前編
#1「火種」
所々に、吹き付けたような白い雲がちりばめられた青い空。そして、世界を二分するように群青色の海が広がり、境目に加算発光でベタ塗りされた太陽がトッピングされている。
――所謂、"オーシャンビュー"である。
海を境にできた町の端っこ、その景色を売りに、新しくできた公園の喫茶スペースに警察官の黒沢辰実(くろさわたつみ)は、妻の愛結(あゆ)と来ていた。
短く切った暗い茶色の髪に、若干塩味の入った顔立ち。下は黒の綿パン、そして黒地に靴底は白で厚めの配色だが、青いカッターシャツに黒いパーカーベストを羽織っている。被らないがフード付きの服を好んで着ている。
「撮影とかで来る前に、一緒に来たかったの」
愛結は、少しだけ恥ずかしそうな顔をしていた。
1時の方向と2時の方向の間に、うっすら笑った小さな地蔵の群れが飾られている。
塩味の顔をした地蔵達とは反対に、愛結は波のかかった栗色の長い髪を後ろでまとめていて、少し明るい青色で、タートルネックのニットワンピースを着ている。黒いベルトとバッグはアクセントだろう。
揺れるハイライトが、瑠璃色と海の青色を混ぜ始めた風のつぶらな瞳に感情を添えていた。グラビアアイドルの彼女は、幾度となくこの眼で世間の男女を魅了してきた事だろう、それは辰実もよく分かっていた。
そんな2人は、たまの休みの、たまの時間にこうやって、夫婦"だけ"でデートをしている。実はこの夫婦の間に子供が3人いるのだが、たまの時期に愛結の母が"面倒を見たい"と言ってお得意のフランスパンをご馳走して1泊させているのだ。こうやって夫婦がデートをしているのは、それが理由である。
「そうだな、デートには丁度いい場所だ。」
島の端、オーシャンビューの見えるオープンテラスの喫茶店。
海と地蔵の見える喫茶店のどこに話題があるのかは分からないが、現代における粋というものはコレなのだろう。
しかし、地蔵を差し置いても美しいオーシャンビューである。
思い思いの注文を済ませ、ドリンクとフードが来るのを待っていた2人にとっては贅沢すぎる時間つぶしであった。
*
「どうしたの?」
「髪型とピアス、いいなと思って」
ヘアバンドを使ってまとめ上げた髪と、細長い棒を1本あしらった銀色のピアスが陽光を受けてはにかんだように光った。
愛結は、嬉しそうに口元を緩めている。
辰実とデートするために、彼女は今日の服装から何から用意していたのだから。
夫婦でいるハズなのに、付き合い始めた頃から変わらないまま。変わらなければ鈍化していくハズなのに、寧ろ切れ味を増すような関係。
お互いが望むままでいるのが理想と言ってもいい。愛結は辰実に、"鈍色の日から私を奪った時のままでいて"と願い、辰実は愛結に"出会った時の強くも繊細なままでいてくれ"と願っている。その結果が今の夫婦関係なのだろう。
鈍化し、錆が付くように溶けていく夫婦関係なのに、この2人は新鮮なままだった。変わらないために、2人が少しづつ変化していくとはまたよく分からない話である。
だから辰実も愛結も夫婦を離れて浮気はしないし、そもそも考える必要が無い。
家事をしてくれたら"ありがとう"と言うし、愛結が綺麗だったら辰実は"綺麗だよ"と言い、愛結は辰実が作れないような、母のフランス仕込みの料理を食卓に振舞ってくれる。そして週に何回かは裸になって情事に耽っているし、月に何回かは2人で買い物をしている。
そして今日のデートのために辰実は朝に身体を洗い直し、たまに剃り忘れるヒゲを、いつも少しだけ残している顎のところ以外は丁寧に剃ってきた。愛結も念入りに髪を整え、おろしたての下着を着けてから出かける準備をした。
各々が準備をし、本日もデートに臨んでいる。
注文を待っている時間は、最近できた"キャットラン"という謎の施設について話をしていた。そこに飼い猫を連れて行って運動させてあげようという話で数分を潰す。
「お待たせしましたー」
やって来たのは、女子大生のバイトと思われるウエイトレス。
注文していたドリンクとフードが来たのだ。
"塩こうじチキンのライ麦サンド"という、どこが和なのか洋なのか分からないファーストフードであるが、辰実の欲求を何故かくすぐった。これにコーラがあれば良い。
件のサンドとコーラが木製のテーブルに置かれるのに、辰実は目を輝かせていた。
続いて、愛結が注文していた"小エビと枝豆のかき揚げサンド"と、アイスティーが置かれる。続いて注文していたフライドポテトが真ん中に置かれた。
"いただきます"と2人が手を合わせるのは、毎回の食卓で見る光景。
愛結は先に"小エビと枝豆のかき揚げサンド"を上品に齧り付き、辰実はフライドポテトをつまんで口に運んだ。
(大きいのにこのカリカリ感、そしてジャガイモのホクホク感。あと塩加減も素晴らしい。これはいいポテトだ。)
2つ、3つとつまみ出したら止まらない辰実を、"全部食べちゃダメよ"と愛結はたしなめる。かき揚げのザクザクとした咀嚼音と愛結の満足そうな表情で、サンドが美味しい事はよく分かった。
(塩こうじチキンとライ麦…、合うのだろうか?)
辰実は、自分が注文した"塩こうじチキンとライ麦のサンド"をちょっと斜めから眺めてみた。ライ麦を焼いた茶色に、白みのあるチキンの色、そしてレタスとパプリカの色味が美しい。
(食べてみれば、分かる!)
と心を決め、件のサンドに手を付けようとしたその時。
…辰実は、一瞬だけ時間が止まったような感覚がした。目に映ったのは、地蔵達のオブジェが方々に吹き飛ぶ様子と、その背後で立ち込める爆炎と煙。
いつか観た、昭和の刑事ドラマみたいな光景。リーダーをはじめ、7人の熱血刑事集団の背後で起こっている演出のアレ…。
等と言っている場合じゃない。辰実が我に返った瞬間には、爆発音は始まっていたし、そこからまた事態を把握するのにも一瞬を要した。
(おいおいマジかよ、せっかくのデートなんだぞ!?)
嫌なほど冷静に物事を見つめる辰実の目の前に、脅しをかけるように飾られていた地蔵の、爆散した頭部が飛来し、手を付けようとしていたサンドの真上に墜落した。
ライ麦の生地にめり込む、首だけの地蔵がわずかに笑っているのが気持ち悪くて仕方なかったが、せっかくのサンドを台無しにされた辰実はそんな気持ちじゃなかった。
…それを代弁するように、コーラを注がれ、氷を浮かべてストローを刺されたグラスが汗をかいている。
頭は冷静なのに"まずい状況だ"と生唾を飲み込む辰実の表情をまるで代弁しているかのように、グラスに張り付いていた水滴がテーブルの上に流れ落ちた。
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