第2話 Maria(2)

 2年前の11月の立冬の日のことである。


 暦では冬の初めだが、まだまだ紅葉が紅く日々を照らしている。

 銀杏並木で黄色く染まる真っすぐな道を、私は母と二人で歩いていた。


「彩乃も付いてくればよかったのにね。」

 母がやれやれと困り顔で呟いた。


 私には二つ下の妹がいる。

 妹の彩乃は子供のころからずっと絵を描いていたのを覚えている。

 白い紙にクレヨンでお父さんとお母さんを描くことから始まり、中学2年生になった今では、水彩画を描いていた。


 私は彩乃の描く絵が好きだった。

 彼女の絵には自然美が色鮮やかに羽ばたいていて、粗削りながらも繊細な筆走りが私を惹きつけてやまなかった。


 だけど最近はその絵を見せてくれない。

 態度もそっけないので、それを母に尋ねてみたら、思春期特有のそれらしく、「あなたもそうだったのよ、バカね。」と母に言われた。


 少しムッとしたが、ちょっとしたことでもひた隠し、気に入らないことに喚き散らし、まるで世界の不運は私を中心に回っているような、メリーゴーランドのように感情は行ったり来たりをしていた年ごろなんだろうと、無理やり腑に落とした。


「着いたわよ。展覧場所はどこかしらね。」

 母が市民体育館の会場前の案内図を目で追いながらおろおろとしている。


「多分、体育館の本館だと思うよ、ほらここの。」

 私は案内板大小数ある体育館のA本館を指さした。


「こんな大きいところに飾ってあるのね。」

 母は驚嘆している。


「だって、市内の小中学生が出展してるんだよ?当り前じゃない。」  

 私は呆れながら言った。

 

 今日は、彩乃の描いた水彩画が出展されているこども美術展覧会に来ている。

 彼女は、家族と一緒に絵を見られるのが気恥ずかしいようでついては来なかった。

 

 私と母は絵のことはよくわかっていない。

 素人目でしか見ることは出来ないのだが、芸術に触れたときの言葉にできない感情の高ぶりは親子共通で感じるみたいであった。


 A本館の入り口前に着くと、そこには多くの老若男女が会場内を行きかっている。

 無音の喧騒と踊る足音が会場を包み込み、静かなる熱狂が見物客の芸術心を湧き立たせ、絵に生命を与えているように見えた。

 

 私は、この一つの箱庭に、別世界の匂いを感じた。


 A本館はバドミントンコート12面分あり、市内でも有数な広さを誇っている。

 小学校低学年から中学校高学年までが展覧会の対象年齢となっており、白いしきりに作品が飾られ、学年ごとに小さなブースとなって仕切られている。


 A本館には左右に扉が二つあり、今日の展覧会では左が入り口となっている。入り口に足を踏み入れると、まず小学生低学年の絵が飾られており、中学年、高学年の順にブースが設けられていた。


 小学生の展覧ブースを置くまで進むと、ちょうど折り返しとなり、中学校1年生、2年生、3年生という順で観覧できるルートとなり、右の扉の出口から退館できるという設営になっている。


 会場に足を踏み入れると、ピンと張りつめた空気が漂っていた。

 一挙手一投足に空気がまとわりつき、視線までもが、絵に不思議な魔法でもかけられたように釘付けにさせられた。

 私はその張り詰めた空気の中を緩やかな歩みで、母と小学生低学年のブースに入っていく。


 そこには10点もの絵が飾られており、家族の絵や動物の絵、花の絵などが展示されていた。

 まだまだ上手いとは程遠いが、やはり子供の見る純な好奇心に映る世界は色鮮やかで、明るさに溢れているようで、スケッチが大胆に主張されている。


 私にもこれぐらい自分に素直になれば、少し世界は変わっていたかもしれないなんて、そんな背伸びした思いを独りでに呟いていた。


 小学生低学年のブースを離れ、中学年高学年の絵を母と共に観覧しながら、ブースの折り返し地点についた。中学生のブースからは空気が入れ替わるような、小学生の溌溂とした温かさから、感情の明暗が移ろう寒さへと私は肌で感じ取っていた。


 彩乃の絵は、中学2年生のブースにあった。


 「朝の畔」 作者:西城 彩乃


 水彩画で描かれたその絵は、大胆にも繊細な淡い青と暗い緑を基調とした色合いでタイトルの冷たさとは相反した温かさを感じる。

 木々が暗く影をつくり、真ん中には朝日が葉々から池に漏れ落ちている。

 朝靄が混じる冷たくも光差す黎明の時を、彼女の絵は描いていた。


 これは私には見えない世界。彩乃にしか見えない世界なんだ。

 なんと淡く、儚く、美しいのだろうか。


 私はたった一枚の風景画に、心を揺り動かされるほど、強く惹きつけられた。

 彩乃はよく口癖のように言っていた言葉を思い出した。


 「私の絵は上手くない。上手い人はもっといる。私の絵なんて大したことないよ。馬鹿言わないでよ。」


 私には絵を描く才能なんかないからこそ、彩乃の絵は素晴らしいと思うし、尊敬もしている。

 その言葉を思い出すたびに、私が惹かれるその絵を、貴女の心で卑下しないでなんて心から思っている。


 絵は人の価値観を知ることのできる美しい芸術であるということ、それを心から楽しんで描けること、悲しんで描けること、それら全てに価値があり、それら全てが私のようなしがない人の心をも揺れ動かしているという事実を知ってほしいと願っていた。


「彩乃、絵上手いわね」

 母が感嘆の声を上げた。


 絵の下のほう、タイトルの横には「教育委員会教育長賞」と掲げられている。全作品の中で2番目の賞となる。これだけ上手いのだから納得、とはならなかった。しっくりこない。


 これ以上に上手い絵があるのだろうか。彩乃の絵も相当にレベルが上の作品である。疑問符を浮かべながらも、中学2年生のブースを後にし、中学3年生のブースに足を向けた。


 そのブースには、色とりどりの風景画が並んでいた。

色彩も学年が上がるにつれ、多くの色が使われ、絵に立体と奥行き、時間と命を、その筆一つで繊細に描いている。


 10点の作品が展覧され、そのどれもが入賞作品となっている。

 その中に一つ、鉛筆で描かれた白黒の作品があった。


 「Maria」 作者:東条 麻衣


 その絵は、すべてが白と黒で描かれていた。

 その絵は教会で一人、シスターが片膝を立て、一体のマリア像に祈りを捧げている。


 私はその美しさに息を飲んだ。


 届くともわからない祈りを賢明に捧げ、その瞳は瞑る直前の陰りと涙が潤んでいた。ステンドグラスから差し込む光も、祈りに潤むシスターの涙も、埃と土が舞う空気も、神と人の届かぬ祈りの冷たい温度も、その全てが白と黒で描かれているにも関わらず、私の目にははっきりと色が映っている。

 

 素人の私にもわかるぐらいに、それは常人の域の絵ではなかった。

 この絵には一体、何色の白と黒が使われているのだろうか。


 私は、黒は黒一色、白は白一色だと思っていた。だがそれは私の思い違いであった。

 髪の毛一本一本の色が違い、服のわずかなヨレやシワ、ステンドグラスに反射する光と影、木製の長椅子に溜まる微小な埃までもがその黒と白に躍動を与えている。


 これは私の思い違いなんかではない。私たちには見えない世界なんだ。


 人間の目がいかに優れているからといって、ここまで繊細に色を見分けることなんてできないし、ここまで描き切ることも到底出来ない。

 それほどまでにこの絵は、果てない色への神秘と狂気が入り混じる様は、私を惹いてやまなかった。


 だが一つ気になる点がある。普通、聖母マリアを絵画として描くと、聖母マリアが祈る姿が描かれることが多いのだ。以前、家族で美術館のイベント展示に行った際、聖母マリアとキリストの絵を見たことがあった。


 館員の解説曰く、聖母マリアは祈りを捧げる聖人としての象徴とされているらしい。絵画の世界では子であるキリストを青のベールで身を包む母であるマリアが優しく抱きかかえる絵画が一般的である。だがこの絵には、マリアのそのような姿はない。


 彫刻として神を模倣する聖人として祈りを捧げている姿が半身だけが描かれている。あくまでもこの絵の主役は「祈るシスター」なのだ。だから、この絵の本来のタイトルは「祈る教会の少女」でなければ辻褄があわないのだ。


 当然のようにその絵には「県知事賞」と掲げられていた。数分前、彩乃以上の絵はないとタカを括っていた私を恥じたいと何度思ったことか。


 絵が描けることと、絵が上手いことはまったくもって別次元のことなのだろうか。


世の中には自分に視えない物が視える人がいて、それを写実に描ける人がいる。

それが現実画であろうが空想画であろうが関係なく、色に命を吹き込むことの出来る人がいる。

 

 彩乃には自分の好きであった絵を、いつしか嫉妬と憔悴で嫌いにならないで欲しいと私は願っている。

 そして私も少しだけ、筆を握り、パレットを持ちたいという感化された願望が、少しだけ心に芽生え始めてきた。

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