第1103話 ピタッと
あ、この感覚…確か以前にもあったかも…。
肺を満たした空気から身体が酸素を血液に取り込み、二酸化炭素を吐き出す。
知覚なんて出来ないはずの身体の動きが、なぜか手に取る様にわかる。
ここの足元は大地では無いけれど、それでも踏みしめた床の遥か下に大地が、この星が存在しているのが分かる。
俺が拳を突き出すたびに、揺れる空気の流れが見える様だ。
なんだろうこの感覚は…。
世界と一つになった様な、溶け込むような、全てを掌握しているようであり、全てに包み込まれているかのような感覚。
自分が小さくなったような、大きくなったような、幸せな様で不幸せな様な不思議な気持ち。
まるで光の速さすらも手に出来るかのような全能感…。
過去も未来も前世も来世も自分も他人も…全てが全て混ぜ合わさった様なこの不思議な感覚…。
今この瞬間を、この感覚をもっと続けたい…止めたくない…止まらない…。
「お、おい…マチルダ…あれ…」
「ま、まさか、トールさま…また…?」
トールの異変に一番最初に気付いたのは、ヒナとミヤの勉強会を棒っと眺めていたイネスだった。
すぐにマチルダへと声を掛けたが、当のマチルダは以前に邸の裏庭で見たトールの姿を思い出し絶句した。
「トールさまは、自分の世界に没入された?」
「というよりも、何かを極めようとしているのかもしれません…」
メリルがトールの姿を見てそう表現したが、ミルシェは何かの到達点に到る所まで来ているのではないかと言う。
「あれは…神の領域です…」
そして、ミレーラがそう断言した。
「皆様、マスターは道を極めようとされているのです」
「「「この世の絶対的真理からの解脱です」」」
そして、ナディアがトールが空手道を極めんとしていると説明すると、アーデ、アーム、アーフェンは、輪廻転生という絶対的真理から、今まさに解脱せんとしているのだと言った。
ヒナとミヤは、トールの姿を見ても何も発言はしなかったが、その顔は驚愕と畏怖とが混ざり合った、おかしな表情になっていた。
あの邸の裏庭でもあったように、その場に居合わせた誰もが、ただただ無言でトールを見つめていた。
どれぐらいの時が過ぎただろう?
何時間も過ぎているという事は無い。なぜなら、窓の外の空がまだ青かったから。
だが、ほんの数分であったとも思えない程度には、時が過ぎていた。
静まり返ったダンジョン塔の高層階にあるラウンジは、ただトールの息吹と突きや蹴り、そして床を踏みしめる力強い音だけが支配していた。
やがて、そんな静寂を打ち破る者がやって来た。
「これは、一体どういう事なのじゃ!?」
いきなりラウンジにやって来たボーディが、開口一番アルテアン家の女性陣に向かって問いかけた。
「あ、あれは…まさかトールヴァルド様の魂の位階が上がった!?」
同じようにやって来たモフリーナは、トールを一目見て唸った。
「もう、解脱まで…あと一歩」
モフリーナの影からトールを見ていたモフレンダは、トールの現状を分析してそう言う。
「い、いかん! このままでは、彼奴等にも気づかれてしまう! すぐに奴を止めるのじゃ!」
ボーディが慌てた様にモフリーナに向かって指示を出す。
「ど、どうやって止めるのですか? すでにトランス状態に入ってますよ!?」
トールの状況から察したモフリーナは、止めるすべをボーディに尋ねたが、あいにくそれに対する答えをボーディは持っていない。
「かなり…危険…」
あの常から無表情なモフレンダでさえ、焦った様子である。
「トールさまを止めたらいいんですか?」
そんなダンジョンマスター達を見ていたメリルが、実に簡単そうに問いかける。
「お、おう…妾達では、ちょっと止める事は難しいやもしれんから…って、お主、止められるのかや!?」
それを聞いたボーディが、驚き半分でメリルに言葉を返すと、
「ええ、簡単です。ミルシェさん、やっておしまいなさい!」
すぐにメリルがミルシェへと合図を送った。
「りょうーかい! んじゃ早速…トールさま~、お義母さまが来られましたよ~!」
ミルシェの声が響き渡ると、瞬時にトールは動きをピタッと止めた。
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