おやつ警察
(前回までの話)
捜査二課の登場も無く、ただそれまでの時間をだらだらと過ごす土曜日。駒田と重衛は当直勤務で署におり、片桐も数十分の作業をしに署に来ていた。
*
黒沢家のキッチンは広い。
"パンを作りたい"という要望で、調理台は通常のキッチンの倍以上に広く作ってある。…それが何かと言われれば、"食材が置きやすくのびのびと調理ができる"という利点である。その利点が今日の黒沢家の余裕を作っていると言っても過言ではない。
…そんな土曜日の10時ごろにキッチンに立っているのは夫の辰実である。平日は仕事をしつつ、若干の寄り道をして帰ってきたら7歳の長女の宿題を見て、2歳の次女と三女の相手をしつつ飼い猫のブラッシングをしている。
勿論の事、妻とは洗濯や料理、世話を交代でやっている。辰実が料理や洗濯に勤しんでいる時は愛結が子供と猫の世話をしているのだ。…更に、長女の燈は最近"お姉ちゃんだから家事を覚えたい"という健気な理由で洗濯や掃除を手伝ってくれるようになったのだ。
ぶっちゃけ燈は養子である。家族となってくれただけでも嬉しいのだが何て良い娘なのだろうかと辰実は影で泣きそうになっていた。
…そんな辰実が今、調理台に置いているのはパックの豆乳、ホイップクリームの素(200ml)、ブルーベリージャムにココアパウダーがそれぞれの器に置かれていた。少し離れた場所で、板ゼラチンが水に浮かべられ動物の匂いを抜かれている。
リビングからはソファーに座っている愛結が雑誌のページをめくる音だけが聞こえていた。返事をするように、木製のまな板の上で板チョコを切る小刻みな音が鳴る。
玉ねぎのみじん切りよりも更に小さい粒になった板チョコを、辰実は別の器に移し替えた後は豆乳を計量カップで250cc計り、テフロン加工の手鍋に流し込む。更にパックから液体のホイップを流し入れ、鍋に火を点けた。
これを、沸騰する前まで待つ事数分。希実と愛菜がキッチンを覗きに来たが、"お菓子だー"と言ってどこかへ行ってしまった。と思えば数か月前に買ってあげたレジのおもちゃと、海老や魚のぬいぐるみを並べてお店ごっこを始める。今回は希実が店番で愛菜がお客をして、いかにも手作り感のある財布から偽札を出して買い物をするという遊びであった。
(あれで成り立ってるんだから凄い…)
正直、双子の事で分からない事は未だにいっぱいある。辰実の妹がよく遊んでいた人形はあまり好まない(そもそも猫のさくらがいるので散らばるような細かいおもちゃは買えない)し、2歳の時はたまに喧嘩をしていたが急に無くなったのだ。服を入れ替えて保育園の先生を困らせたりと、変なイタズラをするのは辰実に似たのだろう。
…そんなイタズラを子供が思いつくのか、と辰実は驚かされていたが間違いなく辰実の遺伝であり、自分が小さい頃によくイタズラをして父に叱られたのを忘れているだけであった。
子供の事はよく分からん、と思いながらも待っていた辰実は、鍋の中身が沸き立ちそうな様子を見て調理に戻る。ダマになるのを防ぐため、ココアパウダーにグラニュー糖をよく混ぜこんだ後、沸騰しそうになった鍋の中身を注いで泡だて器でよくかき混ぜる。その様子を希実と愛菜が見に来ない(ご飯の用意の時は来て"おにくー"と要望を言ってくる時が大体)と思いきや、辰実の右側に立って燈がその様子を眺めていた。
(ご飯警察が来ないと思ったら、おやつ警察が来た)
気に留めず、辰実は次にジャムを鍋の中身とよく混ぜた後、刻んだ板チョコにも同じ事をして、これら全部鍋に注いだ後に、水に浸していたゼラチンを入れ、弱火で沸騰しないように混ぜていく。
辰実がそちらを向く事もなく、燈はその様子をじっと眺めていた。
(愛結とチビ達とは話をするし、さくらにも話しかけているのだが…)
まだちょっと恥ずかしいのである。それが分かっているのは置いといて、"もしかして嫌われてるんじゃないか?"と疑問を持つ事はあるが、"そんな事は無いんだけど"と愛結は言うのだ。
…暫く粗熱が取れるまでの様子を、辰実と燈は無言で鍋をじっと眺めて過ごした。途中で猫のさくらが足元にしがみついてきたが、辰実はそれを抱きかかえて愛結の隣へ置いた以外は無言の時間を過ごしている。
粗熱が取れると、辰実は氷をボウルに入れその上に鍋を置いた。そこから暫くの間、とろみが出るまで鍋の中身を混ぜ続ける。
鍋の中身を流し込む型を探していた時に辰実と燈は目が合ったのだが、そうなると燈は恥ずかしそうにどこかへ行ってしまった。"どう話しかけたものか"と困った様子であったが、辰実はプリン用の型を3つ用意し、その中にまずはチョコレート色の半固体を流し込み、大量の残りは半円筒形の型へと流し込んだ。
チョコレートムースが完成するのは、夜になっての話である。…燈、希実と愛菜がそれを食べられるのは、明日になってお泊りから帰ってきた後になるだろう。
辰実の義母(=愛結の母)のマドリーヌが絵本を読み聞かせしてくれるのが好きらしいから、作ったお菓子の事なんてチビ達はすぐに忘れてしまうだろうし、燈も最近はパン作りを教えてもらっているらしいから多分考えている余裕なんて無い。
「た・つ・み」
型に流し込んだチョコレートムースを冷蔵庫に入れてキッチンを離れようとした所で、何やら楽しそうな雰囲気で愛結に声をかけられる。
(夜のお誘いか?まだ昼にもなってないのに)
「じゃん、けん、ぽん!」
不意打ちのように始まったジャンケンは、愛結がチョキを出し辰実がパーを出した事で呆気なく終わってしまった。
「じゃあ、商店街に"北海道の大地の恵みプリン"っていう屋台ができてるらしいんだけど、そこのプリンを買ってきて欲しいのよ。」
ジャンケンに負けた方が買ってこいという話だ。
"仕方ない"と思いながらも辰実は、若松商店街に出掛ける事にした。
*
(お、意外と並んでない)
商店街に着いたのが、11時ごろである。この時間は昼前の買い物客で賑わっているのだが、皆それぞれの私用のお陰で辰実が並ぶ時間をそれ程消費しなくて済んだ。
"北海道ジャージー牛乳使用!大地の恵みプリン"
手書きでそんな事を書いている看板がある、ワゴン車の屋台。愛結が買ってきてと言っていたプリンは、多分これで間違いないだろう。
「お、黒さん」
「お疲れ様です!」
並ぼうとした所で、当直勤務のハズの駒田と重衛と遭遇する。何か事件でもあって終わった所だろうか?"わしらもプリン買ってくぞ"と駒田は重衛を引っ張って辰実の後ろに並んだ。
「ジャージー牛乳みたいですよ」
「それは普通の牛乳と何が違うんじゃろうか?」
「普通の白黒の牛、いわゆるホルスタイン種の牛乳とは濃さが違うとか。」
「味は濃い方がいいっすね」「同感じゃ」
並ぶこと数分、3人の順番が回ってきた。
「試食やってまーす」
アルバイトのような雰囲気を醸し出す若い女の子が、使い捨ての小さいスプーンで掬ったプリンを3人に手渡す。すぐさま口に放り込むと、"少しの間を置いて"牛乳の濃厚な味わいが口に広がっている。
「どうですか?"1つ1つ蒸して固めた"、手間たっぷりのプリンなんですよ!牛乳もいいのを使ってますからね。もう普通のプリンじゃ満足できないでしょう?」
"これは美味い!"と口を揃えた駒田と重衛に対し、辰実は何かを考え込むように黙っている。"何個買うか迷っているのだろう"と思って駒田と重衛は先に自分の分を買う。更に間を置いて"7個下さい"と辰実は言い、ショーケースに並んでいたプリンを7個受け取って1400円をちょうど払った。
「…何か、事件でもあったんですか?」
「さっき商店街で、女子高生が少年何人かに驚かされて転んだんですわ」
考えようによっては傷害事件として刑事が担当しそうな話であるが、これが少年少女、夫婦のもめごとが関わってくると生活安全課の担当となる。基本的に少年が関わる事件、行方不明や夫婦のもめごと等、"人身安全"に関わってくる話は生活安全課が取り持つのだ。他に特別法も加わって、受け持つ分野は広い。
「マル被の目星は?」
「防犯カメラのデータに、ぼんやり少年が映っとるぐらいですわ」
「さすがに今日だと私服ですし、学校の特定は難しいですね」
「交番にも協力してもらって、付近に聞き込みしてもらってます。…その結果次第かと。」
辰実が手に提げている、プリンが入った袋を眺める駒田。
「…黒さん、何個買ったんじゃ?」
「7個ですよ」
「こっそり食うつもりっすか?」
茶化す重衛に、"それも良いな"と辰実は笑って答えた。駒田と重衛は自分の分だろう、2個ずつプリンを買っている。
「馬場ちゃんと片桐さんにも是非食べてもらいたいと思いまして」
「2人とも甘いモノ好きじゃけえ、喜びますわな」
その後は少し立ち話をした後、3人は解散し駒重コンビは署に、辰実は雑貨店でシャツでも見るか…と思っていた所である。雑貨屋の黒字にひらがなだけ書かれているTシャツが好きなのだ。
その証拠に、辰実が今着ている半袖の黒Tシャツには"ささみ"と白い字で書かれている。他にも"いぬ"とか"ねこ"とか、色々とあるのだがこの趣味と1日に必ずコーラを飲む習慣だけは愛結に理解されていない。
(今日はさっさと帰るか)
と思った所で、辰実はスマホで電話を掛ける。
「あ、もしもし愛結?今日の昼ご飯、1人分多く作れたりする?」
『大丈夫だけど、どうしたの?』
「…1人、呼んでいいかな?」
愛結のお許しが出た所で、辰実はまた別の人に電話を掛ける。暇なのかその相手は3コールで電話に出た。
『馬場です。…黒沢さん、何かあったんですか?』
「今日、うちに昼食べにくる?今日の昼は嫁の手料理で、デザートはワゴン屋台で売っていたジャージー牛乳のプリンだ。」
"行きます!"と元気よく梓は返事をすると、"今すっぴん髪ボサボサなので私が化粧して髪整えるまで待っててください!"と加えて電話が切れた。
人気グラビアの手料理が食べれるのだ、行かないという話は無い。
…恐らく馬場ちゃんは今、物凄いスピードで化粧をしているのだろうと辰実は少し残念に思いながら(素が美人という話をある筋から聞いたのですっぴんが気になっていた)その辺りの書店で本の立ち読みでもしながら梓を待つ事にした。
(…さて、馬場ちゃんはこのプリンをどう"判断"するか)
この待っている間に"実録!本当に美味しい炒飯の作り方!"という本を衝動買いしてしまい、辰実の経済が圧迫されてしまったのはまた別の話である。
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