第43話

 ずいぶんと秋が深まってきた。日が完全に沈む時間がずいぶんと早くなった。どこかの家では今日はカレーだ。分譲住宅のすぐ近くにあるこの公園は,この時間になると食卓の香りを届けてくれる。食欲をそそるスパイスの香りが空腹感をより一層感じさせ,お腹に力を入れておかないとぐうと音が鳴ってしまいそうだ。

 そういえば,久しぶりに「お腹がすいた」と思った気がする。そんなことを感じる余裕もないほど張り詰めた緊張感の中で過ごしていた気がする。ただ,今はずいぶんと気が楽になった。ピンと張っていた糸が切れて優しい風になびいているように自由になれた気がする。


「あー,泣いちゃったらお腹すいた~。今日は晩御飯奢ってやるよって言いたいんだけどお小遣い日前で金欠でさ。今日のお礼はまたさせてよ」

「だーれがお前に奢ってもらうんだよ。どうせしょうもないファミレスかハンバーガー屋だろ。それなら,駅まで送ってもらうでチャラにしてやるよ」

「うざいけど,ノッた」


歩いてきてたから自転車に載せてもらおうかと思ったけど,駅まで二人でゆっくり歩きたい。そんな思いを察したのか,一度サドルに足をかけたがゆっくりと少し前を押して歩いて行った。


 もうすぐ駅だ。お礼を言えていないな,改めて言うのもむず痒いしなんだかおかしいよな,なんて考えていると,不意に立ち止まって暗闇の中でこちらを振り向きもせずに言った。


「あのさ,おれ,やっぱ好きだわ。お前のこと」


 駐輪場への入り口からは学生よりも会社勤めのサラリーマンの姿が良く目につく。どこかくたびれた顔をしてビジネスバッグを片手に小走りで改札へと向かっていった。電車の到着を知らせるメロディが不自然なほど軽快に流れている。駐輪場に入る前こちらを振り向いてもう一度,言葉の一つ一つに想いを乗せるようにして彼は言った。


「おれ,お前のことが好きだったんだ。付き合ってほしい」


嬉しかった。単純に自分を好いてくれている人がいるということが。自分には価値があるんだって,ここにいていいんだって思わせてくれる人がいるということが。何度も何度も助けられた。私を救ってくれた。きっとこの人は私を幸せにしてくれる。そう思った。だけど・・・・・・私はこの思いには応えられない。


「嬉しい。だけど,・・・・・・ごめんなさい。私はやっぱり美月のことが好きなの。どれだけ周りからおかしいって思われても,後ろ指さされても,自分の気持ちに正直でありたい。私は楽しく笑いながら自分の気持ちに正直に生きていきたい。そう思えたのも,あんたのおかげ。ほんとだよ」


思いのままに言った。気持ちには応えられない。だけど,感謝していることが伝わればいいな。一瞬目の前の顔がしわくちゃになり眉毛が八の字に歪んだようにも見えたが,笑顔で返してきた。


「あー,分かってるよ。お前がおれに気がないってことぐらい。ほんと見る目ねえよな。ま,好きな人がいるって言われたら諦めもつくわ。しかも相手はあの絶世の美女だからな。応援だけはしといてやるから,頑張れよな」


じゃ,と言って駐輪場へと入っていった。私も,じゃあね,と言って奥の暗闇へ進んで姿が見えなくなるまで見送った。姿が見えなくなる直前,カッターシャツの肩口で汗を拭うようなしぐさをしていた。もしかしたら,泣いていたのかもしれない。手を振りながら涙を流す今の私と同じように。

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