしまう。夏を越えた二学期。胸のうちに不安まじりの期待をひめる中学生に。

炎上天を焦がした太陽がなにかを諦めるように遠く高くなる季節、私は『今』の自分に帰ってきて


そして今年も、ため息をつく。


そんな不甲斐ない私がどうして急に働こうと思えたんだろう。

四十に迫る年齢への焦り?

いいえ、それを言うならずっと焦ってたし、ずっと不安だった。それでも動けなかったよ。

そんなあいまいなものじゃなくて、私はただ、ママを喜ばせたかった。

ママの白髪とシワに包まれた顔が悲しみに沈むのを見たくなかった。

「ここいいかも。料理の勉強になるし」

クリニックの帰り、モールの二階に入っているお弁当屋さんでアルバイト募集の広告を見つけた。

中を覗いてみると明るい照明の下、女の子の店員さんが笑顔でレジを打っている。

「あら、募集してるのね」

ママの顔は太陽みたいに明るい。私はここに決めようと思い、電話番号をメモした。

「はい、ハナマル弁当です」

家に帰って電話をかけると、若い女の子の声が響いた。

「あの、アルバイト募集の広告を見たのですが……」

「はい」

はい、って。それだけ?え、次に何を言えばいいんだろう。

「…………応募したくて……」

怖くて声が小さくなる。

「担当者に代わりますので少々お待ち下さい」

電話口の声が保留音にかわり、ふぅと一息つく。こんなんで息ついてる場合じゃないのに。

まだまだ、これから。

「もしもし代わりました」

すぐに保留音が切れ、今度は落ち着いた中年の男性の声が響いた。ええっと……。さっきのお姉さんにアルバイトの応募って言ったんだけど、また同じこと言わないといけないのかな。


予想外の展開の連続にしどろもどろになりながらもなんとか応募したいことを伝えると、明日面接をしてもらえることになった。

「……明日、履歴書持って来てって」

受話器を置き、固唾を呑んで見守ってる両親に声をかけるとふたりはホーっと息をついた。

「あまり、気負いすぎないようにね」

「うん、そうだよ。ダメでもともとくらいの気持ちでいいよ」

私はうなづいたけれど、『気負う』ことがどういうことなのかわからなかった。

緊張したくても、どんなことを聞かれ、どんな目で見られ、そしてどんな失敗をしでかすか想像すらつかない。

両親が思うよりもずっと私はのんびりと、というかぼんやりしていた。


「お弁当屋さんか。料理がうまくなるかもね」

「あそこ寄ったことあるけど、お料理も美味しかったし店員さんの感じも素敵だったわ。余ったお惣菜を頂けたりするのかしら」

「接客がないから初めてのアルバイトにはちょうどいいね」

気負うなと言っておきながらすっかり娘の社会復帰にはしゃいでいる。

そんな二人を見て私も、なんだか素晴らしいことが起きそうな予感に胸が高鳴った。

面接用のバッグなんて持ってないから、パパの古いカバンを借りて準備しながら言われたことを思い出した。

「ね。履歴書ってどこで売ってるの?」

ママは少し考えて

「文具屋さんかな」

文具屋さん……。近くにあったかな。小学校のそばにおばあちゃんがやってる小さな店があったけど、今もやってるかわからないし、昔すぎて場所もおぼろげだ。

たよりなく考え込む私の顔を見て

「モールにも文具売ってるお店が入ってたと思う」

「そっか。じゃあ明日面接の前に買ってから、どこかお店入って書こうかな」

「今日用意した方がいいよ。連れてってあげるから行こう」

ママはそう言って車の鍵を手にした。

もう、夜の八時を過ぎていた。一日家事で疲れてるだろうに、こんな暗い中運転なんてしたくないだろうに、自分が本当に情けない。

だけど私は運転もできないのだ。こういう時大人という生き物は普通どうするんだろう。

自分の足で小学校の近くの文具屋さんに行ってみる?でももう閉店してるかもしれないし、私じゃ迷子になりかねない。

だめだ、どうしょうもないや。ごめんママ。

もう苦労かけないからね、私は心のなかでそう誓って車に乗り込んだ。

「履歴書って、どう書けばいいんだろう」

家に帰ってリビングのガラステーブルに紙を広げる。想像以上に書くことが多い。

写真はいまさら撮れないので、明日早めに出て駅前の証明写真機で撮ろうという話になった。


私は、自己紹介とか自己PRというのが苦手だ。

これは私の性格とかじゃなくて、私みたいな人はみんなそうだと思う。中学校に行けなくなってから今までの間、私は何をしていたのだろう。本を読むのが好きだったから、図書館にしょっちゅう行ってた。去年の夏にはお台場で海の写真を撮ったし、花火もした。ママに教わってカラフルな星型のゼリーも作ったし、雲ひとつない晴れた日に三人で川の堤防沿いも歩いた。

だけど、この白い紙を埋められそうなことは何一つないよ。

「家にいて介護をしてました、って書けばいいよ。年齢的にもおかしくないだろう」

とパパ。

「家事もしてました、ってね」

ママがダイニングテーブルを磨きながら言った。

「してないのに……」

今日だってなにもしてない。逆に負担をかけてばかりだ。

「してくれてたわよ。あやちゃんのポテトサラダ、美味しいよ」

ママがはずんだ声で言った。


優しい両親の愛と、嘘がいっぱいの履歴書をなんとか書き上げた時には二時をすぎていた。眠気を振り払い、汚れがつかないように慎重に封筒に差し込んでカバンに入れる。すでに一枚、苦労して作った履歴書をシミで汚して無駄にしているのだ。


履歴書書くのってこんなに大変なんだ。面接前に書こうなんて思った私が馬鹿だった。ふらふらしながらベッドに倒れ込むと、その後のことは覚えてない。あっという間に眠りに落ちていった。


翌日は快晴。面接は午後からだから時間の余裕はあるし、万端で臨むためにもう少し寝たかったのだけど、きらきらの朝の光を浴びると目が冴えてしまう。

二度寝はあきらめてノソノソとベッドから這い出すと、寝不足のせいか動悸がする。

やだなぁ、大切な日なのに。

ため息を吐きながらリビングに入ると、トーストをかじっていたパパがニコっと笑った。何も言わないけど、パパの精一杯の応援。優しいパパとママ。大好き。


お昼をすぎて、少し早めに家を出た。

途中の駅で降ろしてもらって証明写真を取りに行く。写真機の中に入ると女の人の音声が流れた。その声のうながすままお金を入れ、赤くてでっかいボタンをぽちぽち押していったら

「撮影が終了しました」

やった!なんだ、簡単じゃん。

満足気に長い息を吐いて安心していると、妙なことに気がついた。


写真が、出てこないのだ。アナウンスは終了してるし、どのボタンを押しても反応がない。

どうしよう。

泣きそうになりながらボックス内を探しに探し、ボタンというボタンを押しまくったが何も出てこなかった。

「撮れた?」

がっくり肩を落として車に戻ってきた私にママが声をかける。

「写真、機械から出てこなかった」

え、と叫んで

「故障してるの?」

「わかんない」

「故障してるのなら電話で聞いてみましょう。待っててね。車停めてくるから」

そう言って車はどこかへ行ってしまった。しばらく待ってると小さな肩掛けバッグと車の鍵を手にしたママが現れ、一緒に写真機についていってもらった。

「あ!あるわよ、ここ!」

写真機を前にしてママが叫ぶ。

カーテンの左下、すごく目立たないところに半透明の取り出し口があって、その奥に写真シートが入っているのが見えた。

「なんで、なんで外。ええ?」

混乱しながらもシートを受け取る。見ると何枚かのサイズの違う顔写真が綴られていて、切り離して使うようだ。

取り出し口のすぐそばにヒモでつながれたハサミが用意されていたので早速使おうとしたところ

「私履歴書、車に置いてきちゃったよ。どう切ればいいかわからない」

どのサイズの写真を選べばいいのか、どこを切り取ればぴったりのサイズになるのかもわからない。

「取ってくるわ」

ママが駆け出していく。

私はどうすればいいかわからずその場に立ち尽くした。私が一人で取りに行くべきだけど、どこに車を停めたのかわからない。じゃあ、一緒に走る?なんのために?重い荷物なら一緒に運ぶ人がいれば助かるけど、履歴書なんて一人で運んでも全然軽い。


どうしよう、どうしよう。考えても答えが出ない。

車は結構遠いところにあるようで、ママはなかなか帰ってこなかった。

写真機、次の人が来たら困るな。使うのはハサミだけだけど、そばでうろうろしてたら不審がられそう。

使用中に見せかけようと中に入ってカーテンをしめると、機械の音声は「お金を入れてください」をくり返した。周りに響き渡る結構大きな声だ。次使おうと待ってる人が聞いたら、おかしいと思って中を覗くかも。

私はあきらめて写真機を出た。


少し早めに出たとはいえ、時間は刻々と近づいてくる。

間に合うかギリギリ。これ以上遅れたら……ハラハラしながらママが消えていった大通りの奥を見つめていると、きた。

よろけそうになりながら走ってくる姿を見て心が傷む。

「ありがとう、ありがとう。本当にごめんね」

泣きそうになりながら履歴書を受け取り顔写真の枠とシートを合わせる。

枠から寸分はずれないように慎重に切り取り終え、ホッとしたのもつかの間、さらに恐ろしいことに気づいた。

「これね、貼り付けるのにのりがいるみたい。シールになってない……」

どうしよう、履歴書がこわい。というか証明写真がこわい!


「ね、とりあえず行くだけ行きましょうよ。写真はあとで出しますから、って言って」

車の中で腑抜けみたいにぼんやりしてる私にママが声をかける。

頭が真っ白で、何も考えられない。

逃げたくて、なかったことにしたい気持ちでいっぱいだったけど言われるままにうなづいた。どうせこの道を真っすぐ行けばモールに着いてしまうのだ。


車を駐車場に停め、ママはスーパーに、私はお弁当屋さんにそれぞれ向かった。店先まで一緒についていくと言ってくれたけど、スタッフの人に見られるのが嫌だったのだ。お店の中は相変わらず明るい音楽の中、若い女の子がキビキビと働いていた。

「すみません」

一言声をかけ、今日面接予約をしたことを伝える。

「あーはい、お待ち下さい」

女の子は店の奥に引っ込んでいき、代わりにニコニコしたおじさんが出てきた。

目は垂れ下がってて眼球が見えない。笑っているけど厳しそうにも見える。

おじさんに案内され、奥に連れて行かれる。

部外者は入っちゃいけないお店の舞台裏、そこを覗けることにちょっと興奮した。


中はほこりっぽい小さな事務所になっていた。数人の店員さんが物珍しげに見てくる。おじさんは緑色のリノリウムのテーブルの椅子に座らせて、自分も手前の椅子に座った。

「店長の吉岡です」

「森永です。これ、履歴書です」

そう言って白い封筒を手渡す。店長は中身に目を通すと

「三十八歳なんだ」

と驚いたように言った。

「職歴……失礼ですが、これまでは何されてたのですか」

「介護、してました……」

店長の眉がさがり、細い目がにわかに同情を示す。

「それは大変でしたね。もう、終わられたのですか」

介護が終わるってどういうことだろう。

よくわからないけど、違うというときっと答えられないことを色々聞かれるだろう。

「……はい」

店長はそのままの顔で何度もうなづいた。

「ご住所少し遠いですけど、こちらまではどのように通いますか?」

「車で、通います」

「あ、免許お持ちなんですね」

空白の資格欄に視線を送る。

「いえ、ないです……」

「え、どうやって車で?」

「母に、送ってもらいます」

店長の顔色がにわかに変わり、考えるような目で虚空を睨んだ。

その後は時給の希望と、採用の場合はこちらから連絡するということだけ説明されて面接はお開きになった。


落ちた。

結果なんて待たずともあの顔を見ればわかる。

ママに「落ちたよ」とだけ伝え、二人共何も言わずに家に帰った。

これからどうするか、なんて何も考えられない。ただただ自分の失敗のことばかり何度も頭の中でくり返していた。


思いもよらぬことが起きた。ハナマル弁当から、採用の連絡が来たのだ。

「キッチンに入ってもらいますが、いいですか」

「はい、最初からキッチン希望です!」

「それはよかった」

ほっとしたような店長の声にうれしくなりつつ、電話を切ってすぐに両親に大声で報告した。

「よかったねえ」

「あやちゃんの良さが伝わったんだよ」

と大喜びだった。

明日からすぐ入ってほしいと言われたので、週末にお祝いしようかという話になった。

レストランへ行こうか、家でロウソクつきのケーキを焼こうかとあれこれ話している二人を見て、本当に、本当に勇気を出してよかったと思った。


『一歩踏み出せば何か変わるさ』

どこかで聞いたフレーズが浮かび、鼻歌でそれを口ずさんだ。


翌日お店に行くと、現れたのは面接してくれたおじさんではなく、茅野さんという五十代くらいの女の人だった。私が使う分のロッカーと鍵をくれたので、扉を開けてカバンを置く。中のエプロンとマスクを身につけると、お店とバックヤードを隔てる大扉の前まで戻り、そこからロッカーとは反対方向に進む。ドアもなく区切られたその奥の空間が、私の働くキッチンだった。

「今日から新しく入りました森永さんです」

キッチンの人たちがふりかえる。高校生くらいの女の子と、長い黒髪を後ろでお団子にした三十代くらいの女の人。

「よろしくお願いします」

私も頭を下げると、二人はマスクをつけた顔の目だけで笑ってみせ、頭をぺこりとさげた。

揚げ物、大鍋、冷凍庫。キッチンにはたくさんの什器がいっぱいで、茅野さんは一つずつ私を連れて説明してまわってくれた。

初日ということで、今日は洗い物を担当。ピンク色のゴム手袋をつけて調理に使ったお鍋や包丁を一生懸命磨く。水で濡らして、磨いて、流して。たまってきたゴミを捨てて。何度も何度もくりかえしてるうちに終わりの時間になった。

「森永さんあがってー」

茅野さんの声に元気に返事をしてキッチンを出ていく。ロッカールームで帰り支度をしていると

「シフト決めたいから来てくれる?」

と言われた。

茅野さんの前にはびっしりと鉛筆で書き込まれたシフト表があって、その一番下に手書きで「森永」と、名前とシフトの枠が横にビーッと引っ張ってあった。

「週五で十七時からラストの二十二時まで入ってもらうんでいい?」

マスクを付けたままの茅野さんが眉尻を下げて聞く。他に予定もないし、私はハイとうなづいた。

「うん、じゃ、よろしくー」

言いながら枠に斜線を引っ張っていく。用は終わったようなので帰ろうとすると

「ねえ、森永さんって普段何してる人?」

髪を二つ結びにした女の子が話しかけてきた。

う、やっぱりこの歳でアルバイトなんて変だと思われてるのかな。

「特に何もしてないです……」

口ごもりながら答えると

「え、好きなことは?ひまな時何してるの?」

「本読んだり、あと、アニメ見るのも好きです。最近だと『俺ブラ』が好きで……」

「『俺がギルドから追放されたらブラコン妹が激怒してくれた件』!?私も好きー女の子可愛いよね!」

二つ結びの女の子が大きな目をきらきらさせる。話を聞いていた骨ばった女性がゲェ、という顔をして

「それって美少女アニメじゃない?うちの息子も好きよ」

「私可愛い女の子大好きだから。

わー女の子で俺ブラ好きな子はじめて会った。仲良くしようね!私前島ひとみっていうの」

「ひとみちゃん……」

勢いにちょっと押されながらも、仲良くしようねと言ってもらえたことがうれしくて私もにこりとほほえみ返した。


「仲いい子できたんだ」

帰りの車の中でママの背中に話しかけた。

「そう、よかったねぇ」

「自助会の人たちよりもおしゃれだし、話も楽しい」

ママはうんうんとうなづく。

パパが帰ってきたら教えてあげよう。私、働いてるよ。お友達もできたよって。


翌日は調理に参加させてもらえることになった。

大きな板状の鉄の什器に冷凍の焼き餃子をおき、時間になったらひっくり返す。焼き上がった餃子からはふわぁっと美味しそうな蒸気があがり、いい匂いがあたりに漂った。

ハナマル弁当の餃子は一番の売れ筋のようで、一日に何度もこの作業がくり返される。

茅野さんに一通り手順を見せてもらい、わからないことがあったら読んでと透明なビニールケースに挟まれたマニュアルを渡された。

私も見様見真似でやってみる。鉄のフタをあげ、餃子を置いてタイマーをセット。待ってる間は洗い物。餃子、いつかな。結構かかるなぁと思いながらゴシゴシやってると

「森永さん!?」

キッチンに茅野さんの叫び声があがった。

「餃子焦げてるよ!何やってんの!?」

みんなの視線が私に集まる。茅野さんは什器のフタをあげて黒焦げになった餃子を見つめている。

どうしよう。え、だってタイマーしたはずなのに。どうして?

混乱している私を見て茅野さんはイラッとした様子で餃子を引き上げて廃棄した。


どうすればいいのかわからなかった。


今更引き上げてもお店には出せないだろう。それなら什器の目の前にいてフタを開けて見てる茅野さんがとっくに引き上げてるに違いない。どうすればいいの、謝る?でも、タイマーが鳴らなかっただけなのに、私、何が悪かったの?

「タイマーセットしなかったの?」

「したと思ったんですけど……」

「してなかったよ」

「…………」

知ってたのになんで聞くんだろう……。

「ちゃんとメモ持ってきてね。石田さんはいつもメモ見ながらやってるよ」

そう言って高校生の女の子にあごを向けた。

「はい……」

その日はもう餃子を焼くようには言われず、黙々と洗い物をこなした。

「森永さん、まだ洗い物終わらない?」

茅野さんの声でハッと顔を上げると、時計はもうラストを十五分も回っていた。

他の人達はみんな帰ってしまってキッチンには私と茅野さんの二人きり。シンクの横には汚れた鍋やボウルが積まれている。

「子どもたちの弁当作らなきゃいけないから、私もう帰るね。戸締まりしていってくれるかな」

そう言われてお店の閉め方を習う。売り場の方はレジも締めてあって、やることと言えばバックヤードの鍵をしめるだけだった。

たった一人、夜遅くまで洗い物を洗う。

ママ心配してるかな。遅れること言えなかったから今も車で待ってるのだろうか。


最後のカラトリーをきれいに洗いきり、ロッカーから荷物を取り出して戸締まりをする。モールの裏口から出て駐車場を見回すと、ママが車の外で待っていてくれていた。

「遅かったわねぇ」

あがる時間の三十分もオーバーしていた。

「うん、ずっと洗い物してた。人、足りてないみたいで」

「大変だったね」

車の中で、私は言えることがなかった。お土産話として喜んでもらえるようなことが何もない。藍色の空の下を進む車はエンジン音だけ響かせたまま、立ち並ぶ青白い街灯を通り過ぎていった。

「明日からバイト、バスで行くよ。待たせるの悪いし」

「え?こんな遅い時間に危ないよ。ママなら大丈夫」

「うん、でも悪いから」

面接の時、母親に送り迎えしてもらうと言っておじさんがエ?って顔をした理由がわかった。介護が嘘だってこともあの時バレてたんだ。恥ずかしくてたまらない。


翌朝、コンビニでメモ帳を買ってきた。バスは乗り間違えるとこわいので行きだけ車で送ってもらう。帰りだけバスで帰って、慣れてきたら行きも、という算段だ。

何度も何度も確認したメモ帳とロッカーの鍵とお店の鍵を、車の中でもう一度確認する。チェックの肩掛けカバンの中にはちゃんと三つともあって、自分をほめたいような気持ちになった。


バックヤードに入るとリノリウムのテーブルに腰掛けてタバコを吸っている茅野さんがいた。肩掛けカバンから鍵を取り出してお礼を言うと、ハイとだけ言って受け取った。私も自分のロッカーを開けて支度をする。エプロンのリボンを結びながら、ハッと気がついた。

メモはある。あるのだけど、書くものがない……。


顔から血の気がひいていく。『メモを持ってこい』と言われて頭の中にはメモしかなかった。どうしよう、また怒られちゃうよ。

違うんです。言われたことはちゃんと覚えてて、それでメモも準備したんです。でも、だけど……。


重い足取りでキッチンに入ると、昨日とは違う女性が二人いた。私が入ってくるのを見ると、茅野さんがみんな、聞いてと声を張り上げた。

「昨日、餃子焼器を使う際タイマーのセット忘れで廃棄が出てしまいました。今後再発防止のため、餃子を焼くときは周りに一声かけ、必ずタイマーがセットされていることを一緒に確認してもらってください」

二人ともうんざりした顔をしている。当然だ。そもそもスタッフは四人、というかほぼ三人だけで回しているのに二重チェックなんてしたら一人分の作業が増えてしまう。

申し訳無さに小さくなってると、茅野さんが冷蔵庫から出来合いのサラダのパックを取り出してどかどかとボウルにあけた。

「森永さんサラダ盛りつけしてパックお願い」

そう言ってハンバーグ弁当の容器をどんどん回してきた。

お弁当はほとんど出来上がっていて、あとは右上の空いたところにマカロニサラダを詰めれば完成のようだ。

サラダを詰め詰め透明なフタをかぶせてテープを貼り、ハンバーグ弁当はできあがり。

配膳車の上に積み重ねていっていると

「量少なすぎるよ。もうちょっと盛って」

虫みたいな顔の中年の女性が言った。フタがきちんと閉まる分だけ盛り付けたけれど、確かに普段お弁当屋さんで見る量よりはかなり少ない。

でも、もう配膳車の上には六膳もテープを貼ったお弁当が乗っている。これはどうすればいいの。全部やり直し?もう作っちゃった分だけでも出せないかな。

知らず識らずのうちに懇願するような顔になっていたみたいで、虫みたいな女性は困ったようなちょっと怒った声で

「出せないから、盛り付け直して」

と言った。

半べそでテープを剥がしてはフタを開け、ちょこっとサラダを付け足す。シール跡もフタもきれいには剥がれず、どうにも不格好なハンバーグ弁当が六膳できあがった。

やっと終わった。

ため息を吐き、気を取り直して今度はさっきより多めにサラダを盛り付けていると

「乾いちゃったじゃん、もう」

と虫の女。見れば手を付けかけのハンバーグ弁当は放置されてツヤを失っている。

小さくうつむいて、これ以上乾燥しないようにできるだけ手早くフタを閉める。怒られないために、自分がどうすればよかったのかわからないけれど、この人もどうしろとは言ってくれない。モヤモヤしているとキッチンに茅野さんが入ってきた。

茅野さんはチラッとハンバーグ弁当の遅すぎる進捗を見て、何も言わずに炊飯器にお米を入れた。


アルバイトを終えロッカールームで休憩していると、店長がお店の掃除を終えて上がってきた。昨日は上がった時はもう帰った後だったしその前はいなかったので、店長と会うのは面接以来。ニコニコと優しい顔で

「森永さん、どう。もう慣れた」

どう答えていいかわからなかった。

この体たらくで『慣れた』なんて言ったらおかしいし、かと言って『慣れません』と答えても相手も困るだろう。私はあいまいに首を傾げて笑った。


モールを出ると真っ青な月が出ていた。今日から一人で帰る生活の始まり。敷地すぐそばのバス停で時刻表を確認すると三十分も後の到着だった。時間を見誤ったわけではなく、もともと一時間に一本しか来ないのだ。前のバスは就業時間中に出てしまうし、次のバスはバックヤードを閉めた後だ。

まあ、いいや。

心のなかでつぶやきながら背もたれのない椅子に座る。あとは帰って寝るだけだし、明日は休みだから夜ふかししても大丈夫。それに、時間はかかってもバスは来るのだ。ここ最近の自分のへっぽこ具合にまた何か失敗するのではないかとハラハラしていたのだけれど、ちゃんと帰れそうでホッとした。


地平線に近い夜空が絵の具をこぼしたように青くぼんやりしていて、上にいくほどの藍色が濃くなっていく。

その藍色に高く突き出した電信柱の、ケーブルが絡まりついたアルミ色の変圧器の上に小さな鳥を止まらせてみる。

なんの意味があるわけでもない、ただの子供じみた遊び。あんなところに仲良しの小鳥がいたらいいなとふと思ったのだ。

何の鳥がいいかな。すずめにしよう、かわいいし。スズメが三羽止まってる。ちゅんちゅん。

すーずめーがさんわ、うーかれーてさんわ……。


にたいな……


「え?」

縁側に面した畳の部屋で、ママが取り込んだ洗濯物を畳んでいる。

ガラス戸から見える柿の木の風に揺られて落ちる葉は、冬への招待状のようだった。

「何か言った?」

私は首を振った。なんでもないふりをしようとして

「私、バイト先で嫌われてるの」

ちょっと迷いつつも打ち明けた。

「どうして」

「私があんまり、仕事ができないから」

しぼり出す声が震えている。ママは一瞬手を止めてこちらを見てから

「気にし過ぎよ」

と笑った。

「本当に仕事出来ない人は、自分のこと仕事出来ないなんて思わないものよ。ママが勤めてたパート先にもいたけど、ひどいんだから。全然反省してないし謝りもしないの。

悩んでる人はね、本人が気にしてるだけで意外と評価されてたりするものよ」

一方的にしゃべりつづけるママを見て、何も答えられなかった。

パパもママもあんなに喜んでたんだもの。娘が仕事できないなんて受け入れてもらえるはずがない。それに、まだ入ったばかりだもの、できないのは仕方ないよね。今日はゆっくり休んで、また明日からがんばらなくちゃ。


四日目。今度こそメモとボールペンをちゃんと用意した。ママは私を送り出す時「がんばってね」と力づけてくれた。

洗濯したてのエプロンとロッカーの鍵。家で何度も確認したけれど、ここでももう一度忘れ物がないことを確認して車を出た。

バックヤードに入った時、しわがれた聞き覚えのある声が聞こえた。

「森永さんのせいでモヤモヤした週末を過ごしたわ」

虫の女がバカにしたように笑ってる。私は思わず身を隠した。視界が白黒にバチバチと光って心臓がドキドキする。呼吸を整え気持ちを落ち着かせては、さも今入ってきたばかりかのようにロッカールームに入った。


この日はオーブンの使い方を習った。パン屋さんのカマドみたいに大きなオーブンに何枚もオーブン皿を挟み込み、上に乗せた西京焼きを蒸して焼く。

スチーム用の水を入れて、油脂分離機能はオフ、低温スチームモード、温度と時間を設定してスタート。

茅野さんの声を聞き漏らすまいとメモを取るけれど、早すぎてとても書き留められない。次第に手が疲れて字がぐちゃぐちゃになっていく。でも

「わからないことあったらこのマニュアル読んで」

とクリアカバーに包まれた紙を渡してくれたので、あとでもう一度読み直そうと思ってその場をやり過ごした。


まずい。西京焼きの焼き方が全然わからない。

マニュアルには『ハンバーグ(蒸し)、ローストビーフ、西京焼き』と題して手順が載っているけれど、白黒で見づらい上用語がわからなすぎて頭が混乱する。

なぜか温度を設定するボタンが二つもある。『温度』と『調理温度』、違いは何?

低温スチームモードとよく似たボタンのTデルタモードとがあって、よく似てるから間違えないでと言われた記憶はあるけれど、どちらが正しいのか覚えていない。

メモを見ても汚い字で

「ていおん〜 と Tデルタ を まちがえない」

としか書いていない。


どうしよう……どうしよう。

茅野さんにもう一度聞く?どこから?全部また説明させるの?きっとまた呆れられる。ため息吐かれて、虫に笑われる。

待って、マニュアルがあるんだ。落ち着いて一つ一つ確認すれば大丈夫じゃない?

それに要は魚を焼けばいいんでしょう。低温かデルタかはわからないけど、試しにかたっぽ押してみればさっき茅野さんが見てたのと同じ画面になって思い出すかも……。

思い切って低温スチームモードを押して見ると、熱風モードとコンビネーションモードかを選ぶ画面に切り替わった。

熱風、コンビネーション、なにそれ……。

すっかり絶望して途方に暮れていると、

「あれ。西京焼きは!?まだ焼いてないの?」

茅野さんが大きな声をあげた。

「すみません、どうやって焼けばいいか忘れてしまいました……」

「忘れたって、あんたメモ取ったんじゃないの?」

と言ってコールドテーブルに載せたままの私のメモ帳を覗き込んだ。

「何よこれ……」

はじめの方こそ一字一句書き留めようとした痕跡が見られるが、だんだん走り書き、それも動詞や関係ない言葉ばかりで何を書こうとしたのかすらわからない。

「あんたこれ自分で読んでわかるの?」

わかるはずがない。だからこうして途方に暮れているのだ。

「……わかりません」

「メモとっても自分が読んで理解できなきゃ意味ないでしょ」

こわくてたまらず、左の手で右の二の腕をつかんで肩をギュッとすぼめると

「言ってる意味分かる?言ってる意味分かる?」

茅野さんは早口でまくしたてた。

「はい……」

ため息を吐いてもう一度説明してもらう。今度はメモに書き留めているのを見てもらいながら都度都度区切って話してくれた。

「西京焼きは低温スチームモードで。Tデルタと似てるから気をつけてね」

低温で正解だったんだ。今度こそちゃんと覚えよう。そう思って

「あ、そうなんですね」

と言うと

「さっきも教えたよね?」

茅野さんの顔がいらだちにゆがんだ。


風前の灯火みたいにかき消されそうになりながらバイトを続けていたある日、とうとうやってはいけないことが起きた。

ロッカールームで準備をしていると、茅野さんに声をかけられた。今となってはキッチン以外で誰かに声をかけられるなんてこと全然ない。ちょっとワクワクしながら返事をすると

「先週貸したバックヤードの鍵、まだ返してもらってないよね」

冷や水を浴びせられた気分だった。

先週、確かに洗い物が長引いた私は茅野さんに鍵を貸してもらって戸締まりをした。だけどそれは今週の頭くらいに返したはず。鍵をロッカールームで取り出した時のことも、茅野さんに渡した手の感触もはっきりと覚えている。

「え……返しましたよ」

「いや、もらってないから」

茅野さんのうんざりするような声に、私はこれまで積もりに積もっていたものが抑えきれずあふれ出てきた。

「ひどいです。確かに私は仕事できないけど、こんなことまで疑われる筋合いないです」

こわくて顔が見れない。視界にひろがる灰色の床が涙でにじんでくる。私は確かにミスばかりでポンコツだけど、これは確実だよ。

「落ち着いて、とりあえずもう一回おうち帰って探してみて」

茅野さんがなだめるように言う。涙がとまらず返事が出来ない私を見て、何も言わずキッチンに入っていった。


帰ってから大捜索がはじまった。

コートのポケット、ずっと使っていない秋物のジャケットやカバンのポケット、引き出しの中、ベッドの下、洋服だんすの中まで。

でも、なかった。そもそも私は鍵をポケットに入れないし、あるとしたらいつも使ってる肩掛けカバンの中だ。アルバイトにはこのカバンしか持っていかないし、鍵をしまうのもこの中だ。もちろんそこは十回くらい探した。中身を全部取り出して逆さまに振って、それでもないのを確認したのだ。

「私が仕事できないから、全部私のせいにして片付けようとしてるんだよ」

だんだん腹が立ってきて、家中あさりまくっている私を心配そうな顔で見守っているママにぼやいた。

「ひどいねぇ。負けちゃダメだよ、やってないことはやってないと言い通しなさい」

ママの言葉で力づけられる。そうだ、どんなに孤立無援でも自分だけは自分の味方でいてあげなくちゃ。


「あ、おはようございます」

お店の敷地内に入るとバックヤードから茅野さんがお弁当を運んでくる。あいさつをすると、私の目を見てコクンとうなづいた。

「家、探しましたけどやっぱりなかったです。私は茅野さんに返したと思っています」

眉が困ったように下がり、マスクと三角巾で覆われた口元がウーンとうなっている。納得いかなそうだったけど、お客さんも数名いたのでそれ以上何も言わず、配膳車を押して行ってしまった。


終わった……のかな?ちゃんと伝えたし、これで終わりだよね。後から何か言われるかもしれないけど、次も負けないで毅然としていよう。

緊張がドッと解けたのか急にのどが渇いた。お店の奥にある冷蔵ショーケースに並んでいるお茶を一本取り出して買い物をする。

レジの子がうんざりしたような目で見てたけどどうしてだろう。スーパーで店員さんが買い物してる姿はよく見るし、おかしいことじゃないよね……?

少しドキドキしながら財布を開けると、あった。バックヤードの鍵が。


思い出そうとしても財布に鍵を入れた記憶がまったくない。バスはパスモだし、ここ数日バイトが忙しくて買い物する時間なんかなかったから、財布を開けたのは久しぶりだったのだ。

財布の中って……。

財布なんて、お金しか入ってないものとばかり思って探しもしなかった。そもそもどうして私、財布の中に鍵なんて入れたんだろう。小さいから、なくさないように?


もう、何もわからない。何も信じられない。

財布も、カバンも、部屋も家も街も空も、あらゆる物質や自然現象が私を罠にはめてあざ笑っているように見えた。


それから後のことは覚えていない。鍵は返したと思う。私はいつの間にかバイトを終え、バス停で夜空に向かって立つ電信柱を眺めていた。


淡く波打つきれいな藍色にポツポツ灯る白い星が散らばって、その中のひとつが鳥に姿を変えて電柱にとまる。


とり、ことり。にわ、さんわ……。


みるみる星は白い鳥に成り代わり、電線ケーブルの上に次々ととまった。

私はぼんやりとそれを見つめながら、ふと思いつきで変圧器に絡まるケーブルに自分の首をくくらせてみる。

あ、楽に、なった……。



どうやって嵐を越えたかは覚えていなかった。


豊穣の海から出発した豪華客船は一日も経たないうちに嵐に遭い、船員が話し合った結果、私はたった一人で船から降りることになった。

とても心細くて、でも大人たちと戦うだけの力もなく、言われるがままに縄ばしごをつたって小さな木の舟に乗り込む。涙は見せまいとしたけれど、そんなことをしなくても雨と風の音がすべてをかき消した。

いつ終わるともしれない嵐の中、必死で櫂を漕いだけど、西へ行ったのかあるいは東か、記憶に残るのは強い風とはうらはらに何もかも照らし出す太陽のように黄色く光る空と、その空へ昇っていく巨大な蛇の影。

気づけば雨は上がり、薔薇色の空の下遠くに島が見えた。ゆっくりと淡い色の浜に舟を近づける。急ぎたくても思うようには進まない。それでも少しずつ島はおおきく視界に広がり、いつの間にか舟は浅瀬に乗り上げた。

あたりには誰もいなかった。浜は砂が白く光っていて、何もかも見通せるほど明るい。見上げると空は藍色の薄雲がかかり、はるか北の方角にオリオンが光っていた。


私のいたところは、手の届かないほど遠くへ行ってしまったんだわ。


濡れたスカートをぎゅっとしぼり、よろめく体を支えながら、ぽつぽつとともる灯りをたよりに山を登っていった。

森の中は濃い闇で、まるで夢の中をかいくぐるように朦朧とした意識の中灌木をより分けて進む。どこからか清らかな水の音が聞こえ、見ればそこには小川と、赤茶けた屋根の家があった。


呼び鈴を鳴らすと、現れたのは髪を片側で束ねた痩せた女性だった。


右手にさげられたランプが女性の顔をほんのり照らす。眠っているところを邪魔したのか、緑の目がまどろんでいる。女性は私を見ると、そのまま家の中へ引っ込んでしまった。


どこからか気味の悪い鳥の鳴き声とひそやかに流れる水の音が聞こえる。わかってた。受け入れてくれる場所なんかどこにもないって。みんな私に消えてほしいと思っている。

トボトボとぬかるんだ山道を引き返しているとカチャリと音がして女性がドアを開けた。先程のシミーズ姿の上からカーディガンを羽織っている。私が入ってくるのを待っているようだったので、泥がはねるのもかまわず急いで登っていった。


家の中は薄暗く、チェストの上やサイドテーブルにランプが灯っていた。小さな肩掛けカバンをソファの脇に置こうとして、サイドテーブルの上のぎょろりと大きな目玉に気がつく。よく見ると光沢のある羽のオウムが鳥かごの中でしきりに目を動かしていた。


彼女はりんごと名乗った。

「どこから来たの」

「おぼえていません」

「どうやってここへ来たの」

「わかりません」

りんごは質問をやめて、ふつふつと温度のあがるスープをお玉でひと混ぜした。

「私、ここへ来るつもりはなかったんです。おぼろに照る月に見とれて泣いていたらいつのまにかここにいて、荒れ狂う海も静かな海もこえ、たった一人でやってきました」

食器棚から波模様の皿が取り出され、赤いレンズ豆のスープがそそがれる。一口のめば不思議と心が落ち着き、私は自分が疲れていることを思い出した。

「ここで眠ってもいい?」

「かまわないけど、ちゃんとしたベッドもあるのよ」

りんごははじめて笑った。

「立てるかしら?」

立ち上がろうとして、ソファカバーにシミがついていることに気づいて青くなる。びしょぬれのまま座ってしまったのだ。

「汚くしてごめんなさい」

胸に小さなトゲが刺さる。私ってどうしていつも大切なことを覚えておけないのだろう。だから、だから……いえ、何も思い出せない。

りんごはまた元の顔にもどっていて

「汚くないわ」

とだけ言った。


カーテンのすきまから柔らかい光が顔にそそがれる。

ベッドから身を起こすと、ゆうべには薄暗くてよく見えなかった部屋の様子がわかった。

小さな部屋には木製の机とひざ掛けのかかった椅子がおいてあって、机の上にはたくさんの本や雑誌が積まれている。レースの編み方や庭いじりや料理の本などにはやわらかく、幸せそうな写真がたくさん載っている。


ここへ来て、久しぶりに本当の意味で眠れた気がする。


不安な気持ちも、重苦しい気持ちも今は感じない。机の上の小さな鏡にうつった自分に笑いかける。それなりにかわいらしく見えて上機嫌で部屋のドアを開けるとあたりに甘いクリームの香りが漂った。

ダイニングに降りていくと、りんごがエビのクリームスープを出してくれた。

淹れたてのコーヒーの魔法のようにかぐわしい香りに幻惑される。ゆうべ目が合ったオウムは活力にみなぎっているようで、しきりにその美しい羽をばたつかせている。


朝ごはんを済ませるとりんごは出かけていき、私は一人食器の後片付けをしていた。シンクの上には開かれた窓があり、そこから太陽の白い日差しが入ってくる。汗ばむ素肌に流れる水が心地よい。スポンジに洗剤をひと液たらし濡らしたスープ皿を洗っていると、窓枠の向こうから「ヨーイ……」という声が聞こえてきた。


顔を上げて外を覗いたけれど、窓の向こうには青々と実ったケールがしずかに風に吹かれているだけだった。

「ヨォイ!」

もう一度声がした。今度はかなり近いところで。気持ちが悪くなりあわてて窓をしめドアに鍵をかける。

今の声、甲高かったけど男のように聞こえた。その気になれば力ずくでドアを壊して入ってくるかもしれない。お願い、りんご早く帰ってきて。


祈るように待ち続けたけど声はそれきりふっつり止み、森のなかの小さな家は深い静けさを取り戻した。


おそるおそるドアの鍵を開けてあたりの様子をうかがうと、中にここちよい風が入ってくる。

そのまま表に出、小川に沿って道を登ったところでブオォォン……という鈍い音と金属音の混じった音が聞こえてきた。音のする方を見上げてみると、林の中に作業着を着て刈払機を振るっている人がいた。

「ねえ!」

刈払機の音に負けないくらい大きな声を張り上げる。

「あなた、このあたりの人?」

彼は刈払機を止めて私を見た。

「いやあー」

無理に張り上げなくてもその声はよく響いた。

「仕事で来てるだけだよ。俺は里のもんだ」

のんびりした、でも地に足のついた声色に安心感を覚える。さっきの話をすると

「俺たち山仕事の間では、仲間に『オーイ』と言って場所を知らせるんだ。そいつはきっとその声を聞いて、真似しようとしたんじゃないかな」

「でも、『ヨイ』と言ってたのよ」

「聞こえたものをそのまま声として出すのは難しいことだよ。俺たちは『オーイ』という言葉を知ってるから、耳に聞こえるのがどんなでも近い音なら『オーイ』になおすことができる。でも、知らなければそれが『ヨーイ』だか『ウォーウ』だかわからない。特に遠い場所からではね」

そう言って眼下に広がる山々を見下ろす。どこか遠い方から人の声が聞こえたけれど、かすかすぎて聞き取れなかった。

「きっとそいつはずっと遠いどこかから、俺達の声を聞いていたんだね」


私の頭には、口も聞けず声も出せない男が真っ暗な穴の中で山の音に耳を澄ませている姿が浮かんだ。尋常な精神ではとても耐えられない孤独、そんな世界を私も生きてきた気がする。あまりにさびしく、呼吸すらできないほど窮屈な世界を。

私はその男のことがとても気になって、彼を探しにさらに坂を登っていった。


細い獣道から広いアスファルトの道路に出てしばらく行くと右側にだだっ広い草原が広がっていてそこに古ぼけた青の屋根の家があった。


白ペンキのはげた木製のドアに午後の日差しがあたっている。ブラインドの降ろされた窓から中を覗いてみたけれど、日差しが強いからか電気はついていないし誰もいる気配がない。廃墟のように静かだった。

「こんにちは、誰かいませんか」

そう声を張り上げると、ボロボロのドアが開いて中から褐色肌のお年寄りがまぶしそうに目を細めて現れた。

「人を探しているんです。あなた、ご存じないですか」

私はしどろもどろになりながら言った。

「お入んなさい」

部屋には大きなプラタナスの鉢植えと、奥には扇風機が音もなく首を振っている。がたがたする小さなテーブルにつくとお年寄りはじゃりじゃりした砂糖たっぷりのお茶を出してくれた。

「遠く孤独な世界に住む男か」

私が探している男の話をすると、お年寄りは親指みたいに小さなカップに注がれた真っ黒いコーヒーを飲んで言った。

「わしはその男がうらやましい。誰にも邪魔されず、傷つけられることもなく生きていけるなんてね」

家を出る頃には日は傾いていた。日差しはあかるくその温かみを感じるけど、風がひんやり肌を冷やす。秋が近づいていた。


もう、帰ろう。

日が沈む、夏が終わる。逃げる時間は終わり。今年ももう帰らないといけない。頭ではそう思っても心がついていかない。

見上げれば黄色と灰色の混ざったような淡い光の中、逆光で黒く染まった鳥たちが飛びかっている。考えることに疲れはて、この中の一羽になって消えていきたいと願った。


帰路を通っているつもりが、いつのまにか知らない道にいた。点々とともる街灯の下のゆるやかな坂道の右手に平屋建ての家があって、窓からなつかしげな黄色の光がこぼれている。

「誰かいませんか?」

遠慮がちに声をかけてみるが、返事は返ってこなかった。

「あの」

もう一度声をかけようとするとすばやくドアが開き、中からつかれた顔の女性が姿を現した。

「お願い、静かにしてちょうだい。今ようやく弟が眠ったの」

左側には台所、壁で仕切られた右手にはソファが置いてある室内が見えた。手前にあるカバーのかけられた足踏みミシンや裁縫道具にはばまれてよくは見えないものの、やや太った大きな男の人が向こうを向いてゴロンと横になっていた。

私は急いで謝り、道を教えてもらって別れを告げた。


あの人だ。直感でそうわかった。

薄暗い部屋の中でうずくまる後ろ姿には普通の人とは違う異様なオーラが漂っていて、けさキッチンで耳にしたあの肝の冷えるような声とぴったり符合したのだ。

きっとあの女の人が世話をしているのだろう。やつれた顔を思い出すと胸が苦しくて、私は重い足取りで家に帰った。


「遅かったのね」

初めてここに入った日と同じように薄暗い部屋の奥のキッチンからりんごが顔を出す。読みかけらしき綴りの読めない文庫本を手にしている。

私はいつも人に何かを言われた時うまく返せない。どう答えたら正解なのか、相手が気分よくなってくれるのかわからないのだ。頭の運動神経が弱いのだと思う。

ちゃんと答えないと失礼なのにと思いながらも出てくるのは曖昧なあいずちだけ。りんごはテーブルに乱雑に置かれたタオルや雑誌を片付け始めた。アルミホイルで包んだパイ皿が目に留まる。

「おやつに食べようと思って作ってみたのよ」

いつも憂鬱そうな表情をたたえているりんごが気恥ずかしそうに頬を染める。もう冷めちゃったけど、と言ってそのお皿を冷蔵庫に持っていった。

申し訳無さと同時に温かい気持ちがこみ上げてくる。重苦しいなごり惜しさが染み込んでくる。だけど、私はここにいちゃいけない。今の私はきっと、あの太った男と同じだから。

「私、帰らなくちゃ」

私はキッチンに顔を出し、ベースキャビネットの上を拭いているりんごに声をかけた。

「どこに帰るの?」

「ずっと遠いところよ」

私はちょっと笑って

「誰も私を望まないところ」

と付け足した。

りんごは眠そうなポカンとした顔で私を見ていたけれど

「そんなところに帰ることないわ」

と言ってくれた。その目には涙が浮かんでいて、私も泣きそうになった。

「ありがとう。そう言ってくれたこと忘れないわ」

ぎゅっと、りんごの肩をだきしめる。やさしい気持ちをありがとう。あなたに会えてよかった。


晩夏の日差しがいっぱいに差し込む部屋の中、白衣を着た中年の男性がパソコンの画面を見つめている。

「……じゃあ、睡眠薬と安定剤を出しておきますね。来週の自助会は参加されますか?」

私ははい、とうなづく。自助会、参加してみよう。私はもう十四歳じゃない。自分のできることを見つけていかなくてはならないのだから。


あれから時は過ぎて、私は来週グループホームに入る。自助会でできた友達が入っているところで、空きが出たことを教えてくれたのだ。入所している人たちも温厚でいい人ばかりで、一人暮らしをしたことのない私にもおすすめだと言っていた。それに私が入ったらもっと楽しくなりそう、だって。


ちょっと不安もあるけれど、その時居合わせた友達が掃除と騒音にさえ気をつけてれば大丈夫と言っていたので、今はキッチンやお手洗いなどの片付けやおそうじの練習をしている。

ピカピカになった洗面所を見回して、私は達成感とともにここちよい疲労をおぼえてソファに横になった。

きっと、これならやっていけそう。自信がついたことで不安はどこかにかき消え、今は新しい暮らしと仲間との出会いが楽しみで仕方ない。

次こそ四十歳の森永あやとして夏を過ごそう。そう心に誓った。

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ヒヤシンスは夏の色 日音善き奈 @kaeruko_inonaka

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